第58話 また来る人
昼を少し過ぎた頃、エルナは窓際の机で薬草を束ねていた。
朝のうちに採ってきたものはすでに選り分けてある。乾かす分を紐でまとめ、窓辺へ吊るしていく。
窓は開けていた。外から入る風は涼しいとは言えなかったが、髪を揺らす程度には吹いている。
腕輪は机の端に置いてある。白銀の髪も隠していない。
最後の一束へ紐を掛けたところで、扉を叩く音がした。
エルナは顔を上げた。
少し間を置いて、もう一度。こん、こん、と二度。
この小屋を訪ねてくる人間は、ほとんどいない。
立ち上がり、机の腕輪を左手首へ通す。髪をまとめて布で包んでから、扉へ向かった。
「誰ですか」
一拍遅れて、外から声がした。
「俺。ルーク」
エルナの手が止まった。
「……ルーク?」
「そう」
聞き間違えるような声ではなかった。
鍵を外し、扉を開ける。
そこにルークが立っていた。
剣を腰へ下げ、小さな荷を背負っている。杖はなく、立ち方にも左脚を庇う様子はなかった。
エルナの視線が自然と足元へ落ちる。
「足は?」
ルークも自分の左脚を見た。
「もう平気」
「腫れませんでしたか」
「戻った次の日も大丈夫だった。治療院にも行ったよ」
「痛みは?」
「ない」
ルークがその場で軽く左脚へ体重を移す。動きに不自然なところはなかった。
「なら、よかったです」
「ああ」
ルークが少し笑う。
「最初に聞くの、それなんだな」
「怪我してましたから」
「もう治ったって」
「今、確認しました」
「そっか」
素直に納得したらしい。
そこでようやく、エルナは別のことに気づいた。
「どうしたんですか」
「仕事で近くまで来た」
「この町に?」
「この町より少し南。商人の護衛で村まで行って、そこで仕事は終わり。帰りにこっちへ回って、ギルドにも寄ってきた」
「もう仕事は終わったんですね」
「うん」
「じゃあ、今は?」
ルークがわずかに間を置いた。
「戻る前に、寄ってこうと思って」
「ここへ?」
「ここ以外に山登って寄る場所ないだろ」
それはそうだった。
エルナは町の方角を見る。この小屋は、街道を歩いているついでに立ち寄れる場所ではない。
「結構、登りましたよね」
「知ってる。何回も歩いたから」
「仕事のあとに?」
「今日の仕事はそんなに大変じゃなかったし」
ルークは何でもないことのように言った。
エルナは少し考え、それから扉をもう少し開ける。
「入りますか」
今度はルークが一瞬止まった。
「いいの?」
「来たんでしょう」
「まあ、そうだけど」
「どうぞ」
「じゃあ、お邪魔します」
ルークが小屋へ入り、エルナは扉を閉めた。
ルークは椅子の前で一度止まった。
「ここ、座っていい?」
「はい」
エルナは水差しから杯へ水を注ぎ、机へ置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
ルークは椅子へ腰を下ろして水を飲んだ。山道を上ってきたせいか、額には少し汗が浮いている。
「やっぱり暑いな」
「今日は風があります」
「これで?」
「昨日よりは」
「基準が厳しい」
エルナは途中だった薬草の束を手に取り、紐を結び直した。
「街には、あの日の次の日に戻ったんですか」
「うん。乗合に間に合った」
「足は平気でした?」
「途中で固まった感じはしたけど、腫れはしなかった。着いた日に治療院へ行って、次の日も診てもらった」
「そのあと、すぐ仕事を?」
「すぐにはしてない」
ルークは空になった杯を机へ戻した。
「一日はちゃんと休んだ。その次の日にギルドへ顔出して、近場の軽い仕事を一本。そのあとも脚に何も出なかったから、今日は普通に護衛」
「ちゃんと休んだんですね」
「ああ。休んだ方が早く戻れるってわかった」
エルナは一度ルークを見る。
「……そうですか」
「何?」
「いえ。ちゃんと休んだならいいです」
「休んだよ」
エルナは次の薬草へ紐を掛ける。
「帰るのが遅くなって、何か言われませんでしたか」
「言われた」
「誰に?」
口にしてから、エルナは手を止めた。
以前、ルークが怪我をした時にも少しだけ気になったことだった。
ルークは特に気にした様子もなく答える。
「ギルドの顔見知りにも言われたし、昔から知ってるパン屋にも」
「パン屋?」
「同じ孤児院で育ったやつが、街で店やってるんだよ」
初めて聞く話だった。
「パン屋なんですね」
「旦那が職人で、夫婦でやってる。戻った日に顔出したら、歩き方見てすぐばれた」
「怪我したことが?」
「うん。何したって聞かれて、山で魔獣にやられて落ちたって言ったら、馬鹿じゃないのって」
「その通りですね」
「エルナまでそっち側?」
「私は最初からそっち側です」
「そうだった」
ルークが笑う。
エルナは束ね終えた薬草を窓辺へ置いた。
「その人たち、心配してたんじゃないですか」
「まあ、多少は。でも冒険者やってれば怪我することくらい知ってるからな。動けるの見たら、それ以上は何も」
「そうですか」
「あとは、いつも通り」
「いつも通り?」
「ギルド行って、仕事見て。飯食って、寝て。また仕事して」
簡単な言い方だった。
けれど、それがルークの日常なのだろう。
この小屋へ来る前からあり、怪我が治れば戻っていく生活。
「エルナは?」
「何がですか」
「俺が帰ってから」
「普通です」
「普通」
「山へ行って、薬草を採って。町にも行きました」
「水の依頼、増えてた?」
エルナは顔を上げた。
「どうしてわかったんですか」
「今日こっちへ来る途中でも、水運んでる畑があったから」
「増えてました。用水路の確認とか、井戸から水を運ぶ仕事も」
「そっか」
「南の方も暑いらしいです。商人から聞いた話だそうですけど」
ルークが少し考える。
「俺の街でも暑いって話は出てる。こっちほど山が近くないから、同じ見え方じゃないけど」
「水は?」
「今のところ、街で困ってるってほどじゃないと思う。ただ、全部知ってるわけじゃない」
「そうですね」
答えの出る話ではなかった。
エルナは薬草の束を最後までまとめ、余った紐を小箱へ戻した。
「終わり?」
「はい」
「じゃあ暇になった」
ルークが椅子へ背を預ける。
エルナも椅子へ座った。
それからは、特に決まったことをするでもなく話した。
ルークの街のギルドは、この町より大きいこと。依頼の数も多く、商隊の出入りも多いこと。
エルナが使っている小さな町では、採取や山仕事が多い。ルークの街では護衛や運送に関わる仕事が目立つらしい。
「だから護衛が多いんですね」
「それもある。でも俺が受けること多いだけかな」
「そうなんですか」
「ああ。慣れてるしな」
そんな話をしているうちに、窓から入る光の角度が少しずつ変わっていった。
ルークが時々水を飲み、エルナは乾き始めた薬草を一度裏返す。
会話が途切れれば、窓の外で葉の擦れる音だけが聞こえた。
やがてルークが窓の外へ目を向けた。
「そろそろ戻るかな」
エルナも外を見る。
まだ日はある。今から下りれば、明るいうちに町へ着けるだろう。
「今日は町に泊まるんですか」
「そのつもり。宿取って、明日の朝に街へ戻る」
ルークが椅子から立ち上がった。
動きに迷いはない。歩き方にも、もう怪我の名残は見えなかった。
荷物へ手を伸ばす。
「じゃあ――」
そのまま町へ戻れる。
足も治っている。道も知っているし、今ならまだ暗くなる前に着く。
引き止める理由はなかった。
エルナはルークの手が荷へ掛かるのを見て、それから口を開いた。
「泊まっていけばいいです」
ルークの手が止まった。
しばらくこちらを見る。
「……いいの?」
「はい」
「まだ町まで戻れるぞ」
「知ってます」
ルークが窓を見る。
「暗くなるから、とかじゃなく?」
「まだ明るいです」
「そうだな」
視線が戻ってくる。
「でも、前に治ったら出ていけって言われた気がする」
「言いました」
「言ったよな」
「でも、もう出ていったでしょう」
ルークが黙った。
数秒して、口元が緩む。
「……そういうこと?」
「そういうことです」
ルークは小さく笑い、荷物から手を離した。
「じゃあ、泊まる」
「はい」
*
夕食の支度を始めると、ルークも椅子から立った。
「何かする?」
「野菜を切ってください」
「今日は即答だな」
「もう怪我人じゃないので」
「そこが基準?」
「できる人には頼みます」
「なるほど」
エルナがまな板とナイフを渡す。ルークは受け取ると、根菜を切り始めた。
大きさを揃え、火の通りにくいものは少し小さくする。
エルナは切り終えたものを受け取り、そのまま鍋へ入れた。
次の野菜を渡すと、ルークも何も聞かずに切り始める。
以前にもしていたことだった。
ただ、今は傷の具合を確かめる必要もなければ、長く立たせすぎないよう気を配る必要もない。
ルークは普通に立っている。
エルナも普通に仕事を任せていた。
「香草、入れる?」
「お願いします。そこにあるものを少し」
「少しってどれくらい」
エルナが手を伸ばし、ルークの指先にある香草を半分ほど取った。
「これくらいです」
「最初からやった方が早くない?」
「次からわかるでしょう」
「次もやる前提なんだな」
エルナは鍋を混ぜながら顔を上げた。
ルークもこちらを見ている。
「……嫌なんですか」
「いや」
すぐに返ってきた。
「覚えとく」
「ならいいです」
鍋が煮える頃には、外の光がだいぶ薄くなっていた。
二人で食卓につく。
ルークが一口食べる。
「うまい」
「いつもと同じです」
「数日ぶりだからかも」
「数日です」
「数日でも久しぶりは久しぶりだろ」
エルナは少し考えた。
「そうですか」
「たぶん」
その言い方が少しおかしくて、エルナはわずかに笑った。
ルークがそれを見る。
「何ですか」
「いや」
「今、何か言おうとしたでしょう」
「言ってない」
「顔がそうでした」
「エルナもそういうの見るようになったな」
「何をですか」
「人の顔」
エルナは少しだけ眉を寄せた。
ルークはそれ以上説明せず、食事へ戻った。
*
食器を片づける頃には、外はすっかり暗くなっていた。
エルナは棚の前へ行き、上段に畳んでしまっていた毛布を取り出した。
数日前、ルークがいなくなった日に戻したものだった。
「どうぞ」
「ありがとう」
ルークが受け取り、床へ広げる。
寝台をどちらが使うかという話にはならなかった。怪我はもう治っている。床から起きることも、一人で歩くこともできる。
エルナは戸締まりを確かめ、灯りを小さくした。
寝台へ入ろうとして、頭へ手を伸ばす。
いつもの癖で、髪布の結び目へ指が触れた。
そこで止まった。
床では、ルークが毛布を整えている。
エルナは指を下ろした。
髪布はそのまま。左手首の腕輪も外さない。
寝台へ横になると、少しして床から布の擦れる音が聞こえた。
「狭くないですか」
「平気。前もここで寝たし」
「ならいいです」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
灯りを消す。
暗くなった小屋の中で、エルナは目を閉じた。
風が木々を揺らす音。小屋の木が軋む音。その合間に、少し離れたところから呼吸が聞こえる。
数日前まで、ここにあった音だった。
エルナはその音を聞きながら、眠りについた。




