第80話 雪
魔獣は動かない。
それでも、周囲は少しも静かにならなかった。
「そっちの柵、倒せ!」
「水、まだ来ないのか!」
「家の中に戻るな! 荷物はいい!」
声が飛び交う。
グレンが剣を収めるより先に、燃えている方角を見た。
「フィン、火の回り方を見ろ。バルドはそのまま道を空けろ」
誰も、倒れた魔獣のそばに残らなかった。
フィンは少し離れた場所へ走る。バルドは燃えている柵へ斧を振り下ろした。ニーナは負傷者のそばから動かない。
グレンも、フィンも、さっき見たものについて何も言わなかった。
銀白の髪にも。
エルナが魔獣へ手を向けたことにも。
今は、それどころではないのだ。
エルナも燃えている家の方へ走った。
近くでは、何人もの人が井戸と火元の間を往復している。
運ばれてくる水は少ない。
火へかければ、その場所の炎は一度弱まる。けれど、次の水が届くまでに、別の場所へ火が移っていく。
山の町で見た火事と似ていた。
けれど、規模が違う。
燃えている場所は一つではない。
風が吹くたび、火の粉がさらに先へ飛んでいく。
水を運ぶ速さより、火が広がる方が早かった。
「屋根! 屋根に回った!」
声が上がった。
エルナが振り返る。
先ほどまで軒先だけだった家の火が、もう屋根へ上がっている。人が梯子をかけていた。
「上るな!」
衛兵が怒鳴る。
「でも、このままじゃ――」
「屋根が落ちる! 下がれ!」
木が焼ける音がした。
ぱき、と乾いた音。
その直後、屋根の端が崩れた。
「下がって!」
人々が散る。
落ちた木材から、火の粉が大量に舞い上がった。
風が吹く。
赤い粒が空へ巻き上がり、そのまま横へ流されていく。
「向こう!」
遠くからフィンの声がした。
「小屋に飛んだ!」
見る。
畑脇に建つ作業小屋の屋根で、小さな炎が上がっていた。その隣にも、もう一つ。
「水!」
「ない!」
「土でもいい! 持ってこい!」
人が走る。
バルドが斧で燃えた柵を叩き倒し、火の続く道を切っている。
「これ運べ!」
焼けた木材を蹴り離しながら叫んだ。近くの男たちが駆け寄る。
エルナも、足元の土を掬って燻っている草へかけた。
一度。
二度。
煙が薄くなる。
その時、後ろで誰かが声を上げた。
「熱っ!」
振り向く。
火の粉が服へついたらしい。男が慌てて袖を払っている。
隣にいた人が上着を叩いて火を消した。
「ニーナのところへ行け!」
「これくらい――」
「いいから行け!」
男は腕を押さえながら走っていった。
エルナは顔を上げる。
火はまだ増えている。
一つを消している間に、別の場所へ移る。
水が届くより早く。
人が走るより早く。
風が運んでいく。
最初に燃えた家は、もう屋根の半分近くが炎に包まれていた。
二つの作業小屋にも火が回っている。
その向こう。
もう一度、風が吹いた。
火の粉が流れる。
一つ。
二つ。
さらに先へ。
「次の家!」
誰かが叫ぶ。
屋根の端に、赤い点がついた。
小さい。
今ならまだ消せる。
けれど。
「水は!?」
「まだだ!」
エルナは、その声を聞いた。
走っている人たちを見る。
息を切らしている。
服も顔も、煤で汚れていた。
それでも止まらない。
衛兵も。
冒険者も。
街の人も。
みんなが動いている。
それでも、足りない。
エルナは立ち止まった。
冷静に見る。
水が少ない。
空気は乾いている。
風がある。
草も木も、よく乾いている。
燃えている場所が増えれば増えるほど、人も水も分散する。
火はもう、畑だけではない。柵でもない。
人が暮らしている場所へ入っている。
エルナの中に、言葉が浮かんだ。
このままでは。
ラーデンが燃える。
胸の奥が、ひどく冷えた気がした。
エルナは街の方を見る。
建物が続いている。
あの先には、木の実のパンを買った店がある。
昨日、ルークと手を繋いで歩いた道がある。
待っていれば、ルークが帰ってくる場所がある。
最初に来た時は、ただルークの住んでいる街だった。
けれど今は違う。
名前を知る人がいる。
顔を知っている人がいる。
自分を知っている人もいる。
エルナは燃えている家を見る。
嫌だ。
そう思った。
ここがなくなるのは。
嫌だ。
ここを守りたいのは、ルークがいるからだけではない。
自分も、この街を好きになっていた。
いつからなのかは、わからない。
でも。
守りたい。
エルナは胸元へ視線を落とした。
服の下。
左胸。
命紋がある。
魔法を使えば、進む。
どれほど進むのかは、今もわからない。
ほんの少しかもしれない。
思っているより、多いかもしれない。
今回使おうとしている魔法は、今までよりずっと大きい。
それでも。
エルナは顔を上げた。
燃えている街を見る。
使わなくてもいい。
ここから離れることもできる。
誰かに責められることでもない。
それでも。
エルナは決めた。
使う。
「エルナ」
すぐ近くから声がした。
振り返る。
ルークがいた。
剣はもう鞘へ戻している。額に汗が滲み、頬には煤がついていた。
ルークはエルナを見た。
それから、燃えている家を見る。
もう一度、エルナを見る。
「……やるのか」
「はい」
すぐに答えた。
ルークの眉がわずかに寄る。
「前みたいに、疲れる?」
エルナは少しだけ考える。
「……たぶん」
それから付け足した。
「前より」
ルークは黙った。
燃える音。
人の声。
風。
その中で、ほんの一瞬だけ。
「……わかった」
ルークが言った。
それだけだった。
やめろとは言わない。
代わりに、すぐ周囲を見る。
「グレン!」
呼ばれたグレンがこちらを向いた。
「ここ、少し空ける!」
一瞬だけ二人を見る。
それから、何も聞かなかった。
「わかった!」
声を張る。
「この辺りから下がれ! 消火は左右へ回れ!」
「なんで――」
「いいから動け!」
人が動き始める。
フィンも遠くから状況を見ていたらしい。
「右側、まだ人いる!」
「下げろ!」
「わかった!」
少し離れた街側では、ニーナが負傷者を連れてさらに奥へ移動している。
反対側では、バルドが燃える柵の向こうで延焼を切るために斧を振るい続けていた。
ルークがエルナへ向き直る。
「どこがいい?」
エルナは周囲を見る。
少し先。
畑と街の境に、広く開けた場所がある。
「あそこ」
「行こう」
二人で向かった。
立ち止まる。
ここなら見える。
低い森。
乾いた草。
燃えている柵。
作業小屋。
屋根まで火が回った家。
火の粉が飛んだ、その次の家。
全部。
エルナは息を吸った。
必要なところだけ。
広ければいいわけではない。
街全部を冷やす必要はない。
燃えている場所。
熱を持っている木。
火が走っている草。
これから燃え移ろうとしている場所。
その周囲の空気。
そこだけ。
人は違う。
動いている人間の身体。
家畜。
そこにある、生きるための熱。
それには触れない。
エルナは目を閉じた。
熱。
感じる。
目で見えている炎だけではない。
赤くなった木材。
地面。
乾いた草の間。
風に乗って運ばれていく熱。
空気の中に広がっているもの。
それを一つずつ掴む。
でも、一つずつでは間に合わない。
範囲を広げる。
燃えている場所を繋ぐ。
その外側。
火が次へ進もうとしているところまで。
エルナは手を上げた。
奪う。
最初に変わったのは、風だった。
熱い。
さっきまでそう感じていた空気が、少しだけ軽くなる。
次に、炎が揺れた。
燃えている家の屋根。
高く上がっていた火が、一瞬、押さえつけられたように低くなる。
「……なんだ?」
誰かの声。
エルナは意識を離さない。
もっと。
熱を奪う。
作業小屋の炎が小さくなる。
燃えていた柵の一部が、炎ではなく赤い燻りだけになる。
草地を走っていた火が止まった。
それでも、まだ足りない。
風の中に熱がある。
木材の中にも。
地面にも。
エルナはさらに範囲を広げた。
身体の内側から、何かが流れ出ていく。
わかる。
魔力。
減っている。
さっき魔獣へ使った時より、ずっと速く。
腕が重くなる。
指先が少し震えた。
それでも止めない。
「……冷たい」
誰かが呟いた。
別の声がする。
「何だ、急に」
空気が変わっていく。
汗で濡れた肌に、冷たさが触れる。
人々が腕を擦る。
吐いた息が、一瞬だけ白く見えた。
エルナはそれにも意識を向ける。
人の身体は冷やさない。
空気。
火。
燃えたもの。
そこへだけ。
細く。
広く。
選ぶ。
魔獣の時とは違う。
今度は、生きているもの一つを避けるのではない。
何十人もいる。
家畜もいる。
動き続ける人々の間を縫うように。
熱だけを拾う。
広い。
重い。
頭の奥が痛くなる。
それでも。
もう少し。
頬に、何かが触れた。
エルナは目を開けた。
白いものだった。
一つ。
風に揺れながら落ちていく。
「……灰?」
近くで誰かが呟いた。
けれど、白いものは火のある方からだけ来ているのではない。
空から。
落ちてくる。
一つ。
二つ。
数が増える。
「……何だ、これ」
近くにいた男が手を出した。
白い粒が手の甲へ落ちる。
「冷たっ」
反射的に手を引く。
もう一人が覗き込む。
「消えた……?」
白い粒は、水になっていた。
エルナは手を開いた。
そこへ一つ落ちる。
冷たい。
掌の上で、ゆっくり形を失う。
知っている。
この感触を。
この白さを。
エルナは空を見上げた。
雪だ。
その言葉だけが、すぐに出てきた。
同時に、遠い声が蘇る。
『雪、好きだよね』
『好き』
直人。
灰色の空。
掌へ落ちて、すぐに溶けた雪。
ほんの一瞬。
それだけ。
エルナは再び火を見る。
今は。
まだ、終わっていない。
白いものは増えていった。
細かく。
次々に。
風に乗って舞いながら、地面へ落ちる。
黒く焼けた草の上。
倒れた柵。
屋根。
倒れた魔獣の黒褐色の毛。
人々の肩。
薄く。
白くなっていく。
炎の音が小さくなる。
さっきまで激しく鳴っていた、ぱちぱちという音が遠くなる。
その代わりに。
白いものが降っている。
音もなく。
静かに。
エルナの胸の奥に、昔と同じ感覚が触れた。
静かだ。
けれど、今は見ているだけではいられない。
魔力が減っていく。
身体が重い。
膝まで力が落ちてきている。
それでも、火を見る。
最初の家。
屋根の炎は、もう高く上がっていない。
作業小屋も、赤い燻りが残るだけの場所が増えた。
次の家へ移りかけていた火は消えている。
「今だ!」
グレンの声が響いた。
「残ってる火を消せ!」
人々が動いた。
止まっていた者も、我に返ったように走り出す。
水がかけられる。
土が投げられる。
バルドが焼けた木材を大きく引きずり出す。
「こいつまだ赤いぞ!」
「水こっち!」
フィンが少し離れたところから叫ぶ。
「左奥、煙上がってる! そこも見ろ!」
「わかった!」
衛兵が人を振り分ける。
誰も、エルナだけを見ていない。
白いものに驚いていても。
冷たい空気に戸惑っていても。
今やるべきことをやっている。
エルナはそれを見た。
そうだ。
全部、自分がやる必要はない。
火が広がらないところまで。
ここまででいい。
エルナはもう一度、燃えている場所を見る。
炎は残っている。
けれど、進んでいない。
人の手で消せる。
もう、新しい屋根へ火の粉がついても、さっきのようにすぐ燃え上がらない。
空気が冷えている。
草も。
木も。
熱を失っている。
これなら。
大丈夫。
エルナは魔法を止めた。
熱を奪うのをやめる。
その瞬間だった。
身体の内側に張っていたものが、一気にほどけた。
「……あ」
膝から力が抜ける。
視界が傾いた。
地面が近づく。
けれど。
「エルナ!」
落ちなかった。
腕が背中へ回る。
身体を支えられる。
ルークだった。
「大丈夫か」
近い。
声が聞こえる。
エルナは答えようとした。
「……火」
「止まってる」
ルークがすぐに言った。
「もういい。あとは俺たちがやる」
その言葉に、少しだけ息を吐いた。
よかった。
そう思った。
身体の奥にあった魔力が、ほとんど残っていないように感じる。
身体がひどく重い。
ルークの腕が動いた。
背中を支えていた腕とは別に、膝の下へ手が入る。
「……ルーク?」
「歩けないだろ」
そのまま身体が持ち上がった。
驚くほど簡単に。
エルナは反射的にルークの服を掴んだ。
視界が少し高くなる。
抱えられている。
そう理解するまで、少し時間がかかった。
「エルナ」
ルークが顔を覗き込む。
「俺の声、聞こえる?」
「……聞こえてます」
ちゃんと声になったかは、わからない。
ルークの顔が近い。
ひどく心配そうだった。
その焦げ茶の髪へ、白いものが一つ落ちた。
溶けずに、ほんの少しだけ残る。
エルナはそれを見る。
雪だ。
この世界にも。
雪が降っている。
そう思ったところで。
視界が、暗くなった。
第5章、ここまでありがとうございました!
ルークの街だったラーデンは、いつの間にかエルナにとっても大切な街になりました。
そして最後には、この世界に久しぶりの雪が降りました。
物語はここから、少しずつ大きく動いていきます。
第6章もお楽しみに!




