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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第5章 好きになった街
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第77話 それでも


「話しておきたいことがあります」


 エルナがそう言うと、ルークの表情が少し変わった。さっきまで残っていた笑みが消える。


「……ここで話す?」


 エルナは周囲を見た。市場からは離れているとはいえ、通りを歩く人はいる。少し先では、店の前に積まれた箱を運んでいる男たちがいた。


「もう少し、人の少ないところがいいです」


「わかった」


 ルークは何の話かとは聞かなかった。


 そのまま二人で歩き出す。市場とは反対へ進むにつれて、建物の間隔が少しずつ広くなった。行き交う人も減っていく。


 エルナはルークの隣を歩いた。


 さっきまでと同じ距離。触れない距離。


 それでも今は、さっきまでとは少し違う。


 自分がルークを好きだと伝えた。ルークも、それを嬉しいと言った。その先へ進む前に、話しておきたかった。


 街の外れ寄りまで来ると、道沿いに低い石垣があった。その向こうには草の生えた空き地があり、人の姿はほとんどない。


「ここでいい?」


「はい」


 二人で石垣へ腰を下ろした。


 すぐには話し始めなかった。遠くで荷車の音がする。風が吹き、道端の草が揺れた。


 エルナは膝の上に置いた手を見る。


 どう言えばいいのか。考えていたのは、それだけだった。


 隠すつもりはない。けれど、すべてを話すこともできない。


 水瀬澪だったこと。別の世界で生きていたこと。そこで直人と出会い、恋をしたこと。同じ事故に遭い、それきり会えなくなったこと。


 今ここで、それを話すつもりはなかった。


 それでも、ルークが知らないままでいいことではない。


 エルナは顔を上げた。


「私には、今も大切な人がいます」


 ルークは何も言わなかった。ただ、こちらを見ている。


「その人とは、恋人でした」


 ルークの目がわずかに動く。


「もう会えません」


 少しだけ間があった。


「……そうか」


 短い声だった。


 詳しい事情を聞かれるかと思った。けれど、ルークは何も聞かなかった。


 エルナは自分から続ける。


「忘れたわけではありません」


 言葉にすると、胸の奥に直人の姿が浮かんだ。


 笑った顔。名前を呼ぶ声。


 もう十八年も前のことなのに、なくなってはいない。


「忘れるつもりもありません」


 そこまで言って、エルナは口を閉じた。


 ルークは前を向いた。何もない空き地を見るように、しばらく黙っている。


 エルナも急かさなかった。すぐに答えられる話ではないと思う。


 しばらくして、ルークが息を吐いた。


「その人には、本当にもう会えないんだよな」


「はい」


「……そっか」


 もう一度、同じ言葉を言う。さっき街で言った時とは、声が違っていた。


 ルークは膝の上で組んでいた手をほどき、少ししてからこちらを見る。


「一個、聞いてもいい?」


「はい」


「その人のこと、今も好き?」


 エルナはすぐには答えられなかった。


 予想していなかった質問ではない。それでも、答えようとすると言葉が止まった。


 好きなのか。


 十八年前と同じように。


 直人に会いたくて、次に会う日を楽しみにしていた頃と同じように。


 そう聞かれれば、違う気がした。


 けれど。


「……わかりません」


 ルークは黙っている。


 エルナは自分の中にあるものを確かめるように、ゆっくり続けた。


「好きだった、で終わらせるのも違う気がします」


 直人との時間は、終わったから大切なのではない。忘れられないから大切なのでもない。


 自分の中に、今もある。


「今も、大切です」


 それが一番近かった。


 ルークは少し俯いた。


 その顔を見て、エルナは胸の奥がわずかに痛むのを感じた。


 傷つかない話ではなかったのだと思う。


 それでも、言わない方がよかったとは思わなかった。


「ルークには、知っていてほしかったんです」


 ルークが顔を上げる。


「知らないまま決めてもらうのは、違うと思ったので」


「……俺に?」


「はい」


 エルナは頷いた。


「私がルークを好きだということだけを知って、それで決めてほしくなかったんです」


 ルークはしばらくエルナを見た。


 やがて視線を落とす。


「難しいな」


 ぽつりと言った。


「何がですか」


「その人のこと」


 ルークは前を見る。


「もう会えない人に、俺がどうこう言えることじゃないし」


「……はい」


「忘れてって言うのも違うし」


 そこで、ルークは黙った。


 風が二人の間を抜ける。


 しばらくして、もう一度エルナを見る。


「……だから、一個だけ聞いていい?」


「はい」


「エルナは、それでも俺といたい?」


 エルナは迷わなかった。


「はい」


 答えは、もう出ている。


「ルークといたいです」


 直人を忘れたからではない。


 直人が大切ではなくなったからでもない。


 それでも。


 今、隣にいたいと思うのはルークだった。


 ルークはしばらくエルナを見ていた。それから、少しだけ肩の力を抜いた。


「そっか」


「はい」


「じゃあ、俺もエルナといたい」


 短い言葉だった。


 それだけでよかった。


 エルナは息を吐いた。胸の奥にあったものが、少しずつほどけていく。


 言った。


 ルークは聞いた。


 そのうえで、自分といたいと言った。


 もう、それ以上言葉を重ねる必要はないように思えた。


 沈黙が落ちる。


 風が通り過ぎ、頬を撫でた。


 その時、視界の端にルークの手が入った。


 石垣の上。二人の間に置かれている。


 さっき食事をしていた時にも見た手。


 触れたいと思った。


 けれど、その時は触れなかった。


 エルナはその手を見る。


 今は。


 少しだけ身体をルークの方へ向け、手を伸ばした。


 指先が、ルークの手に触れる。


 ルークの指がほんのわずかに動いた。


 けれど、それだけだった。


 握ってこない。離れもしない。


 待っている。


 エルナは指先をそのままにした。


 温かい。


 見ていた時にはわからなかった熱が、触れた場所から伝わってくる。皮膚は少し乾いていて、指先を動かすと、そのざらつきがかすかにわかった。


 エルナはもう少し指を動かす。


 触れるだけだった指先を、ルークの指へ重ねた。


 自分の手より大きい。


 指も長い。


 節のあたりには硬さがある。剣を握り、荷物を持ち、何度も使ってきた手なのだと、触れて初めてわかった。


 少し力を入れると、ルークの手の向きがゆっくり変わった。


 掌が合わさる。


 今度は、もっと広い場所から温度が伝わってきた。


 エルナは自分の手をその掌へ重ねる。


 指の付け根には、硬くなったところがあった。


 その上へ、自分の指を置く。


 ルークの指がゆっくり閉じた。


 握り返される。


 強くはない。


 逃げようと思えば、すぐに抜けるくらいの力だった。


 けれど、自分の手の形に沿うように指が閉じていく感覚は、思っていたよりずっとはっきりしていた。


 手の外側を、大きな掌が包む。


 触れた場所から、温度が移ってくる。


 エルナは繋いだ手を見た。


 必要だから触れているわけではない。


 怪我を支えるためでもない。傷を確かめるためでもない。


 ただ、自分が触れたかった。


 だから触れた。


 それだけだった。


「エルナ」


 呼ばれて、顔を上げる。


 ルークがこちらを見ていた。


 さっきより近い。


 手はまだ繋がっている。


 ルークが一度、エルナの顔を見る。


 それから、少しだけ迷うような間を置いて言った。


「キスしていい?」


 エルナは瞬きをした。


 意味はわかっている。


 エルナも、そうしたいと思った。


「はい」


 そう答えると、ルークが少し近づいた。


 急がなかった。


 エルナも動かなかった。


 繋いだ手だけが、少し強くなる。


 ルークの顔が近づく。


 息が触れる。


 それから、唇が重なった。


 短いキスだった。


 柔らかく触れて、すぐに離れる。


 ルークが少しだけ距離を戻す。


 エルナはその顔を見た。


 近い。


 さっきまで何度も見ていた顔なのに、今は少し違って見える。


 ルークも何も言わなかった。


 エルナも言わない。


 ただ、手は繋いだままだった。


 しばらくして、ルークが小さく笑う。


「……戻る?」


「はい」


 二人で立ち上がる。


 その時、繋いでいた手が少し引かれた。


 ルークの指がわずかに緩む。


 離すなら、今だった。


 エルナは離さなかった。


 そのまま握っている。


 ルークが手元を見る。それからエルナを見る。


 何も言わず、もう一度握り直した。


 二人で歩き出す。


 宿へ向かう道。


 何度も歩いたラーデンの道だった。


 隣にいるのも、同じ人だった。


 けれど、今日は手の中にルークの温度がある。


 エルナは、その手を離さなかった。




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