第61話 遠い街の話
数日後、エルナは町へ下りた。
乾かしておいた薬草をギルドへ持ち込み、代金を受け取る。ついでに掲示板も見たが、今日受けたいと思う仕事はなかった。
無理に探す必要もない。
ギルドを出たあと、塩と油、それから食べるものを少し買って帰ることにした。
いつも使う野菜の店へ寄る。
並んでいるものを見て、エルナは足を止めた。
根菜がいくつか。豆。小ぶりな瓜。
普段なら端の籠に積まれている青菜がなかった。
「青菜は?」
店番の女に聞くと、空になった籠へ目をやった。
「今日は来てないよ」
「売り切れですか」
「いや。いつも持ってくるところが、今日は出せないって」
女は並べていた根菜を一つ持ち上げ、土を払う。
「畑へ回る水が少ないらしくてね。育ちの悪いのまで無理に採っても仕方ないから、少し休ませるんだとさ」
「そうなんですね」
「明日は来るかもしれないけど、わからないねえ」
その横から別の客が、
「こっちの瓜も少ないね」
と声をかけた。
「今日はこれだけ。暑いから傷むのも早くてさ」
「困るねえ」
「本当に」
深刻そうに話すわけではなかった。
店を閉めるほどでもない。食べるものがなくなったわけでもない。
ただ、いつもあるものが今日はない。
エルナは根菜と豆を少し買った。
受け取った包みを鞄へ入れ、山へ戻った。
*
小屋へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
買ってきたものを棚へしまい、朝出る前に干しておいた薬草の状態を見る。
乾き具合の違うものを分けていると、外から足音がした。
エルナは顔を上げる。
人が偶然通りかかる場所ではない。
足音は迷わず小屋へ近づき、扉の前で止まった。
少しして、戸を叩く音がする。
「エルナ?」
聞き覚えのある声だった。
エルナは手にしていた薬草を置き、扉へ向かう。
町から戻ったばかりなので、髪を包む布も腕輪もまだつけている。
扉を開けた。
「こんにちは」
「こんにちは」
ルークが立っていた。
剣を下げ、小さな荷物を背負っている。歩き方にも、もう怪我をしていた頃の名残はない。
「仕事ですか」
「今日は違う」
「この近くまで来たんですか」
「いや。朝の乗合で町まで来た」
エルナは少し首を傾げた。
「じゃあ、何か用事が?」
ルークは何でもないことのように答えた。
「エルナに会いに来た」
エルナは一度瞬いた。
「……そうですか」
「ああ」
前に来た時は、仕事で近くまで来たあとだった。
今日は違う。
何の用事かと聞いて、その答えが自分だった。
そのことを頭の中で一度受け止めてから、エルナは身体をずらした。
「どうぞ」
「お邪魔します」
ルークは小屋へ入った。
荷物を壁際へ置き、前に使った椅子へ腰を下ろす。
エルナも机へ戻り、途中だった薬草を手に取った。
「町に行ってた?」
「はい。薬草を売ってきました」
「仕事は?」
「今日は受けてません」
「そっか」
ルークが机の上の薬草を見る。
「それ、手伝える?」
「茎の長さを揃えるだけなら」
「やる」
エルナは一本見本を渡した。
「これくらいです」
「わかった」
ルークは何本かを手元へ寄せた。
前にも薬草の作業を頼んだことがある。その時より説明は少なくて済む。
しばらく、二人とも手を動かした。
外では風が木々を揺らしている。昼を過ぎても、空気はぬるかった。
エルナは束を一つ作り終え、紐を切る。
「今日、町で青菜がありませんでした」
「青菜?」
「いつも売ってる店です。畑へ回る水が少ないから、今日は出せなかったみたいです」
ルークの手が少し止まった。
「こっちも、そこまで来てるのか」
エルナが顔を上げる。
「そっちでもですか」
「ああ」
ルークは揃えた薬草を机へ置いた。
「戻ってから受けた仕事で、街の外まで行ったんだけど。その辺りでも、畑に引く水が前より少ないって話してた」
「どれくらい離れてるんですか」
「街からなら、そんなに遠くない。歩いて行ける範囲」
「水路が詰まってるんですか」
「そこまでは知らない。でもギルドにも、水場を見てほしいって依頼が何件かあった」
エルナは手を止めた。
ルークが普段いる街は、ここから歩けば一日ほど離れている。
山も違う。
使っている水も違うはずだった。
「獣は?」
「畑の近くまで来るって話は聞いた。前より多いって」
「魔獣も?」
「増えてるって話はある」
そこでルークは少し考える。
「でも、それまで全部同じことなのかはわからないな」
「そうですね」
水が少ないこと。
獣が人の近くまで来ること。
魔獣の目撃が増えていること。
同じ時期に起きているからといって、原因まで同じとは限らない。
ただ、この山の周りだけではないらしい。
「前は、街では水に困ってないって言ってましたよね」
「ああ。街の中は今も、すぐ困るってほどじゃないと思う」
「でも、外では減ってる」
「そうみたいだな」
エルナは机の上の薬草を見る。
いつもの採取場所。
乾いた土。
細くなった湧き水。
町の水路。
今日、店になかった青菜。
離れた街の外でも、似た話が出ている。
答えが見えたわけではない。
それでも、見えている範囲は前より広くなった。
「これ、終わった」
ルークの声で顔を上げる。
手元の薬草は、見本とだいたい同じ長さに揃っていた。
「早いですね」
「二回目だからな」
「覚えてたんですか」
「それくらいは」
ルークが笑う。
エルナは束を受け取った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
会話はそこで途切れた。
エルナは束ねた薬草を窓辺へ移す。
何かを話す時もあれば、何も話さない時間もある。
どちらも、もう気にならなかった。
少しずつ窓から入る光の角度が変わっていく。
やがて日が傾き始めた頃、エルナは外を見た。
夕食の支度を始めるなら、その前に聞いた方がいい。
「町まで戻りますか」
ルークも窓の外を見る。
「戻るなら、そろそろ出た方がいいな」
「泊まっていけばいいです」
ルークがこちらを見る。
少しだけ間があった。
「いいの?」
「前も泊まりました」
「まあ、そうだけど」
「嫌なら戻ってもいいです」
「いや。泊まる」
返事は早かった。
「じゃあ、夕食にします」
「ああ。何かやる?」
「切ってください」
「今日は最初から仕事もらえた」
「もう怪我人じゃないので」
「それ、ずっと言われそうだな」
「便利なので」
「やっぱり使うんだ」
ルークが笑い、ナイフを取った。
エルナは鍋を用意する。
今日買ってきた根菜と豆。それから家に残っていた干した肉。
青菜はない。
それでも、夕食を作るには十分だった。
ルークが切ったものをエルナが鍋へ入れる。
香草を足し、火へ掛ける。
煮えるのを待つ間にも、ぽつぽつと話した。
ルークの街では、朝から出る乗合の方が人が多いこと。
今日はその便に乗ってきたこと。
道中は思ったより揺れたこと。
「脚、大丈夫なんですか」
「そこ確認する?」
「します」
「もう治ったって」
「治った脚は、揺れても絶対に痛くならないんですか」
ルークが少し考える。
「そう言われると、自信なくなるな」
「痛いんですか」
「脚は平気。腰がちょっと疲れた」
「それは脚じゃないですね」
「そうだな」
ルークが笑った。
料理ができると、二人で食卓についた。
「歩いた方が楽だったかもしれない」
ルークがパンをちぎりながら言う。
「一日かかるでしょう」
「だから馬車にしたんだよ」
「急いでたんですか」
「急いではないけど」
ルークは少し間を置いた。
「歩いて夕方着くより、昼に着いた方が長くいられるだろ」
ごく普通のことを言うような口調だった。
エルナの手が止まる。
前に来た時は、仕事の帰りだった。
今日は違う。
自分に会うために町まで来て、少しでも長くここにいるために朝の乗合を使った。
自分が、ほかの人より少し特別なところに置かれていることくらいは、エルナにもわかる。
「……そうですね」
「ああ」
ルークはそのまま食事を続ける。
その気持ちが、ただ親しい相手へ向けるものなのか。それとも、もう少し違うものなのか。
今ここで、決める必要はないと思った。
エルナも匙を動かした。
食事が終わると、二人で片づけた。
ルークはもう、器をどこへ戻すのか聞かない。
エルナも一つずつ指示する必要はなかった。
*
夜。
エルナが棚から毛布を出すと、ルークは受け取って前と同じ場所へ広げた。
「ありがとう」
「はい」
それだけで済んだ。
小屋の中に人が一人増えても、以前のように何をどうするのか考える必要はない。
灯りを落とす。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
エルナは目を閉じた。
今夜、ルークがここにいるのは、怪我をしているからではなかった。
*
翌朝。
朝食を終えると、ルークは荷物をまとめた。
剣帯を腰へ巻き、扉のそばに置いていた小さな鞄を背負う。
「今日は歩きですか」
「町まではな。朝の便に間に合えば乗る」
「なかったら?」
「街まで歩く」
「昨日、腰が疲れたって言ってたでしょう」
「歩くのとは別だろ」
「そうかもしれませんけど」
エルナは少しだけルークの脚を見る。
「無理はしない」
先に言われた。
エルナが顔を上げる。
「まだ何も言ってません」
「言う顔してた」
「顔でわかるんですか」
「最近は」
さらりと言われ、エルナは一度黙った。
「……そうですか」
「ああ」
ルークが笑う。
扉へ向かいかけて、それから振り返った。
「次、町に下りるのいつ?」
「今日採る分がまとまれば明日です。そうでなくても、二、三日以内には依頼を見に行きます」
「結構行くんだな」
「薬草も売りますし。用事がなくても仕事を見ることはあるので」
「そっか」
ルークは少し考えた。
「じゃあ、次来た時に予定が近かったら、一緒に下りよう」
エルナはルークを見る。
「……また来るんですね」
「来るよ」
迷いのない返事だった。
ルークは、もう次に来た時の話をしている。
「似た依頼が出てたら、一緒に見よう。受けられそうなら、またやればいい」
「いいですよ」
「じゃあ決まり」
「まだ予定は決まってません」
「近かったら、だろ?」
「ならいいです」
ルークが笑った。
「じゃあ、また」
「はい。気をつけて」
「ああ」
ルークは扉を開け、山道へ出ていった。
エルナも外へ出る。
しばらく見ていると、木々の間へ背中が小さくなっていく。
あの道を下り、その先の街道を進めば、ルークが普段いる街へ続いている。
一日ほど離れた場所。
そこでも、水が減っているという話がある。
獣も、魔獣も、いつもと違う動きをしている。
同じ原因なのかは、まだわからない。
けれど、自分の山と、この町だけで起きていることではない。
エルナはルークの姿が見えなくなったあとも、少しだけ道の先を見ていた。
ここだけではない。
そのことが、以前よりはっきりとわかった。




