第77話 それでも
「話しておきたいことがあります」
エルナがそう言うと、ルークの表情が少し変わった。さっきまで残っていた笑みが消える。
「……ここで話す?」
エルナは周囲を見た。市場からは離れているとはいえ、通りを歩く人はいる。少し先では、店の前に積まれた箱を運んでいる男たちがいた。
「もう少し、人の少ないところがいいです」
「わかった」
ルークは何の話かとは聞かなかった。
そのまま二人で歩き出す。市場とは反対へ進むにつれて、建物の間隔が少しずつ広くなった。行き交う人も減っていく。
エルナはルークの隣を歩いた。
さっきまでと同じ距離。触れない距離。
それでも今は、さっきまでとは少し違う。
自分がルークを好きだと伝えた。ルークも、それを嬉しいと言った。その先へ進む前に、話しておきたかった。
街の外れ寄りまで来ると、道沿いに低い石垣があった。その向こうには草の生えた空き地があり、人の姿はほとんどない。
「ここでいい?」
「はい」
二人で石垣へ腰を下ろした。
すぐには話し始めなかった。遠くで荷車の音がする。風が吹き、道端の草が揺れた。
エルナは膝の上に置いた手を見る。
どう言えばいいのか。考えていたのは、それだけだった。
隠すつもりはない。けれど、すべてを話すこともできない。
水瀬澪だったこと。別の世界で生きていたこと。そこで直人と出会い、恋をしたこと。同じ事故に遭い、それきり会えなくなったこと。
今ここで、それを話すつもりはなかった。
それでも、ルークが知らないままでいいことではない。
エルナは顔を上げた。
「私には、今も大切な人がいます」
ルークは何も言わなかった。ただ、こちらを見ている。
「その人とは、恋人でした」
ルークの目がわずかに動く。
「もう会えません」
少しだけ間があった。
「……そうか」
短い声だった。
詳しい事情を聞かれるかと思った。けれど、ルークは何も聞かなかった。
エルナは自分から続ける。
「忘れたわけではありません」
言葉にすると、胸の奥に直人の姿が浮かんだ。
笑った顔。名前を呼ぶ声。
もう十八年も前のことなのに、なくなってはいない。
「忘れるつもりもありません」
そこまで言って、エルナは口を閉じた。
ルークは前を向いた。何もない空き地を見るように、しばらく黙っている。
エルナも急かさなかった。すぐに答えられる話ではないと思う。
しばらくして、ルークが息を吐いた。
「その人には、本当にもう会えないんだよな」
「はい」
「……そっか」
もう一度、同じ言葉を言う。さっき街で言った時とは、声が違っていた。
ルークは膝の上で組んでいた手をほどき、少ししてからこちらを見る。
「一個、聞いてもいい?」
「はい」
「その人のこと、今も好き?」
エルナはすぐには答えられなかった。
予想していなかった質問ではない。それでも、答えようとすると言葉が止まった。
好きなのか。
十八年前と同じように。
直人に会いたくて、次に会う日を楽しみにしていた頃と同じように。
そう聞かれれば、違う気がした。
けれど。
「……わかりません」
ルークは黙っている。
エルナは自分の中にあるものを確かめるように、ゆっくり続けた。
「好きだった、で終わらせるのも違う気がします」
直人との時間は、終わったから大切なのではない。忘れられないから大切なのでもない。
自分の中に、今もある。
「今も、大切です」
それが一番近かった。
ルークは少し俯いた。
その顔を見て、エルナは胸の奥がわずかに痛むのを感じた。
傷つかない話ではなかったのだと思う。
それでも、言わない方がよかったとは思わなかった。
「ルークには、知っていてほしかったんです」
ルークが顔を上げる。
「知らないまま決めてもらうのは、違うと思ったので」
「……俺に?」
「はい」
エルナは頷いた。
「私がルークを好きだということだけを知って、それで決めてほしくなかったんです」
ルークはしばらくエルナを見た。
やがて視線を落とす。
「難しいな」
ぽつりと言った。
「何がですか」
「その人のこと」
ルークは前を見る。
「もう会えない人に、俺がどうこう言えることじゃないし」
「……はい」
「忘れてって言うのも違うし」
そこで、ルークは黙った。
風が二人の間を抜ける。
しばらくして、もう一度エルナを見る。
「……だから、一個だけ聞いていい?」
「はい」
「エルナは、それでも俺といたい?」
エルナは迷わなかった。
「はい」
答えは、もう出ている。
「ルークといたいです」
直人を忘れたからではない。
直人が大切ではなくなったからでもない。
それでも。
今、隣にいたいと思うのはルークだった。
ルークはしばらくエルナを見ていた。それから、少しだけ肩の力を抜いた。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、俺もエルナといたい」
短い言葉だった。
それだけでよかった。
エルナは息を吐いた。胸の奥にあったものが、少しずつほどけていく。
言った。
ルークは聞いた。
そのうえで、自分といたいと言った。
もう、それ以上言葉を重ねる必要はないように思えた。
沈黙が落ちる。
風が通り過ぎ、頬を撫でた。
その時、視界の端にルークの手が入った。
石垣の上。二人の間に置かれている。
さっき食事をしていた時にも見た手。
触れたいと思った。
けれど、その時は触れなかった。
エルナはその手を見る。
今は。
少しだけ身体をルークの方へ向け、手を伸ばした。
指先が、ルークの手に触れる。
ルークの指がほんのわずかに動いた。
けれど、それだけだった。
握ってこない。離れもしない。
待っている。
エルナは指先をそのままにした。
温かい。
見ていた時にはわからなかった熱が、触れた場所から伝わってくる。皮膚は少し乾いていて、指先を動かすと、そのざらつきがかすかにわかった。
エルナはもう少し指を動かす。
触れるだけだった指先を、ルークの指へ重ねた。
自分の手より大きい。
指も長い。
節のあたりには硬さがある。剣を握り、荷物を持ち、何度も使ってきた手なのだと、触れて初めてわかった。
少し力を入れると、ルークの手の向きがゆっくり変わった。
掌が合わさる。
今度は、もっと広い場所から温度が伝わってきた。
エルナは自分の手をその掌へ重ねる。
指の付け根には、硬くなったところがあった。
その上へ、自分の指を置く。
ルークの指がゆっくり閉じた。
握り返される。
強くはない。
逃げようと思えば、すぐに抜けるくらいの力だった。
けれど、自分の手の形に沿うように指が閉じていく感覚は、思っていたよりずっとはっきりしていた。
手の外側を、大きな掌が包む。
触れた場所から、温度が移ってくる。
エルナは繋いだ手を見た。
必要だから触れているわけではない。
怪我を支えるためでもない。傷を確かめるためでもない。
ただ、自分が触れたかった。
だから触れた。
それだけだった。
「エルナ」
呼ばれて、顔を上げる。
ルークがこちらを見ていた。
さっきより近い。
手はまだ繋がっている。
ルークが一度、エルナの顔を見る。
それから、少しだけ迷うような間を置いて言った。
「キスしていい?」
エルナは瞬きをした。
意味はわかっている。
エルナも、そうしたいと思った。
「はい」
そう答えると、ルークが少し近づいた。
急がなかった。
エルナも動かなかった。
繋いだ手だけが、少し強くなる。
ルークの顔が近づく。
息が触れる。
それから、唇が重なった。
短いキスだった。
柔らかく触れて、すぐに離れる。
ルークが少しだけ距離を戻す。
エルナはその顔を見た。
近い。
さっきまで何度も見ていた顔なのに、今は少し違って見える。
ルークも何も言わなかった。
エルナも言わない。
ただ、手は繋いだままだった。
しばらくして、ルークが小さく笑う。
「……戻る?」
「はい」
二人で立ち上がる。
その時、繋いでいた手が少し引かれた。
ルークの指がわずかに緩む。
離すなら、今だった。
エルナは離さなかった。
そのまま握っている。
ルークが手元を見る。それからエルナを見る。
何も言わず、もう一度握り直した。
二人で歩き出す。
宿へ向かう道。
何度も歩いたラーデンの道だった。
隣にいるのも、同じ人だった。
けれど、今日は手の中にルークの温度がある。
エルナは、その手を離さなかった。




