第86話 旅に出る前に
宿の階段を下りると、ルークが入口の脇で待っていた。肩に掛けた鞄は小さい。腰には、いつもの剣がある。
「おはようございます」
「おはよう。行こうか」
「はい」
エルナは鞄の口へ目を落とした。昨日買ったパンの包みは、一番上に収めてある。薬入れも、家へ持ち帰る道具も入れた。
受付の女将へ明日戻ると伝え、二人で宿を出る。
朝の通りには、荷を運ぶ人たちがいた。道の端に積まれた木材を避けて歩き、乗合の発着場へ向かう。
馬車へ乗ると、ルークが隣へ腰を下ろした。
自分の鞄を足元へ置き、肩紐を膝から外す。その腕がエルナの腕に触れた。
馬車が動き始めると、ルークは荷物の位置を直した。
エルナは揺れに合わせて身体を支え、隣を見た。ルークも窓の外へ目を向けている。
前にこの馬車で帰った時、彼は発着場に残っていた。
今日は、道が曲がっても、街が見えなくなっても、隣にいる。
昼の分のパンを取り出すと、ルークが受け取って半分に割った。差し出された片方を受け取り、エルナも食べ始める。
残りは包み直し、鞄へ戻した。
*
山道を上り、小屋が見えた頃には日が傾いていた。
玄関脇の薪も、窓の下に置いた籠も、そのままだった。
エルナは鍵を取り出す。扉を開けると、閉め切っていた部屋の空気が頬へ触れた。
「着いた」
後ろでルークが言った。
「はい」
鞄を下ろし、窓を開ける。ルークは剣を外して壁際へ置き、肩の荷物もその脇へ下ろした。
エルナはフードを外した。髪布をほどき、腕輪と一緒に棚へ置く。指で髪をほぐしていると、ルークが水差しを持ち上げた。
「水、汲んでくる」
「お願いします。桶は扉の脇にあります」
「ああ。見つけた」
ルークは水差しを机へ戻し、桶を持って外へ出た。
その背中を見送ってから、エルナは食料棚を開ける。
残していった根菜は、皮に少し皺が寄っていた。手に取って確かめる。傷んではいないけれど、ここからさらに長く置いておきたいものではなかった。
今夜と、明日の朝に使おう。
必要な分を籠へ出し、干した肉と香草も脇へ置く。ラーデンで買ったパンは、朝にも食べられるように残しておけばいい。
食べるものが決まると、次は窓際へ向かった。
乾燥させていた薬草を一束取り、葉をつまんで裏返す。指の下で乾いた音がした。匂いも確かめ、別の束へ手を伸ばす。
そろそろ片づけなければと思っていたものだった。きちんと乾いている。
エルナは机へ布を広げた。薬に使う分と旅へ持っていく分を手元に残し、家へ置く束を机の端へ寄せる。
背後で扉が開いた。
「戻った」
ルークが桶を置いた。水差しへ水を移し、桶を扉の脇へ戻す。
彼は棚から包み用の布を取り、机の端にある薬草へ目を向けた。
「これ、使う?」
「はい。そちらにある分を包んでおきたいです」
「わかった」
ルークは机の向こう側で布を広げた。
エルナも作業へ戻る。束を分けて渡すと、彼は端を揃え、紐を掛けた。以前頼んだ時のように、見本を一つ作る必要はなかった。
包みを受け取る時、ルークの指が手の甲へ触れた。親指がひと撫でしてから離れる。
エルナは口元を緩め、受け取った包みを棚へ置いた。ルークはもう、別の束へ紐を掛けている。
机へ残した薬草のうち、二種類は小さな包みに分けた。腹の調子を崩した時に使うものと、喉を痛めた時に使うもの。どちらも、旅先で湯があれば煎じられる。量は、それぞれ少しずつにした。
「これも持っていくんだな」
ルークが小さな包みを見た。
「はい。すぐ使えるように、少しずつ」
包みの端へ印をつけ、薬入れの脇へ置いた。
「何も使わずに戻ってこられれば、その方がいいですけど」
「そうだな」
エルナは小さな空の瓶を一つ取り出す。残っていた油を確かめ、切り傷用の軟膏を作る分だけ、小鍋へ移した。
暖炉へ火を入れる。
油を温め、刻んだ薬草を加えた。時々鍋を混ぜながら、ルークが包み終えた薬草を棚へ戻す。
油へ香りが移ったところで火から下ろし、出来上がった軟膏を瓶へ分けた。冷めるまで、机の隅へ置いておく。
その間に、棚の上から厚い敷布を下ろした。エルナが紐を用意していると、ルークが布の端を持つ。
「丸める?」
「はい。鞄の外へ括っておこうと思って」
「じゃあ、こっち押さえてて」
端を合わせ、二人で巻いていく。ルークが紐を掛け、結び目を締めた。エルナは出来た束を持ち上げ、鞄の脇へ置く。
替えの布と袋、旅に使う着替えも、採取用の道具と一緒にまとめた。朝まで使うものだけは、棚へ残しておく。
机の隅の瓶へ触れると、まだ温かかった。エルナは手を離す。
ルークが椅子を引いた。机の向かいへ戻すのかと思ったら、エルナの椅子の隣へ置いた。腰を下ろし、窓の外を見る。
「ここ、やっぱり落ち着くな」
エルナも椅子へ座った。窓から入る風が、薬草を干していた紐を揺らしている。外では、枝の擦れる音がした。
「ラーデンでは、窓を開けても人の声がしますね」
「ああ。荷車の音とか」
「朝も、早いですし」
「ここだって、エルナは早いだろ」
エルナは彼を見た。
「起きてから、すぐ水を汲みに行ってた」
「火を起こす前に、汲んでおきたかったんです」
「うん。帰ってくると、桶を置く音がしてた」
ルークは窓の外を見たまま言った。
エルナが水を汲みに行く頃、彼はまだ寝ていることが多かった。戻ってから声をかけ、朝の支度をした。起きていた日も、あったのだろう。
「聞こえてたんですね」
「たまにな」
ルークの手が、椅子の間へ下りた。エルナはそこへ手を伸ばす。指を重ねると、彼の掌がこちらへ向いた。
エルナは膝の上でその手を握り、肩へ頬を預けた。ルークも身体を寄せる。
服の向こうに、身体の温かさがあった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。窓の枠に残っていた日が、ゆっくり細くなる。
「……夕飯、作らないとですね」
エルナが顔を上げると、ルークは頷いた。手を離して立ち上がり、机の端へ食材の籠を持ってくる。
エルナも立ち上がり、薬の道具を洗って片づけた。二人で手を洗い、夕食の支度へ移る。
エルナが鍋を用意する間に、ルークは根菜の皮を剥き始めた。
「これは、全部?」
「はい。もう、残さず使ってしまいたいので」
彼は頷き、剥いたものを切り分けていく。
エルナは干した肉を出した。必要な分だけ切り、鍋へ入れる。野菜も加え、水を注いだ。
火へ掛けると、ルークが使った板を片づけた。包丁も洗い、布で水気を拭く。
エルナは鍋の蓋を少しずらした。湯気が上がり、香草の匂いが広がる。
その脇へ、ルークがパンを置いた。
「朝の分は、こっちに残した」
「ありがとうございます」
「これ、もう煮えた?」
「もう少しです」
木匙で鍋を混ぜ、根菜の端を押した。まだ硬い。
匙を置き、鍋の蓋を戻す。その時、横から伸びてきた手が肩へ触れた。
エルナは顔を上げる。ルークがこちらを見ていた。
「……どうしたんですか」
「触りたくなった」
エルナは彼の手を見てから、顔へ目を戻した。
「もう、触ってますけど」
「うん」
ルークが笑った。
エルナも笑い、肩にある手へ自分の手を添えた。彼の指が、重ねた指を軽く挟む。
先ほど椅子に座っていた時より、彼の目がよく見えた。
鍋の中で、小さく泡が弾ける。
エルナはもう一度、匙を取った。
味を見て、塩を足す。今度は野菜も柔らかくなっていた。
器へよそい、机へ運ぶ。
ルークがパンの皿を置いたのは、並べた椅子の前だった。
「そのままで食べるんですか」
「椅子、もうこっちに持ってきたから」
ルークはそう言い、エルナの器を置く場所も空けた。
エルナはそこへ食事を置いた。
二人で隣り合って座る。匙を動かすと、時折腕が触れた。パンへ手を伸ばせば、ルークも同じ皿から一切れ取る。
エルナはスープを飲んだ。香草を少し多く入れたけれど、強すぎることはなかった。
「うまい」
隣でルークが言った。
「よかったです」
「これ、朝にも残る?」
「はい。鍋に、二人分くらいあります」
「じゃあ、明日の朝もこれだな」
ルークがパンをちぎった。
前にもこの家で、残った食事を翌朝温めて食べた。向かいで食べていたルークが、今は隣にいる。
エルナは次の一口を飲む前に、その横顔を見た。
「何?」
ルークが気づいた。
「いえ。ここでまた、ルークとごはんを食べられて嬉しいなと思って」
ルークの手が止まった。こちらを見てから、目を落とす。その口元には、笑みが残っていた。
「俺も」
短く返ってきた。
エルナはまた食べ始めた。ルークの腕が、先ほどより近くにあった。
食事を終えると、二人で器を片づけた。
残った鍋を火から下ろし、朝に食べるパンを包む。ルークが洗った器を、エルナが拭いて棚へ戻した。
机の隅の瓶は、もう冷めていた。
蓋をして、乾燥薬草の包みと一緒に薬入れへ収める。鞄へ入れ、まとめていた布や着替えも重ねた。
敷布の束を鞄へ括る。ルークが結び目を確かめ、持ち上げた。
「これなら、ほどけないな」
扉の脇へ置いてくれる。
エルナは机に残った布を畳んだ。薬も道具も収まり、広くなった机を一度拭く。明日の朝に使うものだけは、取りやすいところへ残した。
窓を閉めると、外の音が遠くなった。ルークは椅子へ座り、こちらを見ていた。
エルナも隣へ戻る。机へ向けていた椅子を少し彼の方へ向け直し、腰を下ろした。膝の上に置かれた手へ、自分の手を重ねる。
「終わった?」
「はい。今夜することは、もう」
ルークが手を握り返した。
エルナはその指へ自分の指を重ね、肩へ寄る。背中へ腕が回った。
エルナが顔を上げると、繋いでいた手がほどけた。ルークの指が頬へ触れる。髪を耳の後ろへ寄せ、そのまま頬の横を撫でた。
エルナは少しだけ顎を上げた。ルークも顔を近づける。
唇が触れた。
短く離れ、互いの顔を見る。
エルナは彼の肩へ手を置き、自分からもう一度近づいた。
今度は、ルークの腕が背中を少し強く抱いた。
離れてからも、彼の指は頬にあった。エルナはその手へ、自分の手を添える。
「……こうしていたかったんです」
言うと、ルークの指が止まった。
「さっきから?」
「はい」
ルークが笑った。
「じゃあ、もう少しこうしてよう」
抱いていた腕が、もう少しこちらを引き寄せる。
エルナは彼の肩へ頬を戻した。ルークも顔を傾け、髪へ頬を寄せる。
その腕へ、もう少し体重を預けた。
薪の弾ける音がした。
エルナはしばらく、背中に回った腕の中で火の音を聞いていた。
*
湯を沸かし、交代で身体を拭いてから着替えた。
エルナが髪を梳き終える頃には、暖炉の火も小さくなっていた。
櫛を棚へ置く。髪布と腕輪も、その隣にある。
ルークは扉の掛け金を下ろし、振り返った。
エルナは寝台へ入り、毛布を引き上げる。
馴染んだ寝台だった。肩の下の硬さも、枕の厚みも知っている。
その端へ、ルークが腰を下ろした。エルナは奥へ少し寄り、彼を見上げて毛布の端を持ち上げる。
ルークがこちらを見た。ほんの少し間があって、彼の口元が緩んだ。
「……じゃあ」
片手を寝台へつき、横になる。エルナは持ち上げていた毛布を、彼の肩へ掛けた。
寝台が沈む。二人とも横を向くと、思っていたより顔が近かった。
エルナは毛布の中で手を動かした。彼の腕へ触れ、指を添える。ルークの手が背中へ回った。
ゆっくり抱き寄せられる。エルナも身体を寄せた。彼の胸元へ頬を近づけ、肩のあたりに手を置く。服越しにも、温かさが伝わってきた。
顔を上げると、ルークがこちらを見ていた。エルナは少し笑った。
「……近いですね」
「うん」
ルークの声も、小さかった。
耳のあたりが熱い。けれど、もう少し離れようとは思わなかった。エルナは彼の服へ添えた手を、そのままにした。
ルークが髪へ触れる。頬の脇にあった一房を指で避け、額へ短く唇を当てた。
エルナは目を閉じた。
背中にある手が、一度だけゆっくり動く。それに合わせて、肩の力が抜けた。
「ルーク」
「ん?」
目を開けると、すぐそばに彼の顔があった。
エルナはその顔を見てから、もう一度頬を寄せる。
「おやすみなさい」
「おやすみ、エルナ」
返事の声が近くで聞こえた。
暖炉では、薪が小さく音を立てていた。窓の向こうで枝が揺れても、今は隣の呼吸の方がよく聞こえる。
エルナは彼の服を掴んでいた指を緩めた。背中を抱く腕は、そのままにあった。
その温かさを感じながら、エルナはほどなく眠った。




