第71話 森から下りてくるもの
翌朝、エルナがギルドへ着いた時には、ルークはすでに中にいた。
掲示板の近くで、三人の男と話している。
昨日までも何度か見た場所だったが、誰かと並んでいるルークを見るのは初めてだった。
エルナに気づき、ルークが片手を上げる。
「おはよう」
「おはようございます」
そばにいた三人もこちらを見た。
一人は盾と長剣を持った男。もう一人は弓を背負った若い男。そして最後の一人は、三人の中でもひときわ大柄で、背に大きな斧を負っている。
「エルナ」
ルークが三人へ向けて言った。
「四級。採取と山仕事に慣れてる」
それから、盾と長剣を持った男を示した。
「グレン」
「グレンだ。ルークとはよく組んでる」
落ち着いた声だった。
「よろしく」
「エルナです。よろしくお願いします」
次に、ルークが弓を背負った青年へ目を向ける。
「フィン」
「俺、フィン。よろしく」
フィンが軽く手を上げた。
「はい」
最後に、大斧を背負った大柄な男。
「あっちがバルド」
バルドがエルナを見た。
「ああ。最近ルークと組んでるっていう」
「そうですね」
「山慣れしてんなら助かるな」
「普段はもう一人いる」
グレンが言った。
「ニーナ。今日は市場で材料見たいってさ」
「ああ、買い出しか」
ルークもそれだけ返した。
普段はもう一人、ニーナという仲間もいるらしい。
それ以上の説明はないまま、バルドが掲示板へ視線を戻した。
「で、今日は何見るんだ?」
グレンが一枚の依頼書を外す。
ラーデン近郊の農地で、ここ数日、作物を荒らされる被害が続いているらしい。近くの荷車道でも鹿や猪を見たという話が出ている。
何が来ているのか。
魔獣が混じっていないか。
どこから人里側へ入ってきているのか。
通行人に危険がある状態か。
それを確認してほしいという調査依頼だった。
大斧を背負ったバルドが紙を覗き込む。
「痕跡調査?」
「ああ」
「俺いらねえだろ」
グレンは少し考えた。
「たぶんな」
「だよな」
バルドはあっさり頷いた。
ちょうどその横に、畑の柵を直す仕事と資材運びの依頼が並んでいる。
「俺そっち行くわ。足跡見てるより役に立つ」
「その方が早いな」
「だろ?」
迷いもなかった。
バルドはその依頼書を外すと、受付へ向かっていった。
残った四人で、グレンが地図を広げる。
「まず被害が出た農家へ行く。話を聞いて、そこから痕跡を追う。荷車道まで出てるなら、そっちも確認」
「わかった」
フィンが答える。
ルークも短く頷いた。
「了解」
エルナは地図の位置を覚え、四人でギルドを出た。
農地までは、街からそれほど遠くなかった。
人の多い通りを抜け、街道をしばらく歩く。そこから脇道へ入ると、建物が減り、代わりに畑が増えていった。
フィンはいつの間にか少し前を歩いている。グレンは道を確認しながら進み、ルークはその少し後ろを歩いていた。
誰かが役割を決めたわけではない。
それでも、歩いているうちに自然と位置が決まっていった。
依頼主の農家へ着くと、畑の端に壊れた柵があった。
「昨夜ですか?」
グレンが尋ねる。
「昨夜も来た。でも、その前からだな」
農家の男が答えた。
「最初は鹿だと思ってたんだが、畑を掘り返されるようになってな。猪もいるんじゃないかって」
「人に向かってきたことは?」
「今のところない。見かけても向こうが逃げる。ただ、荷車道の方でも見たって話があるからな」
グレンが話を聞いている横で、フィンはもう柵の外へ出ていた。
地面へしゃがみ込む。
「これ猪」
指先で跡を示す。
「こっちは鹿」
ルークが近くまで行った。
「何頭くらい?」
「猪は最低二頭。鹿は……こっちは古いな」
フィンが少し場所を変える。
「新しいのは三頭分くらい。でも重なってるから、もっといるかも」
ルークは一度、畑の向こうへ続く斜面を見た。
エルナは二人の会話を聞きながら、畑の外側へ目を向ける。
柵のすぐ外にも草が生えている。
けれど、先端を食いちぎられたものが多い。低い木の若葉も減っていた。
畑へ入らなくても、食べられるものはある。
それでも獣は柵を越えている。
エルナは少し離れた場所へ移動した。
地面へしゃがむ。
若い草の根元に、ちぎられた跡がある。
「何かあった?」
フィンの声がした。
「食べられた跡が多いです」
「畑じゃなくて?」
「はい。こっちも」
グレンも農家との話を終え、近くまで来た。
「いつもこんなもんじゃないのか?」
エルナは周囲を見る。
「一か所なら、そういうこともあります。でも、この辺りは少し多いと思います」
「草が?」
「食べられた跡が、です。畑へ入る前からかなり食べています」
フィンが辺りを見回した。
「じゃあ、腹減って来てる?」
「それだけでは、まだわかりません」
「そりゃそうか」
フィンはすぐに足跡へ戻った。
痕跡は畑の外から、緩やかな斜面の方へ続いていた。
四人でそれを追う。
フィンは地面を見る。
エルナは道脇の植物を確認する。
少し先でフィンがしゃがみ込むと、ルークはその横を通り過ぎ、斜面の先を見た。グレンが地図を開けば、今いる場所を覗き込む。
途中、エルナが道脇の低木を見るため数歩外れた。
「そこ、根出てる」
後ろからルークの声がする。
足元を見ると、土から太い根が浮いていた。
「ありがとうございます」
避けて進み、枝先を確かめる。
実はほとんど残っていなかった。
しばらくして、フィンが片手を上げた。
「こっち」
細い獣道が斜面を横切っている。
ルークが少し先を見る。
「このまま行くと、低い尾根越えて荷車道に出る」
フィンが顔を上げた。
「近い?」
「そんなに遠くない」
グレンが地図を見る。
「なら、先にそっち確認するか」
「うん」
ルークが答える。
「人が通るところまで来てるなら、そっち見た方がいい」
フィンはまた先へ出た。
四人で尾根を越える。
道を下り始めて少しすると、荷車道が見えてきた。
荷車が二台並べるほどの幅がある。今は誰も通っていない。
その手前で、フィンがしゃがんだ。
「ある」
土の柔らかいところに、いくつもの跡が残っている。
鹿。
猪。
古いものに混じって、輪郭のはっきりした新しい跡もあった。
少し離れた草地にも踏み荒らされた跡が続いている。
フィンはそこまで歩き、地面から黒い粒を拾い上げた。
「鹿の糞。そんなに古くない」
その先では、低い木の樹皮が剥がされている。
グレンが眉を寄せる。
「ここまで出るもんか?」
「出ないわけじゃない」
フィンが答える。
「でも、この数は多いな。何回も通ってる」
ルークも荷車道を見る。
「俺もここは何度も通ってるけど、前はこんなじゃなかった」
「最近か」
「たぶん」
フィンが足跡の向きを追う。
どれも森側から出てきて、道の近くまで来ている。
一頭が迷い込んだだけではない。
何度も。
何頭も。
人の暮らす方へ近づいている。
「来た方、少し見るか」
グレンが言った。
「深追いはしない」
四人は森側へ戻った。
そこから先は、獣道がいくつか枝分かれしている。
エルナは道脇の植物を見ながら歩いた。
若い葉が少ない。
実のなる低木も、枝の割に実がついていなかった。
食べられた跡が重なっている場所もある。
さらに進んだところでは、木の樹皮まで齧られていた。
エルナは足を止めた。
「どうした?」
ルークが聞く。
「これ」
幹を示す。
「食べられてます」
フィンが覗き込む。
「鹿?」
「たぶん」
エルナは周囲を見る。
「私の住んでいる山でも、今年は薬草が減っています」
グレンが顔を向けた。
「ここみたいに?」
「似ています。日当たりのいいところは特に。いつもなら残る場所でも少なくなっていました」
「水もだったな」
ルークが言う。
「はい」
前に二人で調べた水路。
詰まりも崩れもなかったのに、上流まで流れは細かった。
「こっちでも水関係の依頼、増えてる」
ルークが続ける。
「水を運ぶ仕事とか。前に行った村でも似た話は聞いた」
グレンが少し黙った。
「北から来る連中も、今年は採れるものが少ないって言ってたな」
「薬草?」
フィンが聞く。
「それだけじゃない。山で採れる木の実とか、その辺も」
エルナはゆっくり周囲を見る。
目の前にあるものだけなら、珍しいとは言えない。
雨の少ない年もある。
暑い年もある。
獣が人里へ出ることだってある。
けれど、自分の山でも。
この街の周辺でも。
さらに別の村や、北の方でも。
似たことが起きている。
フィンが足元の獣道を見る。
「水が減って、食うものも減って。それで下まで来てる?」
エルナはすぐには頷かなかった。
「それだけなら、この辺りだけの話でもおかしくありません」
「そっちの山も同じなんだろ?」
グレンが聞く。
「はい。少なくとも、似たことは起きています」
「他の村でもある」
ルークが言った。
少し、誰も話さなかった。
風が通る。
木の葉が擦れた。
夏から続いている暑さの中で、葉の色はどこか乾いて見える。
エルナは木々の奥を見る。
「……森そのものが、弱っているのかもしれません」
グレンがこちらを見る。
「森そのもの?」
「水が減って、植物が育ちにくくなって。そのせいで、そこで暮らしていた獣まで下へ来ているなら」
そこまで言って、エルナは一度言葉を切った。
「ただ、原因はわかりません」
「雨が少ないから、とかじゃなく?」
フィンが聞く。
「それもあると思います。でも、それだけで離れた場所まで同じようになるのかは」
答えられない。
ルークが森を見たまま言う。
「山一つの問題じゃないのかもな」
グレンが小さく息を吐いた。
「戻ったら、他の地域の報告も確認してもらおう」
「ああ」
誰も、それ以上の答えは持っていなかった。
けれど、今日ここへ来る前とは違う。
水。
植物。
獣。
別々に起きているように見えたものが、完全に無関係とは思えなくなっていた。
帰り道では、確認したことを順に整理した。
魔獣の痕跡はない。
確認できたのは普通の鹿と猪。
ただし、人里側へ出ている数が増えている。
山側では植物の食害が多く、育ちも悪い。
水不足や植物の減少が、獣の移動に関係している可能性がある。
「獣だけ追い払って終わる話じゃなさそうだな」
グレンが言った。
「また戻ってくるかもしれないし」
フィンが答える。
「そうですね」
エルナも頷く。
獣が悪いわけではない。
そこにいられなくなって、下りてきているのなら。
追い払うだけでは、何も変わらない。
ギルドへ戻る頃には、午後もだいぶ過ぎていた。
受付で報告をする。
グレンが概要を話し、フィンが足跡について補足する。エルナは植物の状態を伝えた。
「原因まではわかりません。でも、私の住んでいる山でも似たことが起きています」
受付係が帳面へ書き込む。
「こっちにも、水や採取関係の報告は増えてます」
「他の地域は?」
グレンが聞いた。
「確認してみます。商隊からの話も入ってるので」
「頼む」
報告を終えたところで、後ろから大きな声がした。
「終わったか?」
振り返ると、バルドが戻ってきていた。
服の裾に土がつき、肩には細かな木屑が乗っている。背の大斧は朝と変わらずそのままだ。
「そっちは?」
グレンが聞く。
「終わった。柵立て直して、杭運んで、ついでに壊れかけてたところも補強した」
「早いな」
「俺向きだったからな」
バルドは満足そうだった。
それからフィンを見る。
「で、そっちは? 何いた?」
「鹿と猪」
「殴った?」
「殴ってない」
バルドが一度瞬く。
「じゃあ俺、行かなくて正解だったな」
「途中で飽きてただろ」
グレンが言う。
「絶対飽きてた」
バルドは即答した。
フィンが笑う。
ルークも少しだけ口元を緩めていた。
エルナも、その場に立っていた。
誰かに説明を求められるわけでもない。
特別に気を遣われるでもない。
同じ依頼から戻ってきた一人として、そこにいる。
少し話したあと、グレンたちとはギルドの中で別れた。
「また似た依頼あったら頼む」
グレンがルークへ言う。
「予定合えば」
「エルナも、またな」
フィンが片手を上げる。
「はい。また」
バルドも、
「次はもっと殴れる仕事にしろよ」
と言ってから、別の冒険者に呼ばれてそちらへ行った。
ルークがエルナを見る。
「帰る?」
「はい」
二人でギルドを出る。
朝より日差しは傾いていた。
通りにはまだ人が多い。
「疲れた?」
歩きながら、ルークが聞いた。
「いえ」
「結構歩いたけど」
「普段と変わりません」
「そっか」
会話はそこで途切れた。
二人でしばらく歩く。
朝からずっと誰かと一緒に動いていた。
それなのに、一人になりたいとは思わなかった。
エルナはそのことに気づいて、隣を歩くルークを一度だけ見た。




