第76話 二度目
昼前、乗合馬車がラーデンへ入った。
窓の外に並ぶ建物が増え、行き交う人の声が近くなる。荷車の車輪が石畳を鳴らし、通りの向こうには見覚えのある店先が見えた。
数日前まで、六日間を過ごした街だった。
エルナは足元の鞄を持ち上げた。馬車が止まり、降りる人のあとに続いて地面へ下りる。背負い直した鞄の紐を引き、周囲を見た。
前に来た時は、少し離れたところにルークがいた。
今日は、いない。
わかっていたことだった。来るとは伝えていない。そもそも、ルークが今日ラーデンにいるかどうかも知らなかった。
エルナは一度だけ周囲を見てから、歩き出した。
まずは、ギルドへ行く。
*
昼前のギルドは、それほど混んでいなかった。
依頼を終えて戻ってきたらしい冒険者が受付で話している。掲示板の前には何人か立っていたが、見覚えのある姿はない。
エルナは中へ入り、もう一度だけ室内を見回した。
いない。
そのまま受付へ向かう。
「すみません」
「はい」
顔を上げた受付係に、エルナは尋ねた。
「ルークは、今日は来ていますか」
「ルーク?」
受付係は少し考えてから頷いた。
「ああ。朝、来てましたよ。依頼を一つ持って出ました」
「まだ戻っていませんか」
「さっきまでは。近場の仕事だったと思いますけど、戻る時間までは聞いてませんね」
「そうですか」
「急ぎなら、戻ったら伝えましょうか?」
エルナは少し考えた。
「いえ。大丈夫です」
「わかりました」
「ありがとうございます」
受付を離れ、掲示板の前まで行く。貼られているのは、護衛、荷物運び、店の手伝い、採取。前にいた時と、大きく変わってはいない。
ルークが戻るまで、ここで待つこともできた。
けれど、いつ戻るかはわからない。
エルナは掲示板から視線を外し、ギルドを出た。
外は明るかった。
人の流れに沿って歩く。以前なら、どの道がどこへ続いているのかもわからなかった。今は、少しわかる。
この先を行けば市場。途中の道を曲がれば、ハンスとリリアのパン屋がある。反対へ行けば、自分が泊まっていた宿の方角。
ルークに教えてもらった場所もあれば、自分で何度か歩いて覚えた道もある。
エルナは市場の方へ向かった。
探す、といっても、どこにいるのかはわからない。仕事先へ行くつもりもなかった。
ただ、歩きながら人の中を見る。
剣を腰へ下げた男。背の高い冒険者。荷物を抱えて歩く人。視線が向いて、違うとわかればまた前を見る。
市場へ入る。
以前食べた屋台があった。乾燥させた香草を並べる店も、籠を積んだ露店もある。数日前と同じように人が行き交っていた。
エルナは歩く。
用事はない。買うものもない。それでも足は止まらなかった。
市場を抜け、別の通りへ出る。
もう一度ギルドの方へ戻ろうかと考えたところで、
「エルナ?」
声がした。
足が止まる。
顔を上げた。
少し先に、ルークが立っていた。
剣を腰へ下げ、肩には小さな鞄を掛けている。服の裾には少し土がついていた。
こちらを見ている。
驚いた顔をしていた。
エルナは、その顔を見た。
胸の奥が、ふっとほどけた。
会えた。
それだけで、嬉しかった。
ああ。
エルナは思った。
私は、ルークが好きなんだ。
不思議なくらい、すぐにわかった。
「どうした?」
ルークがこちらへ歩いてくる。
「何かあった?」
「何もありません」
「何もない?」
「はい」
ルークはエルナの鞄を見る。それから、もう一度顔を見る。
「じゃあ、なんでラーデンに?」
エルナは答えた。
「会いたかったので」
ルークが止まった。
エルナも、その場に立っている。
通りでは人が行き交い、少し離れたところを荷車が通り過ぎた。
「……俺に?」
「はい」
エルナは頷く。
「ルークに」
また少し沈黙があった。
やがて、ルークの口元が緩んだ。
「……そっか」
「はい」
「それは」
一度だけ視線を逸らしてから、また戻ってくる。
「かなり嬉しいな」
エルナは少しだけ瞬いた。
「そうですか」
「うん」
ルークが笑う。
「一昨日、見送ったばっかりだろ?」
「はい」
「昨日は?」
「家にいました」
「で、今日また来た?」
「そうです」
ルークが小さく息を吐いた。笑っている。
「そっか」
同じ言葉だった。
けれど、さっきよりずっと嬉しそうだった。
「今、仕事の帰りですか」
「ああ。荷物運ぶだけのやつ。ちょうどギルド戻るところ」
「そうだったんですね」
「エルナは?」
「さっきギルドへ行きました」
「え」
「いなかったので、少し歩いていました」
「俺、探してた?」
エルナは少し考えた。
「はい」
今度は、ルークが黙った。
「……今日、すごいな」
「何がですか」
「いや」
ルークは少し笑った。
「なんでもない」
「そうですか」
「とりあえずギルド戻っていい? 報告だけしてくる」
「はい」
二人で歩き出した。
*
ギルドへ戻ると、ルークは受付へ向かった。
エルナは少し離れたところで待つ。
依頼の札と、何か書かれた紙を渡し、受付係と短く話している。見慣れた光景だった。この街にいた六日間、何度も見た。
仕事を受けて、戻って、報告して、報酬を受け取る。
その背中を見ながら、エルナはさっきのことを思い返した。
ルークを見つけた瞬間。
嬉しかった。
それだけだった。
けれど、それで十分だった。
やがて手続きを終えたルークが戻ってくる。
「終わった」
「お疲れさまでした」
「飯は?」
「まだです」
「俺も。食べる?」
「はい」
自然に答えた。
二人でギルドを出る。前にも入ったことのある食堂へ向かった。
昼を少し過ぎていたため、店の中には空いている席がいくつかあった。二人で向かい合って座る。
エルナは野菜と肉を煮込んだものを頼んだ。ルークは焼いた肉とパン。
料理が来るまでの間に、ルークが聞く。
「山、どうだった?」
「いつも通りです」
「水は?」
「まだ少ないままでした。大きく変わってはいません」
「そっか」
「薬草も少し見ました。前より小さいものが多いです」
「こっちも、昨日また採取の報告来てた」
「どこですか」
「西側の村。前に見たところとは別」
エルナは少し眉を寄せた。
「また増えたんですね」
「ああ。まだ、何が原因かまではわからないけど」
「そうですね」
料理が運ばれてくる。
食べ始める。
話していることは、前と変わらなかった。
水。薬草。仕事。街。
何か特別なことを話しているわけではない。
それでも、時々ルークの顔を見るたびに、さっき気づいたことが浮かんだ。
好き。
自分は、この人が好きなのだ。
それだけで、同じ会話が少し違って感じる。
ルークがパンをちぎる。その手が目に入った。
指。手の甲。剣を握るせいか、皮膚の硬くなっているところがある。
以前にも見たことはあるはずだった。怪我をしていた頃には、もっと近くにいた。腕を肩へ回したこともある。傷を確かめるために身体へ触れたこともある。
けれど、あれは必要だったからだ。
今は違う。
エルナは、ルークの手を見る。
触れてみたい。
ふいに、そう思った。
自分の指で、その手に。
けれど、手は伸ばさなかった。
ただ、そう思ったことだけが残った。
エルナは自分の手元へ視線を戻し、スープを一口飲んだ。
温かかった。
*
食事を終えたあと、エルナは前に泊まった宿へ向かった。
「またそこにする?」
隣を歩くルークが聞く。
「場所もわかってますし、不便もなかったので」
「何日いる?」
「決めてません」
「決めてないんだ」
「はい」
宿へ入り、エルナは部屋を取った。荷物を置くだけ置いて、すぐに外へ戻る。
入口の脇で待っていたルークが顔を上げた。
「もういい?」
「はい」
「このあと何かしたいことある?」
聞かれて、エルナは考える。
買い物はない。仕事を受けるつもりも、今日はない。見たいものも、特には思いつかなかった。
「特にはありません」
「じゃあ、どうする?」
エルナは少し考えてから、ルークを見る。
「……少し、歩きませんか」
「うん」
ルークが歩き出す。
エルナも隣へ並んだ。
目的地は決めなかった。
市場の方へ向かいながら、店先を眺める。
以前と同じだった。
気になるものがあれば、エルナが足を止める。ルークも止まる。見終われば、また歩く。
ただ、少しだけ違う。
隣を歩くルークが、前より近く感じた。
実際の距離は、何も変わっていない。
肩が触れるわけでもない。手が触れるわけでもない。
いつもと同じくらい離れて歩いている。
それなのに、歩くたびにルークの手が視界へ入った。
手を伸ばせば、届く距離。
触れたい。
また思った。
けれど、手は伸ばさなかった。
今は、それでよかった。
しばらく歩いたところで、通りの人が少なくなった。市場の喧騒も少し遠い。
エルナは足を止めた。
数歩先へ進んだルークが振り返る。
「エルナ?」
「ルーク」
「うん」
エルナは彼を見る。
山小屋で、以前ルークに聞いたことがある。
『私のこと、好きなんですか』
その時、ルークは答えた。
『好きだよ』
自分は、そこから先のことはまだ考えられないと言った。
今は違う。
「前に、私のことが好きだと言いましたよね」
「ああ」
「あの時、私は、その先のことはまだ考えられないと言いました」
「うん」
エルナは一度、息を吸った。
「今は、わかりました」
ルークが何も言わず、こちらを見ている。
エルナも目を逸らさなかった。
「私も、ルークが好きです」
ルークが動きを止めた。
しばらく、何も返ってこなかった。
「……ルーク?」
「ちょっと待って」
「はい」
「いや、待たなくていいけど」
ルークが一度顔を伏せた。
それから、もう一度エルナを見る。
「……本当に?」
「嘘は言いません」
「それは知ってる」
ルークが息を吐く。
笑っていた。
でも、いつもの軽い笑い方とは少し違った。
「そっか」
「はい」
「……嬉しい」
その言葉を聞いて、エルナの胸の奥がまた少し緩んだ。
言ってよかった。
そう思う。
ルークが何か言おうとする。
「じゃあ――」
「でも」
エルナが言った。
ルークが止まる。
自分はルークが好きだ。
そのことは、もうわかった。
伝えたことを後悔してもいない。
だからこそ、何も言わないまま、その先へ進むことはできなかった。
エルナは彼を見る。
「恋人になる前に」
一度、言葉を切る。
「話しておきたいことがあります」




