第70話 この街の味
市場が近づくにつれて、人の声が増えていった。
通りの両側に店が並び、その間にも簡単な台を出した商人がいる。野菜や果物、干した肉。布や籠、鍋。見慣れない形の瓶や、旅商人らしい男が広げている小物まであった。
エルナは自然と足を緩めた。
「広いですね」
「この辺じゃ一番大きいと思う」
ルークはそう言って、人を避けながら先へ進む。
「食べ物はあっち。薬草とか道具はもう少し奥」
「よく来るんですか」
「必要な時は」
「それだけですか」
「見るだけなら来ないな」
「そうでしょうね」
エルナが言うと、ルークが横を見る。
「何」
「いえ。そうだろうなと思っただけです」
「エルナも似たようなもんじゃない?」
「私は見るだけでも参考になるので」
「じゃあ違うか」
「はい」
市場へ入ってすぐ、エルナは並んでいる野菜へ目を向けた。
普段使っている町でも手に入るものが多い。ただ、種類も量もこちらの方が多かった。値札を見る。こちらでは少し安いものもあれば、逆に高いものもある。
エルナが立ち止まるたび、ルークも少し先で待った。
「先に行ってもいいですよ」
「別に急いでないし」
「そうですか」
エルナはまた店先を見る。
束ねられた香草の中に、見覚えのあるものがあった。
「これ、どこからですか」
店番をしていた男へ聞く。
「北の村だよ。少し山に入ったところ」
「乾燥させてから運んでるんですか」
「ああ。生のままだと持たないからな」
エルナは一束手に取った。乾き方を見る。葉の色は悪くない。
「買う?」
「今日はいいです」
「そうかい。また必要ならどうぞ」
「はい」
束を戻し、店を離れる。
ルークが隣へ戻ってきた。
「知ってるやつ?」
「はい。薬に使えます」
「山にもある?」
「似た種類なら。これはあまり見ません」
「へえ」
短い返事だった。
けれど、それで終わらず、ルークはエルナが見ていた店を一度振り返った。
二人で歩き出す。
少し先で、肉を焼く匂いがした。
その横を通り過ぎようとした時だった。
「お、ルーク」
声をかけられ、ルークが足を止める。
小さな屋台の向こうから、中年の男が片手を上げていた。
「今日は仕事じゃないのか」
「休み」
「珍しいな」
「朝も言われた」
「みんな思うことは一緒だな」
男は笑い、それ以上は引き止めなかった。ルークも軽く手を上げて歩き出す。
エルナは少し後ろからついていった。
「知り合いですか」
「顔見知り」
「市場の?」
「ああ。たまに買う」
「そうなんですね」
それだけだった。
けれど、昨日から何度か似た場面を見ている。
ラーデンを歩くルークは、どこかの道を知っていて、どこかの店を知っていて、時々誰かに名前を呼ばれる。
傭兵として街を離れていた時期はあっても、ルークにとってここが長く暮らしてきた場所であることは、歩いているだけでもわかった。
しばらく市場を見て回っているうちに、日が高くなった。
「そろそろ何か食べる?」
ルークが聞く。
「はい」
「辛いのは駄目だったな」
エルナは顔を上げた。
「覚えてたんですか」
「そりゃ覚えてるよ」
何でもないように言って、ルークは道を曲がる。
市場の中心から少し外れた場所だった。
店というより、屋根を掛けただけの小さな屋台がいくつか並んでいる。
ルークがそのうち一つの前で止まった。
平たい焼き台の上で、薄く伸ばした生地が焼かれていた。隣では細く切った肉と野菜が炒められている。
香草と塩の匂い。
「ここ?」
「うん」
「よく来るんですか」
「たまに」
「さっきから、たまにが多いですね」
「毎日来てる店なんかないよ」
「それもそうですね」
ルークが二人分を注文する。
焼き上がった薄いパンへ、肉と野菜を挟み、端を折って渡された。
二人は簡素な長椅子へ並んで座る。
「熱いから気をつけて」
「はい」
エルナは包んである紙を少しずらした。
一口食べる。
まず塩気が来た。そのあと、肉の脂と炒めた野菜の甘み。香草の匂いも強すぎない。
もう一口。
ルークが横から見る。
「どう?」
「おいしいです」
「よかった」
エルナはまた食べる。
山小屋で自分が作る食事とはまったく違う。手早く食べられるよう作られていて、味も少し濃い。
けれど、嫌いではなかった。
むしろ。
「これ、好きです」
言ってから、もう一口食べる。
隣でルークが少し笑った。
「じゃあ覚えとく」
エルナは一度、ルークを見る。
「何をですか」
「エルナがこれ好きだってこと」
「……そうですか」
ルークはもう食事へ戻っていた。
エルナも手元へ視線を落とし、もう一口食べた。
昼食を終えてからも、市場を歩いた。
今度はエルナが必要なものを探す。
薬草を包む布。細い紐。小さな石鹸。
どれも急いで買わなければならないものではないが、山の町より種類が多かった。
「それ買うの?」
ルークが石鹸を見て聞く。
「迷ってます」
「何が違う?」
「匂いです」
「それだけ?」
「それだけでも違います」
「へえ」
ルークはまったくわからない顔をしている。
エルナは二つを比べてから、香りの弱い方を選んだ。
「そっちなんだ」
「強い匂いは苦手なので」
「なるほど」
エルナは買った石鹸を鞄へしまう。
昼に買ったものとは別に、朝パン屋で買った木の実のパンも入っていた。
まだ潰れていないことを確かめる。
ルークがそれを見る。
「それ、いつ食べる?」
「明日の朝にでも」
「やっぱり気に入ってる?」
エルナは少し考えた。
一度食べた。
今日、自分から同じものを選んだ。
「……はい。好きです」
「そっか」
それだけだった。
市場で見つけたものと、パン屋で買ったもの。
ラーデンには、好きだと思える味が二つできた。
午後になり、二人は市場を出た。
朝より荷物は少し増えている。
「明日は仕事見る?」
ルークが聞いた。
エルナは歩きながら、少し考えた。
「明日」
「うん」
そこで思い出す。
「私、明日までなんです」
「何が?」
「宿です。三泊で取ったので」
「ああ」
ルークも思い出したらしい。
「そういえばそうだったな」
「はい」
少しだけ間が空く。
「帰る?」
聞き方は軽かった。
けれど、エルナはすぐには答えなかった。
明日帰ることもできる。
もともと、そのつもりで来た。
三泊。
大きな街を見て、ギルドを見て、必要なら仕事もする。
それくらいの予定だった。
「……まだ決めてません」
「そっか」
ルークはそれ以上聞かなかった。
そのまま宿まで一緒に歩いた。
宿へ入ると、受付にいた女がエルナを見た。
「あ、エルナさん」
「はい」
「明日まででしたよね。もし延長されるなら、今日の夕方までにお願いします」
「わかりました」
エルナは一度、階段へ向かいかけた。
足が止まる。
明日帰る。
山小屋へ戻れば、いつもの暮らしがある。
一人で起きて、水を汲む。薬草を採り、必要なら町へ行く。それで困ることはない。
一方で、ラーデンにはまだ見ていない場所がある。
大きなギルドもある。仕事もある。異変について集まる情報も、山の町より多い。
市場にも、今日見なかった店がいくつもあった。
エルナは振り返った。
「すみません」
「はい?」
「あと三泊、延ばせますか」
受付の女は帳面を確認する。
「同じ部屋で大丈夫です。三泊ですね?」
「はい」
「では、六泊で」
エルナは追加分を支払った。
受け取った女が帳面へ書き込む。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
受付から離れる。
少し離れたところで待っていたルークのところへ戻った。
「延ばした?」
「はい。三泊」
「そっか」
ほんの少しだけ、ルークの口元が緩んだ。
それだけだった。
「じゃあ明日、仕事見る?」
「そうですね」
「朝、迎え来る?」
「ギルドで待ち合わせでもいいですよ」
「じゃあそうするか」
「はい」
明日の予定が決まる。
来た時にはなかった予定だった。
宿の前まで出る。
もう夕方が近い。通りを歩く人の数も、朝とは少し違っていた。
「じゃあ、また明日」
ルークが言う。
「はい」
エルナは一度頭を下げかけてから、顔を上げた。
「今日はありがとうございました」
「うん」
ルークが少し考える。
「じゃあ、お礼一つもらっていい?」
エルナは眉を寄せた。
「何ですか」
「そんな警戒しなくても」
「内容によります」
「そりゃそうか」
ルークは少し笑った。
それから、エルナを見る。
「一回だけ、敬語なしで話してみて」
エルナは瞬きをした。
「……敬語を?」
「うん」
「それがお礼なんですか」
「そう」
「なぜですか」
「一回くらい聞いてみたいから」
エルナは黙った。
ルークは少し待ってから言った。
「嫌ならいいよ。別に、絶対ってわけじゃないし」
押してくる様子はない。
本当に、頼んでみただけらしい。
エルナは少し考える。
「……一回だけですか」
「うん。一回だけ」
なら、できないことではない。
ただ、ずっと敬語で話してきたせいか、急に外せと言われると、何を言えばいいのかわからなかった。
今日のことを考える。
パン屋。
市場。
昼に食べたもの。
知らない街を、一日案内してもらった。
エルナは一度息を吐いた。
「……今日は、ありがとう。ルーク」
自分の声なのに、少し違って聞こえた。
ルークが一瞬、目を見開く。
それから、少し笑った。
「うん。どういたしまして」
短い沈黙が落ちる。
「じゃあ、また明日」
「はい」
エルナは宿の扉へ手をかけた。
「また明日、エルナ」
「はい」
そのまま宿へ入った。
*
部屋へ戻る。
今日買ったものを鞄から出し、机の上へ置いた。
布。紐。石鹸。
そして、パン屋で買った木の実のパン。
明日の朝に食べるつもりだった。
エルナはそれを机の端へ置く。
来た日には、三泊だけのつもりだった。
けれど、明日もここにいる。
その次の日も。
エルナは鞄を壁際へ戻した。
荷物を片づける必要は、まだなかった。




