第82話 火事のあと
翌朝、エルナは荷車の通る音で目を覚ました。
車輪が石畳を転がる音に、人の声が混じっている。窓からは朝の光が差し込んでいた。
隣を見ると、ルークの姿はなかった。
寝台の端には、昨夜使っていた毛布が少しよれたまま残っている。
エルナはそこへ目を向けてから、ゆっくり身体を動かした。
まだ重い。けれど、昨日ほどではなかった。
腕に力を入れ、寝台へ手をつく。時間はかかったが、自分で身体を起こすことができた。
背中を壁へ預け、ひと息つく。
少し疲れた。それでも、昨日よりは確かに動けるようになっている。
「おはよう」
声がして顔を上げる。
ルークが水差しを持って戻ってきたところだった。
「おはようございます」
ルークは水差しを置くと、寝台のそばへ来た。
「今日は自分で起きられたんだ」
「はい。昨日より、少し楽になりました」
「そっか。よかった」
ルークが笑った。
「まだだるい?」
「少し。でも、昨日ほどではありません」
エルナは自分の手を見る。
魔力も、少しずつ戻っている。
これほど大きな魔法を使ったことはなかったので、普段通りに戻るまでどれほどかかるのかはわからない。
けれど、昨日より回復していることは確かだった。
「水、飲む?」
「はい」
ルークから杯を受け取る。今日は自分で持つことができた。
水を飲み終え、杯を返す。
その時、寝台の端に残った毛布が目に入った。
「……昨日は、狭くありませんでしたか」
「狭かった」
即答だった。
エルナは少し笑った。
「やっぱり」
「でも、ちゃんと眠れたよ」
「それなら、よかったです」
ルークも笑った。
昨夜は二人で眠った。この小さな寝台では、身体を伸ばすのも難しかっただろう。
それでも、ルークが眠れたのなら安心だった。
エルナはもう一度、窓へ目を向けた。
外では、また荷車が通っていく。今度は木材がぶつかるような音がした。
「……街は、今日も片づけですか」
「ああ。朝から資材を運んでるみたいだな」
「そうですか」
「ギルドにも仕事が出てるらしいよ。焼けたものを片づけたり、柵を直したり」
ルークが答える。
火事から二日。
街では、もう復旧が始まっているらしい。
エルナはその話を聞きながら、昨日のパンを少しずつ食べた。
火が消えたことはルークから聞いている。けれど、そのあと街がどうなったのか、詳しいことはまだ知らなかった。
そう考えていた時だった。
扉を叩く音がした。
「ルーク、いるか?」
聞き覚えのある声だった。
グレンだ。
「フィンも一緒だ。エルナの様子を見に来たんだが」
ルークがエルナを振り返る。
「グレンとフィンだって。入ってもらってもいい?」
エルナは自分の髪へ目を向けた。
銀白の髪は、今も肩から背中へ流れている。
二人とも、あの火事の時にこの姿を見ていた。
「はい。大丈夫です」
「わかった」
ルークは扉へ向かった。
「ああ、今開ける」
そう声をかけてから扉を開ける。
廊下に立っていたのは、グレンとフィンだった。
「よう」
フィンが片手を上げた。
「エルナ、起きたって聞いたからさ」
「おはようございます」
エルナが答えると、グレンも頷いた。
「おはよう。具合はどうだ?」
「昨日より、だいぶよくなりました」
「そうか」
グレンは部屋の中へ目を向けた。
「少し話せるか?」
「はい。大丈夫です」
ルークが二人を招き入れる。
とはいえ、狭い部屋だった。寝台とクローゼットしかないところへ、大人の男が三人も入ると、身動きできる場所はほとんどない。
グレンとフィンは扉の近くに立ち、ルークは寝台のそばへ戻った。
グレンがエルナを見る。
その視線が、一度だけ銀白の髪へ向いた。
フィンも同じだった。
エルナは今、髪を隠していない。左手首にはいつもの腕輪があるが、髪を包んでいた布は、あの火事で燃えてしまった。
あの日、二人もこの髪を見ている。
けれど、あの時は魔獣との戦闘中だった。落ち着いて向かい合うのは、これが初めてになる。
「もう、起きていて平気なのか」
グレンが尋ねた。
「はい。長く座っていると、まだ少し疲れますけど」
「なら、あまり無理するなよ」
「ありがとうございます」
フィンもエルナへ声をかけた。
「一日近く眠ってたんだろ?」
「そうみたいです」
「あのあと、全然目を覚まさなかったって聞いたからさ。ちょっと心配してたんだよ」
「すみません。心配をかけました」
「いや、謝ることじゃないって」
フィンは軽く首を振った。
「顔が見られてよかったよ」
「ありがとうございます」
エルナが答えると、フィンは頷いた。
それから、ルークへ目を向ける。
「ルークは? 少しは休めたか?」
「ああ。昨夜はちゃんと寝たよ」
「そっか。ならよかった」
フィンはそれだけ答えた。
エルナは二人を見る。
グレンもフィンも、以前と変わらない調子で話していた。
そのことに少し安堵しながら、エルナは口を開いた。
「……あの、街の被害はどうなりましたか」
グレンがこちらを見る。
「ルークから、火は消えたって聞いたんですけど」
「ああ。大体の状況はわかってきた」
グレンは頷いた。
「まず、亡くなった人はいない。そこは確認が取れてる」
エルナは顔を上げた。
「……そうなんですか」
「ああ」
エルナはゆっくり息を吐いた。
「よかった……」
あれほどの火だった。
魔獣が暴れ、建物が燃え、人々が逃げ回っていた。誰かが命を落としていても、おかしくなかった。
「ただ、怪我人は多い」
グレンが続ける。
「重傷者が何人かいる。軽い怪我なら、もっと大勢だな」
「火傷ですか?」
「それもある。魔獣に弾き飛ばされた者や、逃げる途中で怪我をした者もいる」
エルナは頷いた。
柵へ叩きつけられて動けなくなった男。火傷を負い、腕を押さえていた人。
あの時に見た姿が浮かぶ。
「治療は受けられているんでしょうか」
「治療院で診てもらってる。人手は足りてないみたいだが、ギルドからも手伝いが出てるそうだ」
「そうですか」
グレンは少し考えた。
「重い怪我だと、すぐには動けない者もいるだろうな」
エルナは小さく頷いた。
「建物の方は、どうなりましたか」
「そっちも被害は大きい。家が何軒か焼けた。作業小屋や柵も、かなりやられてる」
「畑も?」
「ああ。火が走った場所は、作物も駄目になってる」
フィンが口を開いた。
「家畜も何頭か死んだって聞いたよ。逃がしきれなかったところがあるらしい」
「……そうですか」
エルナは少し目を伏せた。
畑も家畜も、そこで暮らす人たちにとっては大切なものだ。家が焼ければ、住む場所にも困る。
火を止めることはできた。
けれど、すでに焼けてしまったものまでは戻せない。
「今はもう、片づけが始まってる」
グレンが言った。
「焼けた木材を運んだり、危ない建物へ人が近づかないようにしたりな。ギルドにも依頼が集まってる」
「もう、みなさん動いているんですね」
「ああ。いつまでもそのままにはしておけないからな」
フィンも頷く。
「バルドなんか、朝からずっと引っ張り回されてるよ」
「バルドが?」
ルークが聞いた。
「ああ。焼けた柱とか、倒れた柵とか。あいつがいると運ぶのも早いからな」
「そりゃ、頼まれるだろうな」
「本人も嫌がってないみたいだよ。やることがはっきりしてる方がいいってさ」
エルナは少し笑った。
以前一緒に仕事をした時も、バルドは痕跡調査より柵の修理を選んでいた。
あの大きな身体なら、柱を運ぶような作業でも頼りになるだろう。
「フィンは、何をしていたんですか?」
「俺? 昨日は建物の傷みを見て回ってた」
「建物の?」
「屋根とか、壁とか。どこがまだ使えて、どこが危ないかって」
フィンは片手を少し上げた。
「まあ、俺だけで決められるわけじゃないけどさ。近づいても大丈夫そうなところを見たり、使える木材を分けたりしてた」
「そうなんですね」
「崩れそうな屋根は、まだ手をつけられないところもあるけどな」
グレンが言った。
「今は、できるところからだ。全部一度には片づかない」
「そうですね」
エルナは窓へ目を向けた。
外から聞こえてくる荷車の音も、そうした作業の一つなのだろう。
ふと、気になったことがあった。
「……あのあと、火がまた広がったところはありませんでしたか」
グレンが首を横に振った。
「いや。大きく広がることはなかった」
「そうですか」
「あのあと残っていた火も、その日のうちに消し終わってる。燻っているところは何度か確認したが、もう延焼の心配はないらしい」
フィンも頷いた。
「あれだけ広がってた火が、急に弱まったからな。あのあとなら、俺たちでも追いつけた」
「……そうですか」
「水も土も、消す場所を絞れたし。そこからは早かったよ」
エルナは胸を撫で下ろした。
魔法を止めた時、まだ炎は残っていた。けれど、それ以上広がらないところまでは熱を奪えたはずだった。
人の手で消せるところまで。
そのあとも火が広がっていなかったのなら、よかった。
「安心しました」
エルナが言う。
グレンは頷いた。
「被害は大きかったけどな。これからが大変だ」
「そうですね」
それからも、しばらく街の話をした。
焼けた建物の片づけ。使える資材の運び出し。まだ人手の足りない場所。
グレンはギルドでも、そうした話を聞いてきたらしい。
具体的なことは決まっていない部分も多かったが、街は少しずつ復旧へ動き始めていた。
やがて、グレンが言った。
「それと、もう一つ伝えておく」
エルナが顔を向ける。
「街じゃ、白い髪の魔女の話が出てる」
エルナは少し目を瞬いた。
「……そうですか」
「ああ。あの魔獣の火を弱めたのも、火事が広がるのを止めたのも、その魔女だったってな」
グレンは続けた。
「空から白いものが降ってきたって話も、かなり広まってる」
エルナは自分の髪へ視線を落とした。
あの時、髪布が燃えてしまった。
隠し直す余裕もないまま、魔法を使った。大勢の人が見ていたのだから、噂になるのは当然だろう。
「……私のことだとは、わかっているんでしょうか」
「今のところ、そういう話は聞いてない」
グレンが答えた。
「白い髪の若い女だった、ってところまでは広まってる。ただ、普段の姿や名前まで結びついてる様子はないな」
「そうですか」
「もちろん、誰も知らないとまでは言い切れないけどな」
エルナは頷いた。
あの場には、たくさんの人がいた。自分とルークの会話を聞いた人がいたとしても、おかしくはない。
今のところ、広く知られているわけではない。
それがわかっただけでもよかった。
フィンが口を開いた。
「それに、今はあの白いものの話も多いよ」
「白いもの?」
「ほら、空から降ってきただろ。あれ、何だったんだって」
雪のことだ。
「触ったら冷たかったとか、手の上で水になったとか。昨日もあちこちで聞いた」
フィンは少し笑った。
「俺も驚いたよ。空からあんなものが降ってくるなんてな」
「そうですね」
エルナは小さく頷いた。
あれは雪だった。
前世では、冬になれば珍しいものでもなかった。けれど、この世界では、長い間降っていない。
見たことのない人たちにとっては、不思議なものだったのだろう。
「まだ、何なのかはわかってないらしい」
グレンが言った。
「そうなんですね」
エルナはそれだけ答えた。
グレンもフィンも、それ以上尋ねてこなかった。
「とりあえず、今わかってるのはそんなところだ」
グレンが言った。
「また何かあれば、ルークにも知らせる」
「ああ。助かる」
ルークが答える。
グレンは頷いてから、エルナへ向き直った。
「体調が戻るまでは、無理するなよ」
「はい。ありがとうございます」
フィンも片手を上げた。
「じゃあ、またな。元気になったら、また一緒に仕事しようぜ」
「はい。またお願いします」
「おう」
フィンが笑った。
グレンが扉へ向かう。出る前に、ルークへ声をかけた。
「お前も、ちゃんと休めよ」
「休んだって」
「ならいい」
短いやり取りだった。
フィンもその後ろから廊下へ出ていく。
ルークが二人を見送り、扉を閉めた。
部屋に、また静けさが戻った。
「……二人とも、忙しそうですね」
エルナが言う。
「ああ。グレンもフィンも、まだ仕事あるんだろうな」
「そうですね」
ルークは寝台のそばへ戻った。
「少し横になる?」
「もう少し、座っていたいです」
「わかった」
ルークはそれ以上勧めなかった。
エルナは壁へ背中を預け直す。
短い時間だったが、グレンとフィンから街の様子を聞くことができた。
あの火事で、亡くなった人はいなかった。けれど、怪我をした人も、家を失った人もいる。
焼けた畑も、死んだ家畜も、元には戻らない。
復旧にはまだ時間がかかるだろう。
そして、白い髪の魔女の噂も、すでに街へ広がっている。
エルナは自分の銀白の髪に触れた。指の間を、細い髪が滑り落ちる。
グレンもフィンも、この髪を見た。
けれど、今日もいつも通りだった。
体調を気遣い、街の様子を伝え、また仕事をしようと言って帰っていった。
エルナは髪から手を離した。
窓の外では、また荷車が通る音がした。
続いて、人を呼ぶ声。重いものを下ろすような音。
少し離れたところから、木を打つ音が聞こえてきた。
エルナは窓へ目を向けた。
ここからでは、火事のあった場所は見えない。けれど、街では今日も人々が動いている。
木を打つ音が、もう一度した。
しばらく間をおいて、また続いた。




