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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第5章 好きになった街
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第70話 この街の味


 市場が近づくにつれて、人の声が増えていった。


 通りの両側に店が並び、その間にも簡単な台を出した商人がいる。野菜や果物、干した肉。布や籠、鍋。見慣れない形の瓶や、旅商人らしい男が広げている小物まであった。


 エルナは自然と足を緩めた。


「広いですね」


「この辺じゃ一番大きいと思う」


 ルークはそう言って、人を避けながら先へ進む。


「食べ物はあっち。薬草とか道具はもう少し奥」


「よく来るんですか」


「必要な時は」


「それだけですか」


「見るだけなら来ないな」


「そうでしょうね」


 エルナが言うと、ルークが横を見る。


「何」


「いえ。そうだろうなと思っただけです」


「エルナも似たようなもんじゃない?」


「私は見るだけでも参考になるので」


「じゃあ違うか」


「はい」


 市場へ入ってすぐ、エルナは並んでいる野菜へ目を向けた。


 普段使っている町でも手に入るものが多い。ただ、種類も量もこちらの方が多かった。値札を見る。こちらでは少し安いものもあれば、逆に高いものもある。


 エルナが立ち止まるたび、ルークも少し先で待った。


「先に行ってもいいですよ」


「別に急いでないし」


「そうですか」


 エルナはまた店先を見る。


 束ねられた香草の中に、見覚えのあるものがあった。


「これ、どこからですか」


 店番をしていた男へ聞く。


「北の村だよ。少し山に入ったところ」


「乾燥させてから運んでるんですか」


「ああ。生のままだと持たないからな」


 エルナは一束手に取った。乾き方を見る。葉の色は悪くない。


「買う?」


「今日はいいです」


「そうかい。また必要ならどうぞ」


「はい」


 束を戻し、店を離れる。


 ルークが隣へ戻ってきた。


「知ってるやつ?」


「はい。薬に使えます」


「山にもある?」


「似た種類なら。これはあまり見ません」


「へえ」


 短い返事だった。


 けれど、それで終わらず、ルークはエルナが見ていた店を一度振り返った。


 二人で歩き出す。


 少し先で、肉を焼く匂いがした。


 その横を通り過ぎようとした時だった。


「お、ルーク」


 声をかけられ、ルークが足を止める。


 小さな屋台の向こうから、中年の男が片手を上げていた。


「今日は仕事じゃないのか」


「休み」


「珍しいな」


「朝も言われた」


「みんな思うことは一緒だな」


 男は笑い、それ以上は引き止めなかった。ルークも軽く手を上げて歩き出す。


 エルナは少し後ろからついていった。


「知り合いですか」


「顔見知り」


「市場の?」


「ああ。たまに買う」


「そうなんですね」


 それだけだった。


 けれど、昨日から何度か似た場面を見ている。


 ラーデンを歩くルークは、どこかの道を知っていて、どこかの店を知っていて、時々誰かに名前を呼ばれる。


 傭兵として街を離れていた時期はあっても、ルークにとってここが長く暮らしてきた場所であることは、歩いているだけでもわかった。


 しばらく市場を見て回っているうちに、日が高くなった。


「そろそろ何か食べる?」


 ルークが聞く。


「はい」


「辛いのは駄目だったな」


 エルナは顔を上げた。


「覚えてたんですか」


「そりゃ覚えてるよ」


 何でもないように言って、ルークは道を曲がる。


 市場の中心から少し外れた場所だった。


 店というより、屋根を掛けただけの小さな屋台がいくつか並んでいる。


 ルークがそのうち一つの前で止まった。


 平たい焼き台の上で、薄く伸ばした生地が焼かれていた。隣では細く切った肉と野菜が炒められている。


 香草と塩の匂い。


「ここ?」


「うん」


「よく来るんですか」


「たまに」


「さっきから、たまにが多いですね」


「毎日来てる店なんかないよ」


「それもそうですね」


 ルークが二人分を注文する。


 焼き上がった薄いパンへ、肉と野菜を挟み、端を折って渡された。


 二人は簡素な長椅子へ並んで座る。


「熱いから気をつけて」


「はい」


 エルナは包んである紙を少しずらした。


 一口食べる。


 まず塩気が来た。そのあと、肉の脂と炒めた野菜の甘み。香草の匂いも強すぎない。


 もう一口。


 ルークが横から見る。


「どう?」


「おいしいです」


「よかった」


 エルナはまた食べる。


 山小屋で自分が作る食事とはまったく違う。手早く食べられるよう作られていて、味も少し濃い。


 けれど、嫌いではなかった。


 むしろ。


「これ、好きです」


 言ってから、もう一口食べる。


 隣でルークが少し笑った。


「じゃあ覚えとく」


 エルナは一度、ルークを見る。


「何をですか」


「エルナがこれ好きだってこと」


「……そうですか」


 ルークはもう食事へ戻っていた。


 エルナも手元へ視線を落とし、もう一口食べた。


 昼食を終えてからも、市場を歩いた。


 今度はエルナが必要なものを探す。


 薬草を包む布。細い紐。小さな石鹸。


 どれも急いで買わなければならないものではないが、山の町より種類が多かった。


「それ買うの?」


 ルークが石鹸を見て聞く。


「迷ってます」


「何が違う?」


「匂いです」


「それだけ?」


「それだけでも違います」


「へえ」


 ルークはまったくわからない顔をしている。


 エルナは二つを比べてから、香りの弱い方を選んだ。


「そっちなんだ」


「強い匂いは苦手なので」


「なるほど」


 エルナは買った石鹸を鞄へしまう。


 昼に買ったものとは別に、朝パン屋で買った木の実のパンも入っていた。


 まだ潰れていないことを確かめる。


 ルークがそれを見る。


「それ、いつ食べる?」


「明日の朝にでも」


「やっぱり気に入ってる?」


 エルナは少し考えた。


 一度食べた。


 今日、自分から同じものを選んだ。


「……はい。好きです」


「そっか」


 それだけだった。


 市場で見つけたものと、パン屋で買ったもの。


 ラーデンには、好きだと思える味が二つできた。


 午後になり、二人は市場を出た。


 朝より荷物は少し増えている。


「明日は仕事見る?」


 ルークが聞いた。


 エルナは歩きながら、少し考えた。


「明日」


「うん」


 そこで思い出す。


「私、明日までなんです」


「何が?」


「宿です。三泊で取ったので」


「ああ」


 ルークも思い出したらしい。


「そういえばそうだったな」


「はい」


 少しだけ間が空く。


「帰る?」


 聞き方は軽かった。


 けれど、エルナはすぐには答えなかった。


 明日帰ることもできる。


 もともと、そのつもりで来た。


 三泊。


 大きな街を見て、ギルドを見て、必要なら仕事もする。


 それくらいの予定だった。


「……まだ決めてません」


「そっか」


 ルークはそれ以上聞かなかった。


 そのまま宿まで一緒に歩いた。


 宿へ入ると、受付にいた女がエルナを見た。


「あ、エルナさん」


「はい」


「明日まででしたよね。もし延長されるなら、今日の夕方までにお願いします」


「わかりました」


 エルナは一度、階段へ向かいかけた。


 足が止まる。


 明日帰る。


 山小屋へ戻れば、いつもの暮らしがある。


 一人で起きて、水を汲む。薬草を採り、必要なら町へ行く。それで困ることはない。


 一方で、ラーデンにはまだ見ていない場所がある。


 大きなギルドもある。仕事もある。異変について集まる情報も、山の町より多い。


 市場にも、今日見なかった店がいくつもあった。


 エルナは振り返った。


「すみません」


「はい?」


「あと三泊、延ばせますか」


 受付の女は帳面を確認する。


「同じ部屋で大丈夫です。三泊ですね?」


「はい」


「では、六泊で」


 エルナは追加分を支払った。


 受け取った女が帳面へ書き込む。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


 受付から離れる。


 少し離れたところで待っていたルークのところへ戻った。


「延ばした?」


「はい。三泊」


「そっか」


 ほんの少しだけ、ルークの口元が緩んだ。


 それだけだった。


「じゃあ明日、仕事見る?」


「そうですね」


「朝、迎え来る?」


「ギルドで待ち合わせでもいいですよ」


「じゃあそうするか」


「はい」


 明日の予定が決まる。


 来た時にはなかった予定だった。


 宿の前まで出る。


 もう夕方が近い。通りを歩く人の数も、朝とは少し違っていた。


「じゃあ、また明日」


 ルークが言う。


「はい」


 エルナは一度頭を下げかけてから、顔を上げた。


「今日はありがとうございました」


「うん」


 ルークが少し考える。


「じゃあ、お礼一つもらっていい?」


 エルナは眉を寄せた。


「何ですか」


「そんな警戒しなくても」


「内容によります」


「そりゃそうか」


 ルークは少し笑った。


 それから、エルナを見る。


「一回だけ、敬語なしで話してみて」


 エルナは瞬きをした。


「……敬語を?」


「うん」


「それがお礼なんですか」


「そう」


「なぜですか」


「一回くらい聞いてみたいから」


 エルナは黙った。


 ルークは少し待ってから言った。


「嫌ならいいよ。別に、絶対ってわけじゃないし」


 押してくる様子はない。


 本当に、頼んでみただけらしい。


 エルナは少し考える。


「……一回だけですか」


「うん。一回だけ」


 なら、できないことではない。


 ただ、ずっと敬語で話してきたせいか、急に外せと言われると、何を言えばいいのかわからなかった。


 今日のことを考える。


 パン屋。


 市場。


 昼に食べたもの。


 知らない街を、一日案内してもらった。


 エルナは一度息を吐いた。


「……今日は、ありがとう。ルーク」


 自分の声なのに、少し違って聞こえた。


 ルークが一瞬、目を見開く。


 それから、少し笑った。


「うん。どういたしまして」


 短い沈黙が落ちる。


「じゃあ、また明日」


「はい」


 エルナは宿の扉へ手をかけた。


「また明日、エルナ」


「はい」


 そのまま宿へ入った。


     *


 部屋へ戻る。


 今日買ったものを鞄から出し、机の上へ置いた。


 布。紐。石鹸。


 そして、パン屋で買った木の実のパン。


 明日の朝に食べるつもりだった。


 エルナはそれを机の端へ置く。


 来た日には、三泊だけのつもりだった。


 けれど、明日もここにいる。


 その次の日も。


 エルナは鞄を壁際へ戻した。


 荷物を片づける必要は、まだなかった。




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