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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第2章 森の魔女の娘
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第11話 魔女


 走れるようになった。


 もちろん、大人のように速くはない。木の根に足を取られれば転ぶし、少し急いだだけですぐ息が上がる。それでも、ロザリーの机につかまって、ようやく立ち上がっていた頃を思えば、随分遠くまで来た気がした。


「エルナ、そんなに先に行かないの」


 後ろからロザリーの声がする。


 エルナは足を止め、振り返った。


「行ってないよ」


「行ってるわよ」


「見えてるでしょ」


「見えてたらいいってものじゃないの」


 ロザリーは呆れたように笑いながら歩いてくる。その腕には籠がかかっていた。中には、今朝から集めている薬草がいくつか入っている。


 エルナも、小さな籠を持っていた。


 今日はロザリーの手伝いだった。


 ロザリーが決めた誕生日で数えれば、エルナは四歳になっている。


 あれから三年。


 今ではこの世界の言葉にもほとんど困らなくなった。知らない言葉はまだあるし、大人同士の込み入った話を聞けば意味を取り違えることもある。それでも、日常会話なら問題ない。


 話す方も同じだった。


 最初の頃は、頭の中にある言葉をうまく口へ出せないことがあれほど腹立たしかったのに、今では普通にロザリーと話せる。そのことにも、いつの間にか慣れていた。


「これ、取っていい?」


 エルナは足元に生えていた葉を指差す。


 ロザリーがしゃがみ込んだ。


「これはまだ小さいから駄目」


「じゃあ、こっち」


「そっちはいいけど、根から抜かないでね」


「葉っぱだけ?」


「そう。三枚くらい」


 言われた通り、指で茎を支えながら葉を摘む。


 前世の澪は、植物に詳しい人間ではなかった。


 名前を知っている花ならいくつかあったし、料理に使う野菜くらいならわかる。でも、森の中に生えている草を見て、薬になるのか、毒なのか、そもそも触っていいのかを判断することなどできなかった。


 今は少しずつわかる。


 熱を下げる葉。傷口を洗う時に使う草。煮出せば腹痛に効く根。強い苦味があって、量を間違えれば逆に身体を壊すもの。


 全部、ロザリーが教えてくれた。


「エルナ」


「なに?」


「それ、取らない」


 伸ばしかけた手を止める。


「なんで?」


「もう種を落とす時期だから」


 ロザリーが指差した先には、小さな実がついていた。


「今取ったら、来年減っちゃうでしょう」


「一本くらいなら平気じゃない?」


「一本くらい、をみんながやったらなくなるわよ」


「みんなって、ここロザリーしか来ないじゃん」


 ロザリーが少し考える。


「それもそうね」


「でしょ」


「でも取らない」


「なんで」


「私が嫌だから」


 エルナは笑った。


「ずるい」


「大人はずるいの」


 そんなことを話しながら歩く。


 森の中を歩くことにも、もう随分慣れていた。


 最初の頃は、どの木も同じに見えた。今は違う。


 水の近くに多い木。日陰を好む草。春になると一斉に芽を出すもの。雨のあとにだけ見つけやすくなる茸。


 少しずつ、森の中にも違いがあることがわかるようになってきた。


 ロザリーはよく、森を見なさいと言う。


 見るだけじゃなくて、覚えなさい、と。


 エルナはそれが嫌いではなかった。


     *


「今日はもう一か所、寄って帰ろうか」


「どこ?」


「こっち」


 ロザリーがいつもの道から少し外れた。エルナも後を追う。


 しばらく歩くと、周りの木とは少し違うものが一本だけ立っていた。


 幹は細くない。けれど、樹皮の色が少し淡い。


「これ?」


「そう」


 ロザリーが幹に手を触れる。それから腰の袋から小さな刃物を取り出した。


 エルナは横で見ていた。


 ロザリーは幹の一部を傷つけすぎないよう、表面の樹皮だけを薄く剥いでいく。


 その下から現れたものを見て、エルナは目を丸くした。


「白い」


 樹皮の下が、真っ白だった。


 少し黄色がかっているわけでもない。本当に白い。


 ロザリーがさらに少しだけ削る。すると、切れ目から液体が滲んできた。


 白い。


 乳白色で、さらさらしている。


 ロザリーは小さな器を当て、その雫を受け始めた。


「これ、なに?」


「覚えてない?」


「知らない」


「赤ちゃんの頃、飲んでたの」


 エルナはロザリーを見る。


「これを?」


「そう」


 もう一度、白い液体を見る。


 何か、引っかかった。


 味。


 ほんの少しだけ。


 暖かくて、わずかに甘くて。


「……これ、煮る?」


 ロザリーが笑った。


「思い出した?」


「ちょっとだけ」


 エルナは木の幹を覗き込む。


「そのまま飲むの?」


「赤ちゃんには、そのままじゃあげないわ。少し煮詰めるの」


「なんで?」


「薄すぎるから。煮詰めた方が身体に残るのよ」


 なるほど、とエルナは頷く。


「昔から、乳をもらえない赤ちゃんに使われてるの」


「乳って?」


「山羊とか牛とか。家によっては乳の出る動物を飼ってるでしょう」


「うちはいないね」


「いないわね」


 ロザリーは器の位置を少し直す。


「家畜を持てない家とか、買うお金がない家では、こっちを使うことが多かったのよ。昔からね」


「じゃあ、安いの?」


「森に行けば取れるからね」


「いっぱい取ればいいじゃん」


 そう言うと、ロザリーがすぐ首を振った。


「駄目」


「なんで?」


「木が弱るから」


 ロザリーは幹に触れる。


「少しならまた戻る。でも、一度に取りすぎると枯れることもあるの」


「じゃあ、ちょっとだけ?」


「ちょっとだけ」


 エルナは木を見る。


 自分が赤ん坊だった頃。


 この木から取ったものを、ロザリーが煮て、自分に飲ませていた。


 ほとんど何もできなかった頃。泣けば、ロザリーが来て。抱き上げて。飲ませて。寝かせて。


 それを毎日やっていたのだ。


「私、赤ちゃんの時、どのくらい小さかった?」


 何となく聞いた。


 ロザリーが顔を上げる。


「どのくらい?」


「うん。生まれてすぐ?」


 ロザリーは少し考えた。


「たぶん、そんなに経ってなかったと思う」


「何日くらい?」


「そこまではわからないわ」


「そっか」


 エルナはもう一度木を見る。


「私、なんで森にいたの?」


 その言葉を口にした途端、ロザリーの手が止まった。


 ほんの少しだけ。


 エルナはその変化を見逃さなかった。


「ロザリー?」


「……そうね」


 ロザリーは器を置き、木の根元にしゃがんだ。それからエルナを見る。


「本当のことは、私にもわからないの」


「うん」


「あなたを置いた人を見たわけじゃないから」


「うん」


 そこまでは、わかる。


 ロザリーは少しだけ間を置いた。


「でも、たぶん」


 エルナは待った。


「あなたが魔女だったから」


「……まじょ?」


 聞いたことのない言葉だった。


     *


「魔女ってなに?」


 家へ戻る道で、エルナは何度目かの質問をした。


 ロザリーはすぐには答えなかった。


「どこから話そうかな」


「最初から」


「難しい注文ね」


「ロザリーならできるよ」


「そういう時だけ頼るのね」


 でも、ロザリーは笑っていた。


 少し歩いてから、自分の胸元を指す。


「私は魔女なの」


 エルナは立ち止まった。


「ロザリーが?」


「そう」


「魔法使うから?」


「まあ、それもあるけど」


 エルナの頭に、以前見た斜面が蘇る。


「根っこ伸ばしたやつ」


「ずいぶん昔のこと覚えてるのね」


「覚えてるよ」


「木を動かしたって言われなくてよかった」


「根っこだもん」


「ええ。そこは大事なのね」


 ロザリーはまた歩き始める。エルナも追いかけた。


「じゃあ、魔法使える人が魔女?」


「少し違うわね」


「違うの?」


「魔法を使えるから魔女になるんじゃないの。生まれた時から魔女なの」


「生まれた時から?」


「そう」


 エルナは少し考える。


「じゃあ、私のお母さんも魔女だったの?」


 ロザリーが首を振った。


「それはわからない。でも、たぶん違うと思う」


「なんで?」


「魔女は、魔女から生まれるわけじゃないから」


 意味がわからず、エルナは眉を寄せた。


「どういうこと?」


「誰の家にも生まれるの」


「誰でも?」


「そう。農家でも、商人でも、お金持ちでも、貴族でも」


「ロザリーのお母さんは?」


「普通の人だったわ」


「お父さんは?」


「普通の人」


「じゃあ、ロザリーだけ?」


「そう」


 エルナは驚いた。


「なんで?」


「それがわからないのよ」


「誰も?」


「誰も」


 ロザリーは当たり前のことを話すように言った。


「魔女がどうして生まれるのか、いつ生まれるのか、どこに生まれるのか。誰にもわかってないの」


「じゃあ、魔女のお母さんから普通の子も生まれる?」


「生まれるわよ」


「魔女も?」


「それもある」


「じゃあ、全然わかんないじゃん」


「そうなの」


 ロザリーが笑った。


「ずっと昔から、全然わからないまま」


 エルナはそれが不思議だった。


 前世なら、何か理由を探しただろう。遺伝。病気。体質。少なくとも、何かしら説明しようとする。


 でも、この世界では魔女が存在しているのに、その理由は誰も知らない。


「じゃあ」


 エルナは自分の髪をつまんだ。


「私も魔女?」


 ロザリーがこちらを見る。


「そうよ」


「でも、魔法使えないよ」


「まだね」


「使えるようになる?」


「たぶん」


「たぶん?」


「魔女ごとに違うから」


 また知らないことが増えた。


     *


 家へ戻ってからも、エルナの質問は止まらなかった。


「魔女って、見たらわかるの?」


 ロザリーは乾かす薬草を束ねながら答える。


「わかる子もいるわね」


「どうやって?」


「見た目」


「見た目?」


 エルナは自分を見る。


 ロザリーは少し考えてから、棚の上に置いてあった鏡を下ろした。


「見てみる?」


 エルナは鏡の前に立つ。


 そこには、もう知らない赤ん坊はいなかった。


 肩にかかるくらいまで伸びた、淡い白銀色の髪。薄い青の瞳。白い肌。


 四年間、毎日見てきた顔。


 今は、これが自分だとわかる。


「魔女はね、生まれた時から家族とあまり似ないの」


「ロザリーと私みたいに?」


「私たちは最初から血が繋がってないでしょう」


「それは知ってる」


 ロザリーが笑う。


「でも、そういうことじゃなくて。魔女は、生んだ人とも似ないことが多いの」


「髪とか?」


「髪も。目も。顔も」


「全部?」


「ほとんどね」


 エルナは鏡を見る。


「なんで?」


「それもわからない」


「また?」


「また」


 ロザリーは隣にしゃがみ込み、鏡の中のエルナを見る。


「それと、魔女は生まれた時から少し特別な見た目をしていることが多いの」


「特別?」


「綺麗なの」


 エルナはロザリーを見る。


「自分で言う?」


「言うわよ」


「ロザリーも?」


「私も」


 少しも照れずに言うので、エルナは笑った。


「でも、本当よ」


 ロザリーも笑う。


「それにね。強い力を持つ魔女ほど、目を引く容姿で生まれることが多いの」


「強い力?」


「魔力量よ。あまり力の強くない魔女なら、人の中に紛れて気づかれないこともあるわ」


 エルナは鏡の中の自分を見る。


「じゃあ、私は?」


 ロザリーは、鏡に映るエルナをしばらく見た。


「……あなたは、たぶん隠すのが難しい方ね」


「そんなに?」


「ええ」


 エルナはもう一度、自分の顔を見る。


 自分では、もう見慣れている。


 白銀の髪も。


 薄い青の瞳も。


 特別だと言われても、まだよくわからなかった。


 そこで、ふと思い出した。


 森。


 目を覚ましたばかりだった頃。


 ロザリーが自分を見つけた時。


 一度だけ、顔が変わった。


 自分の顔を見て。髪を見て。


「あの時」


「ん?」


「ロザリー、私見てすぐわかった?」


 ロザリーの表情が少し変わった。


「覚えてるの?」


「ちょっとだけ」


「そう」


 ロザリーはしばらく黙った。


「わかったわよ」


「魔女だって?」


「うん」


「すぐ?」


「すぐ」


 やっぱり。


 あれは、そういう顔だったのだ。


     *


「じゃあ」


 エルナは鏡から目を離した。


「魔女だから、私、森に置かれたの?」


 ロザリーはすぐには答えなかった。


 さっきと同じだった。


 嘘を考えているようには見えない。


 言葉を選んでいる。


「そういう子は、いるわ」


 やがてロザリーは言った。


「魔女を怖がる人は多いから」


「怖い?」


「うん」


「なんで?」


「それは、また今度話そうか」


「今じゃ駄目?」


「今話すには少し長いかな」


 エルナは不満だった。


 でも、ロザリーの顔を見ると、ただ誤魔化しているわけではないことはわかった。


「じゃあ、捨てられる魔女もいる?」


「いる」


「赤ちゃんでも?」


「いるわ」


 胸の奥が、少し冷えた。


 自分は生まれた。


 白銀の髪だった。


 薄い青い目だった。


 家族の誰にも似ていなかった。


 それだけで。


 森に置かれたのだろうか。


 何もできない赤ん坊を。


 水瀬澪だった頃の記憶が浮かぶ。


 家があった。両親がいた。誕生日を祝われた。当たり前のように学校へ行って、大人になった。


 少なくとも、生まれたその日に捨てられるなんて想像したこともなかった。


「私を捨てた人って、悪い人?」


 気づけば、そう聞いていた。


 ロザリーはしばらく何も言わなかった。


 それから、ゆっくり首を振る。


「わからない」


「でも、捨てたんでしょ」


「たぶんね」


「じゃあ悪いじゃん」


「捨てたことが正しかったとは、私も思わない」


 ロザリーの声は静かだった。


「でも、その人がどういう人だったのか、私たちは知らないでしょう」


 エルナは黙る。


「怖かったのかもしれない。守る力がなかったのかもしれない。誰かに言われたのかもしれない」


「……うん」


「だからって、赤ちゃんを森に置いていいことにはならないけど」


「うん」


「会ったこともない人を、悪い人だって私が決めることもできないの」


 エルナは床を見る。


 よくわからなかった。


 許したいわけでもない。


 怒っているのかも、まだよくわからない。


 ただ、自分を置いた人がいた。


 そのことだけが、今までより少し現実味を持って胸の中へ落ちてきた。


 ロザリーが立ち上がる。


「でも」


 エルナが顔を上げる。


「私は拾ったでしょう」


 あまりにも普通の声で言うので、エルナは一瞬ぽかんとした。


「……うん」


「だから、今ここにいる」


「うん」


「それでいいじゃない」


 エルナは少し考えた。


 それから笑う。


「拾ってくれてありがとう」


 今度はちゃんと言えた。


 3年前みたいに途中で音が途切れない。


 ロザリーが目を細めた。


「どういたしまして」


 その返事も、前に一度聞いたことがある気がした。


     *


 夜。


 寝る前に、エルナはもう一度鏡を見た。


 淡い白銀色の髪。薄い青の瞳。


 今では見慣れた顔。


 でも、今日は少し違って見える。


 この姿には意味がある。


 魔女。


 その言葉を思い出す。


 水瀬澪だった頃には、魔女なんて物語の中にしかいなかった。


 空を飛ぶ。薬を作る。呪いをかける。


 そんなもの。


 けれど今は。


 鏡の中にいる。


 エルナは、自分の髪に触れた。


「魔女……」


 小さく言ってみる。


 まだ、自分のことのようには聞こえなかった。


 エルナという名前も、最初はそうだった。


 知らない音だった。


 自分へ向けられているということだけわかって、少しずつ自分の名前になった。


 魔女という言葉も、いつかそうなるのだろうか。


 それはまだわからない。


 ただ、エルナは鏡の中の自分から目を逸らさなかった。




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