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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第4章 隣にいる人
62/122

第62話 火の境目


 数日後。


 ルークがまた小屋へ来た翌朝、エルナは彼と並んで山道を下りていた。


 空はよく晴れている。まだ朝だというのに、木々の間を抜ける風は涼しいとは言い難かった。時折、枝葉の上を強い風が抜け、乾いた葉が擦れ合う音を立てる。日差しの当たるところでは、地面に落ちた葉が白っぽく乾いていた。


「今日も仕事見る?」


 隣からルークが聞いた。


「そのつもりです」


「薬草は?」


「昨日の分を持ってきました」


「じゃあ、いいのあったら受ける?」


「今日中に戻れるものなら」


「俺も?」


 エルナは横を見る。


「一緒に下りたんでしょう」


「そうだけど」


「嫌なんですか」


「逆」


 ルークが笑った。


「聞いただけ」


「じゃあ、あれば一緒に」


「了解」


 会話はそこで途切れた。


 二人で歩く。前に同じ道を下りた時のように、エルナがルークの脚を気にして歩調を落とす必要はもうなかった。ルークもそれを気にしている様子はない。少し先を歩くこともあれば、エルナの隣へ戻ることもある。


 それが、もう自然になっていた。


 しばらく下ったところで、エルナは足を止めた。


「……何か、臭いません?」


 ルークも止まる。


 風が吹いた。乾いた木の匂い。土。その中に、別のものが混じっている。


「煙だな」


 ルークが顔を上げた。


 エルナも木々の向こうを見る。少し離れた空が、薄く灰色に霞んでいた。


「町の方です」


「ああ」


 次の瞬間には、二人とも歩く速さを上げていた。


     *


 山道を抜ける前から、声が聞こえた。誰かが叫んでいる。走る音。木を叩くような音。


 町へ続く道へ出ると、状況が見えた。


 町の北側。畑と山裾の林が接しているあたりから、煙が上がっている。建物そのものが大きく燃えているわけではない。畑の端。低い柵。その向こうに積まれていた枯れ草や枝。その辺りから火が広がったらしい。


 すでに何人もの人が集まっていた。桶を持って走る者。土を掘る者。荷を抱えて家から離れる者。繋がれていた山羊を引いていく者もいる。


「水、こっち!」


「井戸はまだか!」


「畑の方へ回せ! 家はまだ燃えてない!」


 怒鳴り声が飛び交っていた。


「火元は?」


 誰かが聞く。


「わからん! 気づいた時には枯れ草が燃えてた!」


「誰か見てないのか!」


「今はそんなこといい、先に消せ!」


 エルナとルークは顔を見合わせることもなく、そちらへ向かった。近づくほど熱気が強くなる。


 冒険者らしい男が何人か、燃えている柵を倒していた。火のついた木をそのまま残せば、風に煽られて火の粉が飛ぶ。


「手ぇ空いてる奴、そっちの枯れ草どけろ!」


 誰かが叫ぶ。


 ルークがすぐにそちらへ向かった。


「エルナ、こっち」


「はい」


 二人でまだ燃えていない枯れ草の束を運ぶ。火から離れた場所へ持っていくと、近くにいた女も加わった。


「そこじゃ足りない! もっと離して!」


「わかりました」


 エルナは抱えていた束を持ち直す。


 腕に乾いた茎が当たった。軽い。ひどく乾いている。少し擦っただけでも、細い葉がぱらぱらと落ちた。


「今年、乾きすぎなんだよ!」


 近くの男が吐き捨てるように言った。


「いつもなら、こんなに回らねえのに!」


 返事をする暇はなかった。


 また風が吹く。炎が横へ倒れ、火の粉がいくつか舞った。


「水!」


 桶が回ってくる。


 エルナも受け取った。半分ほどしか入っていない。燃えている場所へ走り、端の方へかけると、水が地面へ落ちた途端、白い蒸気が上がった。


 火は一度弱まる。それでも消えない。


「次!」


 空になった桶を返し、後ろから別の桶を受け取る。今度も少ない。


 エルナは眉を寄せた。


「水、これだけですか」


 桶を渡した男が息を切らしながら答える。


「水路が少ねえんだ! 井戸からも持ってきてる!」


 聞き覚えのある話だった。


 水が少ない。ずっと前から、少しずつ。


 けれど今、その少なさが目の前の火を消しにくくしている。


 エルナは桶を受け取り、また走った。


     *


 すぐには終わらなかった。


 火が弱くなったところへ土をかける。まだ燃えていない草をどかす。倒せる柵は倒して、火が伝わるものを減らしていく。


 ルークはいつの間にか、数人の冒険者と一緒に火の近くへ入っていた。


「そこ切る!」


「こっちか?」


「もう一本!」


 長い枝を落とし、燃えかけた部分だけを引きずり出す。


 エルナも別の場所で、女たちと一緒に土を運んだ。


 誰も立って見ている者はいなかった。火から十分に離れた場所では、子どもたちまで空の桶を受け取り、井戸の方へ回している。老人は小さな荷を抱え、家から離れた場所へ運んでいた。


 できることを、それぞれがやっている。


 エルナも土を運ぶ。火の際へ落とし、戻って、また運ぶ。


 何度目かわからなくなった頃には、最初より炎が低くなっていた。煙はまだ多いが、広がる速さは落ちている。


「これなら……」


 誰かが言った。


 エルナも同じことを思った。このままなら、止められるかもしれない。


 その時、木々の上を鳴らすような強い風が吹き抜けた。


「目、閉じろ!」


 声と同時に煙が大きく流れ、火の粉が一斉に空へ舞い上がる。


 赤い点がいくつも風に乗った。大半は近くへ落ちた。けれど、そのうちの一つが高く運ばれて、山側の斜面の向こうへ消えた。


 エルナの目がそちらを追う。


 嫌な感じがした。


「ルーク」


 少し離れたところにいたルークも、同じ方向を見ていた。


「ああ。上に飛んだ」


 ルークは近くにいた冒険者へ振り向いた。


「上を見てくる! 火が飛んだ!」


「頼む!」


 返事を聞くと同時に、二人は山側へ走った。


「どこから回れる?」


「こっちです」


 エルナが先へ出る。


 町から山へ上がる細い道。普段使う道とは少し違うが、斜面の形は知っている。少し上へ行けば、向こう側へ回り込める。


 足元の土が滑る。木の根を跨ぐ。後ろからルークの足音がついてくる。


 火の粉が落ちた先は、まだ見えない。


 それが怖かった。


     *


 斜面を回り込んだところで、煙が見えた。


「……ついてる」


 ルークが言った。


 低木の根元。乾いた草。そこに小さな炎が走っている。


 まだ大きくはない。けれど、その先には林が続いていた。


 下の消火現場との間には斜面の盛り上がりがあり、こちら側はほとんど見えない。人の声も、先ほどより遠くなっている。


「水は?」


「ありません」


「戻って持ってくる時間はないな」


「はい」


 ルークがすぐに剣を抜いた。


 炎へ向けるのではない。燃えていない低木の枝を切り落とす。


「広がる前に空ける」


「私もやります」


 エルナはナイフを抜いた。


 細い枝。枯れた草。火が移りそうなものを、できるだけ燃えている場所から離す。土を蹴り上げ、手で掴めるものは掴んでどける。


 火はまだ小さい。だから止められる。


 そう思った。


 けれど、地面が乾きすぎていた。


 一つの火を土で覆っている間に、別の細い炎が草を伝う。


「こっち!」


 ルークが土をかける。


 エルナも続いた。


 一つ消せば、その横でまた赤いものが上がる。ルークが枝を落とし、エルナがその根元へ土をかける。消えたと思った場所から煙が上がり、風に煽られると再び小さな炎が現れた。


「くそ」


 ルークが火のついた枝を切り落とす。


 地面へ転がったそれへ、エルナが土をかけた。


 それでも火は止まらない。急に大きくなっているわけではない。ほんの少しずつ。けれど確実に、林の方へ近づいている。


 エルナは立ち上がった。


 その先を見る。


 木がある。さらに奥にも。地面には乾いた葉が積もっている。


 ここへ火が入れば、今よりずっと広い範囲へ回る。


 下で火を消している人たちは、まだこちらに気づいていない。気づいたとしても、桶を持ってここまで上がってくるには時間がかかる。その間にも火は進む。


「エルナ」


 ルークの声がする。


「一回下がるぞ。人呼んだ方がいい」


 このまま二人だけで近づけば危ない。戻って人を呼ぶ。それが普通なら正しい。


 エルナもわかっていた。


 けれど、もう一度火を見る。その向こうの林を見る。


 山。水場。この先へ続いている道。毎日のように歩く場所。


 町へ下りれば、顔を知っている人がいる。薬草を売る店がある。依頼を受けるギルドがある。


 少し前まで、自分とは何の関係もなかった場所。


 今は違う。


 ここで暮らしている。


 自分で選んで、ここにいる。


 この先まで、燃やしたくない。


 方法はある。そのことを、エルナは知っている。


 同時に、何を使うのかも知っていた。


 魔法を使えば、命紋は進む。一度進んだものは戻らない。どれだけ進むのかはわからない。


 そして、ルークには知られる。


 ここには二人しかいない。自分が何をしたのか、隠すことはできない。


 エルナは左手首へ一瞬だけ目を落とした。いつもの腕輪がある。髪を包んだ布も、そのままだ。


 それでも、その奥にあるものまで隠し続けることはできない。


 怖くないわけではなかった。


 命が減ることも。


 秘密を知られることも。


 どちらも。


 それでも、使わずに離れる方を選びたいとは思わなかった。


「ルーク」


「何?」


「少し離れていてください」


 ルークがエルナを見る。


「何する?」


「止めます」


 一瞬だけ、ルークの眉が寄った。


 それでも、それ以上は聞かなかった。


「……わかった」


 ルークは数歩下がった。ただし剣は持ったまま、周囲への警戒も解かない。


 エルナは炎へ向き直った。


     *


 熱を感じる。


 燃えている草。黒くなった土。火のついた枝。そこから周囲へ広がっていく熱。


 以前より、ずっと強い。


 一度に全部を奪う必要はない。止める場所だけ。


 エルナは意識を絞る。


 林へ向かって伸びている火。その先端。まだ燃えていない乾いた草。低木の根元。


 そこから熱を抜く。


 肌を刺していた熱気が、わずかに薄くなった。炎が揺れ、草の先を舐めていた赤が低くなる。


 エルナは止めない。


 広げすぎない。火が進もうとしているところだけ。必要な分だけ。


 奪った熱を、頭上へ逃がす。一か所へ集めない。高く、広く、薄く散らす。


 胸の奥が重い。


 身体の芯から力が抜けていくような感覚がある。それでも、まだ足りる。


 炎がもう一つ縮んだ。燃えかけていた枝から赤みが消える。


 熱を抜く。


 前へ進もうとしている火だけを追う。


「エルナ!」


 ルークの声がした。


「火、止まってる!」


 エルナは目を開けた。


 見る。


 炎は残っている。けれど、林へ向かっていた先端はもう進んでいない。燃えていた草も、低く煙を上げているだけだった。


 ここまで。


 エルナは自分で意識を切った。


 力を止め、大きく息を吐く。


 身体が重い。それでも、まだ立っていられる。


 ルークがすぐに動いた。火の弱くなった場所へ入り、剣で燃え残った枝を落とす。


「こっち、まだ赤い」


「はい」


 エルナもナイフを握り直し、そちらへ向かった。


 二人で残った火種を潰す。ルークが枝をどけ、エルナが土をかける。煙の上がる場所を一つずつ確かめ、赤いものが残っていればさらに土を被せた。


 しばらくして、ようやく目に見える炎がなくなった。


     *


 二人とも、すぐには戻らなかった。


 しゃがんだまま地面を見る。


 煙。焦げた匂い。黒くなった草。火の消えた枝。


 再び赤くなるところがないか確かめる。


「もう一周見る」


 ルークが言った。


「はい」


 二人で周囲を確認した。


 少し離れた草。木の根元。倒した枝の裏。


 火はない。


 それでも、ルークは焦げた枝を靴で動かし、その下まで確認した。


「こっちは大丈夫そう」


「はい」


 エルナはようやく息を吐いた。腕が重い。身体も少しだるい。魔力を使ったあとの疲れだった。


 胸元へ手を当てることはしなかった。


 今、命紋を確かめても、使ったことがなくなるわけではない。


「大丈夫?」


 ルークが聞いた。


「はい」


「本当に?」


「少し疲れただけです」


 ルークはしばらくエルナの顔を見た。


 それから、火の消えた斜面へ視線を移す。


「下、戻ろう。こっちが止まったことも伝えた方がいい」


「そうですね」


 二人で斜面を下りた。


     *


 町側の火も、時間をかけてようやく落ち着いた。


「上にも飛んでたのか?」


 戻ってきた二人を見て、先ほどの冒険者が聞いた。


「ああ」


 ルークが答える。


「少し火はついてた。広がる前に枝を落として、土をかけた。今は止まってる」


「林には?」


「入ってない。念のため、あとで何人かで見た方がいい」


「わかった。助かった」


 ルークが言ったことは、どれも本当だった。


 二人はもう一度、町側の消火へ加わった。


 燃えたのは、畑の端と柵、積まれていた枯れ草、その周囲の地面だった。家まで火が届いたところはない。大きな怪我をした者もいないらしい。


 それでも、黒く焼けた地面は広かった。


 人々はまだ動いている。煙の上がる場所へ土をかける。水を運ぶ。燃え残った木を移動させる。


 少し離れた場所で、畑の持ち主らしい男が焼けた柵を見ていた。


「家まで来なくてよかった」


 誰に言うでもなく呟く。


 その隣で、女が黒くなった地面を見る。


「でも、ここは植え直しだね」


「ああ」


「水もないのに」


 男は返事をしなかった。


 少しして、また煙の出ている場所へ向かう。


 まだ終わったわけではない。


 エルナも、近くにあった桶を持ち上げた。


     *


 昼を過ぎた頃。


 ようやく、すぐに火が戻る心配はないと言われた。


 火元はまだわからなかった。誰かの不始末なのか。偶然なのか。ほかに理由があるのか。今は、確かめようがない。


 ただ、乾ききった草と強い風、それに少ない水が、火を広げた。


 それだけは、そこにいた誰の目にも明らかだった。


 エルナは町外れの木陰へ移動した。


 水筒の水を一口飲む。少しぬるい。それでも喉には気持ちよかった。


 ルークも隣に座った。


 しばらく、何も言わない。


 町の方からは、まだ人の声が聞こえている。焦げた匂いも残っていた。


 エルナは水筒の蓋を閉める。


 隣で、ルークが息を吐いた。


「エルナ」


「はい」


 声は、いつもと同じだった。


 エルナは顔を上げる。


 ルークはすぐには話さなかった。


 視線が一度、エルナの左手首へ落ちる。


 腕輪。


 以前からつけているもの。


 それから、髪を包んだ布へ。


 またエルナの顔へ戻る。


 何かを確かめるような目だった。


「……エルナ」


「はい」


「魔女なのか」


 誤魔化そうと思えば、何か言えたかもしれない。


 けれど、自分で使った。


 ルークが見ていると知った上で。


 エルナはまっすぐ彼を見る。


「はい」




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