第64話 隠さないまま
ルークが山を下りてから、四日が過ぎた。
朝、エルナはいつものように水を汲みに行った。
湧き水は相変わらず細い。桶が満ちるまでに、以前より少し時間がかかる。それでも枯れてはいなかった。
岩の隙間を伝う水へ手を入れる。冷たさを確かめてから、エルナは満ちた桶を持ち上げた。
火事の翌日、町へ下りた時には、焼けた畑の端で何人かが土を掘り返していた。
火は林まで届かなかった。飛んだ火の粉も、途中で勢いを失ったらしい。
どうして止まったのかを知っている人はいない。
あの斜面の上で何が起きたのかを知っているのは、エルナと、もう一人だけだった。
桶を持って斜面を上りながら、その一人のことを考える。
『待ってます』
別れ際、自分からそう言った。
だからといって、いつ来るのかは聞いていない。
考えたところで、来る日が早まるわけでもなかった。
エルナは小屋へ戻った。
桶を置き、髪を包んでいた布を外す。腕輪も外して、机の上へ置いた。
町へ行く予定はない。
窓を開け、乾かしていた薬草を机へ広げる。
葉の色を見る。指先で茎を曲げ、乾き具合を確かめる。十分なものは分け、まだ少し水分の残っているものは窓辺へ戻した。
外から入る風が、肩へ落ちた髪を揺らした。
*
昼前だった。
乾かした葉を選り分けていると、斜面の方から足音が聞こえた。
土を踏む音。
時々、小石が転がる。
この小屋へ続く道を、迷わず上ってくる足音だった。
エルナは手を止めた。
誰なのか、姿を見る前にわかった。
机の端へ置いた腕輪へ、手が伸びる。
指が触れる、その前で止まった。
扉の外でも足音が止まる。
少しして、戸を叩く音がした。
こん、こん、と二度。
「エルナ?」
「います」
返事をして、もう一度腕輪を見る。
そのまま手を下ろした。
髪にも触れない。
エルナは立ち上がり、扉へ向かった。
鍵を外す。
「こんにちは」
「こんにちは」
戸口にルークが立っていた。
剣を腰へ下げ、小さな鞄を背負っている。山道を上ってきたせいか、額には少し汗が浮いていた。
片手には、布で包まれたものを持っている。
目が合う。
ルークの視線が一度だけエルナの髪へ向いた。
それから、すぐに顔へ戻る。
「開けるの早かったな」
「足音でわかったので」
「もう?」
「何度も来てるでしょう」
「まあ、そうだけど」
ルークが少し笑った。
「暑いな」
「今日はまだ風があります」
「山の上でこれか」
「昨日よりはましです」
「その基準、相変わらずだな」
エルナは身体をずらした。
「どうぞ」
「お邪魔します」
ルークが小屋へ入る。
扉を閉めると、いつものように剣を外して壁際へ置いた。鞄もその横へ。
「それ、何ですか」
エルナが手元の包みを見る。
「パン」
「見ればわかります」
「ああ、そっちじゃないのか」
「どこのですか」
「前に話しただろ。昔から知ってるやつがパン屋やってるって」
「孤児院の?」
「そう」
ルークは包みを机へ置いた。
「朝、乗合に乗る前に寄った」
エルナは包みを見る。
一人分にしては多い。
「こんなに?」
「一緒に食べようと思って」
あっさりした声だった。
エルナは一度、ルークを見る。
「じゃあ、食べますか」
「うん」
窓から入る光は、もう高いところから差している。
エルナは机の上の薬草を端へ寄せた。
ルークが包みを開く。
三種類入っていた。
一つは丸いパン。
一つは中に肉と野菜を挟んだもの。
もう一つには、砕いた木の実が練り込まれているらしい。
「どれがいい?」
エルナは少し見てから、一つを指した。
「これにします」
「じゃあ俺こっち」
ルークが肉の挟まったものを取る。
エルナは水差しから二人分の水を注ぎ、自分の席へ座った。
パンを一口食べる。
ほんのり甘い。生地は柔らかく、噛むと木の実の香ばしさが広がった。
「おいしいです」
「よかった」
「ルークの友達が作ってるんですか」
「旦那の方が職人。あいつも店には出てるけど」
「よく買うんですか」
「時々。顔出したついでに買うこともある」
エルナはもう一口食べる。
少しして顔を上げると、ルークと目が合った。
「何ですか」
「見てただけ」
エルナは一度だけ瞬いた。
ルークはそれ以上何も言わず、手元のパンへ視線を戻した。
エルナも、何を、とまでは聞かなかった。
そのまま残りのパンを食べる。
包みを片づけたところで、ルークが聞いた。
「あの日の疲れ、もう平気?」
エルナは顔を上げる。
「魔法を使ったあとの?」
「ああ」
「もう戻りました。休めば戻るので」
「ならいい」
ルークはそれだけ言った。
魔法について何か聞かれることも、あの日に見たものについて尋ねられることもなかった。
エルナも、それ以上は話さなかった。
*
昼食を終えると、エルナは途中だった薬草へ手を伸ばした。
向かいに座ったルークが、それを見る。
「何かやる?」
「今日は座ってていいですよ」
「また見てるだけ?」
「来たばかりでしょう」
「だからって暇なんだけど」
前にも似たようなことを言われた気がする。
エルナは机の上を見る。
「じゃあ、こっちを束ねてください」
「どれ?」
「乾いてる方です」
束を一つ渡す。
ルークは受け取り、紐を取った。
「前と同じでいい?」
「はい」
「わかった」
二人で手を動かす。
エルナが状態を見て分け、ルークが束ねる。
説明することは、ほとんどない。
ルークが一つ束ね終える。
「これくらい?」
「大丈夫です」
「次」
「そこです」
短いやり取りだけが続く。
外では木々の葉が擦れている。
鳥が一度鳴いた。
少しして、会話が途切れた。
二人とも何も言わない。
エルナは薬草を見る。
ルークは紐を結ぶ。
それで時間が過ぎていった。
「終わりました」
最後の薬草を籠へ入れ、エルナは手を払った。
ルークも束ねたものを机へ置く。
「もうない?」
「はい。手伝うものはありません」
「そっか」
ルークが椅子へ背を預ける。
「別に、手伝いに来たわけじゃないし」
エルナは籠を持ち上げかけて、ルークを見る。
ルークはもう、机の上に残っていた紐をまとめていた。
エルナは何も言わず、籠を棚へ置く。
その時。
「……それ」
後ろから声がした。
「何ですか」
「あの棚」
視線の先を見る。
壁際に置いてある棚。
右側が少し低い。
ずっと、そのまま使っている。
「まだ傾いてるな」
「そうですね」
「直してないのか」
「落ちてないので」
ルークが黙る。
エルナは棚を見る。
「何ですか」
「前も同じこと言ってたなと思って」
「使えてます」
「それも聞いた」
「じゃあ、知ってるでしょう」
「知ってる」
ルークが笑った。
エルナは籠をそのまま棚へ載せる。
少し傾いている。
それでも、落ちはしない。
ルークが立ち上がった。
「直していい?」
エルナが振り返る。
「棚を?」
「ああ」
「このままでも使えますけど」
「それは知ってる」
ルークは棚の前へしゃがむ。
「俺が気になるだけ」
エルナも棚を見る。
今まで困ったことはない。
けれど、直して困ることもない。
「……お願いします」
「了解」
まず棚の中身を机へ移す。
乾燥させた薬草。
布。
小さな瓶。
籠。
「結構入ってたな」
「棚なので」
「それはそうだけど」
中身を出し終えると、ルークが左右の脚元を確かめる。
「ぐらついてはいないんだな」
「はい」
「右が低いだけか」
「最初からです」
エルナは作業道具を入れている箱を持ってきた。
使いかけの板。
細い木片。
釘。
紐。
小屋を直した時の残りが、まだいくつかある。
ルークが薄い木片を一つ取った。
「これ使えそう」
「そのまま入りますか」
「少し厚いな」
ナイフを借り、端を削る。
何度か棚の脚元へ合わせたあと、ルークは立ち上がった。
「少し持ち上げられる?」
「はい」
二人で棚の右側を少しだけ持ち上げる。ルークが、削った薄い木片を右側へ噛ませた。
「下ろして」
ゆっくり戻す。
二人で棚を見る。
「もうちょっとかな」
「まだですか」
「まだ少し低い」
「私は気になりませんけど」
「知ってる」
ルークは木片の先を斜めに削り直した。
もう一度棚の右側を持ち上げ、今度は少し奥まで噛ませる。
下ろして、一歩離れた。
「どう?」
エルナも少し離れて見る。
右側へ傾いていた棚が、ほとんど真っ直ぐになっている。
「真っ直ぐですね」
「だろ」
「使いやすくなったかは、まだわかりません」
「まずそこ?」
「棚なので」
ルークが笑った。
「じゃあ戻そう」
二人で机へ移したものを、元の場所へ戻していく。
薬草。
布。
瓶。
籠。
全部戻しても、棚は傾かなかった。
エルナは少しだけ横から見る。
「……真っ直ぐです」
「二回目だな」
「確認です」
「そっか」
*
そのあとは、それぞれ自分のことをして過ごした。
エルナは薬を一つ作った。
ルークは剣を手入れしている。
必要な時だけ、短く言葉を交わす。
あとは静かだった。
エルナが薬を瓶へ移し終えた頃には、日が少し傾き始めていた。
窓の外を見る。
まだ明るい。
今から出れば、町まで戻れる。
前なら、そろそろどうするのか聞くところだった。
けれど、今日はエルナが口を開くより先に、ルークが窓の外を見た。
「まだ戻れるな」
「はい」
日暮れまでは余裕がある。
ルークは少しの間、外を見ていた。
それから、エルナを見る。
「今日、泊まっていってもいい?」
エルナは一度だけ瞬いた。
今までは、泊まっていけばいいと言ったのは自分だった。
怪我が治ったあとも、会いに来た日も、ルークはいいのかと確認してから泊まった。
今日は違う。
まだ帰れる。
怪我もしていない。
ここへ残らなければならない理由もない。
エルナは少しだけ考えた。
「いいですよ」
ルークの表情が緩んだ。
「ありがとう」
「夕食、二人分にします」
「ああ。何かする?」
「切ってください」
「何を?」
「根菜を」
「わかった」
ルークが袖を捲った。
*
夕食は簡単な煮込みにした。
エルナが材料を出し、ルークが切る。
「これくらい?」
「もう少し小さく」
「こっちも?」
「それはそのままで大丈夫です」
ルークは頷き、切ったものを鍋へ入れた。
エルナは火を見ながら、ふと棚を見る。
昼までは右側が少し低かった。
今は真っ直ぐ立っている。
「何?」
ルークが聞く。
「棚を見てました」
「気になるようになった?」
「真っ直ぐになったので」
「それは見ればわかる」
以前にも、ルークから同じことを言われた。
エルナは一瞬黙り、それから少しだけ口元を緩める。
「前にも、同じことを言いましたね」
「言ったな」
ルークも笑った。
*
食事を終えると、エルナが器を洗い、ルークが拭いた。
最後の一枚を受け取ったルークは、迷わず棚へ戻す。
もう、どこに何があるのかほとんど聞かない。
外が暗くなる。
ルークは自分で毛布を出し、いつもの場所へ広げた。
エルナは机の上を片づける。
束ねた薬草を端へ寄せ、使った道具をしまう。
その時、腕輪が少し邪魔になった。
エルナはそれを持ち上げ、机の端へ寄せる。
昼前、ルークの足音を聞いた時。
一度だけ、ここへ手を伸ばしかけた。
それきりだった。
「エルナ?」
呼ばれて振り返る。
「何ですか」
「寝ないの?」
「寝ます」
灯りを小さくする。
ルークはすでに毛布へ横になっている。
エルナも寝台へ入った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
明かりを消す。
小屋の中が暗くなった。
エルナは目を閉じる。
その日、ルークが来てから腕輪に触れたのは、机の上を片づける時だけだった。




