第69話 名前を呼ぶ人たち
翌朝。
エルナが宿を出ると、ルークは通りの向こうにいた。
こちらに気づき、片手を上げる。
「おはよう」
「おはようございます」
昨日より少しだけ、待ち合わせることにも慣れた気がする。
ルークはエルナが近づくのを待ってから、歩き出した。
「市場行く前に、一軒寄っていい?」
「どこですか」
「パン屋」
エルナは少し考える。
「前に持ってきてくれたパンのお店ですか」
「ああ。あそこ」
「行きます」
ルークが一度こちらを見た。
「覚えてた?」
「食べたので」
「そっか」
それだけ言って、前を向く。
市場へ向かう大通りから一本外れ、住宅と小さな店が並ぶ道へ入った。
昨日、ルークの部屋へ向かった道とはまた少し違う。
朝の街には、焼いたパンの匂いが混じっていた。
その匂いが強くなったところで、ルークが一軒の店を指す。
「ここ」
大きな店ではなかった。
正面には小さな看板が掛けられ、開いた扉の向こうに焼き上がったパンが並んでいる。
中へ入ると、温かい空気と一緒に、小麦と焼けた生地の匂いが濃くなった。
「いらっしゃ――」
店の奥にいた若い女が顔を上げる。
「あ、ルーク」
「おはよう、リリア」
「この前来たばかりじゃない」
「そうだっけ」
「そうよ」
女――リリアは呆れたように笑った。
その声を聞いたのか、奥から男が顔を出す。
「ルークか」
「よう、ハンス」
男は腰まである前掛けをつけ、腕には白い粉がついていた。
「今日は仕事じゃないのか」
「今日は休み」
「珍しいな」
「たまにはいいだろ」
短いやり取りだった。
けれど、客へ向けるものとは少し違う。
エルナは黙って二人を見る。
ルークは何か説明するでもなく、いつもの調子で店の中へ立っている。
リリアがそこで、エルナへ目を向けた。
「あら」
ルークも気づいたらしい。
「エルナ」
呼ばれて、エルナは一歩前へ出る。
「前に怪我した時、世話になった」
一瞬、リリアの目が見開かれた。
「ああ、この人?」
ハンスもこちらを見る。
「山で助けてもらったっていう」
「そう」
エルナは軽く頭を下げた。
「エルナです」
「リリアです。こっちは夫のハンス」
「よろしく」
ハンスも短く頭を下げる。
それから、少しだけ表情を緩めた。
「ルークを助けてくれて、ありがとう」
「怪我をしていたので、休ませただけです」
「それでも助かったよ。帰ってきた時には、もう普通の顔してたからな」
「治るまで休ませました」
「それなら安心した」
ハンスはそう言うと、また作業へ戻りかけた。
大袈裟に礼を言われるわけでもない。
けれど、ルークが無事に帰ってきたことを、ちゃんと気にしていたのだとわかる。
その時、店の奥から小さな足音がした。
「ルーク!」
声が二つ重なる。
二人の男の子が、奥の扉から走ってきた。
同じくらいの背丈。同じような茶色い髪。
「走ると危ないわよ」
リリアが声をかける。
片方はそのままルークの脚へ抱きついた。
もう片方は横から近づき、腰に下げている剣へ手を伸ばす。
「ニル、それ駄目」
ルークが先に手を押さえた。
「なんで?」
「危ないから」
「さわるだけ」
「触るだけでも駄目」
言いながら、脚にしがみついていた方を見る。
「テオも離れろ。歩けない」
「だっこ」
「今?」
「いま」
ルークは少しだけ息を吐いた。
けれど、断ることもなくテオを抱き上げる。
「重くなったな」
「おもくない」
「重いよ」
「ニルも!」
「二人は無理」
「できる!」
「俺が無理」
ニルが不満そうに頬を膨らませる。
エルナは、その様子を見ていた。
剣に触れさせない手も、子どもを抱き上げる動きも迷いがない。
慣れている。
それは山小屋で、野菜の皮を剥いていた時にも感じたことだった。
家事も、怪我人の世話も、ルークには特別なことではなかった。
「昔からこうなのよ」
リリアが笑いながら言った。
「小さい子の相手、慣れてるの」
「孤児院で?」
エルナが聞くと、リリアは頷いた。
「うん。年下の子の面倒、よく見てたから」
奥からハンスの声が飛んでくる。
「自分だってまだ子どもだったけどな」
「ハンスも同じだろ」
「俺はお前より年上だった」
「それはそうだけど」
ルークがあっさり返す。
ハンスは小さく笑い、また作業へ戻った。
エルナはルークを見る。
テオを片腕で抱いたまま、ニルがまた剣へ近づかないよう片手で押さえている。
いつものルークだった。
ただ、自分の知らない場所で、ずっと前からこうしていたらしい。
「ルーク、パン!」
テオが言った。
「俺が?」
「たべる」
「お前が食べるんだろ」
「ルークも」
「朝食べた」
「じゃあぼく」
「結局それか」
リリアが笑い、棚から小さなパンを一つ取った。
「あとでね。今はまだ駄目」
「なんで?」
「さっき食べたでしょう」
「たべてない」
「食べました」
「……ちょっとだけ」
「一個食べました」
テオは黙った。
ルークが小さく笑う。
「負けてる」
「笑わないで」
リリアが言い返す。
エルナは少しだけ口元を緩めた。
その時、客が一人入ってきた。
リリアはすぐにそちらへ向かう。
ルークもテオを床へ下ろした。
「ほら、奥戻れ」
「やだ」
「仕事の邪魔するなって」
ニルが先に奥へ戻る。
テオも少し迷ってから、そのあとを追った。
二人の姿が扉の向こうへ消える。
店の中が少し静かになった。
「……元気ですね」
エルナが言う。
「ずっとあんな感じ」
「二人とも?」
「ああ」
「大変そうです」
リリアが客へパンを渡しながら振り返った。
「大変よ」
即答だった。
「でも静かだと、それはそれで心配になるの」
「何かしてるからな」
ハンスが言う。
「それ」
リリアが頷いた。
エルナはまた少し笑った。
*
客が途切れたところで、エルナは棚に並ぶパンを見た。
丸いもの。細長いもの。中に木の実が入ったもの。
見覚えのある形を見つけて、足を止める。
「これ」
「ん?」
ルークが隣へ来る。
「前に持ってきてくれたの、これですよね」
「ああ。それ」
山小屋で一緒に食べたパン。
あの時は、ルークが朝のラーデンで買って、山まで持ってきた。
今日は自分が、その店に立っている。
「これください」
エルナが言うと、リリアが一つ取った。
「一つでいい?」
「はい」
「じゃあ――」
リリアが包もうとして、一度だけ手を止めた。
視線がエルナから、その隣に立つルークへ移る。
ほんの一瞬だった。
すぐにまたパンへ戻ったけれど、エルナはその視線に気づいた。
以前なら、気にもしなかったかもしれない。
今は、その理由を少しだけ考えられた。
ルークが、自分を好きだと言ったことを知っているから。
エルナは何も言わず、並んでいるパンへ視線を戻した。
「リリア、それ小さい方だ」
奥からハンスの声がした。
「あ、本当だ」
リリアが手元を見る。
並んでいるものを見比べると、同じ種類でも少しだけ大きさが違う。
「最近、少し小さくしてるの」
「そうなんですか」
「粉がまた上がったから」
リリアは何気なく言った。
ルークが顔を向ける。
「また?」
「うん。ほんの少しだけど」
ハンスが作業を続けながら口を挟む。
「いつものところから入る量が減ってるらしい。今年は出来があんまりよくないってさ」
「この辺も?」
「この辺だけじゃないみたいだな」
ハンスは生地を台へ置く。
「まだ困るほどじゃない。ただ、このまま上がるなら値段か大きさか、どっちかは考えないと駄目だ」
「今は少しだけ小さくしてるの」
リリアが言う。
「値段を上げるほどでもないから」
エルナは並んでいるパンを見る。
見た目には、ほとんどわからない。
パンもある。
客も来る。
店はいつも通り開いている。
けれど、その中でも少しずつ変わっている。
山で減っていた薬草。
細くなっている水。
畑へ下りてくる獣。
ギルドで見た、作物に関する依頼。
それが今度は、毎日食べるパンにまで繋がっていた。
「収穫が減ってる理由は?」
ルークが聞く。
「雨が少ないとか、暑すぎるとか。その辺じゃないかって話しか聞いてない」
「そっか」
「お前、何か知ってるのか?」
「いや。似た話が他でも増えてる」
「やっぱりか」
ハンスは少し眉を寄せたが、それ以上は言わなかった。
手元の仕事へ戻る。
すぐにまた、パンを作る音が店の奥から聞こえ始めた。
エルナは包んでもらったパンを受け取る。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
代金を払う。
リリアは普通に受け取り、釣りを返した。
*
「じゃあ行くか」
ルークが言った。
「はい」
店を出ようとした時、奥の扉がまた開いた。
「ルーク!」
テオが顔だけ出す。
「もういくの?」
「ああ」
「またくる?」
「そのうち」
「いつ?」
「決めてない」
「きょう?」
「今日は来ない」
「じゃあ、あした」
「たぶん来ない」
テオが不満そうな顔をする。
その後ろからニルも顔を出した。
少しだけ二人でこちらを見たあと、ニルがエルナを指す。
「エルナも?」
エルナは一瞬、言葉に詰まった。
「……また来ることがあれば」
「いっしょ?」
「それはわかりません」
正直に答えると、ニルはよくわからない顔をした。
リリアがそのやり取りを見て、ほんの少し笑った。
「ほら、邪魔しないの」
二人を奥へ戻す。
「またね、エルナさん」
「はい」
ハンスも奥から軽く手を上げた。
エルナは頭を下げ、ルークと一緒に店を出た。
外へ出ても、しばらくパンの匂いが服に残っていた。
*
二人で市場へ向かう。
少し歩いたところで、エルナは口を開いた。
「よく行くんですか。あのお店」
「たまに」
「もっと頻繁なのかと思いました」
「あいつらも忙しいし、俺も仕事出てるからな」
「双子、ずいぶん懐いてましたね」
「赤ん坊の頃から知ってるから」
「そうなんですね」
エルナは前を向く。
昨日見た、ルークの部屋を思い出した。
寝台とクローゼットしかない、小さな部屋。
そこには、長く暮らしてきた人間の物がほとんどなかった。
けれど街へ出れば、ルークを名前で呼ぶ人がいる。
昔のルークを知っている人がいる。
顔を見れば駆け寄ってくる子どもがいる。
「何?」
隣から声がする。
エルナはルークを見る。
「いえ」
「またそれ?」
「考えてただけです」
「そっか」
ルークはそれ以上聞かなかった。
二人はそのまま歩く。
やがて前方から、人の声が増えてきた。
市場が近いらしい。
エルナは手にしたパンの包みを持ち直した。
昨日まで知らなかった街の中に、知っている場所がまた一つ増えていた。




