第67話 ルークのいる街
五日後の朝。
エルナはいつもより少し大きな鞄を背負い、小屋の扉に鍵をかけた。
中には着替えと、最低限の薬。それから仕事で使う道具が入っている。ひとまず三泊するつもりだった。
髪は布で包み、その上からフードを被っている。左腕には腕輪。町へ下りる時と同じ姿だった。
けれど、今日向かうのはいつもの町ではない。
山道を下りながら、エルナは背負った鞄の位置を直した。
ルークの街には、大きなギルドがある。近隣だけではなく、もっと離れた地域の依頼や情報も集まると言っていた。
市場も大きい。必要なものがあれば買えるし、仕事があれば受けてもいい。
行ってみたい理由は、いくつもあった。
その全部を確かめるように考えてから、エルナは一度だけ前を向いた。
今日は、ルークが暮らしている街へ行く。
*
町へ着いたのは、朝の乗合が出るより少し前だった。
席を取り、荷物を足元へ置く。
馬車が動き出す。
見慣れた町並みが後ろへ流れ、そのうち街道の両脇に畑が増え始めた。山は少しずつ遠くなる。
途中、小さな村をいくつか通った。
街道を行き交う荷車も、いつもの町の周辺より多い。木箱を積んだ商人の馬車や、荷を守るように武器を持った者たちも見えた。
窓の外を見ているうちに、ふと五日前のことを思い出す。
――好きだよ。
エルナは視線を窓の外へ置いたまま、瞬きをした。
そうではないかとは思っていた。本人の口から聞いたあとも、何かが大きく変わったわけではない。
あの日も、そのあと一緒に薬草を分けた。今日も、会えば普通に話せると思う。
ただ、これから会う相手が、自分を好きだと知っている。
その事実だけは、五日前までとは違っていた。
エルナは膝の上に置いた手を少し動かし、また外を見る。
考えても答えは出ない。
今はまだ、その先のことは考えられない。
自分でそう言ったのだから、それでいい。
馬車は街道を進み続けた。
*
昼前になる頃、道の先に建物が増え始めた。
畑の間に点々とあった家々が、やがて途切れなく続く。大きな荷車が何台も行き交い、人の数も目に見えて増えた。
乗合馬車がラーデンの街へ入る。
エルナが普段使っている町との違いは、窓から見ただけでもわかった。
道が広い。建物が多い。
店先へ品物を並べている商人も、荷を運ぶ人間も多かった。武器を腰へ下げた冒険者らしい者も珍しくない。
乗合が止まる。
エルナは荷物を持って降り、周囲を見回した。
少し離れたところに、ルークがいた。壁際に立って、人の流れを避けている。
エルナを見つけると、こちらへ歩いてきた。
「こんにちは」
「こんにちは。お疲れ」
いつもと同じ声だった。
それだけで、少し肩の力が抜ける。
ルークがエルナの背中の鞄を見る。
「荷物、大丈夫?」
「はい。このくらいなら」
「そっか」
ルークは無理に手を出さなかった。
「先に宿行く?」
「お願いします」
「こっち」
ルークが歩き出す。
エルナも隣へ並んだ。
少し歩いてから、ふと横顔を見る。
五日前と変わらない。
けれど、やはり同じではなかった。
この人は、自分を好きなのだ。
そう思っただけで、視線を向けていたことまで意識してしまう。
エルナは前を向いた。
「どうした?」
「何でもありません」
「そっか」
ルークはそれ以上聞かなかった。
*
ラーデンの通りは、人の流れが途切れなかった。
大きな荷車が通るたびに、歩いている者が道の端へ寄る。ルークは慣れた様子で人を避けながら歩いていく。
「あっちが市場」
通りの先を指す。
「今日は行かないけど、かなり広い」
「そうなんですね」
「ギルドはこの先。宿はもう少し外れた方」
エルナは周囲を見ながら歩いた。
今までは逆だった。
山へ来るのはルークだった。
自分の小屋。自分が使う町。自分が知っている採取地。
そこへルークが来た。
今日は、自分がルークの知っている道を歩いている。
ルークは曲がり角で迷わない。どの道がどこへ続いているかも、店がどこにあるかも知っている。
当然のことなのに、少し不思議だった。
「この辺、うるさくないですか」
通りを行き交う声に、エルナが聞く。
「中心はもっと人多いよ」
「これより?」
「ああ」
「……そうですか」
ルークが笑う。
「山と比べたら、どこでもうるさいだろ」
「それはそうですね」
しばらく歩き、大きな通りから一本外れる。
人通りが少し減った。
さらに十五分ほど進んだところで、ルークが一軒の建物を指した。
「ここ」
二階建ての宿だった。
一階の窓は広く、中に食堂が見える。昼時にはまだ少し早いが、すでに何人か客がいた。
「冒険者がよく使う宿。中心から少し離れてるけど、変な客は少ないし、飯も悪くない」
「詳しいんですね」
「仲間が泊まることあるし、食堂には何度か来たことある」
エルナは建物を見る。
特別立派ではない。
けれど、入口も窓もきれいに手入れされている。
「ここにします」
「見なくていい?」
「ルークが勧めるなら、ここでいいです」
一瞬、ルークが黙った。
「そっか」
エルナは扉を開けた。
*
受付で冒険者証を出すと、通常より少し安い料金を提示された。
「何泊されます?」
「三泊お願いします」
「三泊ですね。延ばす時は前日の夜までに言ってください」
「わかりました」
料金を払い、鍵を受け取る。
ルークは少し離れたところで待っていた。
手続きが終わると、エルナは振り返る。
「いいところを教えてくれてありがとうございます」
「気に入らなかったら別のところ探してもいいから」
「まだ部屋も見てません」
「それもそうか」
二階へ上がる。
部屋は広くはなかった。
寝台と、小さな机。荷物を置ける棚。
窓を開けると、中心部ほどではないものの、通りを行く人の声が聞こえた。
エルナは鞄を寝台の脇へ置く。
三泊。
ひとまず、それだけ。
必要なら延ばせる。
部屋の中を一度見回す。
自分で決めて、自分でここまで来た。
ルークに誘われたからというだけではない。
知りたいことがある。
見てみたいものがある。
だから来た。
それでも、階下でルークが待っていると思うと、少しだけ足が急いだ。
エルナは必要なものだけを持ち、部屋を出た。
*
「次、どうする?」
一階へ戻ると、ルークが聞いた。
「ギルドを見たいです」
「やっぱり?」
「そのために来たのもありますから」
「じゃあ行こう」
再び街へ出る。
今度は中心部へ向かった。
先ほどより人が多い。
店先には野菜や果物、布、日用品、乾燥肉、香辛料。いくつもの匂いが混ざっている。
通りの向こうから、焼いた肉の匂いもした。
「あそこ、うまいよ」
ルークが何気なく言う。
「肉ですか」
「ああ。串焼き」
「よく食べるんですか」
「仕事帰りとか」
エルナは屋台を見る。
覚えておこうと思った。
今日は寄らない。
まだ、この街には知らないものが多すぎる。
やがて、周囲の建物より一回り大きな建物が見えた。
冒険者ギルドだった。
中へ入る。
エルナは足を止めた。
「……大きいですね」
「こっちだとこんなもん」
「掲示板が三つあります」
「依頼多いからな」
受付も複数ある。
中には冒険者が何人もいて、依頼書を見ている者、受付で話している者、奥の卓で地図を広げている者もいた。
エルナは掲示板へ近づく。
近隣の村への護衛。
商人の荷運び。
長距離の移動護衛。
薬草や木の実の採取。
獣害への対処。
農地周辺の柵の修理。
水場の状態確認。
小型魔獣の目撃情報。
種類も、範囲も、いつもの町よりずっと広い。
何枚か目を通すうち、エルナの手が止まった。
近隣の村で、井戸の水位が下がっている。
別の地域では、例年より木の実が少ない。
山沿いでは、獣が畑へ下りてくる回数が増えている。
似た内容が、一か所ではなかった。
「ルーク」
「ん?」
「これ」
依頼書を指す。
ルークが読む。
「ああ」
「この前の採取地だけじゃないですね」
「みたいだな」
エルナは別の紙を見る。
「こっちは水場です」
「前から少しずつ出てる」
「この辺りでも」
「ああ」
原因は書かれていない。
ただ、異変の数だけが多かった。
いつもの町で見ていたものが、この街へ来るともっと広い範囲から集まっている。
「やっぱり来てよかったです」
エルナが言う。
ルークが横を見る。
「そう?」
「ここなら、もっと広い範囲のことがわかります」
「情報見るだけならいつでも来れるよ」
「乗合代はかかりますけど」
「そこなんだ」
「大事でしょう」
「大事だけど」
ルークが少し笑った。
その時、後ろから声が飛んできた。
「よう、ルーク」
エルナが振り返る。
知らない冒険者が一人、通りすがりに手を上げていた。
「今日は仕事じゃないのか?」
「今日は案内」
「へえ」
男はエルナを一度見たが、それ以上は何も聞かなかった。
「じゃあな」
「ああ」
そのまま去っていく。
少しして、受付の女性もルークを見つけた。
「あら、ルーク。今日は珍しい時間ね」
「仕事じゃないから」
「そうなの」
それだけで会話は終わる。
エルナは隣に立つルークを見る。
「知り合い、多いんですね」
「そうでもないよ。ここ長いから、顔知ってるやつがいるだけ」
「長いって、どのくらいですか」
「冒険者になってからずっと」
「そうなんですね」
エルナはもう一度ギルドの中を見る。
受付。
掲示板。
行き交う冒険者。
その中にいるルーク。
山小屋では、ルークはいつも自分のところへ来る人だった。
ここでは違う。
ルークを知っている人がいる。
ルークが知っている人もいる。
自分がいない時も、ここで仕事をして、話をして、暮らしてきた。
当たり前のことを、初めて目で見た。
*
ギルドを出たあと、エルナは宿で使う細かな日用品をいくつか買った。
市場そのものへ入るのは、また今度にする。
通りから見えるだけでも、店の数は多かった。
「明日でも見れば?」
ルークが言う。
「はい。全部見るのは無理そうなので」
「一日じゃ無理だな」
「そんなに広いんですか」
「市場だけならそこまで。でも寄り道するだろ」
「ルークが?」
「エルナもすると思う」
「しません」
「薬草の店とかあったら?」
エルナは少し黙る。
「……寄るかもしれません」
「だろ」
ルークが笑った。
エルナも少しだけ口元を緩める。
宿へ戻る頃には、午後もだいぶ進んでいた。
*
宿の前で、ルークが立ち止まる。
「今日はもう休む?」
「そうします。朝から移動してますし」
「ああ。その方がいい」
「ルークは?」
「俺も帰る」
その言葉を聞いて、エルナはふと、ルークがこれからこの街のどこかにある自分の部屋へ戻るのだと思った。
今までなら、それだけのことだった。
今日は、その帰る先が同じ街の中にある。
「じゃあ、また明日」
ルークが言う。
「はい。また明日」
「ゆっくり休んで」
「ルークも」
ルークが手を上げ、歩いていく。
エルナはその姿を少しだけ見送ってから、宿へ入った。
二階の部屋へ戻る。
窓の外には、まだ人の声があった。
荷車の車輪が石の道を通る音。
誰かを呼ぶ声。
遠くで笑う声。
山小屋の夜とは、まるで違う。
エルナは窓辺へ立った。
今日一日で見たものを思い返す。
大きなギルド。
いくつもの依頼。
広い市場。
ルークへ当たり前のように声をかける人たち。
迷わず街を歩くルーク。
これまで、ラーデンはルークが帰っていく場所でしかなかった。
今日、初めて知った。
ここは、ルークが暮らしている場所なのだ。
エルナは窓の外を見る。
知らない街だった。
けれど、まったく知らない場所ではなかった。
ここには、ルークがいる。




