第57話 一人に戻る
小屋へ戻った頃には、日がだいぶ傾いていた。
エルナは鍵を開けて中へ入り、扉を閉めた。背負っていた荷を下ろし、まずフードを脱ぐ。ここまでは、ルークがいた間も変わらなかった。
次に、左手首へ目を落とした。
腕輪の留め具へ指を掛ける。外した腕輪を机の上へ置くと、ずっと締めつけられていたところに薄く跡が残っていた。そこを親指で軽く撫でてから、今度は髪を包んでいた布を解く。
押さえ込まれていた白銀の髪が、肩から背へさらりと落ちた。
エルナは両手を髪へ差し入れ、根元からゆっくり梳いた。張りついていた髪がほどけ、空気が通る。
「……楽」
小さく声が出た。
ルークをこの小屋へ連れてきた夜から、家の中でも腕輪と髪布を外していなかった。
窓を少し開ける。山の風が入り込み、ほどいた髪を揺らした。誰かに見られることを考えなくていいのなら、布から髪が出ていないか気にする必要もない。
久しぶりの感覚だった。
窓を閉めようとした時、視界の端に床が入った。
壁際に、毛布が畳まれている。
昨日までルークが床で使っていたものだった。
エルナはそれを持ち上げた。形が崩れないよう畳み直し、もともと置いていた棚へ戻す。
何も敷かれていない床が見えた。
それから町へ持っていった鞄を片づけ、財布と冒険者証をいつもの場所へ戻した。空になった薬草の袋も畳んでしまう。
水差しを持ち上げると、朝汲んだ水が少し残っていた。今夜使う分には足りる。
エルナは夕食の支度を始めた。
棚から根菜を取り出す。もう一つ手に取ったところで、鍋を見てから元へ戻した。
干した肉を切り、水と一緒に火へ掛ける。香草を少し入れ、味を見る。
煮える頃には外が暗くなり始めていた。
器を取ろうと棚へ手を伸ばす。
一枚を持ち上げた指が、その下に重なったもう一枚の縁へ触れた。
そこで止まり、手を引く。
食卓へ置いたのは一枚だけだった。
食事を終え、器を洗う。使った調理道具を片づけ、乾かしていた薬草の向きを変えた。
いつも通りのことをしているうちに、夜になった。
エルナは寝台へ腰を下ろし、髪を櫛で梳いた。
布に包み続けていたせいか、毛先が少し絡んでいる。時間をかけて解き、背中へ流した。
薪が一度、ぱちりと鳴った。
それ以外は何も聞こえない。
風が窓の外の葉を揺らす音。小屋の木が冷えて軋む音。遠くで鳴く鳥の声。
前から知っている音ばかりだった。
エルナは櫛を置いた。
ここしばらくなら、その合間に別の音があった。
椅子を引く音や、水を飲む音。必要な時だけかけられる声。
今夜はない。
しばらく静かな部屋に座ってから、エルナは灯りを落とした。
寝台へ横になる。
床には、もう毛布はなかった。
目を閉じているうちに、いつも通り眠気がやってきた。
*
翌朝、エルナはいつもの時間に目を覚ました。
朝食を済ませ、水を汲みに行く支度をする。
髪を布で包み、その上からフードを被る。机の上に置いていた腕輪を左手首へ戻し、石の状態を確かめた。
空の桶を持って外へ出る。
水場までは十分ほどだった。
木々の間を抜けて岩場へ着くと、エルナは流れの前で足を止めた。
岩の隙間から水は出ている。
けれど、細い。
エルナは桶を流れの下へ置き、しゃがみ込んだ。
岩肌には、水で濡れて色の変わっているところがある。その脇に、以前は水が流れていたらしい跡が残っていた。
指で触れる。
乾いている。
少し前から、流れが細くなったような気はしていた。
ルークとここへ来た時、以前より水が少なくなっているとはっきりわかった。
今日見ても、やはり細い。
桶の底へ落ちた水が、ゆっくり深さを増していく。
急に枯れるような様子ではない。
それでも、同じではなかった。
エルナは水を汲み終えると、小屋へ戻った。
朝のうちに家の仕事を済ませ、そのあと採取道具を持って山へ入る。
昨日、ルークと話していた別の採取場所を確認しておきたかった。
向かったのは、小屋から少し北へ回った斜面だった。木が多く、昼でも直射日光の入りにくい場所だ。
以前、同じ薬草を何度か採っている。
目当ての場所へ着くと、エルナはすぐには手を伸ばさず、辺りを見回した。
木の根元や岩陰に、何株か残っている。
一株の前へしゃがみ、葉を確かめる。
まだ若い。これは残す。
少し離れた株は育っていたので、必要な部分だけを切り取った。
場所を移りながら何株か採る。
昨日見た斜面よりは多い。
けれど、葉の小さいものが目についた。
エルナは土へ指を差し入れた。表面は乾いているものの、少し掘ればまだ湿り気が残っている。
日陰だからだろうか。
ここだけを見れば、薬草がなくなるほどではない。
別の斜面にも回ってみる。
そちらは木が少なく、日差しが入りやすい。
前に薬草を見た場所をいくつか確認したが、ほとんど残っていなかった。一か所だけでは判断できない。誰かが先に採った可能性もある。
エルナは場所を覚えておくことにした。
採れるところから、自分で使う分と売れる分だけを採る。
昼前には小屋へ戻った。
採ってきた薬草を種類ごとに分け、必要なものだけ洗って水気を拭く。干すものを窓際へ並べてから、昼食の支度を始めた。
残っている野菜をまな板へ置く。
一つ切り終え、次の根菜へ手を伸ばしたところで、エルナはそれをまな板の向こう側へ置きかけた。
手が止まる。
ルークが料理を手伝っていた時、切ってもらうものを置いていた場所だった。
エルナは根菜を見た。
それから自分の手元へ引き戻し、ナイフを入れる。
一人でやっていた頃と同じだ。
切り終えるまで、それほど時間はかからなかった。
*
その翌日も、次の日も、エルナはいつも通りに暮らした。
朝になれば山へ入り、採取場所を少しずつ変えて様子を見る。日差しの強い場所ほど土が乾き、薬草の育ちも悪いように見えた。ただし、木陰や水気の残る場所には、まだ十分に採れるところもある。
家へ戻れば採ったものを処理し、食事を作る。
最初の一日ほど、手が止まることもなくなった。
晴れた日の午後には、髪を包む布を洗った。
水を切り、軒先へ干しておく。
乾くまで外へ出る予定はない。
エルナは家の中で髪をほどいたまま、薬草の選別を続けた。
風が入るたび、長い髪が肩から滑り落ちる。それを片手で背中へ払う。
以前は当たり前だった時間だった。
数日もすれば、一人で暮らしていた時の手順はほとんど戻った。
四日目、エルナは町へ下りた。
採った薬草を売り、食料を少し買い足すつもりだった。
ギルドへ入ると、受付には何人か並んでいた。順番を待ち、持ってきた薬草を出す。
受付係が種類ごとに分けながら、量を確認する。
「北側ですか?」
「はい」
「そっちは、まだ採れました?」
「日陰には残っています。でも、少し少ないです」
「やっぱり場所によりますね」
男は薬草を一束持ち上げ、状態を見た。
「日当たりのいいところは、今年かなり厳しいみたいです。持ち込みも減ってますよ」
「前より?」
「ええ。急になくなったわけじゃないですけど」
提示された額を確認し、エルナは代金を受け取った。
受付を離れる前に、掲示板が目に入る。
前に来た時より紙が増えていた。
採取や荷運びに混じって、畑へ水を運ぶ仕事がいくつかある。用水路の詰まりを確認する依頼や、共同井戸から離れた家へ水桶を運ぶ仕事もあった。
エルナは受付係を振り返る。
「水の依頼、増えました?」
「ああ、気づきました?」
「はい」
「畑の方が特にですね。今年は雨が少ないから」
男が掲示板を見る。
「用水路に流す分が足りないところもあるみたいで。井戸の水位が下がったって話も聞きます」
「この町で?」
「この辺りもですけど、ここだけじゃないみたいですよ」
エルナは男を見る。
「南から来た商人が、向こうもずっと暑いって言ってました。荷車で何日か行ったところでも、畑へ回す水が足りないらしくて」
「南でも」
「そう聞いただけですけどね。俺が見に行ったわけじゃないんで」
「……そうですか」
エルナはもう一度、掲示板へ視線を戻した。
山の湧き水。
育ちの悪い薬草。
増えている畑の仕事。
南の土地の暑さ。
全部が同じ理由なのかは、まだわからない。
雨が少ない年なら、似たことは起こるのかもしれない。
ただ、自分の住んでいる山だけの話ではなさそうだった。
「何か受けます?」
受付係に聞かれ、エルナは少し考えてから首を振った。
「今日はいいです」
「了解です」
ギルドを出て、必要な食料だけを買った。
町の端を通る時、畑の脇で水桶を運んでいる人が見えた。
男が二人で大きな桶を持ち、その後ろから子どもが小さな桶を運んでいる。畑の端を流れる細い水路には、水がほとんどなかった。
エルナは歩きながらそこを見た。
足を止めるほどではない。
そのまま町を出た。
*
小屋へ戻ったのは、夕方だった。
買ってきたものをしまい、採取道具をいつもの場所へ戻す。
夕食の支度をする。
根菜を切り、干した肉を鍋へ入れる。香草を足し、味を整える。
もう、食事の支度で手が止まることもなかった。
食事を終える頃には、窓の外が暗くなっていた。
明日は、今日とは別の斜面を見に行くつもりだった。
水場も、もう少し様子を見ておきたい。
やることはある。
エルナは使った器を洗い、火を小さくした。
戸締まりを確かめ、寝台へ入る。
小屋の中は静かだった。
薪のはぜる音がして、すぐに消える。
その静けさは、今も嫌いではない。
目を閉じる。
眠りはほどなくやってきた。
以前と同じ、静かな夜だった。
ただ以前なら、その静けさを意識することはなかった。




