第87話 育った場所
目を開けると、すぐそばにルークの服の襟元があった。
背中には、彼の腕が回っている。エルナは毛布の中で手を動かし、肩に添えていた指を少し曲げた。
顔を上げると、ルークはまだ目を閉じていた。窓から入る明るさが、頬の端に届いている。
エルナはもう一度、彼の胸元へ頬を寄せた。
「……起きた?」
頭の上から声がした。
「はい」
ルークの手が背中で動く。少し身体を離して顔を見ると、彼もこちらを見ていた。
「おはよう」
「おはようございます」
エルナは笑った。ルークの指が、頬に掛かっていた髪を避ける。
その手へ触れてから、エルナは毛布を少し下げた。
「起きましょうか」
「うん。朝飯、温めよう」
先に寝台を下りたルークが、火のそばへ向かう。エルナも起き、毛布を整えた。
昨夜のスープを温め、残していたパンと一緒に食べる。食後は二人で器を片づけ、今朝使ったものをしまった。
棚の薬草は包んである。食料も、長く置けるものだけを残した。エルナは窓を閉め、旅の鞄を持ち上げる。
髪を布で包み、腕輪をつけてフードを被ると、ルークも剣を腰へ下げた。
暖炉の火を確かめ、二人で外へ出る。
扉へ鍵を掛けたあと、エルナは一度、小屋を振り返った。閉じた窓の向こうには、昨日まで広げていた薬草も道具も収まっている。
「行こうか」
「はい」
鍵を鞄へしまい、ルークと山道を下りた。
*
町では、乗合へ向かう前に道具屋へ寄った。
貸主の老人は、台の上に並べた道具を磨いていた。エルナがセレドへ行くことを伝えると、手を止めて顔を上げる。
「しばらく空けるんだな」
「はい。戻る日はまだ決まっていませんが、小屋は引き続き借りていたいです」
「わかった。戸締まりはしてきたか」
「はい」
「なら、気をつけてな」
エルナは礼を言い、店を出た。
乗合には、持ち帰った薬や敷布の入った鞄を足元へ収めた。ルークも隣へ座る。馬車が動き始めると、鞄の紐を足に引っかからない位置へ寄せてくれた。
昼過ぎ、ラーデンへ戻った。
宿へ荷物を置き、女将に翌朝出ることを伝える。昼食を済ませてからギルドへ行くと、グレンが受付の脇にいた。
「戻ったか」
「うん。家の方は済んだ」
ルークが答え、エルナも頷いた。
「荷馬車は押さえた。試料の方も、今日中にはまとまる」
「じゃあ、明日でいいんだな」
「ああ。一番早い乗合が出る時刻に、ここへ集合だ」
「わかった」
「私も、間に合うように来ます」
グレンは頷き、手にしていた書類を揃えた。
「このあと、孤児院にも寄ってくる」
ルークが言う。
「そうか。マルタさんによろしく伝えてくれ」
「ああ」
ギルドを出てから、ルークの貸間にも短く寄った。グレタへ留守を伝え、部屋の窓を確かめる間、エルナは入口で待つ。
やがて戻ってきたルークと、パン屋へ向かった。
*
「明日から?」
リリアが、包みを作る手を止めた。
「うん。セレドまで」
「そう。気をつけて行ってきてね」
「はい」
エルナが答えると、奥でパンを並べていたハンスも顔を上げた。
「帰ったら、また寄れよ」
「ああ」
ルークが頷く。その脚の脇から、テオが顔を出した。
「おみやげ」
「まだ出てもないのに?」
「おみやげ、ほしい」
「ニルも」
椅子のそばにいたニルも言った。リリアが二人を見る。
「そういうのは、お願いするんでしょう」
「おねがい」
テオが言い直す。ルークは少し笑った。
「いいのがあったらな」
二人が頷いたところで、客が一人入ってきた。リリアはそちらへ向かい、双子も店の奥へ戻っていく。
ルークは、切り分けられる大きめのパンをいくつか買った。
「孤児院に?」
リリアが包みながら聞く。
「うん。このあと寄る」
「じゃあ、アニカさんにもよろしく」
「ああ」
代金を払い、包みを受け取る。エルナも一家へ挨拶し、ルークと店を出た。
「みんなで食べる分ですか」
「うん。切ってもらえば、夕飯にも出せるから」
ルークは包みを片腕へ持ち直した。
市場へ向かう人の流れから離れ、住宅の並ぶ道へ入る。少し先で道が広がり、低い塀の向こうに庭が見えた。
木の門は開いていた。
「ここ」
ルークが言った。
庭の奥に、横に長い建物がある。窓の下には籠が並び、そのそばで小さな子が二人、地面へ何かを描いていた。
建物の中からも声がする。扉を出てきた女の子が、後ろの子へ振り返り、手を引いて石段を下りていた。
「ルーク!」
庭の端から声が上がった。
背の高い男の子が走ってくる。そのあとを、小さな男の子が追った。
「コリン。久しぶり」
「今日、遊べる?」
「少しなら」
「ダンも!」
小さな方が、ルークの前へ回り込んだ。
「うん。先に挨拶してくるから、待ってて」
ルークは空いている手をダンの肩へ添え、進む方を空けてもらった。エルナもそのあとに続く。
石段の脇で、女性が洗濯物を籠へ入れていた。こちらに気づくと、手にしていた布を畳む。
「あら、ルーク」
「イダさん。これ、みんなで食べて」
ルークがパンの包みを差し出すと、女性は籠を置いて受け取った。
「ありがとう。ちょうどアニカが夕飯の支度をしてるところよ」
「明日から仕事で街を離れるから、顔出しに来た」
「どこへ?」
「セレド」
イダは頷き、それからエルナへ目を向けた。
「そちらは?」
「エルナ。俺の恋人」
ルークは、パンを渡した時と同じ調子で言った。
エルナは少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、頭を下げる。
「エルナです。お邪魔します」
「イダです。よろしくね」
穏やかに返ってきたところへ、建物の中から呼ぶ声がした。
「イダさん、これ、どこに置くの?」
「ああ、今行くわ。ルーク、マルタさんは奥にいるから」
「わかった」
イダはパンを抱え、声の方へ向かった。
ルークが先に扉を開ける。エルナも中へ入った。床を踏む音に、廊下の奥にいた子が振り返る。
戸口の近くには、小さな靴がいくつも並んでいた。
*
奥の部屋で、年配の女性が帳面を開いていた。
灰色の髪を後ろで束ね、机の脇には紙を重ねてある。ルークが声をかけると、顔を上げた。
「ルークかい」
「うん。明日からセレドに行くから、挨拶に来た」
「仕事?」
「試料と書類を運ぶ。グレンたちも一緒」
「そうかい。道中、気をつけるんだよ」
「ああ。グレンからも、よろしくって」
女性は少し笑った。
ルークがエルナへ顔を向ける。
「ここの院長、マルタさん」
エルナは挨拶した。ルークが二人の関係を短く伝えると、マルタも頷いた。
「よろしくね。来てくれてありがとう」
「こちらこそ」
廊下で何かが落ちる音がした。
マルタはそちらへ目を向け、開いていた帳面へ紙を一枚挟む。
「何の音だい」
「箱、落としただけ!」
「だけじゃないだろう。足は大丈夫かい」
返事を聞くと、マルタは帳面を持って椅子から立った。
「少し見てくるよ。ゆっくりしていきな」
ルークも廊下へ出て、エルナはその隣へ並んだ。
マルタが箱を落とした子へ向かう途中、ルークは廊下の先を指した。
「俺、あの部屋で寝てたんだ」
開いている戸口の向こうに、寝台がいくつか見えた。畳んだ毛布がそれぞれに置いてある。
「どの辺りですか」
「窓の下」
エルナは窓を見る。その下の寝台には、小さな枕があった。
あそこで、ルークが眠っていた。
今より小さい彼が毛布へ入り、朝になれば、ほかの子たちと一緒に起きる。さっき庭にいた子たちの姿を思い出すと、少しだけ想像できた。
戸口の柱にも目が留まった。
細い横線が、いくつも刻まれている。高いものも低いものもあり、脇には名前が書いてあった。
ルーク。
その下にも、同じ名前がある。
「これ、背を測った跡ですか」
「ああ。まだ残ってる」
ルークが柱へ近づく。
「俺のは、これ。最後に測った時の」
指した線は、今の彼の頭より低かった。エルナもその脇へ立ち、名前を見る。
上の方にはグレン、別のところにはフィンの名前もある。
いつも一緒にいる人たちの名前が、この柱にも並んでいた。
「ルークの印なら、そっちにもあるよ」
戻ってきたマルタが言った。
少し離れたところに、短い線が一本ある。
「それは、測り直したやつだろ」
「背伸びしてたからね」
マルタが言うと、ルークは口元を緩めた。
「少しだけ」
「踵が浮いてたよ」
エルナは、短い線とルークを見比べた。
この柱の前で、少しでも高く測ってもらおうとしていたらしい。今は上にある彼の顔も、その時はずっと低いところにあったのだろう。
ルークがこちらを見た。
「何?」
「いえ」
エルナは笑った。
マルタも笑い、手にしていた帳面を持ち直す。
「ほら、庭で待ってるよ」
開いた窓の向こうから、コリンがルークを呼んでいた。
「今行く」
ルークが返した。エルナも柱から離れ、彼と庭へ戻った。
*
コリンが、布で作った球を持っていた。
ダンはその脇にいる。少し離れたところには、小さな女の子が立っていた。エルナが目を向けると、彼女はルークの方を見る。
「エミもやる?」
ルークが聞くと、女の子は頷いた。
庭の端にいた男の子が二人寄ってくる。石段へ座っていた女の子も立ち上がり、子どもが六人になった。
ルークは剣を鞘ごと外し、石段の上へ置いた。
「じゃあ、投げて」
コリンが離れる。大きく腕を振って投げた球を、ルークが片手で受けた。
「そっち、取ってみろよ」
投げ返された球へ、コリンが両手を伸ばす。手に当たったが、そのまま足元へ落ちた。
「今の、速い!」
「お前も速いの投げただろ」
「次は取る」
コリンはすぐに拾い、ルークへ投げ返した。ルークが受けると、横から小さな手が伸びる。
「ダンも!」
「じゃあ、次はダンな」
「いま!」
「これ返してから」
ルークがコリンへ球を戻す。コリンは少し迷ってから、ダンに渡した。
ダンは胸の前で球を抱え、ルークへ向き直る。そのまま投げた球は、彼の手前へ落ちた。
ルークが拾ってダンへ返し、先ほどより近いところで膝を曲げる。
「ここに投げて」
ダンは頷いた。今度は、ルークの胸へ球が届いた。
「とった!」
「取ったの俺だけど」
笑いながら返すと、ダンも笑った。
エルナは石段の脇へ腰を下ろし、その様子を見ていた。
コリンはまた離れていく。別の子は、ダンより少し遠いところへ立った。ルークも投げる相手に合わせて向きを変え、ときには自分から後ろへ下がる。
コリンが高く投げた球は、ルークの頭の上を越えた。
「あ」
ルークが振り返る。
球は地面へ落ち、エルナの足元へ転がってきた。拾い上げると、すぐそばにエミが立っていた。
「エルナも、やる?」
初めて、その子から声をかけられた。
「はい。投げればいいんですか」
エミが頷く。
エルナは立ち、彼女へ球を渡した。
「では、先に」
エミはルークへ投げた。彼が受け、こちらを見てから、今度はエルナへ返す。
胸の前で受け止めた。布の下には、もう少し厚いものが詰まっている。思っていたより重みがあった。
「取れた?」
「はい」
エルナは彼へ投げ返した。
「じゃあ、次、こっち!」
コリンが手を上げる。
ルークがそちらへ返す間、エミはエルナの近くに立っていた。自分に球が来ると、受け止めてからこちらへ差し出す。
「わたしに、投げて」
「どのくらい離れますか」
エミは少し考え、三歩だけ後ろへ下がった。
そこへゆっくり投げる。彼女は両腕で抱えるようにして取った。
目が合うと、小さく笑った。
またエルナへ返ってくる。今度は少し横へ逸れたので、エルナも一歩動いて受けた。
「こっちの番!」
背の高い女の子が手を上げた。エルナはそちらへ投げる。
彼女が受け止めると、ダンも手を伸ばした。
「ダンも!」
「終わったら回ってくるよ」
ルークが言った。
女の子はコリンへ投げ、返してもらった球をダンへ渡した。それから少し離れ、両手を広げる。
「ほら。ここに投げて」
ダンは球を両手で投げた。女の子は受け止め、またコリンへ球を送った。
ルークが向き直ると、すぐにコリンから球が飛んでくる。
取り損ねた球を追い、庭の端まで走った。コリンが声を上げる。
「今の、取れなかった!」
「そこまで投げたらな」
ルークが笑って球を持ち上げる。
エルナも笑った。戻ってきた彼が、こちらへ目を向ける。そのまま球を差し出されたので、エルナは受け取り、待っていたエミへ投げた。
建物の中から、皿の触れ合う音が聞こえ始めた。
「大きい子たち、そろそろ机をお願い」
扉のところで女性が呼んだ。
コリンが振り返る。
「もう?」
「もう。遊んだ分、手伝ってね」
「わかった」
エミが持っていた球をコリンへ渡す。コリンはそれを抱え、ほかの子へ声をかけた。
ルークがエルナの隣へ来る。
「アニカさん」
呼ぶと、女性がこちらを見た。
「エルナです。お邪魔しています」
「アニカです。イダから聞いたわ。パンもありがとう」
「ルークが買ってきてくれました」
「ええ。今切ってるところ」
アニカは小さく笑い、戸口を通る子へ脇を空けた。廊下の向こうには長い机があり、子どもたちが器を運び始めている。
「たくさんいるんですね」
「今は二十六人よ。街の外から来る子もいるから、増える時は続くの」
アニカが、庭に残っていた小さな子へ手を振る。
「そっちも、手を洗っておいで」
子どもが頷き、建物へ走った。アニカも中へ戻り、すぐに別の子へ声をかけている。
エルナは廊下を見た。高いところから器を下ろす子と、それを受け取って運ぶ子がいる。小さな子が持とうとすると、隣の子が一枚だけ渡していた。
ルークも、あの中にいた。
料理や洗濯をしたと話していた時には、まだ見えなかった机や器が、今は目の前にある。
庭からダンが走ってきた。
「ルーク、まだやる?」
「今日はここまで。俺も帰るから」
ダンが足を止める。
「またくる?」
「戻ったら、顔出すよ」
ルークが腰を落とすと、ダンは袖を掴んだ。
「つぎ、ダンから」
「ああ。覚えとく」
ダンが手を離す。エミもエルナのそばへ来ていた。
「エルナも?」
エルナは、その子の顔を見た。
「はい。また来ます」
エミは頷き、それからダンと一緒に石段を上った。
ルークが剣を腰へ戻す。建物の中へ声をかけると、イダが戸口まで来た。
「もう帰る?」
「うん。明日は朝早いから」
「そう。気をつけてね」
奥からマルタも手を上げた。
エルナは二人へ挨拶し、ルークと門を出た。
*
来た時より、道へ伸びる影が長くなっていた。
「少しだけって、どのくらいだったんですか」
エルナが聞くと、ルークはこちらを見た。
「何が?」
「背伸びです」
ルークは小さく笑った。
「あれ、見た目より高くなるんだよ」
「だから測り直されたんですね」
「うん。踵つけろって言われた」
エルナは柱の線を思い出す。
「早く大きくなりたかったんですか」
「たぶん。測る時、みんな前の印より上に行きたがってたから」
「ルークも?」
「俺も」
短く返ってきて、エルナはまた笑った。
彼があの柱の前へ立ち、踵を浮かせるところを想像する。マルタに言われて足を下ろす顔は、今の彼に少し似ていたかもしれない。
エルナは隣へ手を伸ばした。
指が触れると、ルークの手が開く。そこへ自分の手を重ね、握った。
「エミ、途中からずっとエルナに投げてたな」
「最初は、あなたの方を見ていましたけど」
「慣れたんだろ」
「そうなら、嬉しいです」
ルークが笑い、繋いだ手を握り返した。
市場に近づくと、夕方の買い物をする人が増えてきた。二人で道の端へ寄り、荷車を通す。
「明日は、宿まで迎えに来るよ」
「はい」
「朝飯も、そこで食べてから行こう」
「わかりました」
ギルドへ集まる時刻は、もう聞いてある。荷物も宿に揃っていた。
通りの先に、宿の窓が見える。
ルークが、ダンは次に来た時も最初に投げたがるだろうと話した。エルナも、待ちきれずに伸ばしていた小さな手を思い出す。
宿の入口で手を離し、扉の中へ入った。ルークもすぐに隣へ並ぶ。
エルナは彼と話しながら、食堂に二人分の席を探した。




