第59話 同じ依頼
翌朝、朝食を終えると、エルナは町へ下りる支度を始めた。
売却する薬草と必要なものを鞄へまとめる。髪布と腕輪は、昨夜から身につけたままだった。
向かいでは、ルークが剣帯を腰へ回している。昨夜使った毛布はすでに畳まれ、棚の横へ置かれていた。
「今日は街へ戻るんですよね」
「そのつもり。まず町までは一緒だな」
「そうですね」
ルークは荷物を背負った。
「忘れ物は?」
「今度はたぶんじゃない。ない」
「確認しました?」
「した」
「ならいいです」
エルナは小屋の戸を閉め、鍵を掛けた。二人で山道を下り始める。
もう、ルークの脚を確かめながら歩く必要はなかった。最初に一度だけ歩き方を見たあとは、エルナもいつもの速さで歩いた。
*
町へ着くと、最初にギルドへ向かった。
持ってきた薬草を売り、そのまま掲示板を見る。採取、荷運び、近隣の村への配達。畑の柵を直す仕事もある。その中に、水に関する依頼が一枚増えていた。
エルナは紙へ目を近づける。
「何かあった?」
隣へ来たルークが尋ねた。
「これ」
依頼書を指す。
町外れの農地で、畑へ水を引いている取水路の水量が落ちているらしい。
農家側で確認できる範囲には、大きな詰まりはない。上流側の水路と水場を調べ、原因になりそうなものがあれば報告すること。さらに最近、その周辺で獣の足跡が増えているため、危険がないかも確認してほしいと書かれていた。
「調査か」
「はい」
「受ける?」
「そのつもりです」
ルークがもう一度、依頼書を読む。
「じゃあ俺も入ろうかな」
エルナは顔を向けた。
「街へ戻るんじゃなかったんですか」
「明日でも困らない。急ぎの仕事も入れてないし、今日戻っても夕方にギルドへ顔出すくらいだから」
「そうなんですね」
「ああ。それに、この辺の水の話は俺も気になる」
エルナは少し考え、依頼書を掲示板から外した。
「じゃあ、一緒に受けますか」
「うん」
受付へ依頼書を持っていくと、男が内容を確かめた。
「これですね。二人で?」
「はい」
エルナが冒険者証を出すと、隣でルークも自分のものを取り出した。受付係は二人分を確認し、帳面へ記録する。
「現地の農家さんからは、下流側は一通り見たって聞いてます。泥もさらったし、枝なんかも取ったそうですが、水量はほとんど変わらなかったらしくて」
「上の方は?」
「まだです。獣の痕跡も増えてるから、農家の人だけで入るのはやめてもらってます」
男は地図を机へ広げ、町外れにまとまっている畑の一角を指した。
「まず、この家に寄ってください。取水路を管理してる人です。そこから水路沿いに上がれば、水を取ってる場所まで行けます」
「獣は?」
ルークが聞いた。
「猪らしい足跡が多いって話です。鹿も混じってるかもしれない。今のところ、人が襲われたって報告はありません」
「魔獣は確認されてる?」
「いえ」
ルークが頷く。
「危なそうなら、原因まで追わなくていいです。水路と水場の状態、それから周辺に何がいるか。それだけでも報告してもらえれば」
「わかりました」
エルナは地図の位置を覚え、ルークとギルドを出た。
*
農地までは、町からそれほど遠くなかった。
街道を外れ、畑の間を通る細い道へ入る。作物は育っているものの、場所によって葉が萎れ、畝の端が崩れているところもあった。
依頼主の家へ着くと、年配の男が外で桶を洗っていた。
「ギルドの人か?」
「はい。水路の確認に来ました」
「助かるよ」
男は桶を置き、畑の奥を指した。
「水が来なくなったわけじゃないんだ。ただ、前より明らかに細い」
「いつ頃からですか」
エルナが尋ねる。
「少しずつだな。最初は気のせいかと思った。雨が少ないせいだろうって」
「水路はどこまで確認しました?」
今度はルークが聞いた。
「畑の近くだけだ。泥も取ったし、詰まってた枝もどけた。でも変わらん」
「足跡が増えたのは?」
「ここしばらくだな。前から鹿や猪はいたが、同じところに何度も来てるみたいで。畑の端にも入られた」
「夜ですか」
「たぶん。朝になると跡が増えてる」
ルークは畑の向こうへ視線をやった。
「人を見て向かってきたことは?」
「今のところはない」
「わかりました」
エルナは畑の脇を流れる水路を見る。
水はある。流れてもいる。
けれど、勢いは弱かった。
「上まで見てきます」
「ああ。無理はしないでくれ」
二人は水路に沿って歩き始めた。
最初のうちは、原因になりそうなものがいくつかあった。
落ち葉や細い枝。少し崩れた土。そのたびに立ち止まって確かめたが、どれも水路を大きく塞いではいなかった。
途中で枝が絡んでいる場所を見つけ、ルークが引き抜く。エルナも水の中へ落ちていた葉を除けた。
流れは少し整ったものの、量そのものはほとんど変わらない。
「これじゃなさそうだな」
「はい」
しばらく進んだところで、エルナがしゃがんだ。
水路の側面に、今の水面より少し高い位置まで色の濃い線が残っている。指先で触れると、まだわずかに湿っていた。
「ここまで水があったみたいです」
ルークも隣へ身を屈める。
「そんなに前じゃない?」
「たぶん。まだ乾ききってません」
その先にも、同じくらいの高さに水の跡が続いている。
水路が大きく崩れている場所はなく、外へ流れ出しているところも見当たらなかった。
「途中で減ってる感じじゃないな」
「そうですね」
エルナは立ち上がった。
「上まで行けば、もう少しわかるかもしれません」
「じゃあ行こう」
さらに進んだところで、今度はルークが足を止めた。
視線の先には、水路脇の柔らかい土がある。いくつもの跡が重なっていた。
「猪?」
エルナが尋ねる。
「これが猪。こっちは鹿だな」
ルークは少し身を屈め、足跡の向きを確かめる。
「大きさも一つじゃない。同じ場所を何度も通ってる」
足跡は水路へ近づき、森側へ戻っていた。古い跡の上に、新しいものが重なっている。
「ここを使う獣が増えてるみたいですね」
「ああ」
「水が少ないから?」
ルークはすぐには答えなかった。
「かもしれない。でも、これだけじゃまだわからないな」
「そうですね」
水を求めて集まっているのかもしれない。餌の場所が変わったのかもしれないし、もともと通り道だった可能性もある。
今わかるのは、複数の獣が同じ水場へ繰り返し来ているということだけだった。
二人はその場所を覚え、さらに上流へ進んだ。
*
取水元が近づいても、水の流れは細いままだった。
ところどころに、今の水面より高い位置まで濡れた色が残っている。水路の途中で大量に失われている様子はないのに、上まで来ても量は増えない。
エルナが流れの先へ目を向けた時、前を歩いていたルークが急に止まった。
片手がわずかに上がる。
エルナも足を止めた。
藪の向こうで枝が鳴った。
低い音。重いものが土を踏む気配。
ルークの右手が剣の柄へ掛かる。抜かないまま、左手だけで下がるよう合図した。
エルナは一歩後ろへ退く。
少しして、藪の間から猪が姿を現した。
大きな成獣だった。
水場のそばに立ち、こちらを見ている。逃げる様子はないが、すぐに向かってくる様子もない。
ルークは猪から目を離さず、身体の向きを少し変えた。エルナとの間を完全に塞がない位置で、後ろへ下がる道を残している。
「追い払いますか」
エルナが小声で尋ねる。
「いや。向こうから来ないなら、こっちが下がる」
ルークの手は剣に掛かったままだった。
「ここまでで見たいものは見えた。わざわざ近づく必要ないだろ」
「はい」
二人はゆっくり距離を取った。
背を向けず、足元だけを確かめながら下がる。
猪はしばらくこちらを見ていたものの、追ってはこなかった。藪が間に入り、十分離れてから、ルークがようやく剣から手を離す。
「追ってきませんでしたね」
「ああ。ならそれでいい」
ルークは一度だけ後ろを確認した。
「畑に出て困ってるなら、そっちは別に対策がいる。でも、今ここで一頭斬って終わる話でもないし」
「そうですね」
エルナも後ろを見た。
猪の姿はもう見えない。
二人はそのまま来た道を戻った。
*
帰り道では、確認したことを順に整理した。
水路には、大きな詰まりも崩れもなかった。途中で枝を除いても水量はほとんど変わらず、上流まで辿っても流れは細いままだった。
猪と鹿の足跡は複数あり、同じ水場へ繰り返し来ているらしい。
「水が減ってることと、獣が来てることが繋がってるかは、まだわからないな」
ルークが言う。
「はい。そこまでは言えません」
「なら、そのまま報告だな」
「そうしましょう」
少し歩いたところで、ルークがこちらを見る。
「エルナ、一人でもあそこで戻った?」
「猪のところですか」
「うん」
「戻ります。必要がないので。依頼で求められてるところまでは見ましたし」
「やっぱりか」
「何ですか」
「いや。そうすると思った」
「そうですか」
少し歩いてから、エルナもルークを見る。
「ルークも、あそこで戻るんですね」
「必要ないからな」
「もっと戦う人かと思ってました」
「傭兵だったから?」
「はい」
ルークが少し笑った。
「必要なら戦うよ。でも、今日はその必要なかっただろ」
「そうですね」
エルナも少しだけ口元を緩めた。
*
依頼主へ途中経過を伝えてから、二人は町へ戻った。
ギルドへ着く頃には、日が傾き始めている。受付では、依頼を渡した男が帳面を開いた。
「どうでした?」
エルナは地図を借り、確認した範囲を示す。
「水路に大きな詰まりや壊れている場所はありませんでした。枝が絡んでいたところは除きましたけど、水量はほとんど変わってません」
「じゃあ、水路そのものじゃない?」
「私たちが見た範囲では。途中で外へ漏れている場所も見当たりませんでしたし、上まで行っても流れは細いままでした」
受付係が書き留めていく。
「獣は?」
ルークが答えた。
「猪と鹿の足跡が重なってた。何度も同じ水場へ来てるみたいだ。上では成獣の猪を一頭見た」
「襲われました?」
「いや。警戒されただけ。こっちから離れた」
「魔獣では?」
「見た限り普通の猪」
受付係は少し考えてから、さらに何かを書き込んだ。
「最近、似た話が増えてるんですよね。水が少ないって話も、獣がいつもと違うところまで来るって話も」
「同じ理由かは、まだわかりません」
エルナが言う。
「そうですね。そこはもう少し情報が要りそうです」
男は帳面を閉じた。
「必要なら、もう一度人数を増やして調査を出します。今日はここまでで十分です」
報告を終え、依頼の報酬を受け取った。
ギルドを出ると、空はもう夕方の色になっていた。
*
通りへ出たところで、ルークが空を見上げる。
「さすがに今日は戻れないな」
「明日でも困らないんでしょう」
「ああ。そう言った」
「じゃあ、町に泊まりますか」
「そうする」
宿までは同じ道だった。
「一緒に受けてよかったです」
歩きながらエルナが言うと、ルークがこちらを見る。
「俺も。水の跡は一人だったら見落としてたかもしれない」
「私は、足跡だけ見ても種類まではわかりません」
「じゃあ、ちょうどよかったな」
「そうですね」
宿の前まで来て、ルークが足を止めた。
「俺はここ」
「はい」
「エルナは小屋まで戻る?」
「戻ります」
「暗くなる前には?」
「間に合います」
「ならいい」
ルークは一度、山へ続く道を見た。
「明日の朝、街へ戻る」
「気をつけて」
「ああ」
少しだけ間が空く。
「じゃあ、また」
「はい」
ルークは宿へ入り、エルナは山へ続く道へ向かった。
町を離れてしばらくすると、周囲の音が減っていく。
歩きながら、エルナは今日見た水路を思い出した。
水は流れていた。なくなったわけではない。
ただ、以前より明らかに少なくなっている。
小屋の近くにある湧き水も、同じだった。
同じ理由なのか。それとも、ただ似たことが重なっているだけなのか。
今はまだ、わからなかった。




