第68話 知らなかった暮らし
翌朝。
エルナが宿の食堂で朝食を終える頃、ルークが迎えに来た。
「おはようございます」
「おはよう。眠れた?」
「はい。思っていたより静かでした」
「ならよかった」
食事を終えたエルナは部屋へ戻って必要なものだけを持ち、そのまま二人で宿を出た。
昨日歩いた道を、今度は中心部へ向かう。
一日過ごしただけでは、まだ道を覚えたとは言えない。それでも、昨日まったく知らなかった街の中に、見覚えのある角や建物が少しだけ増えている。
「今日は仕事見る?」
「そのつもりです」
「じゃあギルドだな」
ルークが歩く方へ、エルナも並んだ。
*
冒険者ギルドは、朝から人が多かった。
仕事へ出る前らしい者たちが依頼書を手に受付へ並び、壁際では何人かが掲示板を眺めている。
エルナとルークも空いている掲示板の前へ向かった。
「今日は日帰りできるものがいいですね」
「そうだな」
昨日見た時と同じように、掲示されている依頼は多い。
護衛。採取。荷運び。獣害調査。設備の補修。
その中から、ルークが一枚の依頼書を外した。
「これならどう?」
エルナが横から覗く。
ラーデンの北西にある斜面沿いの細道について、通行できる状態か確認してほしいという依頼だった。
狩人や採取者が使う道らしい。最近、一部で土が崩れているという報告があり、危険な場所には目印を付けてほしいと書かれている。
「行ったことあるんですか」
「ああ。何回か」
「危険ですか?」
「普通に歩く分にはそこまで。ただ、斜面側まで見るなら縄あった方がいいな」
ルークが自分の荷物へ目をやる。
少し考えたあと、言った。
「……部屋だ」
「縄が?」
「ああ。長いの置いてある」
エルナは依頼書をもう一度見る。
「取りに戻りますか」
「ここからならそんな遠くないよ。杭と木槌もあるし、それも持ってく」
「じゃあ、そうしましょう」
依頼を受ける手続きを済ませ、二人はギルドを出た。
*
昨日歩いた中心部を抜け、住宅の多い方へ向かう。
市場や大通りの喧騒は少しずつ遠ざかり、代わりに家々の窓から干された洗濯物や、軒先を掃く人の姿が目につくようになった。
「この辺なんですね」
「ああ。もうすぐ」
ルークはいつも通り、迷う様子もなく歩いている。
「ずっと同じところに住んでるんですか?」
「ああ」
「何歳からですか」
「十四」
エルナは隣を見る。
「十四から?」
「孤児院出て、そのまま借りた」
少し考えて、エルナは聞いた。
「今、何歳なんですか」
ルークがこちらを見る。
「十九」
「そうなんですね」
「エルナは?」
「十八です」
「一つ下か」
「はい」
それだけだった。
知ったからといって、何かが変わるわけではない。
ただ、今まで知らなかったことが一つ増えた。
「じゃあ、五年くらい住んでるんですね」
「まあ、ずっといたわけじゃないけどな」
「どういうことですか?」
「十四で冒険者始めて、十六になる少し前くらいに傭兵に誘われたから」
エルナは少し目を瞬く。
「最初から傭兵だったわけじゃないんですね」
「違うよ。最初は冒険者」
「制限付きで?」
「ああ。十四だったから」
十五歳になるまでは、受けられる仕事に制限がある。
エルナも経験していることだった。
「傭兵はいつまで?」
「十八くらいまで」
「それから、また冒険者に戻ったんですか」
「ああ」
「この部屋は?」
「借りたまま」
「傭兵をしてる間も?」
「帰るたびに部屋探すの面倒だったし。家賃も安かったから」
ルークは大したことでもないように言う。
だから、住み始めてからなら五年。
ただし、その間ずっとここで暮らしていたわけではないらしい。
やがて、ルークが一軒の建物の前で足を止めた。
二階建ての、少し古い家だった。古びてはいるが、壁や窓はきちんと手入れされている。
「ここ」
ルークが建物の脇へ回ろうとした時、正面の扉が開いた。
年配の女性が出てくる。畳んだ布と小さな籠を腕に抱えていた。
「おや、ルーク」
「こんにちは、グレタさん」
女性――グレタは足を止めた。
ルークを見て、それからエルナへ視線を移す。
少し見ただけで、特に何も聞かなかった。
「珍しいね」
「仕事の道具取りに来ただけ」
「そうかい」
グレタはもう一度だけエルナを見る。
「女の子を連れ込むなら、お茶ぐらい出しておやりよ」
「茶葉ないけど」
「なら水でも出しな」
それだけ言うと、グレタは二人の横を通り過ぎた。
振り返りもしない。
エルナは少しだけその背中を見る。
「家主さんですか」
「ああ」
「ずいぶん、あっさりしてますね」
「いつもあんな感じ」
「私が誰かも聞きませんでしたけど」
「面倒起こさなきゃ気にしないんだと思う」
ルークはそう言って、建物の脇へ回った。
裏側に、小さな入口がある。
「借りてるやつはこっちから入る」
扉を開けると、すぐに階段があった。
二階へ上がる。
廊下にはいくつか扉が並んでいたが、人の気配はない。
「ほかにも住んでるんですか」
「二人。たぶん仕事出てる」
ルークはそのうちの一つの前で止まり、鍵を開けた。
「ここ」
扉を押し開ける。
エルナは中へ入り――少しだけ立ち止まった。
広くはない。
それは予想していた。
けれど、狭さより先に目についたのは、物の少なさだった。
壁際に寝台が一つ。その横に、小さなクローゼット。
それだけだった。
机もない。椅子もない。
壁にも窓辺にも、何も飾られていない。
「……ずいぶん、物が少ないんですね」
ルークが振り返る。
「そう?」
「そうです」
本人にはあまり自覚がないらしい。
ルークは気にした様子もなくクローゼットの扉を開けた。
中も、驚くほど簡素だった。
掛けられている服は二、三着。
棚の上には、取っ手のついた杯と、皿、それから器がほんの少し。その隅に、包みに入った乾パンが置いてある。
下の段には長縄と杭、木槌。鞘に収められたナイフが一本。
その横には、剣や革製品の手入れに使うらしい小道具と、かなり傷んだ肘当てと膝当てが収まっていた。
「これ」
ルークが長縄を取り出す。
床へ置いてから、杭と木槌も出した。
エルナはまだクローゼットの中を見ていた。
「……これで全部ですか」
「何が?」
「持ち物です」
ルークもクローゼットを見る。
「まあ、だいたい」
「服も?」
「それだけ」
「食べ物は?」
「そこにある」
指した先には、さきほど見つけた乾パンの包みしかない。
エルナは振り返った。
「これだけですか?」
「あとは外で食べるから」
「料理はしないんですか」
「ほとんどしない」
昨日、ラーデンの通りで屋台を指していたことを思い出す。
「乾パンは食べるんですか」
「非常食。なくなったら足してる」
「ずっと置いてる?」
「ああ。傭兵の頃からの癖」
ルークは長縄をまとめながら答える。
「食えるもの何もない状態にするなって言われてたから」
エルナはもう一度、棚を見る。
料理をするための物はほとんどないのに、すぐ持ち出せる食料だけはある。
その隣にある、古びた肘当てへ目を移した。
「これは?」
「ああ。昔使ってたやつ」
ルークが手を止める。
「まだ使うんですか」
「ほとんど使わない。でも危ない仕事ならたまに」
捨てない理由は、それで十分らしい。
まだ使えるから置いてある。
エルナは部屋を見回した。
長く借りている部屋には、普通もっと物が増えるものではないだろうか。
途中、長く留守にしていた時期があるとしても、それでも五年だ。
自分の山小屋だって、最初から今の形だったわけではない。
必要になったから棚を作った。
机があり、椅子がある。
鍋や食器があり、薬草を乾かす場所がある。
暮らしていくうちに、少しずつ物が増えた。
けれど、この部屋にはそれがほとんど見えない。
「ルーク」
「何?」
「どうして、こんなに物が少ないんですか」
ルークは少し考えた。
「……傭兵の時に、増やすなって言われてたからかな」
「持ち物を?」
「ああ」
長縄を束ねたまま、ルークは壁へ背を預ける。
「いつ移動になっても、すぐ持って出られるようにしろって。いつ死ぬかわからないし、残しても邪魔になるから」
声はいつもと変わらなかった。
昔教わったことを、そのまま説明しているだけだった。
「冒険者に戻ってからは、増やしてもよかったんだけど」
ルークは部屋を見る。
「特に必要なかったし」
エルナも同じように見回した。
「家にいること、少ないんですか」
「ほとんど寝に帰るくらいかな」
「毎日?」
「仕事あれば外出てるし。なければ……孤児院行ったり、知り合いと飯食ったり、飲んだり」
「そうなんですね」
「部屋にずっといることはあんまりない」
それなら、この部屋に物が増えないのも不思議ではないのかもしれない。
「だから増えないんですね」
「たぶん」
ルークはあまり興味がなさそうに答えた。
必要な道具を鞄へ入れ、立ち上がる。
「これでいいかな」
「はい」
エルナは最後にもう一度だけ部屋を見る。
片づいている、というのとは少し違う。
片づけるほど、物がない。
本当に、大きな鞄が一つあればほとんど持って出られそうだった。
「行こうか」
「はい」
エルナは部屋を出た。
ルークが鍵をかける。
その扉を見ながら、エルナは少しだけ思った。
山小屋へ来るたび、ルークは自分の暮らしている場所を見ていた。
今日は初めて、その向きが逆になった。
*
ラーデンを出て北西へ進むと、やがて道は緩やかな斜面へ入った。
依頼にあった細道は、大きな街道から外れた先にある。
人が二人並んで歩くには少し狭い。
しばらく進むと、道の端が崩れている場所がいくつか見つかった。
「ここはまだ通れるな」
ルークがしゃがみ込み、地面を見る。
「でも荷物多いと危ないかも」
エルナも少し離れたところから斜面を見る。
「下まで確認しますか」
「ああ。一回見た方がいい」
ルークは鞄から長縄を取り出した。
太い木へ結び、何度か引いて確かめる。
「俺、下見るから」
「私が上にいます」
「ああ。何かあったら引いて」
「わかりました」
ルークは縄を使いながら、崩れた斜面へ慎重に降りていった。
エルナは上から様子を見る。
少しして、ルークが声を上げた。
「こっち、もう一段崩れてる」
「通れそうですか」
「人だけなら。でも印つけた方がいいな」
戻ってきたルークが、今度は木槌と杭を取り出す。
二人で危険な箇所へ目印を付けながら、道を先へ進んだ。
「縄、取ってきて正解でしたね」
エルナが言う。
「だろ」
ルークは杭を一本地面へ打ち込む。
乾いた音が斜面へ響いた。
エルナは、その手元を見る。
長縄。杭。木槌。
さっきまで、あの小さなクローゼットの下段に収まっていた物だ。
部屋の中にあったものの多くが、こうして外へ出るために使うものだった。
服も少ない。
食器も少ない。
食料も非常食だけ。
けれど、仕事に必要な道具は揃っている。
ルークは次の杭を手に取った。
「エルナ、そっち少し見てくれる?」
「はい」
呼ばれて、エルナも斜面へ目を向けた。
仕事はそれほど時間もかからなかった。
危険箇所をいくつか記録し、目印を付ける。
最後まで道を確認したところで、二人は来た道を戻った。
*
ギルドへ報告を終えた頃には、夕方が近づいていた。
ルークと一緒に宿まで戻る。
「明日はどうする?」
「市場を見たいです」
「じゃあ案内するよ」
「仕事は?」
「朝、いいのなかったら休みでもいいし」
「そうなんですね」
「毎日受けなきゃいけないわけじゃないから」
宿の前へ着く。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
ルークは鞄を肩へ掛け直し、歩いていった。
エルナは宿へ入り、二階の部屋へ戻る。
扉を閉める。
寝台の横には、昨日持ってきた鞄。
机の上には、小さな薬入れと財布。朝使った髪紐も置いたままだった。
昨日来たばかりの部屋なのに、自分が使った物が少しずつ目につく。
エルナは椅子へ座り、ふとルークの部屋を思い出した。
寝台。
クローゼット。
二、三着の服。
少しの食器。
乾パン。
そして、外へ持っていくための道具。
ルークは今日も、あの部屋から外へ出てきた。
仕事をして、人と話し、街を歩き、夜になればまたあそこへ戻る。
十四から十九までの五年。
その途中には、傭兵として街を離れていた時間もある。
それでも、帰る場所だけはずっと同じだった。
山小屋へ来るルークしか知らなかった時には、考えたこともなかった。
エルナは机の上に置いていた髪紐を指で整える。
これまで見たことのなかったルークの暮らしを、今日は少しだけ見た。




