第78話 明日も
宿へ向かう間も、二人の手は繋がったままだった。
行きよりも人通りが増えている。市場から戻る者。仕事を終えた者。夕食の買い物らしい籠を抱えた者。
その中を、エルナはルークと並んで歩いた。
何度も歩いた道だった。
けれど、手の中にある温度だけが、昨日までとは違う。
「明日はどうする?」
ルークが聞いた。
「特には決めていません」
「じゃあ、朝迎えに行ってもいい?」
「はい」
エルナは答えた。
それだけで、明日の予定が決まる。
少し前までなら、次にいつ会うのかは決まっていなかった。
会いたいと思ったから、山を下りてきた。
今は、明日も会うことになっている。
それを不思議に思うより先に、嬉しいと思った。
宿の前まで来ると、ルークが足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
手を離す。
指先が離れるまでに、ほんの少し時間がかかった。
ルークもすぐには背を向けなかった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
今度こそ別れる。
エルナは宿へ入り、階段を上がった。
部屋へ戻ると、扉を閉める。
静かになった。
荷物を置き、髪を包んでいた布を外す。腕輪も外して、机の上へ置いた。
銀白の髪が肩から落ちる。
水を飲み、椅子へ腰を下ろしたところで、自分の掌が目に入った。
もう、何も触れていない。
それなのに、まだルークの手の感触が残っているような気がした。
温かかった。
少し硬くて、自分の手より大きかった。
握り返された時の力まで思い出せる。
そこから、キスのことも思い出した。
唇が触れたのは、ほんの短い間だった。
けれど、思い出すには十分だった。
エルナはしばらく何もせずに座っていた。
恋人になった。
そう考えると、言葉だけが少し遅れて現実になったような気がした。
直人のことも話した。
すべてではない。
けれど、隠したまま始めることはしなかった。
ルークは聞いて、それでも自分といたいと言った。
話してよかったと思う。
それ以上、今夜考えることはなかった。
エルナは灯りを落とし、寝台へ入った。
目を閉じる。
明日も会える。
そのことを思った。
次に会う日は、もう決まっている。
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
*
翌朝。
身支度を整え、髪を包み、腕輪をつける。
宿を出ると、ルークはすでに外で待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
昨日までと変わらない挨拶だった。
二人で歩き出す。
しばらくは普通に並んでいた。
エルナは一度、ルークの手を見る。
昨日は、触れるまでにもう少し時間がかかった。
今日も、少しだけ緊張する。
それでも、触れたいと思う方が強かった。
手を伸ばす。
ルークの指に触れ、そのまま手を取った。
昨日知った温度が、すぐに掌へ戻ってくる。
ルークが少し驚いたようにエルナを見る。
「……何ですか」
「いや」
口元が少し緩んでいる。
「何でもない」
そう言いながら、ルークは手を握り返した。
エルナもそのまま歩く。
昨日より、少しだけ迷わずに触れられた。
「今日は仕事、入れないんですか」
「急ぎのはないし。エルナもないだろ?」
「はい」
「じゃあいいかなって」
エルナがラーデンへ来た理由も、もともとは仕事ではなかった。
会いたかったから来た。
それなら、今日くらい一緒に過ごしてもいい。
「どこか行きたいところある?」
聞かれて、少し考える。
「パン屋へ行きたいです」
「ハンスんとこ?」
「はい」
「じゃあ行くか」
ラーデンで、自分から行きたい場所を言う。
それも、以前より自然になっていた。
*
パン屋の前まで来ると、エルナは一度ルークの手を離した。
扉を開けると、焼いたパンの匂いが広がった。
「いらっしゃ――あ、ルーク」
奥から出てきたリリアが言う。
「エルナも。おはよう」
「おはようございます」
「おはよ」
店の奥では、ハンスが焼き上がったパンを並べていた。
「おう、二人とも。いらっしゃい」
ハンスが顔を上げる。
エルナは軽く会釈した。
双子の姿も見える。一人は椅子に座り、もう一人はその横で何かをいじっていた。
エルナは棚に並んだパンを見る。
以前にも買った、木の実入りのものがあった。
「これにします」
リリアがそのパンを見て、少し笑う。
「それ、気に入ったのね」
「はい」
エルナはパンへ目を向けたまま、少し首を傾げた。
「前より、小さくなりました?」
「わかる?」
リリアが苦笑する。
「この前より、もう少しだけね。西から入る粉が、また予定より少なくて」
「また?」
ルークが聞く。
ハンスが頷いた。
「向こう、水が少ないらしい。すぐ困るほどじゃないみたいだけど、こっちに回ってくる量は減ってる」
エルナは棚のパンを見る。
前に来た時も、粉の値段が上がり、仕入れが減っているという話を聞いた。
あれから、それほど日は経っていない。
それでも、また少し進んでいる。
水。
採れる薬草。
山から下りてくる獣。
別の村の採取量。
そして、小麦粉。
少しずつ違う場所に出ていたものが、同じ方を向いているような気がした。
ルークと目が合う。
「またですね」
「うん」
今日は、それ以上話を広げなかった。
「二つください」
エルナが言う。
「二つ?」
ルークが聞いた。
「一つはあなたの分です」
「俺?」
「食べますよね」
「食べるけど」
少し嬉しそうに言う。
代金を払い、店を出ようとしたところで、エルナは自然にルークの手を取った。
その瞬間、背後が少し静かになった。
エルナは振り返る。
リリアがこちらを見ていた。
その隣で、ハンスも見ている。
二人とも、妙に嬉しそうだった。
視線が一度、繋いだ手へ落ちる。
意味はわかった。
エルナも、自分たちの手を見る。
離した方がいいだろうか。
そう考えたのは、ほんの一瞬だった。
けれど、離す理由が思いつかなかった。
ルークと恋人になった。
それは、隠さなければならないことではない。
エルナはそのまま、ルークの手を握っていた。
ルークも二人の視線に気づいた。
「……何、その顔」
「別に?」
ハンスが言う。
「何でもないわよ」
リリアも笑っている。
「絶対なんか思ってるだろ」
「さあ?」
「二人ともわかりやすいんだよ」
そう言いながら、ルークも少し笑っていた。
手は離さない。
エルナも離さなかった。
「また来ます」
「ええ。またね」
店を出る。
扉が閉まってから、ルークが小さく息を吐いた。
「たぶん、あとで何か言われる」
「そうなんですか」
「うん。しばらくは」
そう言いながらも、ルークは少し笑っていた。
エルナは繋いだ手を見る。
ルークも離す様子はない。
それなら、問題はないのだろう。
エルナもそのまま歩いた。
*
昼を過ぎても、二人は街を歩いた。
何か特別な場所へ行ったわけではない。
市場を見て、パンを食べ、気になる店があれば少し立ち止まる。
以前にもしたことのあることばかりだった。
途中、通りから少し離れた場所で腰を下ろす。
エルナが座ると、ルークも隣へ座った。
以前より近い。
腕が少し触れる。
エルナは離れなかった。
ルークも離れない。
そのまま、二人でパンを食べた。
少し前まで、触れる時には理由があった。
怪我を見る。
支える。
熱を確かめる。
昨日、初めて、ただ触れたいと思って手を取った。
今も、触れていることに緊張がないわけではない。
腕が触れていることを意識すれば、少しだけ落ち着かなくなる。
けれど、離れたいとは思わなかった。
むしろ、触れていたいと思う。
その気持ちの方が、少しずつ迷いより大きくなっている。
昨日までは、触れたいと思っても、実際に手を伸ばすまでに時間がかかった。
今日は、自分から手を取った。
今も、腕が触れたまま座っている。
慣れたわけではない。
ただ、触れたいと思うことに、少しだけ迷わなくなった。
エルナは隣でパンを食べるルークを見る。
ルークも気づいてこちらを見る。
「何?」
「いえ」
エルナは前を向いた。
「何でもありません」
「そっか」
それ以上は聞かれなかった。
*
夕方。
また宿の近くまで戻る。
今日も一日、一緒にいた。
「明日は午前、仕事入ってる」
ルークが言った。
「そうなんですね」
「近場だから、昼過ぎには戻れると思う」
「では、その頃に」
「迎えに来る」
「はい」
自然に決まった。
改めて、いつ会えるのかを確かめる必要もない。
明日も会う。
その次がいつになるのかまで、今から考えなくてもいい。
今日別れても、明日また会える。
そういう予定が、少しずつ二人の間に増えていく。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
今度はエルナから手を離した。
明日、また会える。
そう知っている。
*
その夜。
宿の部屋で、エルナは髪を包んでいた布を外した。
腕輪も外し、机の上へ置く。
寝る支度をしている途中で、ふと動きを止めた。
意識して探っていたわけではない。
それでも、何かが引っかかった。
周囲の魔力。
濃い。
どこにあるのかはわからない。
けれど、何かが一か所に淀んでいるような感触がした。
エルナはしばらく意識を向ける。
普段と違う。
流れているというより、留まっている。
それも、静かにそこにあるというより、押し込められているような。
一瞬だけ、熱いものへ指先を近づけた時のような、不快な感覚があった。
「……何でしょう」
呟く。
それ以上はわからない。
正確な場所も、距離も、正体も。
ただ、普段とは違うということだけが残った。
外は静かだった。
悲鳴も、鐘の音もない。
しばらく待っても、何も起こらなかった。
エルナは覚えておくことにした。
明日、もう一度感じるようなら確かめればいい。
必要なら、ルークにも話す。
灯りを落とす。
明日も、ルークに会う。
その予定は、もう決まっていた。




