第12話 森と生きる
「エルナ。森で迷ったら?」
「動かない」
「喉が渇いても?」
「知らない水は飲まない」
「知らない実は?」
「食べない」
「怪我をしたら?」
「戻れるなら家に戻る。無理なら、むやみに動かない」
ロザリーが頷いた。
エルナは小さく息を吐く。
「もう知ってるよ」
「知っていても確認するの」
「昨日も聞かれた」
「昨日できたことが、今日もできるとは限らないでしょう」
「忘れないよ」
「そう願っているわ」
ロザリーはそう言って、エルナの肩にかかっていた紐を直した。
五歳になったエルナには、自分用の小さな籠がある。中には布と水、それからロザリーが用意した簡単な食べ物。刃物はまだ持たせてもらえない。
「重くない?」
「平気」
「では行きましょう」
ロザリーが扉を開ける。
朝の森の匂いが入ってきた。
*
ロザリーと森へ入ることは、もう珍しいことではなかった。それでも、連れていかれる場所は少しずつ変わっている。
幼い頃は家の近く。もう少し歩けるようになってからは沢まで。今では、知らない道へ入ることも増えた。
ロザリーは一度に何もかも教えようとはしない。
歩きながら、その日に見つけたものを一つずつ教える。
「ここを踏まないで」
前を歩いていたロザリーが言った。
エルナは足を止める。
目の前には、湿った土があるだけだった。
「なんで?」
「よく見て」
言われてしゃがむ。
最初はわからなかった。けれど、土の表面に細い亀裂が入っている。少し先には、昨日までの雨が残ったような水溜まりもあった。
「柔らかい?」
「そう。見た目より深いの」
ロザリーは少し横へ逸れる。
「こういう場所は、上だけ乾いていても下に水が溜まっていることがあるわ。足を取られるから気をつけなさい」
エルナも同じように避けた。
少し進むと、今度は木の根元でロザリーが止まった。
「これは?」
「触っちゃ駄目なやつ」
「名前は?」
「……忘れた」
「では、帰ったらもう一度覚えましょう」
赤紫色の小さな実がいくつもついている。
「似た実があるでしょう」
「食べられる方?」
「ええ。見分けるところは?」
エルナは実を覗き込む。
「葉っぱの裏」
「それから?」
「茎の色」
「そう」
ロザリーが少し笑った。
「実だけ見て決めないこと。似ているものほど、違うところを探しなさい」
それは魔法ではない。知っていれば、誰でも見分けられる。
少し前に、エルナはそのことをロザリーへ尋ねたことがある。森にあるものを次々と言い当てるロザリーを見て、魔女だからわかるのかと。
その時、ロザリーは首を振った。
『これは知識よ。覚えれば、あなたにもわかるわ』
だからエルナは覚える。
食べられるもの。薬になるもの。触らない方がいいもの。雨の前に匂いが変わる草。獣が近くにいる時だけ騒がしくなる鳥。沢の水は、見た目が澄んでいても上流を確認してから使うこと。
前世の水瀬澪は、どれも知らなかった。
今のエルナは、少しずつ知っている。
*
「ロザリー」
「なに?」
「これ」
エルナは道の端を指差した。
湿った土に、跡が残っている。二つに割れたような形。
「鹿?」
ロザリーはすぐには答えなかった。隣にしゃがみ込む。
「どうしてそう思ったの?」
「前に見たのと似てる。蹄が二つで、大きさもこれくらいだった」
「ほかには?」
エルナは周囲を見る。
少し離れた場所にも同じ跡がある。
「歩幅?」
「そうね」
ロザリーは土へ指を近づけた。
「でも、鹿ではないわ」
「違うの?」
「ええ」
よく見るよう促される。
エルナは眉を寄せた。
似ている。
でも、前に見た鹿の足跡より少し丸い気がする。
「こっちの方が太い?」
「正解」
ロザリーが別の跡を指差す。
「それに、この獣は後ろ足の跡が少し外へ向くの」
「ほんとだ」
「山猪よ。ここを通ったのは、たぶん昨夜ね」
「なんで昨夜ってわかるの?」
「跡の中に落ちた葉がまだ乾いていないでしょう」
エルナは覗き込んだ。
確かに。
「……難しい」
「最初から全部わかる人はいないわ」
「ロザリーはわかるじゃん」
「私だって、覚えたのよ」
そう言ってから、ロザリーは一度だけ足跡を見た。
「よく見つけたわね」
その一言だけで、エルナは少し嬉しくなった。
*
昼前になる頃には、森の奥まで来ていた。
木々が高く、家の近くよりも空が狭い。
歩いていたロザリーが、不意に足を止めた。
エルナも止まる。
「どうしたの?」
返事はない。
ロザリーは少し離れた木を見ていた。
特別変わった木には見えない。太い幹。青い葉。虫に食われている様子もない。
けれどロザリーは真っ直ぐそこへ向かった。
手のひらを幹へ当てる。
目を閉じた。
エルナは黙って待った。
少しして、ロザリーが目を開ける。
「やっぱり」
「なに?」
「根が傷んでる」
エルナは木を見る。
「どこ?」
「下よ」
「見えないよ」
「かなり深いところだから」
「じゃあ、なんでわかるの?」
ロザリーがこちらを見る。
「感じるの」
エルナは首を傾げた。
「どうやって?」
ロザリーは少し考えた。
「……どう、と言われると困るわね」
「音?」
「違うわ」
「匂い?」
「それも違う」
「じゃあ何?」
「だから、感じるのよ」
エルナは納得できなかった。
ロザリーは困ったように微笑む。
「これは、教えてあげられないの」
その言葉で、エルナは少しだけ黙った。
今までロザリーが森で教えてくれたものは、覚えれば自分にもわかった。
でも、これは違う。
「魔女だから?」
「そうね」
ロザリーはもう一度木へ手を触れる。
「正確には、私だから、かしら」
「ロザリーだから?」
「魔女なら誰でも同じことができるわけではないの」
以前、ロザリーから聞いたことを思い出す。
魔女は、それぞれ違う。
「ロザリーって、何の魔女なの?」
エルナは聞いた。
ロザリーが振り返る。
「何の?」
「ほら。木とか根っことか、いっぱいわかるじゃん」
「ああ」
ロザリーは少しだけ目を細めた。
「自分でそう名乗ったことはないけれど」
「うん」
「昔、森の魔女と呼ばれたことはあるわ」
「森の魔女」
口にしてみる。
そのままだ。
「わかりやすいね」
「ええ。その点では悪くない呼び名ね」
ロザリーはそう言って、再び木へ向き直った。
*
根元の土を少し掘ると、細い根の一部が黒ずんでいた。
ロザリーは手で土を除け、状態を見る。
「腐ってる?」
「少しね」
「治せる?」
「そのままにしておけば、いずれ倒れるかもしれないわ」
ロザリーは木の向こうを見る。
少し下った場所には、まだ細い若木が何本も生えていた。
「倒れる方向が悪いと、あちらまで巻き込むでしょうね」
「魔法使う?」
「その前に、できることを見ましょう」
ロザリーは傷んだ根の周囲をさらに確かめた。掘れるところは掘り、腐った部分を小さな刃物で慎重に取り除いていく。
エルナは横で土を避けるのを手伝った。
しばらくして、ロザリーが息を吐く。
「これだけでは足りないわね」
刃物を仕舞う。
「少し離れていて」
エルナは素直に下がった。
ロザリーが木の前に膝をつく。
両手を幹へ添えた。
何も唱えない。
ただ、目を閉じる。
静かだった。
風が葉を揺らす音だけがする。
やがて、土の下で何かが動いた。
エルナは目を見開いた。
地表近くにあった細い根が、ゆっくり太くなっていく。新しい根が伸びる。一本。また一本。
土の中へ潜り込み、木を支えるように広がっていく。
根元の近くには、小さな芽がいくつか顔を出した。それがみるみる伸びていく。
けれど、どこまでも好き勝手に伸びるわけではない。
まるでロザリーが行き先を決めているように、根は崩れやすい場所へ入り込み、芽は土を押さえる位置へ広がっていく。
エルナは息をするのも忘れて見ていた。
前にも見たことはある。
赤ん坊だった頃。
崩れた斜面で、ロザリーが植物を育てた。
でも、あの時は何が起きているのかわからなかった。
今は違う。
これはロザリーの魔法だ。
森の魔女の力。
しばらくして、ロザリーが木から手を離した。
大きく息を吐く。
「ロザリー」
「大丈夫よ」
そう言ったものの、呼吸は少し深い。額にも汗が滲んでいた。
ロザリーは木の根元を確かめ、それからゆっくり立ち上がった。
「これでしばらく様子を見ましょう」
「すごい」
エルナは思わず言った。
ロザリーが少し笑う。
「そう?」
「だって、木の根っこ増えた」
「増やしたの」
「私もできる?」
ロザリーはすぐには答えなかった。
エルナの前まで来る。
「同じことは、たぶんできないわ」
「魔女なのに?」
「魔女だからといって、同じ魔法を使うわけではないもの」
「じゃあ、私は何ができるの?」
「それは、まだわからない」
「ロザリーにも?」
「ええ」
少し意外だった。
ロザリーなら何でも知っているような気がしていた。
「そのうちわかる?」
「きっと」
ロザリーはエルナの髪へ触れる。
「あなたには、あなたの力があるわ」
それ以上は言わなかった。
*
帰り道。
昼を少し過ぎた頃だった。
前を歩いていたロザリーが、急に片手を上げた。
エルナは足を止める。
低い唸り声が聞こえた。
茂みが揺れる。
出てきたのは、大きな獣だった。
山猪に似ている。
けれど、エルナが知っている猪よりずっと大きい。肩の辺りには硬そうな毛が生え、牙も長い。
胸が跳ねた。
「後ろへ」
ロザリーの声が低くなる。
エルナはすぐ彼女の後ろへ移動した。
獣もこちらに気づいている。
鼻を鳴らす。
一歩、近づく。
ロザリーは動かない。
次の瞬間、地面が盛り上がった。
太い根が土からせり出す。
エルナの目の前で、低木の枝が一気に伸びた。何本もの枝が絡み合い、ロザリーたちと獣の間を塞いでいく。
獣が驚いて後ずさった。
横へ逃げようとする。
すると、そちら側の茂みもゆっくり伸びた。
完全に囲むのではない。
森の奥へ続く一方向だけを空けている。
獣はしばらくこちらを見ていたが、やがて身体を翻し、開いた方へ走っていった。
音が遠ざかる。
ロザリーはそれを見送った。
伸びた枝は、その場に残っている。
「……倒せたよね?」
エルナは聞いた。
「できたでしょうね」
「じゃあ、なんで?」
ロザリーは獣が消えた方を見る。
「あの子も森で生きていただけでしょう」
「襲ってきそうだったよ」
「だから、こちらへ来ないようにしたの」
「もし来てたら?」
「その時は、必要なことをするわ」
声音は変わらなかった。
殺さない、と約束したわけではない。
でも、必要もないのに殺す気もない。
エルナは伸びた枝を見る。
ロザリーの魔法は、植物を大きくするだけではない。
どこへ伸ばすかまで決めている。
本当に、森そのものを動かしているみたいだった。
*
家が見えてきた頃には、エルナの足は少し重くなっていた。
ロザリーが歩く速度を落とす。
エルナはその横へ並んだ。
何となく家を見る。
見慣れた家だった。
木の壁。小さな窓。屋根。暖炉から伸びる煙突。
でも、今日見た根や枝を思い出しているうちに、妙なことに気づいた。
家の角にある柱。
太い木だ。
切って運んできた木材ではない。
地面から、そのまま生えている。
反対側も。
壁の一部では、何本もの枝が絡み合い、その隙間を板や土が埋めている。
今まで何度も見ていた。
生まれた頃からずっと。
見慣れすぎて、疑問にも思わなかった。
エルナは立ち止まった。
「ロザリー」
「なに?」
「この家」
「家?」
「……これも?」
ロザリーが家を見る。
エルナが太い柱を指差す。
「ロザリーがやったの?」
「ああ」
あっさり頷いた。
「そうよ」
「家を?」
「ええ」
「家を!?」
思わず大きな声が出た。
ロザリーが少し驚いたようにこちらを見る。
「そんなに驚くこと?」
「驚くよ!」
近づいて柱へ触れる。
表面にはちゃんと樹皮がある。
「これ、生きてる?」
「生きているわ」
「ずっと?」
「ずっとよ」
ロザリーも柱へ触れた。
「ここへ来た頃は、もっと小さな小屋だったの。何年かかけて木を育てて、少しずつ広げたわ」
「全部魔法?」
「まさか」
ロザリーは即座に否定した。
「魔法だけで家は建たないわ」
「でも木は?」
「木を育てて、形を整えるところはね。板は切らなければならないし、石も運ぶ。屋根を間違えれば雨が入るし、火を使う場所に木を近づけすぎれば燃えるでしょう」
「……そっか」
「魔法は便利だけれど、何でもしてくれるわけではないの」
ロザリーが扉を開ける。
「入らないの?」
エルナはもう一度柱を見る。
この家は、ロザリーが森を壊して作ったものではなかった。
木を育てて、必要なものを足して、時間をかけて。
少しずつ家にしたのだ。
*
夜。
エルナは机に向かっていた。
紙は貴重なので、何でも好きなだけ使えるわけではない。ロザリーが使い終えた紙の裏や、小さな木板に、その日覚えたことを書く。
山猪の足跡。
鹿との違い。
柔らかい地面の見分け方。
毒のある実。
ロザリーが教えてくれたことを、忘れないように。
根の奥が傷んでいることを感じ取る方法は書けない。
ロザリーにしかわからないから。
木を急に育てる方法も書けない。
それも、今のエルナにはできない。
でも、足跡の見方は覚えられる。水を飲んでいい場所も、食べてはいけない実も、森で迷った時に何をすべきかも。
それなら、自分にもできる。
書き終えて顔を上げた。
すぐそばにある柱へ目が行く。
エルナは椅子から降り、そこへ近づいた。
手のひらを当てる。
木は何も言わない。
ロザリーのように、根がどこへ伸びているのかもわからない。
それでも、この木が生きていることだけは知った。
この家が、ロザリーの力と知識と、長い時間でできていることも。
エルナには、ロザリーと同じように森を感じることはできない。
木を育て、根を操る力も、今のエルナにはない。
でも、教えてもらえることはまだいくらでもある。
明日は、山猪の足跡をもう一度見せてもらおう。
今度は、鹿と間違えないように。
そう思いながら、エルナは生きた木の柱から手を離した。




