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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第6章 広がる世界
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第84話 魔女の名前


 ルークが昼の食事を買いに出ようとした時、エルナは寝台から立ち上がった。


「私も、一緒に行っていいですか」


 ルークが振り返る。


「外へ?」


「はい。少し歩きたくて」


 あの火事から、数日が経っていた。


 起き上がるたびに休まなくてもよくなった。魔力も少しずつ戻ってきている。


 今朝も、ルークが水を汲みに下りているあいだに、自分で着替えを済ませた。宿から持ってきてもらった鞄へ脱いだ服をしまい、声をかけると、扉の外で待っていた彼が戻ってきた。


 窓の外からは、今日も木を打つ音がしていた。人を呼ぶ声も、荷車が通る音も。


 その先を、少し見たかった。


「長く歩けるかは、まだわかりませんけど」


「じゃあ、近くで買おう。疲れたら言って」


「はい」


 エルナはクローゼットのそばに置いていた髪布を手に取った。火事で燃えてしまった布の代わりに、ルークが買ってきてくれたものだった。


 銀白の髪をまとめ、布で包む。端を折り込み、髪が出ていないことを確かめてから、フードを被った。


 左手首には、いつもの腕輪がある。


「できました」


「行こう」


 ルークが鞄を取り、二人で階段を下りた。


 裏口から外へ出ると、風が頬に当たる。


 エルナは顔を上げた。部屋の窓から見ていたものより、空が広い。歩き出すと、服の裾にも風が触れた。


 通りには人が歩いていた。店先では商人が商品を並べ、荷車がゆっくり進んでいく。車輪が道の窪みを越え、中の荷が小さく跳ねた。


 その後ろから、焼け焦げた木材を積んだ別の荷車が来る。


 エルナはルークと道の端へ寄った。


 荷車が通ると、焦げた匂いが残った。あの日ほど強くはない。けれど、部屋にいた時にはわからなかった匂いだった。


 少し先では、壊れた柵を取り外している人たちがいる。横には、新しい板が積まれていた。


「今日は、あっちの店にしよう」


 ルークが通りの先を指す。


「よく買っているところですか」


「ああ。仕事の帰りに寄るんだ。遅いと、肉がなくなってることもあるけど」


「人気なんですね」


「そうだな。あそこで買うつもりで歩いてきて、売り切れてると、けっこうがっかりする」


 その言い方に、エルナは少し笑った。


「そんなに、おいしいんですか」


「俺は好きだよ」


 まだ自分の知らない店が、いくつもある。


 途中、向こうから来た男がルークへ片手を上げた。


「よう、ルーク」


「おう」


 男はそのまま通り過ぎていく。


 少し先から、大きな声が聞こえた。


「そっち、もう少し右だ!」


「ここか?」


「そう! そこ!」


 大きな木材を抱えたバルドが、焼けた建物のそばで作業員たちと働いていた。少し離れたところでは、フィンが取り外した板を選り分けている。


「あいつら、今日もやってるな」


 ルークが言った。


 近づくと、先にフィンが顔を上げる。


「お、ルーク! ……エルナも。もう歩けるんだ?」


「はい。少しだけですけど」


「そっか。よかったな」


 その声に、バルドもこちらを見た。


「おう、エルナ。元気になったか」


「だいぶ、よくなりました」


「そりゃよかった」


 バルドは頷き、抱えていた木材を作業員のいる方へ運んでいった。二人がかりで受け取った男たちが、その端を柱の横へ下ろす。


「今日は買い物?」


 フィンが聞く。


「ああ。昼の分を買いに」


「いいな。こっちは、もう少しかかりそうだ」


 フィンは板の端を指で押した。黒くなった部分が少し欠け、下からまだ明るい色の木が見える。


 エルナは、その手元へ目を向けた。


「それも、また使うんですか」


「ああ。端を落とせば使える。全部、新しくするわけにもいかないしな」


 足元には、焦げた板と、まだ使えそうな板が分けて積んであった。使える方へ置かれた板を、そばにいた作業員が持っていく。


 焼けた建物の前では、別の男が板の長さを測っていた。


「お前も一本くらい運んでいけよ」


 フィンがルークへ言う。


「飯が先だよ」


「一本くらい、すぐだろ」


「その一本で終わる?」


 ルークが笑って返すと、フィンも笑った。


 フィンは次の板を手に取り、二人へ顎を上げた。


「じゃあ、またな。エルナも無理すんなよ」


「はい。ありがとうございます」


「またな」


 ルークが返すと、フィンはもう板の端を見ていた。


 二人で歩き出す。


 エルナは一度だけ振り返った。黒く焼けた柱の隣で、作業員が新しい柱を支えている。下の位置を直してから、別の男が木槌を振った。


 木を打つ音がした。


 部屋にいた時にも、聞こえていた音だった。


 少し間をおいて、また鳴る。男は手を止め、柱を押して確かめてから、もう一度叩いた。


 取り外された黒い板の山は、まだ大きい。その横で、新しい木と、残った木が少しずつ組まれていく。


 エルナは前へ向き直った。


     *


 店の並ぶ通りへ入ると、肉を焼く匂いがした。


 ルークはパンを買って鞄へ入れ、少し先の屋台へ向かった。店の男が顔を上げる。


「久しぶりだな」


「今日は二人分、頼む」


「おう。今焼けるから、ちょっと待ってくれ」


 焼き台の上で、肉の脂が小さく音を立てていた。男が裏返すと、香辛料の匂いが強くなる。


 エルナがそれを見ていると、横からルークが言った。


「辛いのは入ってないよ」


「まだ何も聞いてません」


「気にすると思って」


「……気にはなりました」


 ルークが笑う。


 男は焼けた肉を紙で包み、二つに分けて渡した。ルークが受け取り、一つをエルナへ差し出す。


 手に取ると、紙越しに温かさが伝わってきた。


 思っていたより、お腹が空いている。包みの隙間から出る匂いに、もう少しだけ中を覗きたくなった。


「楽しみです」


「帰ったら食べよう」


 二人は帰り道へ向かった。


 行きとは少し違う道だった。焼けた柵のそばで、二人の男が板を運んでいる。


「ここまで燃えてたら、うちも危なかったな」


「雪の魔女が火を弱めたっていうだろ。助かったよ」


 エルナは、声のした方へ目を向けた。


 雪の魔女。


 初めて聞く呼び名だった。


「まあ、助かったのは確かだが……あの魔獣といい、魔女といい、妙なことばっかりだ」


「そうだな。……おい、そっち持ってくれ」


 男たちは板を持ち直した。エルナの方を見ることもなく、作業を続けている。


 エルナは左手首へ目を落とした。いつもの腕輪が見える。


 助かった、と言っていた。


 その言葉は、少し嬉しかった。


 男たちの話は、もう板を運ぶ位置のことへ戻っていた。エルナは、そのすぐそばを通り過ぎた。


 ルークも男たちの方へ一度目を向けた。


 人通りが少なくなったところで、彼が口を開く。


「あの白いの、雪っていうんだな」


「はい」


「初めて聞いた」


 ルークは少し考えるように、通りの先を見た。


「雪の魔女、か」


 エルナも前を見る。


 その言葉は、男たちの口から聞いた時より、少し近くに聞こえた。


「私は、火を止めようとしたんですけどね」


「そっちより、雪の方が珍しかったんだろうな。俺も初めて見たし」


「そうですね」


 空から降って、掌で溶ける白いもの。


 自分にはよく知っているものが、この街では初めて見るものだった。人々が手を差し出し、冷たいと声を上げていたことを思い出す。


 あれが雪だと、誰が知ったのだろう。


 ロザリーと見た古い本には、白い地面の絵があった。あんな記録が、この街にも残っていたのだろうか。


 自分が部屋で休んでいるあいだに、誰かが雪の名前を知った。そして、知らない誰かが、それを魔女の呼び名にしていた。


 エルナは包みを持ち直した。


 まだ、温かかった。


「知らないうちに、名前がつくものなんですね」


「ああ。誰が最初に言ったんだろうな」


 ルークも、少し不思議そうだった。


 その言葉で、エルナはふとロザリーの声を思い出した。


 木の幹へ掌を当て、土の下で根が傷んでいると言った人。どれだけ見ても自分にはわからなくて、何の魔女なのかと尋ねた。


『自分でそう名乗ったことはないけれど』


『昔、森の魔女と呼ばれたことはあるわ』


『わかりやすいね』


『ええ。その点では悪くない呼び名ね』


 少し目を細めて、また木へ向き直った。


 誰にそう呼ばれたのかは、聞かなかった。そのあと根元の土を除け始めたロザリーのそばで、傷んだ根がどこにあるのかを覗き込んでいた。


 呼び名の話は、それで終わった。


「……ロザリーのことを、思い出していました」


 ルークがこちらを見る。


「あの人も、こんなふうに誰かの話の中にいたのかなって。誰に森の魔女って呼ばれたのか、聞いたことがなかったんです」


 エルナは通りの先を見る。


「今なら、少し聞いてみたいです」


「……そっか」


 ルークが答えた。


 あの時の声は、今も思い出せる。目の前の根を気にしていた横顔も、まだ頭に残っている。


 エルナは包みを片手へ持ち直し、空いた手でルークの手を取った。


 彼も握り返す。指が重なり、親指が手の甲へ一度触れた。


 二人で通りの角を曲がる。


 ルークの手は、温かかった。


     *


 しばらく歩くと、脚が重くなってきた。


 まだ、いつも通りというわけにはいかないらしい。道の先には、見覚えのある建物が見えていた。


「ルーク。少し、ゆっくり歩きたいです」


「ああ」


 ルークが歩幅を小さくする。


「包みも、こっちに貸して」


「お願いします」


 エルナの分も受け取り、自分のものと一緒に片手へまとめた。


 手を繋いだまま、ゆっくり歩く。


 さっき通ってきた方からは、まだ木を打つ音が聞こえていた。曲がり角の先で、子どもが二人、追いかけ合って走っていく。


「帰ったら、すぐ食べたいです」


「俺も。……ちょっと冷めたかな」


 ルークが二つの包みを見る。


「たぶん」


「まあ、まだうまいよ」


「それならいいです」


 二人で裏口へ向かった。


 扉の前で手を離す。ルークが扉を開けてくれたので、エルナは先に入り、一緒に階段を上がった。


 部屋へ戻ると、寝台へ腰を下ろした。


 フードを背へ落とし、髪布をほどく。銀白の髪が肩へ滑り落ちた。髪を手で整えているあいだに、ルークが鞄からパンを出していた。


 ルークが肉の包みを開くと、狭い部屋に香辛料の匂いが広がった。


「ほら。まだ温かい」


 ルークが包みを渡してくれた。


 エルナは膝の上でそれを支え、一口食べる。


 表面は香ばしく、中にはまだ熱が残っていた。


 ルークが隣へ腰を下ろすと、寝台がわずかに沈んだ。腕が触れ、彼も自分の包みを開く。


「……おいしいです」


「だろ」


 ルークが嬉しそうに笑う。


 エルナはパンをちぎり、肉と一緒にもう一口食べた。


 寝台の足元へ目を落とすと、自分の鞄があった。


 宿の部屋は、まだ借りたままだった。ルークに、体調を崩して知人のところで休んでいると伝えてもらい、エルナが頼んで数日延ばしてある。


 今日歩いてみて、まだ疲れやすいことはわかった。それでも、宿で食事をして休むくらいなら、もうできそうだった。


 エルナは隣へ目を向けた。


「ルーク。明日あたり、宿へ戻ろうと思います」


「……明日?」


「はい。寝台も、そろそろ返さないと」


「まだ、ここにいてほしいんだけどな」


「私も、一緒にいたいですけど。二人で寝るには、やっぱり狭いですから」


「まあ、それはそうだな」


 ルークが寝台へ目を落とし、笑った。


「じゃあ、明日、宿まで送っていくよ」


「お願いします。今日は、もう一晩お世話になります」


「うん」


 ルークが頷き、ちぎったパンを口へ運んだ。


 食べ終わったら、少し横になろう。


 エルナは隣へ少し肩を寄せた。ルークも身体を寄せ、二人のあいだの隙間がなくなる。


 膝の上の包みを持ち直し、エルナはもう一口食べた。




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