第60話 会いたい理由
Side:ルーク
宿の食堂で夕食を取っていたルークは、ふと向かいの席へ目をやった。
誰もいない。当たり前だ。エルナは山へ戻り、自分は町の宿にいる。それでも、ここしばらく食事をする時には向かいに誰かがいるのが当たり前になっていたせいか、少しだけ妙な感じがした。
出された煮込みを口へ運ぶ。塩気が少し強い。肉も、小屋で食べていたものより固かった。それでも腹が減っているから、普通にうまい。
食べながら、今日の水路のことを思い返す。途中に大きな詰まりはなかった。水量そのものが減っていた。獣の足跡は多く、上では猪もいた。
明日、自分の街へ戻ってからも、似たような話が出ていないか見てみてもいいかもしれない。
ルークは匙を動かしながら、もう一度だけ向かいの席へ目をやった。
やはり、誰もいない。
今日一日、一緒に仕事をしたばかりだ。別れたのだって、ついさっきだった。
少し妙に感じるくらいは、不思議でもない。
食事を終えて部屋へ戻ると、剣を外し、荷物を壁際へ置いた。上着を脱いで汗を拭く。
明日は朝のうちに町を出るつもりだった。朝の便に間に合えば乗ればいい。間に合わなければ歩けばいい。
脚は問題ない。今日一日、水路沿いを歩いた。足場の悪いところもあったが、痛みも腫れも出ていない。
太腿へ手を当てる。服の下には、もう新しい布を巻く必要もない傷跡が残っている。
最初は、自分でまともに立つことすらできなかった。傷を洗われ、薬を塗られ、動こうとするたび止められた。
『まだです』
何度聞いたかわからない声が浮かぶ。無理をしてもいいことはないと言われ続けたおかげで、今はこうして普通に歩けている。
山で倒れた時には、知らない女の小屋でしばらく暮らすことになるとは思っていなかった。まして、その女と一緒に仕事をして、帰り道に、
『一緒に受けてよかったです』
なんて言われるとも。
ルークは少し笑い、寝台へ腰を下ろした。靴を脱ぐ。
もう、夜中に脚の置き場を考える必要もない。寝返りを打って傷が痛むこともない。自分の好きなように横になれる。
気楽だった。元々、これが普通だ。
一人で宿に泊まることも珍しくない。仕事で何日も誰かと過ごしたあと、一人になることだってある。だから、別に落ち着かないわけではなかった。
ただ、何となく静かだった。
小屋も静かな場所だったはずなのに、あそこでは時々、薬草を束ねる音がした。鍋の蓋が鳴った。薪が弾けた。
何か言えば、
『何ですか』
と返事があった。
ルークは寝台へ横になり、天井を見る。宿の前で別れた時のことを思い出した。
――じゃあ、また。
そう言ったのは自分だった。
エルナは、
――はい。
と、いつもの調子で返した。それだけだった。
しばらく天井を見ていたルークは、ふと口を開いた。
「……またって、いつだ?」
言ってから、自分でも妙なことを聞いたと思った。
次に会う日など決めていない。前だってそうだった。一度自分の街へ戻り、そのあと仕事でこの近くまで来たから、山小屋へ寄った。
今度も、何かの機会に近くへ来ることはあるだろう。
けれど、それがいつなのか少し気になった。
答えは出ない。明日の予定なら決まっている。朝になったら町を出る。
ルークは明かりを落とし、目を閉じた。
*
翌朝、朝の便は時間が合わず、ルークは歩いて街へ戻ることにした。
町を出たばかりの頃は、まだ空気が涼しかった。街道を歩く人も少なく、遠くで荷車の車輪が鳴っている。
一日かけて歩くような長い距離は、怪我をしてから初めてだった。
最初のうちは、無意識に左脚の状態を確かめていた。
踏み込んでも痛まない。歩幅も左右で変わらない。少し速く歩いてみても問題はなかった。
しばらく歩いたところで一度休み、水筒を取り出して喉を潤す。道端の木陰へ腰を下ろし、しばらく脚を休ませる。
痛みが出ていないことを確かめて、再び街道へ戻った。
日が高くなるにつれて、陽射しも強くなっていく。すれ違う荷車の御者と軽く手を上げ合い、途中の木陰で持っていたパンを食べる。脚はまだ平気だった。
昼を過ぎた頃、街道脇を流れる細い水路が目に入った。
以前なら、水が流れていることを確認して、そのまま通り過ぎていただろう。今は、流れの太さや、水面から出た石のあたりまで目が向いた。
昨日の仕事のせいだ。
水量は十分にあるように見える。澄んだ水が石の間を抜け、畑の方へ続いていた。
そのまま歩きながら、ふと思う。
エルナなら、ほかにどこを見るだろう。
昨日も、自分では気にしなかった水路の側面へしゃがみ込み、以前の水位を見つけていた。
『ここまで水があったみたいです』
指先で跡を確かめていた姿が浮かぶ。ああいう時のエルナは、普段より少しよく喋る。
知っていることについて聞けば、必要なだけ答える。知らないことなら、わからないと言う。
ルークは歩きながら、一度だけ水路へ視線を戻した。
人と一緒に仕事をすると、自分とは違うものの見方を知ることがある。昨日は、そういう日だったのだろう。
また前を向き、街へ向かった。
*
街へ着いた頃には、日が傾き始めていた。
門を抜ければ、見慣れた通りが続いている。行き交う荷車の音。店先から上がる声。酒場の前で立ち話をする冒険者。肉を焼く匂い。
数日離れていただけだ。何も変わっていない。
人の流れに混じって歩いていると、通りの先から香辛料の匂いが流れてきた。ルークは何気なくそちらを見る。
見覚えのある食堂だった。
辛い料理を出す店。
以前、町でエルナと食事をした時のことを思い出す。
『俺の街に、もっと辛いの出す店あるよ』
『それは行かなくていいです』
『じゃあ連れてくなら別の店だな』
自分でそう言った。その時は、本当に何気なく口にしただけだった。
店の前を通り過ぎながら、ルークは考える。
エルナを連れてくるなら、確かにここはやめた方がいい。もっと普通の味の店はいくつか知っている。
そこまで考えて、足が少し緩んだ。
連れてくる予定など、まだ何も決まっていない。そもそもエルナがこの街へ来るかどうかすら知らない。
ルークは前を向き直った。
それでも、頭の中ではもう一度、店を選んでいた。
辛くない。騒がしすぎない。食事がちゃんとうまい。
一つ、思い当たる。
そこでようやく自分でも少し可笑しくなった。
通りを曲がり、荷物を置いている部屋へ戻る。身体を洗い、汗を流したあとで、剣を膝へ置いた。
鞘から抜き、刃を確かめる。昨日、猪を前にしても抜かなかった剣だった。
刃こぼれはない。汚れもほとんどない。布で軽く拭き、油を薄く塗る。
『もっと戦う人かと思ってました』
帰り道で言われたことを思い出す。
『傭兵だったから?』
『はい』
間違いではない。
ルークは刃を傾け、灯りを映す。
自分も似たようなものだった。
小屋で一緒に暮らしていた時には、エルナが冒険者として仕事をする姿をほとんど知らなかった。昨日初めて、同じ依頼を受けた。
自分が足跡を見る横で、エルナは水路を見る。自分が猪の気配を先に拾えば、エルナは言われるまま止まり、必要がなくなれば迷わず戻る。
一緒に暮らして知った顔とは、少し違った。
まだ、知らない顔があるらしい。
そう思うと、少し面白かった。
剣を鞘へ戻し、夕食を取る。明日の支度も簡単に済ませた。
次はどんな仕事を受けるか。
何日も遠くへ出る仕事より、しばらくは近場の方がいいだろう。
そんなことを考えながら横になる。
いつもの街。いつもの暮らし。
ちゃんと戻ってきた。
そのまま目を閉じた。
*
翌朝、ルークは支度をしてギルドへ向かった。
扉を開けると、聞き慣れたざわめきが迎える。依頼を選んでいる冒険者。受付で報告をしている者。朝から酒を頼んでいる者までいる。
顔を知っている職員がルークを見つけた。
「戻ったのか」
「ああ」
「脚は?」
「もういい。昨日一日歩いても、痛みは出なかった」
「なら仕事も見られそうだな。朝入ったのも何件かあるぞ」
「見てくる」
受付を離れ、掲示板へ向かった。
護衛。荷運び。調査。害獣の討伐。街道の見回り。見慣れた依頼が並んでいる。
怪我をする前まで、何度もこうして仕事を選んだ。
日数を見る。依頼内容を見る。場所を見る。
一枚目。
違う。
二枚目。
これも違う。
三枚目を読んだところで、一度戻した。次の紙へ手を伸ばす。
そこで、ルークは止まった。
何が違う。
条件が悪かったわけではない。一枚目の護衛は日程も短い。二枚目の調査だって、今の脚なら問題なくこなせそうだった。報酬も普通だ。
なのに、場所を見るたび、無意識に何かを確かめている。
どこへ向かう仕事なのか。
あの町の方ではないか。
そこへ気づいた瞬間、ルークは掲示板を見たまま黙った。
自分は、何を探している。
この前は仕事で近くまで行った。だから山小屋へ寄った。それは本当だ。
仕事が終わったあと、そのまま街へ帰ることもできた。それでも山へ登った。
そして今度は、まだ仕事すら決めていないのに、あの町へ行く理由になりそうなものを探している。
順番が逆だった。
ルークは掲示板から少し身体を離した。
昨夜、次にいつ会えるのかが気になった。
街へ戻る途中、水路を見れば、エルナならどう見るかと思った。
自分の街へ戻れば、いつかエルナを連れていく店まで考えていた。
何をしているんだろうと思う。
その時、昨日のエルナが浮かんだ。
『戻ります。必要がないので。依頼で求められてるところまでは見ましたし』
猪のところまで戻るかと聞いた時、当たり前のようにそう答えた。
無理に先へ進もうとしない。依頼だからといって、何でもやればいいとは考えない。
自分が、
『そうすると思った』
と言えば、エルナはただ、
『そうですか』
と返した。
その少しあと。
『ルークも、あそこで戻るんですね』
今度はエルナの方から聞かれた。
必要がないから、と答えた時の顔を思い出す。
自分がどうする人間なのか、エルナも見ていたらしい。
思い出して、ルークはわずかに笑った。
また話したい。
一緒に飯を食いたい。
昨日みたいに、隣で仕事をするのもいい。
知らないことも、まだある。
もっと知りたい。
次にいつ会えるのかが気になる。
会いたい。
そこまで考えたところで、ルークは瞬いた。
「……ああ」
妙に、腑に落ちた。
片手で額を押さえる。
数秒、そのまま動かなかった。
「……まじか」
エルナが好きだ。
そう思うと、驚くほど納得した。
「そりゃ、会いたいわけだ」
小さく笑う。
少し驚いた。けれど、嫌ではなかった。
自分がエルナを好きなのは、自分の話だ。エルナがどう思うかは、また別だった。
そこを勝手に決める気はない。
ルークは額から手を離し、もう一度掲示板を見る。
今度は最初から依頼の内容を読んだ。
日数。報酬。必要な人数。今の身体で無理なく動けるか。
いくつか見比べ、その中から一枚を外した。それを持って、受付へ向かう。
次にエルナと会う日がいつなのかは、まだわからない。
ただ、また会いたい。
その理由なら、もうわかっていた。




