第79話 黒い牙
翌朝、目を覚ましたエルナは、寝台の上でしばらく動かなかった。
昨夜、感じたものを思い出す。
意識を周囲へ向けた。
魔力は、そこにある。いつもなら、それだけだった。
けれど。
濃い。
昨夜と同じような、淀んだ感触がまだ残っている。
どこにあるのかはわからない。距離も、正体も。ただ、消えてはいなかった。
エルナは寝台から起き上がった。
今日は、昼過ぎにルークが迎えに来る。午前中は近場の仕事だと言っていた。
戻ってきたら、話してみよう。
そう決めて、身支度を始めた。
*
昼にはまだ少し早い頃だった。
エルナは宿の近くを歩いていた。特に用事があったわけではない。昼食をどうするか考えながら、見覚えのある通りを歩いていた時だった。
前を歩いていた男が、ふいに足を止めた。
「……煙?」
その声につられて、エルナも顔を上げる。
建物の向こう。街の外れに近い方角から、灰色の煙が上がっていた。
一筋ではない。
少し離れた場所からも、もう一つ。
周囲でも、気づいた人々が立ち止まり始める。
「火事か?」
「森の方じゃないか」
「畑じゃないの?」
まだ、誰も事情を知らない。
けれど、煙は消えなかった。むしろ、少しずつ太くなっている。
エルナはその方向を見る。
胸の奥に、昨夜からの違和感が引っかかった。
その時だった。
通りの向こうから、一人の男が走ってきた。
「ギルド! 誰かギルドへ知らせろ!」
息を切らしながら叫ぶ。
「火事ですか?」
近くにいた人が聞いた。
「それだけじゃない!」
男が振り返る。
「魔獣がいる! でかい猪みたいな――火が、火が出てるんだ!」
周囲がざわめいた。
「猪?」
「魔獣だって?」
「火が出るって何だよ」
男自身も、うまく説明できないらしい。
「とにかく近づくな! 畑の方まで来てる!」
エルナは煙を見る。
ルークも午前中は近場の仕事に出ている。もう戻っている頃かもしれない。
昨夜から感じている魔力の違和感もある。
エルナは踵を返した。
向かう先は、冒険者ギルドだった。
ギルドへ入った瞬間、いつもとは違う空気がわかった。
受付の前に人が集まっている。職員が次々に指示を出し、冒険者たちが装備を確かめていた。
その中に、見覚えのある姿を見つける。
「ルーク」
呼ぶと、ルークが振り返った。
「エルナ?」
その横にはグレンとフィンがいる。三人とも外仕事から戻ったばかりらしく、靴や裾に土がついていた。
さらに少し離れたところにはバルドと、見覚えのない女が一人いた。
腰には、いくつかの小瓶が提げられている。
「どうした?」
ルークが近づいてくる。
「少し、話したいことがあります」
エルナが声を落とすと、ルークもそれに気づいて少し顔を寄せた。
「昨夜から、魔力の感じ方がおかしいんです」
「魔力の感じ方?」
「魔女は、周囲にある魔力をある程度感じ取れます」
「そうなのか」
「はい。普段より濃くて、淀んでいるように感じます。今朝も消えていませんでした」
ルークの表情が変わった。
「今も?」
「はい」
それ以上を話す前に、受付の奥から声が飛んだ。
「東側の外縁! 低い森と畑の間! 魔獣一頭、火災複数!」
ギルド内の空気が一気に動く。
「あとで聞く」
ルークが言う。
「はい」
グレンもこちらへ来た。
「行くぞ」
バルドが大斧を担ぎ直す。
「やっと午後の仕事決めるとこだったのにな」
「言ってる場合?」
隣の女が呆れたように返した。
「ニーナ、行けるか?」
グレンが聞く。
「大丈夫。午前の納品は終わってる」
「バルドは?」
「俺も朝の荷運びは終わった」
もともと午後から別の仕事を受けるために、ここで合流していたらしい。
エルナはグレンを見る。
「私も行きます」
グレンは一瞬だけエルナを見た。
エルナも四級の冒険者だ。危険な現場へ出ること自体を止められる立場ではない。
「前には出るなよ」
「はい」
ルークも何も言わなかった。ただ、エルナを見る。
「無茶はするな」
「はい」
六人はギルドを出た。
*
外縁へ近づくにつれ、煙の匂いが強くなった。
最初に見えたのは、魔獣ではない。
火だった。
低い森の端。乾いた草地。畑を囲う木の柵。
離れた場所に、いくつも炎が上がっている。
一か所から燃え広がったというより、あちこちへ火を置いていったようだった。
「なんだ、これ」
フィンが呟く。
道の先では、人々が桶を持って走っていた。
「こっちへ水!」
「家畜を先に出せ!」
「子どもは街へ戻せ!」
衛兵の声が飛ぶ。
牛を引く者。荷物を抱えて逃げる者。火のついた柵を棒で倒そうとしている者。
その近くで、一人の男が地面に座り込んでいた。袖が焼け、腕から肩にかけて赤く腫れている。
ニーナがすぐにそちらへ向かった。
「見せて」
「大丈夫だ、俺は――」
「大丈夫な人はそんな顔しない」
言い切って、持っていた鞄を開く。
少し先では、別の男が横たわっていた。
意識はある。だが胸を押さえ、息をするたびに顔を歪めている。
「何があった?」
グレンが近くの衛兵へ聞く。
「突っ込んできたのを避けた。直撃はしてない」
衛兵が男を見る。
「でも横から弾かれて、そのまま柵に叩きつけられた」
それで立てなくなったらしい。
エルナはその先を見る。
荷車が一台、道を塞ぐように横倒しになっていた。片方の車輪が砕け、荷が地面へ散らばっている。
逃げる人間も、消火へ向かう人間も、そのたびに大きく迂回していた。
「これ、邪魔だな」
バルドが言った。
大斧へ手をかけたまま、魔獣がいるらしい方角を見る。
一瞬だけ。
それから、斧から手を離した。
「先にこっちだ」
荷車へ向かう。
「バルド」
グレンが呼ぶ。
「わかってる。道開けたら次やる」
「頼む」
「おう」
バルドは近くの衛兵へ声をかけ、そのまま倒れた荷車へ取りついた。
本当なら、魔獣の方へ行きたいのかもしれない。
けれど今、一番早く荷車を退けられるのもバルドだった。
魔獣の方から、低い音がした。
唸り声。
続いて、重いものが地面を叩く音。
「来る!」
誰かが叫んだ。
森の縁から、それは飛び出してきた。
エルナは一瞬、猪だと思った。
形は、そうだった。
低く、分厚い胴体。短い首。粗い黒褐色の毛。
けれど、大きさが違う。
人の腰を優に越える背。
重そうな身体が、地面を蹴るたびに土が跳ねる。
そして。
燃えている。
全身が炎に包まれているわけではない。
肩。背。首の付け根。
毛の間から、抑えきれないものが噴き出すように炎が上がっていた。
「……なんだ、あれ」
フィンの声が低くなる。
さらに目についたのは、口元だった。
牙。
本来なら白いはずのそれが、真っ黒に変色している。
焼け焦げたような黒ではない。
表面は滑らかで、光を受けると鈍く反射した。
金属のように見えた。
「正面立つな!」
グレンが叫ぶ。
魔獣が地面を蹴った。
速い。
あの重さからは想像できない速度だった。
進行方向にあった空の荷車へ、そのまま突っ込む。
轟音がした。
荷車が横へ跳ねた。
木板が割れ、残っていた車輪が外れて転がっていく。
黒い牙が荷台の板を深く抉っていた。
エルナは息を呑む。
あれを人がまともに受ければ。
考える必要もなかった。
「散れ!」
グレンの声で、二人が動いた。
フィンが横へ走る。ルークも正面を外す。
グレンは盾を構えたまま、ぎりぎりまでその場に残る。
魔獣は一直線にグレンへ向かった。
距離が詰まる。
さらに。
あと数歩。
そこでグレンが大きく横へ飛んだ。
魔獣はすぐには方向を変えられない。
その脇へルークが入る。
剣が振られた。
肩口へ刃が入る。
けれど、浅い。
厚い皮と、その下の肉に阻まれている。
「硬いな」
ルークがすぐに離れる。
フィンの矢が飛ぶ。
胴へ当たった一本は刺さったが、深くは入らない。
「普通の魔獣より硬い!」
「顔狙え!」
グレンが返す。
魔獣が方向を変えた。
真っ直ぐ走る時ほど速くはない。大きく身体を振って、こちらへ向き直る。
エルナは少し離れた場所から動きを見ていた。
腰にはナイフがある。
採取にも護身にも使うものだ。
けれど、あの巨体と黒い牙を相手に斬り結ぶための武器ではない。
あの中へ入っても、できることはない。
近くで衛兵が一人、逃げ遅れた男を支えている。
エルナもそちらへ走った。
「肩を貸します」
「助かる!」
三人で男を安全な場所まで移す。
「ここでお願いします」
衛兵に任せ、エルナは戦場へ視線を戻した。
背後で、また轟音。
魔獣がグレンたちを追っている。
走るたび、草へ火が落ちる。
乾いた場所は、すぐに燃えた。
「また火が!」
誰かが叫ぶ。
水を運ぶ人々の数は多い。
それでも、火の増える速度に追いついていない。
エルナは魔獣を見る。
近づくだけでも熱い。
ルークが斬り込もうとして、噴き上がった炎に阻まれ一歩退く。
その時、風が抜けた。
燃えていた草から、灰と赤い火の粉が一斉に巻き上がる。
魔獣の肩や背で弾けた火の粉も混じり、風に押されて横へ流れていった。
「うわっ」
近くにいた衛兵が腕で顔を庇う。
別の男も顔を背けた。
乾いた草の上へ落ちた赤い粒の一つが、小さな炎を作る。
「またついた!」
誰かがすぐに土を蹴りかけた。
エルナも目を細め、顔を背ける。
細かな火の粉が、周囲をいくつも通り過ぎていく。
その一つが、フードの縁を越えて内側へ入った。
「エルナ、頭!」
ルークの声が飛ぶ。
焦げた匂いがした。
エルナは頭へ手をやる。
髪を包んでいる布の端に、小さな火がついていた。
エルナは反射的にフードを背へ払い、そのまま髪布を掴んだ。
外す。
燃え始めた布を地面へ投げる。
銀白の髪が、一気に肩から背へ落ちた。
近くにいたグレンの視線が、一瞬こちらへ向く。
少し離れた場所で弓を構えていたフィンも、動きを止めかけた。
けれど。
「来るぞ!」
ルークの声。
二人ともすぐに魔獣へ視線を戻した。
エルナも同じだった。
今は、それどころではない。
魔獣はまだ走っている。
エルナは意識を向けた。
魔力。
濃い。
昨夜から感じていた淀みに、よく似ている。
けれど、それがこの魔獣そのものなのかはわからない。
周囲にもある。
この獣の中にもある。
何かが溜まりすぎているような、不自然な濃さ。
その魔力と重なるように、異様な熱がある。
肩から炎が上がる。背からも。
皮膚の下まで、異様な熱を抱えている。
これを。
冷やせる。
そう思った。
同時に、指先が止まる。
生き物。
今までとは違う。
水でもない。
石でもない。
火でもない。
生きている身体から熱を奪う。
やりすぎれば。
殺せる。
エルナは一度、息を吸った。
全部ではない。
命を保っている熱まで奪う必要はない。
あの、外へ溢れているもの。
異常に積み上がった熱だけ。
そこへ意識を絞る。
魔獣がルークへ向きを変えた。
「ルーク!」
エルナは手を伸ばした。
熱を。
奪う。
空気が変わった。
炎が揺れる。
肩から上がっていた火が、一気に低くなった。
背の炎も縮む。
魔獣が大きく声を上げた。
身体が一度、震える。
足が乱れた。
突進の速度が落ちる。
ルークが振り返る。
エルナを見る。
何をしたのか、すぐにわかった顔だった。
グレンも見る。
フィンも。
銀白の髪。
そして、エルナが手を向けた直後に変わった魔獣。
二人の目に、何かが浮かんだ。
けれど、誰も何も言わない。
「今だ!」
グレンが叫んだ。
フィンの矢が飛ぶ。
今度は胴ではない。
顔。
矢が片目の近くへ突き刺さる。
魔獣が激しく頭を振った。
身体が傾く。
ルークが走る。
炎が弱まったことで、今まで入れなかった距離まで近づける。
剣が前脚の内側へ入った。
魔獣の足が崩れる。
巨体が大きく傾いた。
グレンが横へ回る。
倒れかけた身体の動きを見て、首の下へ入った。
長剣が振り下ろされる。
一度。
深く。
魔獣が暴れた。
黒い牙が地面を抉る。
ルークがもう一度斬る。
今度は喉の近く。
それでも、すぐには止まらない。
フィンが次の矢をつがえたまま動きを見る。
グレンが距離を取る。
魔獣の脚が地面を掻いた。
一度。
二度。
それから。
大きな身体から、力が抜けた。
地面へ落ちる。
土が震えた。
しばらく、誰も動かなかった。
グレンはすぐには剣を下ろさない。
ルークも距離を保ったまま見ている。
フィンも弓を構えたままだった。
魔獣の脚が一度だけ痙攣する。
それから、止まった。
肩に残っていた炎も、少しずつ小さくなっていく。
ようやく、グレンが息を吐いた。
ルークも剣先を下げる。
フィンが弓を緩めた。
エルナは伸ばしていた手を下ろした。
終わった。
そう思いかけた。
ぱち、と音がした。
小さく。
けれど、はっきり聞こえた。
エルナは顔を上げる。
低い森の縁が燃えている。
乾いた草地。
畑の端。
木の柵。
さっきまでは火のなかった場所にも、炎が上がっていた。
さらに向こう。
物置らしい小さな建物の屋根が燃えている。
その先では、街の外縁に建つ家の軒先にも火が移り始めていた。
「屋根に水を!」
誰かが叫ぶ。
人が桶を抱えて走る。
屋根へ水がかけられる。
けれど、風がまた吹いた。
赤い火の粉が高く舞い、さらに先へ運ばれていく。
水を運ぶ人々は、まだ走っている。
道を開けたバルドは、今度は燃えている柵を壊していた。
ニーナは負傷者のそばにいる。
衛兵も。
住民も。
魔獣を倒したからといって、誰も止まっていなかった。
戦っている間にも、火は広がっていた。
畑の向こう。
人が暮らす場所へ。
エルナは燃える景色を見る。
魔獣は倒れた。
けれど。
火は、消えていなかった。




