第88話 出発の朝
窓の外を、荷車の音が通り過ぎた。
エルナは鞄の口を閉じ、外に括った敷布の紐を確かめた。薬入れは取り出しやすいところへ収めてある。机にも、寝台の脇にも、置いていくものはなかった。
髪を布で包み、腕輪をつける。フードを被ってから、部屋の鍵を取った。
鞄を持って階下へ下りると、ルークは食堂にいた。足元へ自分の荷物を置き、こちらに気づいて手を上げる。
「おはようございます」
「おはよう。こっち、空いてる」
向かいへ座り、鞄を椅子の脇へ置く。
「もう頼んだんですか」
「まだ。待ってた」
エルナは笑い、女将へ二人分の朝食を頼んだ。
パンと温かい料理が運ばれてくる。ルークも食べ始め、エルナは湯気の立つ器へ匙を入れた。
食堂の窓からは、通りを歩く人が見える。いつもより早い時刻だったが、荷を運ぶ人や店の戸を開ける人は、もう動いていた。
エルナは椅子の脇へ目を向けた。敷布の束が、鞄から少し張り出している。
「敷布だけで、ずいぶん大きくなりました」
ルークも、その束を見る。
「でも、夜はあった方がいいよ」
「はい。持ってきてよかったです」
小屋で結び目を確かめてくれた手が、向かいでパンをちぎっている。エルナが鞄から目を戻すと、ルークは一つ、こちらへ寄せた。
食後、受付へ鍵を返した。
「お世話になりました」
「気をつけて行っておいで」
女将が鍵を受け取る。ルークも挨拶し、二人で宿を出た。
朝の風が頬へ触れた。エルナは肩紐を直し、ルークとギルドへ向かった。
*
ギルド脇の広くなった場所に、二頭の馬が並んでいた。
その後ろに荷馬車がある。御者席より低い荷台には、木箱や水、食料の包みが置かれ、後ろ側には人が腰を下ろせる板が渡してあった。
ニーナは、車のそばに出した作業台へ向かっていた。
保存筒が三本並んでいる。二本は両手で抱えられる大きさだったが、残る一本は長く、胴も太かった。
バルドが、その大きい筒の端を見ている。大斧は壁際に立て掛けてあった。フィンは馬のそばで、グレンと何かを話していた。
「おはよう」
ルークが声をかけると、バルドが顔を上げた。
「おう。二人とも来たか」
エルナも挨拶し、荷馬車へ近づく。
グレンはギルドの職員から書類の包みを受け取り、表に書かれたものを控えと見比べていた。確認を終えると、包みを自分の鞄へ収める。
「そっちの荷は、後ろへ置いておいてくれ。筒を積んだあとで収め直す」
「わかった」
ルークが鞄を持ち上げ、エルナも自分の分を荷台の端へ置いた。
ニーナの手元で、小さな光が灯った。
手のひらへ収まるほどの金属片を、保存筒の側面へ当てている。中央に嵌め込まれた石が、淡く光っていた。
ニーナは蓋の近くにある細い輪をわずかに動かし、光を確かめてから手を離した。もう一本も同じように調べ、小さな紙へ印をつける。
「その光で、筒の働きを見るんですか」
エルナが聞くと、ニーナは頷いた。
「ええ。保存の働きが保たれているかを見るの。試料そのものは、今朝も確かめてあるわ」
道具を持ち直し、大きい筒へ当てる。
今度は、光の明るさがゆっくり変わった。ニーナはしばらく待ち、輪を少し動かしてから、道具を別の箇所へ移す。
さっきの二本なら、もう手を離していた。けれど、大きい筒では、明るさが落ち着いて見えても、まだ次の箇所を確かめている。
「大きい方は、もう少し掛かるわ」
ニーナが言った。
「大きくなるほど、内側の働きを一定に保つのが難しくなるの。調整するところも増えるから、途中でも見直さないといけないわ」
話しているあいだにも、その手は蓋の近くへ戻った。
エルナは、輪のある位置を見た。荷台へ積んでからも、ニーナはそこへ手を伸ばすのだろう。自分の荷物で塞いでしまわないようにしたい。
荷台には、木の受け台が二つ置いてあった。浅く窪んだところへ筒を乗せれば、横へ転がりにくそうだった。その脇には布が重ねてある。
「この布、受け台へ敷いておきますね」
「ありがとう。二つ折りでお願い」
エルナは布を畳み、受け台の窪みへ沿わせた。二つの間隔を大きい筒と見比べてから、ニーナを見る。
「蓋は、後ろへ向けますか」
「ええ。そばに座るから、道具を当てる場所も空けておきたいの」
エルナが受け台の位置を揃えると、ニーナも点検具を筒から離した。
バルドが、輪に触れないところを指す。
「持っていいのは、ここか?」
「ええ。胴のところをお願い」
ルークが作業台の向こう側へ回った。
「持つよ」
「ああ。そっちを頼む」
二人が持ち上げ、エルナは布の端を押さえた。
「もう少し、こっちへ」
ニーナの声に合わせて筒が動く。受け台へ収まったところで、エルナも布から手を離した。
荷台の金具へ縄を通し、向こう側のルークへ端を渡す。フィンも後ろへ来て、もう一本の縄を取った。
「こっちも回すか?」
「うん。頼む」
二人が縄を締め、結び終える。バルドは筒から手を離し、胴へ手を当てて固定を確かめた。受け台の上で、筒は動かなかった。
「よし。小さい方も積むぞ」
バルドが残る二本を運び、ニーナが布を敷いた木箱へ並べた。蓋をした箱も、ルークとフィンが縄で固定する。
ニーナが、後ろの板の右側を指した。
「エルナはこっちへ座ってね。鞄も、その下なら収まると思うわ」
「はい」
エルナは敷布の向きを変え、鞄を板の下へ収めた。薬入れのある口は、手を伸ばせる方へ向けておく。
ルークも、自分の鞄を空いたところへ置いた。
「相変わらず、少ないな」
フィンがその荷を見た。
「必要なのは入ってるよ」
「だったらいいけど」
そう言いながら、フィンも鞄を収める。ルークは自分の荷を留め、顔を上げた。
「そっち、紐の端出てる」
「ああ、そっちか」
フィンが屈み、垂れていた端を中へ入れる。
そのそばで、ニーナが大きい筒へもう一度、点検具を当てた。二箇所の光を確かめ、輪をわずかに動かす。
エルナも、鞄の肩紐をまとめながら手元を見ていた。さっきはゆっくり変わっていた明るさが、今は同じまま続いている。
「これで出られるわ」
ニーナが道具を革のケースへ収めた。
ケースを置く場所へ敷布の端が張り出していたので、エルナは自分の鞄を少し奥へ寄せる。
「ここ、空けておきますね」
「ありがとう。すぐ出せる方が助かるわ」
ニーナはそこへケースを置いた。エルナも鞄から手を離した。
グレンが、馬のそばから戻ってきた。
「積み終わったか」
「ああ。筒も固定した」
バルドが答え、ニーナも調整を終えたことを伝える。
グレンは荷台を確かめ、自分の鞄を御者席へ置いた。
「最初は俺が御者をする。次はフィン、頼めるか」
「ああ」
「ニーナは、筒の方を見ていてくれ」
「ええ。大きい方は、しばらくそばにいたいわ」
フィンは弓と矢筒を確かめ、馬車の前へ向かった。バルドも壁際から大斧を取り、後ろへ回る。
ニーナが荷台へ上がり、点検具のケースをそばへ寄せた。
エルナも後ろへ回ると、ルークが脇に立って手を差し出した。
その手を借り、段へ足を乗せる。上がりきったあとも、エルナは彼の指を一度だけ握ってから離した。
「ありがとうございます」
「うん」
ルークが笑い、荷馬車の右脇へ移る。
ニーナは左側、エルナは右側へ腰を下ろした。前には大きい筒の蓋があり、その脇には手を入れられる隙間が残っている。
「荷が動いたり、何か気づいたら声をかけてくれ」
御者席からグレンが言った。
「はい」
エルナは返し、荷台の外へ目を向けた。フィンは前方、バルドは後ろにいる。
グレンが手綱を取る。
馬が一歩進み、荷台が動いた。
*
車輪が石畳を鳴らした。
エルナは板へ手を添え、揺れに合わせて身体を支える。近くの鞄も、保存筒も、収めたところから動いてはいなかった。
馬の歩みに合わせて、ルークたちも歩き始める。
通りへ出ると、荷を運ぶ人が道の端へ寄った。グレンも馬の歩みを緩め、向こうから来た荷車を先に通す。
何度も歩いた道だった。ギルドから市場へ向かう角も、店先へ出された籠も見覚えがある。今日はその間を、荷馬車に乗って進んでいる。
エルナは、通りの先へ目を向けた。
店を開ける人も、籠を運ぶ人も、いつもの場所へ向かっているのだろう。自分たちは、この先で街を出る。
別の通りでは、木材を積んでいる人たちがいた。壁の一部が黒くなった建物の前を通ると、朝から木を打つ音が聞こえた。
エルナは、荷台の筒へ目を落とした。
あの猪から回収された牙が、この中にある。見た目だけでも普通の猪のものとは違うと、ニーナは言っていた。
離れた土地では、小鹿のような魔獣が火を撒いた。
姿の違う獣が、どうして同じように火を出したのだろう。セレドで試料を調べる人には、似たものを見たことがあるか尋ねてみたい。
荷馬車が広い道へ出る。建物の間から、街の外へ続く道が見えてきた。
エルナは後ろを振り返った。
屋根が重なり、通りを歩く人の姿が小さくなる。宿も、パン屋も、孤児院も、ここからは見えない。
あのパン屋では、まだ出てもいないうちから双子が土産をねだっていた。ルークは、いいものがあったらと言っていた。
セレドの店には、どんなものが並ぶのだろう。向こうで店を覗く時には、一緒に探したい。
エルナは、右脇を歩くルークへ目を向けた。その先にはフィンがいて、道の方を見ている。
エルナも前へ向き直った。
石畳が途切れ、車輪の下の音が変わる。馬の蹄が土を踏み、荷台の揺れも少し違っていた。
「この辺、少し揺れるわね」
ニーナがケースを手元へ寄せた。
「何か、押さえておきますか」
「今は大丈夫。そっちの箱が動いたら教えて」
「わかりました」
エルナは木箱へ目を向け、その向こうの道も見た。
御者席ではグレンが馬の進む方を見ている。フィンは少し先を歩き、道の脇にも視線を動かしていた。
ルークが足元の石を避け、歩く位置を少し変える。
目が合った。
「座るところ、狭くない?」
「大丈夫です。足元も空いていますし」
「ならよかった」
ルークは笑い、また道へ目を向けた。
後ろから、バルドが声をかける。
「筒、落ち着いてるか?」
「ええ。縄も緩んでいないわ」
ニーナが答えた。バルドも頷き、後方へ視線を戻す。
街の中の声は、もう遠かった。
車輪と蹄の音に、歩く三人の足音が重なる。エルナは荷の位置を確かめてから、道の脇へ目を向けた。
見覚えのある葉が、草の間で揺れていた。エルナはその根元と、少し先に生えている木々を見る。
小屋のある山では、以前なら採れた場所に薬草が少なくなっていた。水場で桶が満ちるまで待つ時間が長くなったことも、覚えている。
あの小鹿が駆け下りてきた山でも、水が減ったり、草が育ちにくくなったりしていたのだろうか。
あの報告には、水や草のことは書かれていなかった。セレドには、ほかの土地の報告も集まると聞いた。向こうでは、魔獣が現れる前に何が起きていたのかも尋ねてみたい。
五日から七日。自分の知っている山から、さらに離れた土地まで行く。
グレンが馬へ声をかけた。
エルナは荷台の縁へ手を添え直した。御者席の向こうには、まだ歩いたことのない道が続いていた。




