第63話 隠さなくていい人
答えてから、エルナはルークを見た。
すぐには何も返ってこなかった。
ルークは少し目を見開いたまま、こちらを見ている。驚いている。それはわかった。
けれど、身体を引くことはなかった。座っている位置も変わらない。
ロザリーが魔女だと知られた途端、さっきまで普通に話していた人たちが目を逸らし、距離を取った。エルナは、その時の空気を覚えている。
だから、待った。
ルークが何を言うのか。どうするのか。
沈黙は、思っていたより少し長かった。
「……やっぱり、そうだったのか」
ようやく出てきたのは、それだった。
「やっぱり?」
「ああ」
ルークは一度、自分の膝へ視線を落とした。
「前に、一回だけ考えたことはあった。髪を隠してるし、腕輪も何かの魔道具っぽかったし」
「気づいていたんですか」
「腕輪が魔道具っぽいってところまでは。魔女かもっていうのは、ただの想像」
少し間を置いて、ルークは続ける。
「魔法使ってるところも見てなかったし、俺、魔女に会ったことなかったから。考えてもわからないなと思って、そのままにしてた」
「聞こうとは思わなかったんですね」
「聞いて、違ったらただ失礼だろ。それに、隠してるなら理由あるんだろうし」
ルークはそう言ってから、もう一度エルナを見た。
声も、表情も、先ほどまでと大きくは変わっていない。
「さっきの」
「はい」
「火を冷やしたのか?」
「少し違います。燃えているところと、火が進もうとしていた先から熱を抜きました」
ルークが先ほどの斜面を思い出すように、町の向こうへ目を向ける。
「だから火が弱くなったのか」
「はい」
「あの辺り全部を冷やした?」
「いいえ。火が広がろうとしているところだけです」
「そんな細かく分けられるんだな」
「慣れました」
ルークは小さく頷いた。それから少し考えるようにエルナを見る。
「じゃあ、さっき疲れてたのも魔法のせい?」
「はい。疲れは、休めば戻ります」
「そっか」
それ以上は聞かれなかった。
エルナはしばらくルークを見た。
「……それだけですか」
「何が?」
「いえ」
言ってから、少し迷う。
それでも、聞いた。
「怖くないんですか」
ルークの眉がわずかに上がった。
「エルナが?」
「魔女が」
「……それ、同じじゃないの?」
今度はエルナが黙った。
ルークは少し考えてから、言葉を続ける。
「魔女について、俺はほとんど知らない。危ない魔女だっているのかもしれない」
「はい」
「でも、エルナが何する人かは知ってる」
エルナはルークを見る。
「俺を助けて、必要ないなら戦わないって言って、無茶すると止める」
「止める必要があったので」
「そういうところ」
ルークが少し笑った。
「魔女だってわかったからって、俺が知ってるエルナが変わるわけじゃないだろ」
いつもの笑い方だった。
胸の奥に残っていたものが、ほんの少し緩んだ。
ルークの視線が、エルナの左手首へ落ちる。
「その腕輪も、魔女なのと関係ある?」
「これは認識をぼかす魔道具です」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「前は、何度見ても顔の細かいところが残りにくかったから」
エルナも腕輪を見る。
淡い魔石は、いつもと変わらずそこにある。
「今は、前より効いていないと思います」
「そうなのか?」
「近くで何度も見られたり、強く意識されたりすると、効きにくくなるので」
「じゃあ、俺がずっと見てたから?」
「……たぶん」
ルークが少しだけ気まずそうな顔をする。
「それ、俺がすごい見てたみたいだな」
「頬の傷にも気づいてましたよね」
「あれは目に入っただけだって」
「朝にはなかったことまで覚えてました」
「……そこまで覚えてたのか」
「言われたので」
エルナの口元が、ほんの少し緩む。
ルークも笑った。
魔女だと話す前と、同じように。
そのことを、エルナはしばらく黙って感じていた。
「前にさ」
ルークが言った。
「薬草を誰に教わったのか聞いた時、家族だって言ってたよな」
「はい」
「その人も、魔女だった?」
エルナは少しだけ目を瞬いた。
以前なら、そこで答えを止めていたかもしれない。
「魔女でした。森の魔女です」
「森の?」
「そう呼ばれていました」
エルナは左手首へ目を落とした。
「ロザリーといいます。私を育ててくれた人です」
ルークは何も言わずに聞いている。
「薬草も、森の歩き方も、いろいろ教えてもらいました」
「じゃあ、前にやってた水筒の紐の結び方も?」
思っていなかったものが出てきて、エルナはルークを見る。
「覚えていたんですか」
「俺のやり方と違ったから」
「……あれも、ロザリーです」
「そっか」
ルークが一度頷く。
それから、少しだけ間が空いた。
「その人は――」
途中で言葉が止まる。
聞いていいのかを考えたのだろう。
エルナには、それがわかった。
「もう、いません」
自分から答えた。
ルークの表情が少し変わる。
「……そっか」
「はい」
エルナは腕輪へ指を触れる。
「これも、ロザリーにもらいました」
「腕輪?」
「初めて森の外へ出る時に。魔女だと知られないように」
ルークは腕輪を見る。
「じゃあ、ずっと使ってるのか」
「はい。中の魔石には、自分で力を入れ直しています」
「それもできるんだな」
「魔女なので」
一瞬、ルークが黙った。
それから、少し笑う。
「そうだった」
エルナもわずかに口元を緩めた。
「髪を隠してるのも?」
「目立つので。魔女だと知られるきっかけになります」
「そっか」
ルークは少し考えてから言う。
「これ、知られたくないんだよな」
「はい」
「じゃあ、俺からは言わない」
大げさな言い方ではなかった。
ただ、当たり前のことを決めるような声だった。
「……ありがとうございます」
「礼言われることでもないと思うけど」
「それでも」
「じゃあ、どういたしまして」
ルークは一度何かを言いかけるように口を開き、やめた。
エルナも続きを促さなかった。
町の方からは、まだ人の声が聞こえている。
火は消えた。
けれど、黒く焼けた畑も、少なくなった水も、そのままだ。
「そろそろ戻る?」
「はい」
エルナは立ち上がった。
*
町を出て山道へ入ると、急に音が少なくなった。
人の声が遠ざかる。残るのは、二人の足音と葉の擦れる音くらいだった。
服にも、髪を包んだ布にも、まだ焦げた匂いがついている。
身体も重い。
町へ下りた朝とは明らかに違った。
「休む?」
隣から声がした。
「まだ大丈夫です」
「まだ、ってことは後では休む?」
エルナは少し考える。
「たぶん」
「じゃあ、無理になる前に言って」
「ルークに言われるとは思いませんでした」
「なんで?」
「怪我していた時、何度も同じことを言ったので」
「ああ」
ルークが笑う。
「じゃあ今度は俺の番だな」
「順番制ではありません」
「違うの?」
「違います」
そう答えながら歩いた。
しばらくして、いつも休むことのある岩が見えた。
今度はエルナから足を止める。
「少し休みます」
「うん」
ルークは何も言わず、岩の横へ腰を下ろした。
エルナも隣へ座り、水筒を開ける。水は町で飲んだ時より、さらにぬるくなっていた。それでも喉が乾いていたので、ゆっくり飲んだ。
ルークが山の下を見る。
「水、もっとあったら違ったんだろうな」
「そうですね」
「最初の火も、あそこまで広がらなかったかもしれない」
「今年は乾きすぎています」
「ああ」
ルークはしばらく煙の残る空を見ていた。
「街へ戻ったら、向こうのギルドも見てみる」
「水の依頼ですか」
「それも。獣とか、火事とか。似た話が増えてないか」
エルナも山の下へ目を向ける。
「わかったら、教えてください」
「ああ、そうする」
何が起きているのか。
どこまで続いているのか。
なぜなのか。
今はまだ、わからない。
それでも、ルークもこの先を気にしている。
「そろそろ行けそう?」
「はい」
二人で立ち上がる。
今度は、さっきより少しだけゆっくり歩いた。
ルークは何も言わず、その速度に合わせた。
*
小屋へ着く頃には、日が傾き始めていた。
エルナは戸を開ける。
「ただいま」
いつものように口にして、中へ入った。
後ろからルークも続く。
扉を閉めると、ルークは自分で剣を外し、壁際へ荷物を置いた。どこへ置くのかを聞くこともない。
「煙くさいな」
ルークが自分の服を嗅いで顔をしかめる。
「かなり」
「水、使っていい?」
「どうぞ」
「先、エルナ使う?」
「手だけ洗います」
二人で順番に手と顔を洗った。
水へ触れると、指先についた黒い汚れが流れていく。腕にも細かな煤がついていた。
ルークが外で服についた土と灰を払っている間に、エルナは外套を脱いで壁へ掛ける。
そのまま夕食の支度をしようと棚へ向かったところで、後ろから声がした。
「今日は俺が作る」
エルナは振り返る。
ルークが戻ってきたところだった。
「大丈夫です」
「それは知ってる」
「なら」
「疲れてるだろ」
「休めば戻ります」
「じゃあ、今日は休んでてよ」
エルナは黙る。
ルークが少し笑った。
「俺も腹減ってるし。前に、また作るって言っただろ」
言われて思い出す。
まだルークが怪我をしていた頃、椅子に座ったまま根菜を切り、味つけを考えてもらった。
あの時、エルナはまた頼むと言った。
「……言いました」
「じゃあ、やらせて」
命令ではなかった。
代わると決めつけるでもない。
エルナは少し考えてから、棚の前を空けた。
「お願いします」
「了解」
ルークが袖を捲る。
根菜を取り出し、干し肉と豆も確認する。ナイフを持つ手に迷いはなかった。
「これ使っていい?」
「はい」
「香草は?」
「上の棚です」
「これ?」
「それです」
エルナは椅子へ座った。
怪我をしていた頃のルークは、火のそばまで動けなかった。
今は自分で棚を開け、鍋へ水を入れ、火の前に立っている。
根菜はほとんど同じ大きさに揃っていく。火の通りにくいものだけ、少し小さい。
「やっぱり、慣れてますね」
「孤児院だと手伝う人数も多かったからな」
「毎日ですか」
「毎日じゃない。でも当番みたいなもんはあった」
ルークは切った根菜を鍋へ入れる。
「大きい鍋で作っても、すぐなくなる」
「そんなに食べるんですか」
「育ち盛りが何人もいるから」
「ルークも?」
「俺も」
「そうでしょうね」
「何、その納得」
「よく食べるので」
「今の俺見て言った?」
「はい」
ルークが笑った。
鍋から、少しずつ香草の匂いが立ち始める。
「味見する?」
「ルークが作っているのに?」
「塩足りるか見て」
差し出された匙を受け取る。
一口。
エルナは少しだけ目を瞬いた。
「……前と同じ味ですね」
「覚えてた?」
「はい。おいしかったので」
ルークが一瞬黙る。
「……そっか」
なぜか少し嬉しそうだった。
エルナは匙を返す。
「もう少し煮れば大丈夫です」
「了解」
それからは、鍋が煮える音を聞きながら待った。
*
食事が終わると、エルナは器を重ねた。
「洗います」
「疲れてるんじゃなかった?」
「作ってもらったので」
「じゃあ拭く」
「お願いします」
エルナが洗い、ルークが拭く。
水の音と、布が器を擦る音が続いた。
最後の器を渡すと、ルークは迷わず棚のいつもの場所へ戻した。
*
外がすっかり暗くなった頃。
ルークは床へ毛布を広げていた。
エルナは机の前に立つ。
左手首を見る。
腕輪。
初めて森の外へ出た日、ロザリーがつけてくれたもの。
森へ帰れば外した。あの家では必要なかったから。
旅に出てからも、人目のない部屋へ戻れば外した。
今の小屋を選んだ時も、ここまで戻れば腕輪も髪を隠す布も外せることを考えた。
人と関わる時間と、隠さなくていい時間。
それを自分で分けられる場所。
エルナは留め具へ指を掛けた。
腕輪を外す。
小さな音を立てて、机の上へ置いた。
それから、髪を包んでいる布へ手を伸ばす。
一度だけ、止まった。
ルークは床で毛布を整えている。
こちらを見ていない。
見せてほしいとも。
外してほしいとも。
何も言わない。
知られたから、見せなければならないわけではない。
ルークも、それを求めてはいない。
それでも。
ルークに対してまで、隠したままでいたいとは思わなかった。
エルナは布の結び目をほどいた。
巻いていた布を外す。
押さえ込まれていた髪が、肩から背中へ落ちた。
長い白銀の髪。
指で軽く整え、布を腕輪の隣へ置く。
「……エルナ?」
ルークの声がした。
振り返る。
ルークがこちらを見ていた。
すぐには何も言わない。
「何ですか」
「いや」
それでも、まだ見ている。
「……何ですか」
「なんか、違うなと思って」
「腕輪を外したので」
「見え方が変わるわけじゃないんだよな?」
「はい。前から見えていたはずです」
「だよな」
ルークは少し考える。
「でも、今までより細かいところが目に入る」
「意識が逸れにくくなったからだと思います」
「そっか」
もう一度、エルナの顔を見る。
「今なら、ちゃんと覚えられそう」
「たぶん」
ルークの視線が、そのまま髪へ移った。
「……ほんとに白いんだな」
「はい」
長い髪を目で追う。
少しだけ間が空いた。
「綺麗だな」
エルナはルークを見る。
ルークもこちらを見ていた。
「ありがとうございます」
一瞬だけ、ルークの方が先に目を逸らした。
エルナは自分の髪へ触れる。
珍しい色だということは知っている。
それでも、ルークに言われたその一言だけは、少し耳に残った。
「寝ますか」
「そうする。今日はさすがに疲れた」
「私もです」
明かりを落とす準備をする。
机の上には、腕輪と髪布が置かれたままだ。
エルナは一度だけそれを見る。
手を伸ばさない。
寝台へ入り、毛布を掛ける。
床では、ルークが横になった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
返事は、すぐに出た。
明かりを消す。
小屋が暗くなる。
少しして、床の方からルークの呼吸が聞こえ始めた。
最初の頃は、その音ばかりが耳へ入った。
知らない男が、自分の家にいる音だった。
今はもう、その音だけに意識を取られることはない。
エルナは目を閉じた。
*
翌朝。
目を覚ますと、窓から淡い光が入っていた。
エルナは身体を起こす。
床では、ルークがすでに毛布を畳んでいる。
「おはよう」
「おはようございます」
昨日と同じ声だった。
エルナは寝台から降りる。
机の上には、腕輪と髪布が置かれている。
この小屋で初めて朝を迎えた日のことを思い出した。
あの日も、腕輪はつけなかった。
髪も隠さなかった。
外へ出ても、人は誰もいなかった。
この場所には、自分しかいなかったから。
今は違う。
振り向けば、ルークがいる。
畳んだ毛布を端へ置き、荷物を確認している。
それでも。
エルナは腕輪へ手を伸ばさなかった。
髪も、そのままにした。
「朝、何かする?」
ルークが聞く。
「パンを切ってください」
「了解」
ルークがパンを取り、エルナは昨日の残りを火へ掛けた。
一人で迎えていた頃と、同じ小屋。
いつもの朝。
けれど、今は二人分だった。
食事を終えると、ルークは帰る支度を始めた。
荷物をまとめ、剣を腰へ戻す。
「今日は街まで戻るんですよね」
「ああ。町まで下りて、朝の便に間に合えば乗る。間に合わなかったら歩く」
「水は?」
「入れた」
「食べるものは?」
「ある」
「忘れ物は?」
「たぶんない」
「たぶん」
エルナが言うと、ルークは荷物をもう一度見る。
「まあ、何か忘れてても次来た時でいいだろ」
エルナはルークを見る。
「忘れなくても来るんでしょう」
ルークの手が止まった。
少しだけ目を見開く。
それから笑った。
「来るよ」
「そうですか」
「ああ」
エルナは扉を開けた。
朝の空気が入ってくる。
すでに暑さはある。
ルークが外へ出る。
エルナも戸口へ出た。
「じゃあ」
ルークが山道を見る。
「また来る」
前にも聞いた言葉だった。
怪我は、もう治っている。
ここへ来なければならない理由はない。
それでも来ると言う。
そのことを、エルナはもう不思議だとは思わなかった。
エルナは頷く。
「はい」
少しだけ間を置く。
「待ってます」
ルークの目が、わずかに見開かれた。
「……そっか」
すぐに笑う。
「じゃあ、また」
「はい。また」
ルークが山道を下りていく。
エルナは戸口に立ったまま、その背中を見送った。
腕輪はつけていない。
髪も隠していない。
朝の風が、白銀の髪を揺らす。
少し離れたところで、ルークが一度だけ振り返った。
エルナを見る。
片手を上げる。
エルナも小さく手を上げた。
ルークはまた前を向き、そのまま木々の向こうへ消えていった。
姿が見えなくなってから、エルナは小屋へ戻る。
机の上には、腕輪と髪布が置かれている。
町へ下りる時には、また必要になる。
外の世界で、自分を守るために。
それは、これからも変わらない。
けれど、ルークの前では。
もう、必要なかった。
第4章、ここまでありがとうございました!
山で拾った怪我人だったルークも、気づけばエルナの「隣にいる人」になりました。
次章では、そんな二人の距離がもう少し近づいていきます。
第5章もお楽しみに!




