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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第5章 好きになった街
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第74話 一度目の恋


 翌朝、エルナは六泊した部屋を出た。


 忘れ物がないことを確かめ、宿の受付へ鍵を返す。背負った鞄は、来た時より少しだけ重くなっていた。


 市場で買ったものと、昨日パン屋で買った木の実のパン。それから、六日間を過ごした街の記憶。


 最後の一つは荷物にはならない。


 宿を出ると、朝のラーデンはもう動き始めていた。


 店先を掃く人。荷車へ木箱を積み込む人。仕事へ向かうらしい冒険者たち。


 見慣れなかったはずの通りも、今はどちらへ行けば乗合の発着場へ着くのかわかる。


 エルナは人の流れに沿って歩いた。


 髪は布で包み、その上からフードを被っている。左腕には腕輪。


 ラーデンへ来た日と同じ姿だった。


 発着場へ着くと、すでに何人かが待っていた。荷物を積んでいる御者の近くに、自分が乗る馬車もある。


 エルナは時刻を確かめ、それから周囲を見た。


 少し離れた壁際に、ルークがいた。


 目が合う。


 ルークがこちらへ歩いてくる。


「おはよう」


「……おはようございます」


 エルナは一度、馬車を見る。それからルークへ戻った。


「どうしたんですか」


「見送り」


 あっさりした返事だった。


「そうですか」


「うん」


 昨日、ここへ来るとは言っていない。ただ、乗る便は話した。


 それだけで来たらしい。


 ルークがエルナの鞄を見る。


「忘れ物ない?」


「ないと思います」


「思います?」


「確認しました」


「なら大丈夫か」


「はい」


 ルークは鞄を持とうとはしなかった。


 来た日と同じだった。エルナが自分で持てると言えば、それ以上は手を出さない。


 御者が積み荷を確認している。まだ少し時間があるらしい。


 二人は馬車の邪魔にならない場所へ移動した。


「六日、早かったな」


 ルークが言う。


 エルナは少し考えた。


「そうですね」


 最初は三泊のつもりだった。


 大きなギルドを見て、市場を見て、いくつか仕事をする。それくらいのつもりで来た。


 気づけば宿を延ばし、六日いた。


 やがて、御者が乗客へ声をかけ始める。


 エルナは鞄の肩紐を持ち直した。


「では」


「うん。気をつけて」


「はい」


 馬車へ向かおうとして、ルークの声がする。


「エルナ」


 振り返る。


「また」


 昨日と同じ言葉だった。


 次の日の時間も、場所も、その先も決まっていない。


 それでも、ルークは当たり前のように言った。


 エルナは少しだけ間を置いた。


「……はい。また」


 馬車へ乗る。


 窓際の席へ座り、鞄を足元へ置いた。


 ほどなくして馬車が動き出し、車輪が石畳を鳴らした。


 窓の外を見る。


 ルークはまだそこにいた。


 エルナと目が合うと、片手を上げる。


 エルナも、小さく手を上げた。


 馬車が進む。


 人の間に見えていたルークの姿が遠くなり、曲がり角を過ぎると、もう見えなくなった。


 エルナはしばらく、そのまま後ろを見ていた。


     *


 街を出ると、道の両脇に畑が増えた。


 来た時にも見た景色だった。


 荷車とすれ違い、小さな村を通る。遠くには山が見える。


 六日前は、その山から離れるように馬車へ乗った。同じ道を、今日は戻っている。


 エルナは窓枠へ軽く手を置いた。


 次に会う日は、決まっていない。


 昨夜から、何度も同じことを考えている。


 ルークが山へ来ることはある。自分がラーデンへ来ることも、もうできる。


 会おうと思えば、これで終わるわけではない。


 それなのに。


 次が決まっていないというだけのことが、なぜか頭に残る。


 馬車が小さく揺れた。


 どうして気になるのだろう。


 そう考えた時だった。


『次いつ会う?』


 声が、ひどく自然に浮かんだ。


 エルナは瞬きをした。


 ルークの声ではない。


 もっと昔。


 もう、この世界にはないはずの声。


     *


 玄関で直人が靴を履いている。


 自分は、その横に立っていた。


『次いつ会う?』


 直人が何でもないことのように聞く。


 澪も少し考えて、


『仕事終わりなら……水曜?』


 と答えた。


『僕も水曜なら大丈夫』


『じゃあ水曜』


『文化会館?』


『いつものとこ』


 それだけだった。


 次に会う日を決めるのに、大げさなことなど何もなかった。


 次の休みには海へ行こうと決めた。仕事帰りにご飯を食べようと決めた。どちらかの家で過ごす日もあった。


 予定が合わなければ、また別の日を探した。


 次に会う予定があることは、特別なことではなかった。


 直人と付き合っていた頃の澪にとって、それは日常の一部だった。


 エルナは膝の上で指を組んだ。


 思い出したのは、それだけではない。


 冬の夜。


 待ち合わせに少し遅れてきた直人へ、冷えた手を差し出した。


『……冷えた』


『ほんとだ。冷たいね』


『あっためて』


 直人が両手で包んだ。


 外にいたのだから、直人の手だって少し冷たかった。それでも自分よりは温かかった。


 そのまま手を繋いで歩いた。


 人が横を通れば、直人が肩へ手を添えて避けさせる。人の流れが途切れれば、また手を繋ぐ。


 いつからそうなったのかは、もう覚えていない。


 付き合い始めた頃には、一つ一つ意識していたのかもしれない。


 けれど、いつの間にかそれが普通になっていた。


 隣を歩くことも。


 触れることも。


 黙っていることも。


 馬車が大きく揺れた。


 エルナは現実へ戻り、窓枠へ手をつく。


 前の席に座る女が、眠っている子どもの肩を抱き寄せた。


 エルナはまた窓の外へ視線を戻す。


 どうして今、こんなことを思い出すのだろう。


 考えようとして、今度は別の景色が浮かんだ。


 台所。


 隣でじゃがいもを切る直人。


『大きい』


『え?』


『じゃがいも』


『これくらいって言ったじゃん』


『それより大きい』


『誤差じゃない?』


『煮える時間変わる』


『厳しいなあ』


 直人は文句を言いながら、ちゃんと切り直した。


 玉ねぎを任せれば、数分もしないうちに目が痛いと言い出した。


 澪は笑った。


 食事が終われば、直人が皿を洗って、澪が隣で拭いた。泡が残っていると言えば、監督が厳しいと言われた。


 くだらない会話だった。


 何の意味もない。


 だからこそ、覚えている。


 何か特別なことをした日だけが、直人との時間ではなかった。


 一緒に食べた。


 一緒に眠った。


 喧嘩もした。


 仲直りもした。


 手を繋いだ。


 抱き寄せられた。


 キスをした。


 帰り際、直人から唇を重ねられたあと、もう一度したくなって、自分から顔を寄せたこともある。


 そういう時間が、いくつもあった。


 直人は恋人だった。


 自分が愛した人だった。


 エルナは目を閉じた。


 十八年近く経った。


 澪ではなく、エルナとして生まれてから。


 赤ん坊から育ち、ロザリーと暮らし、一人になり、自分で家を選んで生きてきた。


 それでも、直人と過ごした時間は消えていない。


 昔の自分の記憶というだけではなく、今の自分の中にも残っている。


 直人は大切だった。


 いや。


 今も、大切だ。


 そこまで考えて、エルナは目を開けた。


 窓の外を畑が流れていく。


 それなのに。


 昨日のことが浮かんだ。


 古道具屋の倉庫。


 何の動物かわからない絵を、ルークと二人で眺めた。


 店主まで曖昧なことを言って、そのまま戻っていった。


『どっちでもいいんだな』


 ルークが言った。


 おかしくて、笑った。


 自分でも驚くくらい、自然に。


 市場を歩いた。


 必要な買い物はとっくに終わっていたのに、そのあとも一緒に歩いた。


 気になる店があれば足を止める。ルークも止まる。


 何かを見つければ口に出す。ルークが返す。


 気づけば夕方になっていた。


 そして今朝。


 頼んでもいないのに、乗り場にいた。


『見送り』


 ただ、それだけ言って。


 エルナは膝の上の手を見る。


 直人を思い出しても、ルークのことが消えなかった。


 むしろ、どうして直人を思い出したのかを考えれば考えるほど、ルークへ戻ってくる。


 次に会う日が決まっていないことが気になった。


 ギルドへ戻ってきた姿を見て、ほっとした。


 会えて、嬉しかった。


 一緒にいると、楽しかった。


 仕事が終わったあとも、そのまま一緒にいた。


 それは、ただ友人だからなのだろうか。


 エルナは少し眉を寄せた。


 ルークが自分を好きだということは知っている。


 何度も会うようになってから、彼のことを信頼するようになった。


 自分の秘密を知られても、離れようとは思わなかった。


 それだけではない。


 もしかしたら。


 自分も。


 そこまで考えて、止まる。


 馬車の音が急に大きく聞こえた。


 車輪が地面を転がる音。


 馬の蹄。


 誰かの小さな話し声。


 エルナは窓の外へ顔を向ける。


 ルークに、惹かれているのだろうか。


 その言葉だけが残った。


 好き。


 そこまでは、まだ言えない。


 けれど、違うと言い切ることもできなかった。


 エルナは静かに息を吐いた。


 直人への気持ちは、今も自分の中にある。


 それなのに、ルークへ向かうものもある。


 二つが、同時に存在している。


 もし、ルークを好きになるのだとしたら。


 直人はどうなるのだろう。


 その問いが浮かび、すぐに違和感があった。


 どうなるも何もない。


 直人と過ごした日々は、なくならない。


 好きだったことも、愛していたことも、今も大切に思っていることも。


 誰か別の人へ心が動いたからといって、起きたことが起きなかったことになるわけではない。


 そこまではわかる。


 けれど。


 なら。


 直人を今も大切にしたまま、もう一度、誰かを好きになることがあるのだろうか。


 エルナには、まだわからなかった。


     *


 馬車が途中の村で止まった。


 何人かが降り、休憩を取る。


 エルナも馬車を降りた。


 長く座っていた足を伸ばし、水を飲む。


 少し離れたところで、馬にも水が与えられていた。


 空はよく晴れている。


 考えているうちに、思っていた以上に時間が経っていたらしい。


 腹が減っていることに気づく。


 エルナは鞄を開け、昨日買った木の実のパンを取り出した。


 包みを開き、一口食べる。


 柔らかな生地と、木の実の香ばしさ。


 何度か食べた味だった。


 山小屋へルークが持ってきた時。


 自分でパン屋へ行った時。


 昨日、持って帰ろうと思って買った時。


 味は同じだった。


 エルナは黙って食べた。


 全部食べ終え、水をもう一口飲む。


 やがて御者が声を上げた。


 エルナは包みを片づけ、また馬車へ戻った。


     *


 午後になる頃、遠くに見える山の形が変わってきた。


 知っている山だった。


 馬車が進むほど近づいてくる。


 ラーデンへ向かった日は、少しずつ遠くなっていった山。


 今日は、その麓へ戻っていく。


 考えは、結局まとまらなかった。


 直人との時間が消えるわけではない。


 ルークから離れた方がいいとも思わない。


 ただ、自分の中に今までなかった問いが一つ増えた。


 それだけだった。


 やがて馬車が、いつもの町へ入る。


 見慣れた通り。


 何度も使った店。


 小さなギルド。


 ラーデンへ行く前と、何も変わっていない。


 馬車が止まった。


 エルナは鞄を背負い、地面へ降りる。


 振り返ると、遠くに山が見えた。


 あそこに、自分の家がある。


 一人で暮らしてきた家。


 静かで、自分のためだけに整えた場所。


 エルナは鞄の位置を直した。


 そして、いつもの山道へ向かって歩き出した。




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