第84話 魔女の名前
ルークが昼の食事を買いに出ようとした時、エルナは寝台から立ち上がった。
「私も、一緒に行っていいですか」
ルークが振り返る。
「外へ?」
「はい。少し歩きたくて」
あの火事から、数日が経っていた。
起き上がるたびに休まなくてもよくなった。魔力も少しずつ戻ってきている。
今朝も、ルークが水を汲みに下りているあいだに、自分で着替えを済ませた。宿から持ってきてもらった鞄へ脱いだ服をしまい、声をかけると、扉の外で待っていた彼が戻ってきた。
窓の外からは、今日も木を打つ音がしていた。人を呼ぶ声も、荷車が通る音も。
その先を、少し見たかった。
「長く歩けるかは、まだわかりませんけど」
「じゃあ、近くで買おう。疲れたら言って」
「はい」
エルナはクローゼットのそばに置いていた髪布を手に取った。火事で燃えてしまった布の代わりに、ルークが買ってきてくれたものだった。
銀白の髪をまとめ、布で包む。端を折り込み、髪が出ていないことを確かめてから、フードを被った。
左手首には、いつもの腕輪がある。
「できました」
「行こう」
ルークが鞄を取り、二人で階段を下りた。
裏口から外へ出ると、風が頬に当たる。
エルナは顔を上げた。部屋の窓から見ていたものより、空が広い。歩き出すと、服の裾にも風が触れた。
通りには人が歩いていた。店先では商人が商品を並べ、荷車がゆっくり進んでいく。車輪が道の窪みを越え、中の荷が小さく跳ねた。
その後ろから、焼け焦げた木材を積んだ別の荷車が来る。
エルナはルークと道の端へ寄った。
荷車が通ると、焦げた匂いが残った。あの日ほど強くはない。けれど、部屋にいた時にはわからなかった匂いだった。
少し先では、壊れた柵を取り外している人たちがいる。横には、新しい板が積まれていた。
「今日は、あっちの店にしよう」
ルークが通りの先を指す。
「よく買っているところですか」
「ああ。仕事の帰りに寄るんだ。遅いと、肉がなくなってることもあるけど」
「人気なんですね」
「そうだな。あそこで買うつもりで歩いてきて、売り切れてると、けっこうがっかりする」
その言い方に、エルナは少し笑った。
「そんなに、おいしいんですか」
「俺は好きだよ」
まだ自分の知らない店が、いくつもある。
途中、向こうから来た男がルークへ片手を上げた。
「よう、ルーク」
「おう」
男はそのまま通り過ぎていく。
少し先から、大きな声が聞こえた。
「そっち、もう少し右だ!」
「ここか?」
「そう! そこ!」
大きな木材を抱えたバルドが、焼けた建物のそばで作業員たちと働いていた。少し離れたところでは、フィンが取り外した板を選り分けている。
「あいつら、今日もやってるな」
ルークが言った。
近づくと、先にフィンが顔を上げる。
「お、ルーク! ……エルナも。もう歩けるんだ?」
「はい。少しだけですけど」
「そっか。よかったな」
その声に、バルドもこちらを見た。
「おう、エルナ。元気になったか」
「だいぶ、よくなりました」
「そりゃよかった」
バルドは頷き、抱えていた木材を作業員のいる方へ運んでいった。二人がかりで受け取った男たちが、その端を柱の横へ下ろす。
「今日は買い物?」
フィンが聞く。
「ああ。昼の分を買いに」
「いいな。こっちは、もう少しかかりそうだ」
フィンは板の端を指で押した。黒くなった部分が少し欠け、下からまだ明るい色の木が見える。
エルナは、その手元へ目を向けた。
「それも、また使うんですか」
「ああ。端を落とせば使える。全部、新しくするわけにもいかないしな」
足元には、焦げた板と、まだ使えそうな板が分けて積んであった。使える方へ置かれた板を、そばにいた作業員が持っていく。
焼けた建物の前では、別の男が板の長さを測っていた。
「お前も一本くらい運んでいけよ」
フィンがルークへ言う。
「飯が先だよ」
「一本くらい、すぐだろ」
「その一本で終わる?」
ルークが笑って返すと、フィンも笑った。
フィンは次の板を手に取り、二人へ顎を上げた。
「じゃあ、またな。エルナも無理すんなよ」
「はい。ありがとうございます」
「またな」
ルークが返すと、フィンはもう板の端を見ていた。
二人で歩き出す。
エルナは一度だけ振り返った。黒く焼けた柱の隣で、作業員が新しい柱を支えている。下の位置を直してから、別の男が木槌を振った。
木を打つ音がした。
部屋にいた時にも、聞こえていた音だった。
少し間をおいて、また鳴る。男は手を止め、柱を押して確かめてから、もう一度叩いた。
取り外された黒い板の山は、まだ大きい。その横で、新しい木と、残った木が少しずつ組まれていく。
エルナは前へ向き直った。
*
店の並ぶ通りへ入ると、肉を焼く匂いがした。
ルークはパンを買って鞄へ入れ、少し先の屋台へ向かった。店の男が顔を上げる。
「久しぶりだな」
「今日は二人分、頼む」
「おう。今焼けるから、ちょっと待ってくれ」
焼き台の上で、肉の脂が小さく音を立てていた。男が裏返すと、香辛料の匂いが強くなる。
エルナがそれを見ていると、横からルークが言った。
「辛いのは入ってないよ」
「まだ何も聞いてません」
「気にすると思って」
「……気にはなりました」
ルークが笑う。
男は焼けた肉を紙で包み、二つに分けて渡した。ルークが受け取り、一つをエルナへ差し出す。
手に取ると、紙越しに温かさが伝わってきた。
思っていたより、お腹が空いている。包みの隙間から出る匂いに、もう少しだけ中を覗きたくなった。
「楽しみです」
「帰ったら食べよう」
二人は帰り道へ向かった。
行きとは少し違う道だった。焼けた柵のそばで、二人の男が板を運んでいる。
「ここまで燃えてたら、うちも危なかったな」
「雪の魔女が火を弱めたっていうだろ。助かったよ」
エルナは、声のした方へ目を向けた。
雪の魔女。
初めて聞く呼び名だった。
「まあ、助かったのは確かだが……あの魔獣といい、魔女といい、妙なことばっかりだ」
「そうだな。……おい、そっち持ってくれ」
男たちは板を持ち直した。エルナの方を見ることもなく、作業を続けている。
エルナは左手首へ目を落とした。いつもの腕輪が見える。
助かった、と言っていた。
その言葉は、少し嬉しかった。
男たちの話は、もう板を運ぶ位置のことへ戻っていた。エルナは、そのすぐそばを通り過ぎた。
ルークも男たちの方へ一度目を向けた。
人通りが少なくなったところで、彼が口を開く。
「あの白いの、雪っていうんだな」
「はい」
「初めて聞いた」
ルークは少し考えるように、通りの先を見た。
「雪の魔女、か」
エルナも前を見る。
その言葉は、男たちの口から聞いた時より、少し近くに聞こえた。
「私は、火を止めようとしたんですけどね」
「そっちより、雪の方が珍しかったんだろうな。俺も初めて見たし」
「そうですね」
空から降って、掌で溶ける白いもの。
自分にはよく知っているものが、この街では初めて見るものだった。人々が手を差し出し、冷たいと声を上げていたことを思い出す。
あれが雪だと、誰が知ったのだろう。
ロザリーと見た古い本には、白い地面の絵があった。あんな記録が、この街にも残っていたのだろうか。
自分が部屋で休んでいるあいだに、誰かが雪の名前を知った。そして、知らない誰かが、それを魔女の呼び名にしていた。
エルナは包みを持ち直した。
まだ、温かかった。
「知らないうちに、名前がつくものなんですね」
「ああ。誰が最初に言ったんだろうな」
ルークも、少し不思議そうだった。
その言葉で、エルナはふとロザリーの声を思い出した。
木の幹へ掌を当て、土の下で根が傷んでいると言った人。どれだけ見ても自分にはわからなくて、何の魔女なのかと尋ねた。
『自分でそう名乗ったことはないけれど』
『昔、森の魔女と呼ばれたことはあるわ』
『わかりやすいね』
『ええ。その点では悪くない呼び名ね』
少し目を細めて、また木へ向き直った。
誰にそう呼ばれたのかは、聞かなかった。そのあと根元の土を除け始めたロザリーのそばで、傷んだ根がどこにあるのかを覗き込んでいた。
呼び名の話は、それで終わった。
「……ロザリーのことを、思い出していました」
ルークがこちらを見る。
「あの人も、こんなふうに誰かの話の中にいたのかなって。誰に森の魔女って呼ばれたのか、聞いたことがなかったんです」
エルナは通りの先を見る。
「今なら、少し聞いてみたいです」
「……そっか」
ルークが答えた。
あの時の声は、今も思い出せる。目の前の根を気にしていた横顔も、まだ頭に残っている。
エルナは包みを片手へ持ち直し、空いた手でルークの手を取った。
彼も握り返す。指が重なり、親指が手の甲へ一度触れた。
二人で通りの角を曲がる。
ルークの手は、温かかった。
*
しばらく歩くと、脚が重くなってきた。
まだ、いつも通りというわけにはいかないらしい。道の先には、見覚えのある建物が見えていた。
「ルーク。少し、ゆっくり歩きたいです」
「ああ」
ルークが歩幅を小さくする。
「包みも、こっちに貸して」
「お願いします」
エルナの分も受け取り、自分のものと一緒に片手へまとめた。
手を繋いだまま、ゆっくり歩く。
さっき通ってきた方からは、まだ木を打つ音が聞こえていた。曲がり角の先で、子どもが二人、追いかけ合って走っていく。
「帰ったら、すぐ食べたいです」
「俺も。……ちょっと冷めたかな」
ルークが二つの包みを見る。
「たぶん」
「まあ、まだうまいよ」
「それならいいです」
二人で裏口へ向かった。
扉の前で手を離す。ルークが扉を開けてくれたので、エルナは先に入り、一緒に階段を上がった。
部屋へ戻ると、寝台へ腰を下ろした。
フードを背へ落とし、髪布をほどく。銀白の髪が肩へ滑り落ちた。髪を手で整えているあいだに、ルークが鞄からパンを出していた。
ルークが肉の包みを開くと、狭い部屋に香辛料の匂いが広がった。
「ほら。まだ温かい」
ルークが包みを渡してくれた。
エルナは膝の上でそれを支え、一口食べる。
表面は香ばしく、中にはまだ熱が残っていた。
ルークが隣へ腰を下ろすと、寝台がわずかに沈んだ。腕が触れ、彼も自分の包みを開く。
「……おいしいです」
「だろ」
ルークが嬉しそうに笑う。
エルナはパンをちぎり、肉と一緒にもう一口食べた。
寝台の足元へ目を落とすと、自分の鞄があった。
宿の部屋は、まだ借りたままだった。ルークに、体調を崩して知人のところで休んでいると伝えてもらい、エルナが頼んで数日延ばしてある。
今日歩いてみて、まだ疲れやすいことはわかった。それでも、宿で食事をして休むくらいなら、もうできそうだった。
エルナは隣へ目を向けた。
「ルーク。明日あたり、宿へ戻ろうと思います」
「……明日?」
「はい。寝台も、そろそろ返さないと」
「まだ、ここにいてほしいんだけどな」
「私も、一緒にいたいですけど。二人で寝るには、やっぱり狭いですから」
「まあ、それはそうだな」
ルークが寝台へ目を落とし、笑った。
「じゃあ、明日、宿まで送っていくよ」
「お願いします。今日は、もう一晩お世話になります」
「うん」
ルークが頷き、ちぎったパンを口へ運んだ。
食べ終わったら、少し横になろう。
エルナは隣へ少し肩を寄せた。ルークも身体を寄せ、二人のあいだの隙間がなくなる。
膝の上の包みを持ち直し、エルナはもう一口食べた。




