第75話 変わらない家
山道を上り、小屋が見えた頃には、日がかなり傾いていた。
見慣れた屋根。小さな窓。玄関脇に積んだ薪。
六日留守にしただけなのに、少し久しぶりに感じる。
エルナは歩みを緩めた。
長い旅をしていたわけではない。
それでも、ラーデンで過ごした六日は、普段とはずいぶん違う時間だった。
人の多い通り。
大きなギルド。
市場。
毎日のように隣にいたルーク。
そういうものから離れて、見慣れた小屋が目の前にある。
エルナは扉の前まで行き、鍵を開けた。
中は静かだった。
閉め切っていたせいか、空気が少し冷えている。火の消えた暖炉も、机も、椅子も、出ていった時のままだった。
鞄を床へ置き、まず窓を開ける。
湿った土と木々の匂いを含んだ空気が入ってきた。
それを吸い込んでから、エルナはフードを外した。
髪を包んでいた布をほどく。
押さえられていた銀白の髪が肩へ落ちた。
左腕の腕輪も外し、いつもの場所へ置く。
誰も見ていない。
ここでは、隠す必要もない。
エルナは一度、息を吐いた。
「……帰ってきた」
声は静かな部屋へ落ち、そのまま消えた。
暖炉へ薪を入れ、火をつける。
最初は小さかった炎が、ぱち、と音を立てて広がった。
それを見届けてから、水差しを手に取る。残っている水の量を確かめ、食料棚も開いた。
留守にする前に片づけておいたものは、そのままになっている。
干した肉。
根菜。
乾燥させた香草。
何をどこへ置いたのか、考える必要もなかった。
手が自然に次のものへ伸びていく。
エルナはそれを少し心地よく感じた。
荷物をほどく。
ラーデンで買ったものを、一つずつ元の暮らしの中へ入れていく。
布。
紐。
石鹸。
仕事に使う小物。
すべて片づけ終える頃には、部屋も少し暖まっていた。
椅子を引き、腰を下ろす。
ほんの少しだけ休む。
座面の高さも、机との距離も、いつも通りだった。
宿の椅子とは違う。
自分が使いやすいように置いた、自分の椅子。
エルナはしばらく火の音を聞いていた。
夕食は簡単なものにした。
野菜を切って鍋へ入れ、乾燥させていた肉を少し足す。塩と香草で味を整え、煮えるまでの間に使ったものを片づけた。
鍋の蓋を少しずらす。
湯気が立つ。
木匙で一度かき混ぜ、味を見る。
もう少し塩があってもいい。
少し足した。
出来上がった料理を机へ運び、椅子へ座る。
宿では、壁の向こうから人の声が聞こえた。食堂へ下りれば誰かがいて、外へ出れば街の音がした。
ここでは、時折風が枝を揺らし、遠くで鳥が鳴く。
それ以外は静かだった。
エルナはスープを一口飲んだ。
さっきよりちょうどいい。
ゆっくり食べる。
誰かへ話しかける必要もない。
自分の速度で食べて、自分が終われば立つ。
以前から、ずっとそうしてきた。
食事を終え、片づける。
鍋と食器を洗い、水気を拭く。
湯を沸かして身体を拭き、髪を梳く。
薪を一本足す。
明日の朝に使うものを、いつもの位置へ置く。
火の様子を確かめてから、寝台へ入った。
身体を横たえる。
宿の寝台より、少し硬い。
けれど、肩のあたりの沈み方も、毛布の重さも知っている。
エルナは枕へ頬をつけた。
こちらの方が落ち着く。
窓の外で、葉が擦れる音がした。
目を閉じる。
森の夜の中で、エルナはほどなく眠った。
*
翌朝。
窓の外が明るくなり始めた頃、エルナは目を覚ました。
起き上がると、薄い朝の光が部屋へ差し込んでいた。
着替えて外へ出る。
水を汲み、戻って火を起こす。
朝食を済ませ、食器を片づけたところで、ふと棚が目に入った。
以前、ルークと一緒に直した棚だった。
少し傾いていたものを、二人で直した。
今は、きちんとまっすぐになっている。
エルナは一度だけそこを見た。
棚の前へしゃがんで、木片を削っていたルークの姿が浮かぶ。
ほんの一瞬だった。
エルナは手元へ視線を戻し、布を絞った。
留守にしていた間に溜まった埃を簡単に払い、乾燥させていた薬草の状態を確かめる。
葉を一枚つまみ、裏返す。
湿気てはいない。
香りも問題ない。
束ねた紐の緩みを直し、棚へ戻した。
昼前には森へ出た。
六日離れていた分、見ておきたい場所がいくつかある。
家の周りの草木。
水場。
採取に使う道。
急ぐものではないが、戻ってきたなら一度見ておきたかった。
籠を持って森へ入る。
空気は少し湿っていた。
木々の隙間から光が落ちている。
靴の下で、乾いた小枝が折れた。
ここは、何度も歩いた森だった。
どこに斜面があり、どこが雨のあと滑りやすくなるか。
どの辺りに何が生えるか。
日差しの強い時期でも、どこに湿り気が残り、どこに日陰ができるか。
長く暮らすうちに、少しずつ覚えた。
エルナは道の脇に生えている薬草を見つけ、しゃがみ込んだ。
葉を指でそっと持ち上げる。
傷みはない。
けれど、葉は例年より小さかった。
周囲を見ても、以前ならもう少し株が残っていた場所だ。
まだ育つ余地がある。
エルナは採らずに、そのまま残して立ち上がった。
もう少し先へ進む。
斜面へ入ったところで、土から太い根が浮いていた。
自然に足を避けた。
『そこ、根出てる』
声が浮かぶ。
以前、ラーデンの外で仕事をした時。
少し後ろを歩いていたルークが、自分へ声をかけた。
見ればわかる程度の根だった。
その時も、エルナは普通に避けた。
今も避ける。
それだけなのに。
エルナは一歩進んでから、足を止めた。
ほんの少し振り返る。
木々の間に続く道。
風に揺れる枝。
もちろん、誰もいない。
エルナはしばらくそこを見てから、前へ向き直った。
水場まで行く。
しゃがみ、流れへ指先を入れる。
冷たい。
前に確かめた時と、大きくは変わっていない。
流れは、まだ細いままだった。
エルナはしばらく水面を見てから立ち上がる。
周囲の植物も確認し、採れるものの中から必要な分だけ薬草を摘む。
刃を入れる位置を選び、根は残す。
次に来た時にも育つように。
籠の中へ入れた。
一本。
もう一本。
以前より選べる株は少ない。
それでも、必要な量だけなら足りる。
森の中で、一人で手を動かす。
いつもしてきたことだった。
昼過ぎには小屋へ戻った。
採ってきたものを机へ広げる。
状態のいいものと悪いものを分け、傷んだ葉を取り除く。干すものは束ねていく。
一本ずつ向きを揃え、紐を回す。
結び目を作る。
その途中で、古道具屋の倉庫が浮かんだ。
何の動物かわからなかった絵。
店主の曖昧な返事。
『どっちでもいいんだな』
そう言ったルーク。
その時の顔まで思い出して、エルナの手が止まる。
一昨日のことなのだから、思い出すのはおかしくない。
そう思いながら、少し前の森でもルークの声を思い出したことに気づいた。
気づけば、またルークのことを考えていた。
エルナは一度瞬きをした。
結びかけていた紐を見る。
少し緩んでいる。
結び直した。
束を一つ作り、次の薬草を取る。
午後も、薪を運び、薬草をしまい、少なくなっているものを書き留めた。
刃物を手入れする。
研いだ刃先を光へかざして確認し、布で拭く。
夕食に使う野菜を選ぶ。
少し傷んでいるものから使うことにした。
やることは、いつもと変わらない。
日が傾く頃には、ひと通り終わっていた。
エルナは家の前へ出た。
空は淡い色に変わり始めている。
森の向こうへ日が沈んでいく。
風が吹き、銀白の髪が揺れた。
エルナはそれを耳へかける。
昨日も、この静けさの中で眠った。
今日も、一日ここで過ごした。
朝起きて。
水を汲んで。
森へ行って。
薬草を摘んで。
自分の仕事をした。
何も困らなかった。
いつも通りだった。
エルナは庭先に立ったまま、森を見る。
ここへ戻りたいと思って帰ってきた。
帰ってきて、ほっとした。
昨夜はよく眠れた。
今日も、自分の好きなように一日を過ごした。
それなのに。
ふと、昨日の朝のことを思い出した。
乗合の発着場。
頼んでもいないのに、ルークがいた。
『見送り』
ただそれだけ言った。
特別なことをしたわけでもない。
大げさな別れでもなかった。
そして、馬車へ乗る前。
『また』
次に会う日は、決まっていない。
エルナはしばらく立っていた。
風が髪を揺らす。
森は静かなままだった。
それから、ふいに思った。
ルークに会いたい。
エルナは瞬きをした。
言葉があまりにも自然に浮かんだので、少し遅れて自分で気づいた。
会いたい。
昨日の朝に別れたばかりだった。
まだ一日ほどしか経っていない。
次に会う約束をしなかっただけで、もう二度と会えないわけでもない。
ルークなら、そのうちまた山へ来るかもしれない。
ラーデンへ行くことだって、もうできる。
待っていれば、また会う日は来るだろう。
それでも。
エルナは森の向こうを見る。
そのうちではなく。
今、ルークに会いたい。
自分から。
そこまで考えて、エルナは少し黙った。
胸が苦しいわけではない。
寂しくて耐えられないわけでもない。
ただ、会いたかった。
声を聞きたい。
顔を見たい。
そんなふうに思っている自分がいる。
エルナはしばらくその感覚を眺めていた。
やがて、家の中へ戻る。
机の前まで来て、立ち止まった。
ラーデンへ行く用事はあっただろうか。
考えてみる。
今すぐ必要な買い物はない。
ギルドにも、急いで行く用事はない。
仕事の予定も入れていない。
ラーデンへ行く必要はなかった。
用事はない。
けれど、ルークには会いたい。
エルナは少し考えた。
その二つを、しばらく並べる。
必要はない。
けれど、行きたい。
エルナは窓の外へ目を向けた。
明日の朝の乗合。
朝のうちに町へ下りれば、間に合う。
昼前にはラーデンへ着く。
そこまで考えたところで、エルナは棚の上にしまっていた鞄を下ろした。
必要なものは多くなかった。
一泊しても困らない程度の着替え。
財布。
冒険者証。
最低限の薬と仕事道具。
一つずつ鞄へ入れていく。
何日いるかは決めていない。
宿も、着いてから探せばいい。
そもそも、ルークが明日ラーデンにいるとも限らない。
仕事で外へ出ているかもしれない。
それでも、エルナの手は止まらなかった。
鞄の紐を締める。
机の端には、腕輪が置いてある。
その隣に、髪を包むための布。
明日の朝、使う。
エルナはそれを一度見てから、夕食の支度を始めた。
食事を済ませ、片づける。
火の始末を確かめ、寝台へ入った。
目を閉じる。
昼に歩いた森。
自分の家。
それから、ラーデンの通り。
人の多い市場。
古道具屋。
ギルド。
そのどこかに、ルークがいる。
エルナは毛布を少し引き上げた。
明日、会えるだろうか。
そう思った。
それ以上は考えず、目を閉じた。
*
翌朝。
空が明るくなる頃に起きた。
朝食を済ませ、水を片づける。
留守にしても困らないよう、火の始末をもう一度確かめた。
窓を閉める。
食料を確認する。
一泊で帰るかもしれないし、もう少しいるかもしれない。
それでも、数日なら問題ない。
着替えを終え、机の前へ立った。
髪を布で包む。
銀白の髪が隠れていく。
左腕へ腕輪をつける。
家へ帰ってきた時には、真っ先に外したものだった。
エルナは上着を羽織り、鞄を背負った。
扉を開ける。
朝の森の空気が入ってくる。
エルナは振り返った。
見慣れた部屋。
自分で選んだ家具。
薬草を置く棚。
昨夜眠った寝台。
火の消えた暖炉。
ここは今も、自分の家だった。
エルナは扉を閉め、鍵をかけた。
そして、町へ続く山道へ足を向ける。
ルークに会いに行くために。




