第85話 セレドへの依頼
翌朝、エルナは畳んだ服を鞄へしまった。
数日のつもりで持ってきた着替えは、鞄の半分も埋めない。薬入れを脇へ収めていると、家の棚に残してきた薬草が気になった。
そろそろ、乾ききっているはずだ。食料も、短い留守なら問題ないように片づけてきたが、いつまでもそのままにはしておけない。
鞄の口を閉じ、肩紐を直して持ち上げる。昨日より、身体が軽い。荷物を持って立っていても、すぐ寝台へ戻りたいとは思わなかった。
「もう、忘れ物ない?」
ルークが戸口から聞いた。
「はい」
寝台の足元も、クローゼットのそばも見る。髪布は頭に巻いてある。腕輪もつけていた。
「お世話になりました」
「うん。また来て」
ルークはそう言って、扉を開けた。エルナは少し笑った。
「はい」
二人で階段を下り、裏口から外へ出る。
朝の通りには、仕事へ向かう人たちが歩いていた。ルークと並んで宿へ向かう途中、エルナは家のことを話した。
「そろそろ、一度戻っておきたいんです」
「山の家?」
「はい。薬草も置いてきていますし、食料も見ておきたいので」
「そうだな。予定より長くなったもんな」
「数日なら、と思っていたんですけど」
寝込んでいるあいだは、そこまで手が回らなかった。けれど、こうして宿へ戻れるようになれば、次は家の様子も確かめたい。
宿へ着くと、受付にいた女将が顔を上げた。
「戻ったんだね。具合はどうだい?」
「だいぶよくなりました。部屋を延ばしていただいて、ありがとうございました」
「いいんだよ。食堂も、まだ朝の分があるからね」
二人で朝食を済ませてから、エルナは部屋へ鞄を置きに上がった。窓を少し開け、畳んだ服を取り出す。机の上に薬入れを置き、仕事道具と財布だけを小さな袋へ移した。
階段を下りると、ルークが食堂の入口で待っていた。
「俺、このあとギルドに行くけど」
「私も行きたいです」
「仕事見る?」
「それも少し。あの魔獣のこと、何かわかっているかもしれませんから」
家へ帰る前に、聞いておきたかった。
ルークは頷き、二人で宿を出た。
*
ギルドの掲示板には、木材の運搬や建物の片づけの依頼がまだ多く残っていた。その隣には、商隊の護衛や採取の依頼も並んでいる。
エルナが掲示板へ目を向けたところで、奥から声がした。
「ルーク」
窓際の卓に、グレンたちがいた。フィンとバルドが向かい側に座り、ニーナは卓の上に広げた布を畳んでいる。
「ちょうどよかった。来なければ、あとで部屋へ行こうと思ってた」
「何かあった?」
「仕事の話だ。エルナも、少し聞いていかないか。先日の魔獣に関係してる」
エルナはルークと顔を見合わせ、頷いた。空いていた椅子へ座ると、ニーナがこちらを見た。
「もう、外へ出られるようになったのね」
「はい。おかげさまで」
「よかった」
ニーナは少し笑ってから、思い出したように言った。
「そういえば、ちゃんと挨拶してなかったわね。私、ニーナ。あの時はそれどころじゃなかったから」
「エルナです。よろしくお願いします」
「ええ、よろしく」
ニーナは布の端を寄せ、卓の上に場所を空けた。その脇には、両端に蓋のついた金属の筒が置いてある。
グレンが一枚の依頼書を二人の方へ向けた。
「役所からギルドへ、セレドまでの運搬依頼が出た」
「セレド?」
ルークが依頼書へ目を落とす。
「ああ。今回の火事と魔獣についての報告書、それと救援物資の要請書だ。向こうへ届ける必要がある」
「書類だけか?」
「いや。あの猪から回収した試料も運ぶ。黒い牙や、皮、肉なんかだな」
エルナは筒へ目を向けた。
「あの牙も、調べるんですね」
「ええ。見た目だけでも、普通の猪のものとは違うから」
ニーナが答えた。
「でも、何がどう違うのかは、まだわかっていないの。なるべく採った時に近い状態で、向こうへ渡したい」
彼女は筒へ手を添えた。
「これは保存筒。素材が乾いたり、腐ったり、性質が変わったりするのを遅らせる魔道具よ。私が作ったもの」
「薬草も、乾かさずに運べるんですか?」
「普通に包んでおくよりは長く保つわ。ただ、変化が止まるわけではないから、途中でも状態を見る必要があるけど」
エルナは筒を見た。自分が薬草を持ち運ぶ時は、布や紙で包む。生のまま扱わなければならないものは、採ってから売るまでの時間にも気を遣っていた。
これなら、遠い場所へ運べるものも増えるのだろう。
「それで、ニーナへ指名が来た」
グレンが続けた。
「今、この街で保存筒を持っていて、試料を見ながら運べるのはニーナだけだそうだ。ギルドで確認してる」
「その筒に、牙まで入るのか?」
バルドが聞いた。
「牙には、もっと大きいものを使うわ。ほかの試料も分けて収めるから、筒だけでもかなりの荷になる」
「そりゃ、背負って行くわけにはいかんな」
「荷馬車を借りる。ギルドから貸し出せるそうだから、俺が手続きする」
グレンが依頼書の端へ指を置いた。
「街道には獣や魔獣の報告もある。ニーナ一人で運ぶには危ないから、俺たちが護衛につく」
フィンが頷いた。バルドも腕を組み直す。
「二人の予定は確認した。ルーク、お前も受けられるか?」
「いつ出る?」
「三日後の朝。書類がまとまるまでに、試料の梱包と馬車の手配を済ませる」
「向こうまでは、五日くらい?」
「荷馬車だからな。道や馬の具合によっては七日ほど見ておいた方がいい」
「向こうで引き渡せば、終わりか?」
「ああ。書類と試料を渡して、受領の確認をもらうところまでが今回の仕事だ」
ルークは依頼書をもう一度見てから、グレンへ顔を上げた。
「わかった。俺も受ける」
「頼む」
グレンが依頼書を引き寄せた。
セレド。
エルナは、聞いた名前を頭の中で繰り返した。ラーデンから、さらに何日もかかる街だ。
ルークも、そこへ行くことになった。
「それと、もう一つ」
グレンが別の書類を取り出した。
「前に森の調査から戻った時、他の地域の報告も確認してほしいと頼んだだろ」
フィンが頷く。
「返事が来たのか?」
「ああ。他の地域のギルドから、気になる報告が届いてる」
エルナも顔を上げた。
グレンは折られた紙を開き、目を落とした。
「離れた土地で、身体から火を撒く魔獣が出たそうだ」
「……火を?」
ルークの声が低くなった。
「こっちの火事より少し前だ。人を襲って、町の家屋にも火が広がった。魔獣はもう討伐されているが、焼けた家の数はラーデンより多い」
グレンは一度、言葉を切った。
「亡くなった人もいる」
エルナは、すぐには何も言えなかった。
火が柵を越え、家へ移っていった時のことを思い出す。水を運ぶ人がいても、次の場所が燃え始めていた。あの先には、人の暮らす部屋があった。
ラーデンでは、亡くなった人はいないと聞いた。
向こうでは、そうはいかなかったのだ。
卓の向こうで、バルドが黙って書類を見ていた。さっきまで筒へ添えられていたニーナの手も止まっている。
少しして、フィンが口を開いた。
「あの猪と、同じやつか?」
「いや。小鹿のような姿だったそうだ。身体から火を撒いていた、というところは同じだ」
「どこから来たんですか」
エルナが聞く。
「街の北側にある山からだそうだ。切り立った岩壁が幾重にも連なる山で、街に面した壁を駆け下りてきたところを見た者がいる。ただ、山のどこにいたのか、なぜ火を撒くようになったのかまではわかっていない」
グレンは書類を卓へ置いた。
あの猪は、走り回りながら火を撒き散らしていた。倒したあとも、周囲へ燃え移った火は消えず、広がり続けていた。
別の土地でも、似たことが起きている。
「その辺りでも、水が減ったり、植物が育ちにくくなったりしていたのでしょうか」
グレンがこちらを見た。
「この報告には、そこまでは書かれていない。魔獣が出た時のことと、火事の被害が中心だ」
「魔獣が現れる前に、何か変わったことはなかったのでしょうか」
「それも、書かれていないな」
エルナは小さく頷いた。
山の水場で、桶が満ちるまで待つ時間が長くなっていた。薬草も、以前なら採れた場所で少なくなっている。ラーデンの近くで調べた森では、獣が木の皮まで齧っていた。
そのどれもが、火を撒く魔獣とどう関係するのかはわからない。
けれど、魔獣が現れる前の夜に感じたものは、覚えている。濃く、何かが押し込められているような魔力。あの猪からも、似た感触があった。
エルナは一度、ルークへ目を向けた。彼もこちらを見ていたが、何も言わず、卓の書類へ視線を戻した。
「向こうで、似たものの記録が見つかるといいんだけど」
ニーナが言った。
「セレドには、魔獣や素材を調べている研究所があるの。ここより記録も多いし、ほかの地域の報告も集まるから」
「そこへ、試料を渡すんですか」
「ええ。引き渡す時に、聞いてみるつもり。今回初めて見るものでも、昔の記録に残っていることはあるしね」
エルナは、卓に置かれた筒を見た。
家へ戻れば、水場や薬草の様子は確かめられる。けれど、離れた土地で何が起きていたのかまでは、あの山を歩いてもわからない。
自分が知らないだけで、似たものを見た人がいるのかもしれない。猪が火を出していたことも、あの黒い牙のことも、何か記録が残っているのかもしれない。
向こうへ行けば、尋ねられる。
エルナはグレンへ向き直った。
「私も、その仕事に加えてもらえませんか」
グレンが顔を上げた。
「セレドへ行きたいのか?」
「はい。あの魔獣が、なぜ現れたのかを知りたいんです。ほかの土地でも出ているなら、向こうで報告や記録のことを聞いてみたいです」
言ってから、ニーナにも目を向けた。
「試料を渡す時に、私も話を聞かせてもらえたら」
「見ていた人の話なら、向こうも聞きたいと思うわ。詳しい資料を見せてもらえるかは、先方に尋ねてみないとわからないけど」
「はい」
エルナがグレンへ視線を戻すと、彼は少し考えてから口を開いた。
「体の方は、もう旅へ出ても平気か?」
「今日は、普通に動けています。昨日よりも楽になりました」
「出発まで三日あるが、無理そうなら言ってくれ。途中で困る前にな」
「わかりました」
ルークは隣に座ったまま、エルナの返事を聞いていた。
グレンが頷く。
「じゃあ、荷と周囲の見張りを頼みたい。俺たちが獣の方へ出た時、荷馬車をニーナ一人に任せずに済む」
「はい」
「野営の支度も一緒にやってもらう。水場や植物の様子を見る時は、頼めるか」
「それなら、できます」
「わかった。六人で行こう。ギルドには俺から話す」
エルナは頷いた。
フィンが依頼書を少しずらし、ニーナの筒を置く場所を空ける。バルドは椅子の背へ腕を掛けた。
「荷が増えても、積む方は任せとけ」
「じゃあ、大きい筒を運ぶ時に呼ぶわ」
ニーナが言うと、バルドは頷いた。
「ああ。声かけてくれ」
ニーナは布を筒へ戻した。
「ただ、出発前に一度、家へ戻っておきたいんです」
エルナが言うと、グレンは依頼書から顔を上げた。
「山の方だったな」
「はい。数日のつもりで来たので、家に置いたままのものがあります。旅の道具も、もう少し持ってきたいです」
セレドまでは、片道でも五日から七日。
到着してから何日いることになるのかも、まだわからない。薬草をそのまま棚へ置いておくわけにはいかなかった。食料も、使うものと、長く置けるものを分け直したい。
「明日の朝に出れば、一泊して、明後日の昼過ぎには戻れます」
「それなら間に合うな」
「俺も行くよ」
隣からルークが言った。
エルナは彼を見る。
「旅の支度は、いいんですか?」
「今日のうちにできる。そんなに荷物ないから」
ルークは少し笑った。
「俺も、あの家に行きたい」
エルナの口元も緩んだ。棚の下に挟んだ木片も、彼が使っていた椅子も、そのままだった。
「では、お願いします」
「ああ」
グレンが二人を見た。
「戻ったら、ギルドに顔を出してくれ。その間に荷馬車と試料の準備は進めておく」
「わかった」
「出発は三日後の朝、ここに集合だ。細かい時刻は、戻ってきた時にもう一度確認しよう」
フィンとバルドも頷いた。
話が終わると、グレンは依頼書を持って受付へ向かった。ニーナは筒を袋へ収め、バルドに何かを頼んでいる。フィンは椅子を戻してから、掲示板の方へ歩いていった。
エルナが立ち上がると、ルークも隣へ来た。
「出る?」
「はい」
二人でギルドを出た。
*
通りへ出ると、朝より日が高くなっていた。
エルナはしばらく、行き交う人のあいだを歩いた。荷車が通り過ぎ、前にいた人たちが道へ戻る。ルークも、その流れに合わせて横へ寄った。
人通りの少ない道へ入ったところで、彼が口を開いた。
「魔獣が出る前に言ってた、魔力のこと」
「はい」
「あの猪からも、感じてた?」
「似たものはありました。周りだけじゃなく、あの魔獣の中にも」
ルークがこちらを見る。
「でも、魔獣が近づいてきたから感じたのか、それとも、ほかに何か起きていて、魔獣にも同じものがあったのかは……わかりません」
口にしてみても、まだ答えにはならなかった。前の夜から、確かに普段とは違っていた。それなのに、その時は場所も、何があるのかもわからなかった。
ルークは少し考えた。
「じゃあ、あの猪だけ調べても、わからないかもしれないんだな」
「はい。周りで起きていたことも、知りたいです」
「森で見たものも、関係あるかもしれないしな」
「……そうですね」
道の先で、空の荷車を引く男が立ち止まり、別の男へ声をかけていた。二人は道を少し変え、焼けた木材の積まれた方へ向かっていく。
エルナは左手を伸ばした。ルークの指へ触れると、彼も手を開いた。その手を握り、並んで歩く。
「明日は、いつもの乗合?」
ルークが聞いた。
「はい。朝の便で」
「じゃあ、その前に迎えに来る」
「お願いします。食べるものも、少し買っておきたいです」
「昼の分?」
「それと、家に着いてからの分も。残っているものを見てからにしたいので」
「なら、日持ちするものを少し買っとくか」
エルナは頷いた。
「家に着いたら、私が何か作りますね」
「俺も手伝うよ」
「では、切る方をお願いします」
「ああ」
エルナは笑い、繋いだ手を少し揺らした。
*
宿へ戻ると、ルークはいったん自分の部屋へ支度に戻った。昼食の頃にまた来ると約束し、エルナは階段を上がる。
部屋へ入ると、エルナは鞄を開き、残っていた着替えと替えの布を机へ出した。薬入れは、朝置いた場所にある。
持ち歩いていた小さな袋から、採取用のナイフと紐を取り出す。薬入れと一緒に並べ、明日持ち帰るものを鞄へ収めた。
ラーデンに置いていく服は畳み、棚へ寄せる。帰ってきたらすぐ使うものと、山から持ってくるものも考えておく。
鞄には、少し空きができた。
小屋に置いてある厚い敷布も、持ってきた方がよさそうだった。薬草を包む布や、乾かしたものを収める袋も必要になる。
エルナは鞄の底へ手を入れ、布の端を直した。
机に荷物を広げ、椅子を引いて座る。立ち上がって棚から物を取り、また戻る。そうしているあいだに、身体のことを気にする回数は減っていた。
窓の外から、人の声が聞こえた。
エルナは必要なものをもう一度確かめ、鞄の口を閉じた。食べ物を入れる場所だけ、上に空けておく。
鞄を寝台のそばへ置き、机に残った服を片づける。棚へ戻し終えて椅子へ腰を下ろすと、廊下から足音が聞こえてきた。
少しして、扉を叩く音がした。
「エルナ」
ルークの声だった。
返事をして扉を開けると、彼が廊下に立っていた。
「俺の方は済んだ。飯にしようか」
「はい。私も、今終わったところです」
二人で階段を下りた。
食堂には、昼食を取っている客が何人もいた。空いている卓へ座り、エルナも料理を頼む。
朝より、しっかりお腹が空いていた。出された皿から一口食べ、向かいのルークを見る。彼も、もう食べ始めていた。
「食べたら、明日の分を買いに行こう」
「はい。干した肉も、少し買っておきたいです」
「ああ。家にある分も、どのくらい残ってるかわからないしな」
昼食を済ませると、二人で通りへ出た。
パン屋で日持ちするものを包んでもらい、干した肉も少し買う。店先で包みを分け、パンはエルナが、肉はルークが持った。
買い物を終えて宿へ戻ると、ルークが足を止めた。
「夕飯も、ここで食べる?」
「そのつもりです」
「じゃあ、俺も来るよ」
「はい。待っています」
ルークを見送ってから、エルナは部屋へ上がった。
買ったパンを机へ置き、窓際の椅子へ座る。朝には荷物を広げていた机も、今はすっきりしていた。
窓から入る風に、服の裾が揺れる。
エルナは椅子へ背を預け、しばらく外の声を聞いていた。
夕食の頃に食堂へ下りると、ルークが窓のそばの席から手を上げた。
エルナもそちらへ向かい、向かいに座る。
窓から差していた光は、昼より低くなっていた。食堂の中では、女将が灯りをつけ始めている。
二人で食事をし、ルークが部屋へ戻るというので、エルナも入口まで見送った。
「じゃあ、また明日」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
ルークが通りへ出ていく。
エルナはその背中を見送り、宿の中へ戻った。
明日の荷物は、もうまとめてある。
今度は、ルークと一緒に帰る。




