第62話 火の境目
数日後。
ルークがまた小屋へ来た翌朝、エルナは彼と並んで山道を下りていた。
空はよく晴れている。まだ朝だというのに、木々の間を抜ける風は涼しいとは言い難かった。時折、枝葉の上を強い風が抜け、乾いた葉が擦れ合う音を立てる。日差しの当たるところでは、地面に落ちた葉が白っぽく乾いていた。
「今日も仕事見る?」
隣からルークが聞いた。
「そのつもりです」
「薬草は?」
「昨日の分を持ってきました」
「じゃあ、いいのあったら受ける?」
「今日中に戻れるものなら」
「俺も?」
エルナは横を見る。
「一緒に下りたんでしょう」
「そうだけど」
「嫌なんですか」
「逆」
ルークが笑った。
「聞いただけ」
「じゃあ、あれば一緒に」
「了解」
会話はそこで途切れた。
二人で歩く。前に同じ道を下りた時のように、エルナがルークの脚を気にして歩調を落とす必要はもうなかった。ルークもそれを気にしている様子はない。少し先を歩くこともあれば、エルナの隣へ戻ることもある。
それが、もう自然になっていた。
しばらく下ったところで、エルナは足を止めた。
「……何か、臭いません?」
ルークも止まる。
風が吹いた。乾いた木の匂い。土。その中に、別のものが混じっている。
「煙だな」
ルークが顔を上げた。
エルナも木々の向こうを見る。少し離れた空が、薄く灰色に霞んでいた。
「町の方です」
「ああ」
次の瞬間には、二人とも歩く速さを上げていた。
*
山道を抜ける前から、声が聞こえた。誰かが叫んでいる。走る音。木を叩くような音。
町へ続く道へ出ると、状況が見えた。
町の北側。畑と山裾の林が接しているあたりから、煙が上がっている。建物そのものが大きく燃えているわけではない。畑の端。低い柵。その向こうに積まれていた枯れ草や枝。その辺りから火が広がったらしい。
すでに何人もの人が集まっていた。桶を持って走る者。土を掘る者。荷を抱えて家から離れる者。繋がれていた山羊を引いていく者もいる。
「水、こっち!」
「井戸はまだか!」
「畑の方へ回せ! 家はまだ燃えてない!」
怒鳴り声が飛び交っていた。
「火元は?」
誰かが聞く。
「わからん! 気づいた時には枯れ草が燃えてた!」
「誰か見てないのか!」
「今はそんなこといい、先に消せ!」
エルナとルークは顔を見合わせることもなく、そちらへ向かった。近づくほど熱気が強くなる。
冒険者らしい男が何人か、燃えている柵を倒していた。火のついた木をそのまま残せば、風に煽られて火の粉が飛ぶ。
「手ぇ空いてる奴、そっちの枯れ草どけろ!」
誰かが叫ぶ。
ルークがすぐにそちらへ向かった。
「エルナ、こっち」
「はい」
二人でまだ燃えていない枯れ草の束を運ぶ。火から離れた場所へ持っていくと、近くにいた女も加わった。
「そこじゃ足りない! もっと離して!」
「わかりました」
エルナは抱えていた束を持ち直す。
腕に乾いた茎が当たった。軽い。ひどく乾いている。少し擦っただけでも、細い葉がぱらぱらと落ちた。
「今年、乾きすぎなんだよ!」
近くの男が吐き捨てるように言った。
「いつもなら、こんなに回らねえのに!」
返事をする暇はなかった。
また風が吹く。炎が横へ倒れ、火の粉がいくつか舞った。
「水!」
桶が回ってくる。
エルナも受け取った。半分ほどしか入っていない。燃えている場所へ走り、端の方へかけると、水が地面へ落ちた途端、白い蒸気が上がった。
火は一度弱まる。それでも消えない。
「次!」
空になった桶を返し、後ろから別の桶を受け取る。今度も少ない。
エルナは眉を寄せた。
「水、これだけですか」
桶を渡した男が息を切らしながら答える。
「水路が少ねえんだ! 井戸からも持ってきてる!」
聞き覚えのある話だった。
水が少ない。ずっと前から、少しずつ。
けれど今、その少なさが目の前の火を消しにくくしている。
エルナは桶を受け取り、また走った。
*
すぐには終わらなかった。
火が弱くなったところへ土をかける。まだ燃えていない草をどかす。倒せる柵は倒して、火が伝わるものを減らしていく。
ルークはいつの間にか、数人の冒険者と一緒に火の近くへ入っていた。
「そこ切る!」
「こっちか?」
「もう一本!」
長い枝を落とし、燃えかけた部分だけを引きずり出す。
エルナも別の場所で、女たちと一緒に土を運んだ。
誰も立って見ている者はいなかった。火から十分に離れた場所では、子どもたちまで空の桶を受け取り、井戸の方へ回している。老人は小さな荷を抱え、家から離れた場所へ運んでいた。
できることを、それぞれがやっている。
エルナも土を運ぶ。火の際へ落とし、戻って、また運ぶ。
何度目かわからなくなった頃には、最初より炎が低くなっていた。煙はまだ多いが、広がる速さは落ちている。
「これなら……」
誰かが言った。
エルナも同じことを思った。このままなら、止められるかもしれない。
その時、木々の上を鳴らすような強い風が吹き抜けた。
「目、閉じろ!」
声と同時に煙が大きく流れ、火の粉が一斉に空へ舞い上がる。
赤い点がいくつも風に乗った。大半は近くへ落ちた。けれど、そのうちの一つが高く運ばれて、山側の斜面の向こうへ消えた。
エルナの目がそちらを追う。
嫌な感じがした。
「ルーク」
少し離れたところにいたルークも、同じ方向を見ていた。
「ああ。上に飛んだ」
ルークは近くにいた冒険者へ振り向いた。
「上を見てくる! 火が飛んだ!」
「頼む!」
返事を聞くと同時に、二人は山側へ走った。
「どこから回れる?」
「こっちです」
エルナが先へ出る。
町から山へ上がる細い道。普段使う道とは少し違うが、斜面の形は知っている。少し上へ行けば、向こう側へ回り込める。
足元の土が滑る。木の根を跨ぐ。後ろからルークの足音がついてくる。
火の粉が落ちた先は、まだ見えない。
それが怖かった。
*
斜面を回り込んだところで、煙が見えた。
「……ついてる」
ルークが言った。
低木の根元。乾いた草。そこに小さな炎が走っている。
まだ大きくはない。けれど、その先には林が続いていた。
下の消火現場との間には斜面の盛り上がりがあり、こちら側はほとんど見えない。人の声も、先ほどより遠くなっている。
「水は?」
「ありません」
「戻って持ってくる時間はないな」
「はい」
ルークがすぐに剣を抜いた。
炎へ向けるのではない。燃えていない低木の枝を切り落とす。
「広がる前に空ける」
「私もやります」
エルナはナイフを抜いた。
細い枝。枯れた草。火が移りそうなものを、できるだけ燃えている場所から離す。土を蹴り上げ、手で掴めるものは掴んでどける。
火はまだ小さい。だから止められる。
そう思った。
けれど、地面が乾きすぎていた。
一つの火を土で覆っている間に、別の細い炎が草を伝う。
「こっち!」
ルークが土をかける。
エルナも続いた。
一つ消せば、その横でまた赤いものが上がる。ルークが枝を落とし、エルナがその根元へ土をかける。消えたと思った場所から煙が上がり、風に煽られると再び小さな炎が現れた。
「くそ」
ルークが火のついた枝を切り落とす。
地面へ転がったそれへ、エルナが土をかけた。
それでも火は止まらない。急に大きくなっているわけではない。ほんの少しずつ。けれど確実に、林の方へ近づいている。
エルナは立ち上がった。
その先を見る。
木がある。さらに奥にも。地面には乾いた葉が積もっている。
ここへ火が入れば、今よりずっと広い範囲へ回る。
下で火を消している人たちは、まだこちらに気づいていない。気づいたとしても、桶を持ってここまで上がってくるには時間がかかる。その間にも火は進む。
「エルナ」
ルークの声がする。
「一回下がるぞ。人呼んだ方がいい」
このまま二人だけで近づけば危ない。戻って人を呼ぶ。それが普通なら正しい。
エルナもわかっていた。
けれど、もう一度火を見る。その向こうの林を見る。
山。水場。この先へ続いている道。毎日のように歩く場所。
町へ下りれば、顔を知っている人がいる。薬草を売る店がある。依頼を受けるギルドがある。
少し前まで、自分とは何の関係もなかった場所。
今は違う。
ここで暮らしている。
自分で選んで、ここにいる。
この先まで、燃やしたくない。
方法はある。そのことを、エルナは知っている。
同時に、何を使うのかも知っていた。
魔法を使えば、命紋は進む。一度進んだものは戻らない。どれだけ進むのかはわからない。
そして、ルークには知られる。
ここには二人しかいない。自分が何をしたのか、隠すことはできない。
エルナは左手首へ一瞬だけ目を落とした。いつもの腕輪がある。髪を包んだ布も、そのままだ。
それでも、その奥にあるものまで隠し続けることはできない。
怖くないわけではなかった。
命が減ることも。
秘密を知られることも。
どちらも。
それでも、使わずに離れる方を選びたいとは思わなかった。
「ルーク」
「何?」
「少し離れていてください」
ルークがエルナを見る。
「何する?」
「止めます」
一瞬だけ、ルークの眉が寄った。
それでも、それ以上は聞かなかった。
「……わかった」
ルークは数歩下がった。ただし剣は持ったまま、周囲への警戒も解かない。
エルナは炎へ向き直った。
*
熱を感じる。
燃えている草。黒くなった土。火のついた枝。そこから周囲へ広がっていく熱。
以前より、ずっと強い。
一度に全部を奪う必要はない。止める場所だけ。
エルナは意識を絞る。
林へ向かって伸びている火。その先端。まだ燃えていない乾いた草。低木の根元。
そこから熱を抜く。
肌を刺していた熱気が、わずかに薄くなった。炎が揺れ、草の先を舐めていた赤が低くなる。
エルナは止めない。
広げすぎない。火が進もうとしているところだけ。必要な分だけ。
奪った熱を、頭上へ逃がす。一か所へ集めない。高く、広く、薄く散らす。
胸の奥が重い。
身体の芯から力が抜けていくような感覚がある。それでも、まだ足りる。
炎がもう一つ縮んだ。燃えかけていた枝から赤みが消える。
熱を抜く。
前へ進もうとしている火だけを追う。
「エルナ!」
ルークの声がした。
「火、止まってる!」
エルナは目を開けた。
見る。
炎は残っている。けれど、林へ向かっていた先端はもう進んでいない。燃えていた草も、低く煙を上げているだけだった。
ここまで。
エルナは自分で意識を切った。
力を止め、大きく息を吐く。
身体が重い。それでも、まだ立っていられる。
ルークがすぐに動いた。火の弱くなった場所へ入り、剣で燃え残った枝を落とす。
「こっち、まだ赤い」
「はい」
エルナもナイフを握り直し、そちらへ向かった。
二人で残った火種を潰す。ルークが枝をどけ、エルナが土をかける。煙の上がる場所を一つずつ確かめ、赤いものが残っていればさらに土を被せた。
しばらくして、ようやく目に見える炎がなくなった。
*
二人とも、すぐには戻らなかった。
しゃがんだまま地面を見る。
煙。焦げた匂い。黒くなった草。火の消えた枝。
再び赤くなるところがないか確かめる。
「もう一周見る」
ルークが言った。
「はい」
二人で周囲を確認した。
少し離れた草。木の根元。倒した枝の裏。
火はない。
それでも、ルークは焦げた枝を靴で動かし、その下まで確認した。
「こっちは大丈夫そう」
「はい」
エルナはようやく息を吐いた。腕が重い。身体も少しだるい。魔力を使ったあとの疲れだった。
胸元へ手を当てることはしなかった。
今、命紋を確かめても、使ったことがなくなるわけではない。
「大丈夫?」
ルークが聞いた。
「はい」
「本当に?」
「少し疲れただけです」
ルークはしばらくエルナの顔を見た。
それから、火の消えた斜面へ視線を移す。
「下、戻ろう。こっちが止まったことも伝えた方がいい」
「そうですね」
二人で斜面を下りた。
*
町側の火も、時間をかけてようやく落ち着いた。
「上にも飛んでたのか?」
戻ってきた二人を見て、先ほどの冒険者が聞いた。
「ああ」
ルークが答える。
「少し火はついてた。広がる前に枝を落として、土をかけた。今は止まってる」
「林には?」
「入ってない。念のため、あとで何人かで見た方がいい」
「わかった。助かった」
ルークが言ったことは、どれも本当だった。
二人はもう一度、町側の消火へ加わった。
燃えたのは、畑の端と柵、積まれていた枯れ草、その周囲の地面だった。家まで火が届いたところはない。大きな怪我をした者もいないらしい。
それでも、黒く焼けた地面は広かった。
人々はまだ動いている。煙の上がる場所へ土をかける。水を運ぶ。燃え残った木を移動させる。
少し離れた場所で、畑の持ち主らしい男が焼けた柵を見ていた。
「家まで来なくてよかった」
誰に言うでもなく呟く。
その隣で、女が黒くなった地面を見る。
「でも、ここは植え直しだね」
「ああ」
「水もないのに」
男は返事をしなかった。
少しして、また煙の出ている場所へ向かう。
まだ終わったわけではない。
エルナも、近くにあった桶を持ち上げた。
*
昼を過ぎた頃。
ようやく、すぐに火が戻る心配はないと言われた。
火元はまだわからなかった。誰かの不始末なのか。偶然なのか。ほかに理由があるのか。今は、確かめようがない。
ただ、乾ききった草と強い風、それに少ない水が、火を広げた。
それだけは、そこにいた誰の目にも明らかだった。
エルナは町外れの木陰へ移動した。
水筒の水を一口飲む。少しぬるい。それでも喉には気持ちよかった。
ルークも隣に座った。
しばらく、何も言わない。
町の方からは、まだ人の声が聞こえている。焦げた匂いも残っていた。
エルナは水筒の蓋を閉める。
隣で、ルークが息を吐いた。
「エルナ」
「はい」
声は、いつもと同じだった。
エルナは顔を上げる。
ルークはすぐには話さなかった。
視線が一度、エルナの左手首へ落ちる。
腕輪。
以前からつけているもの。
それから、髪を包んだ布へ。
またエルナの顔へ戻る。
何かを確かめるような目だった。
「……エルナ」
「はい」
「魔女なのか」
誤魔化そうと思えば、何か言えたかもしれない。
けれど、自分で使った。
ルークが見ていると知った上で。
エルナはまっすぐ彼を見る。
「はい」




