第53話 水場まで
翌朝。
昨日の帰り道は、行きよりも時間がかかった。途中で二度休み、小屋へ着いた頃にはルークの歩調もかなり落ちていた。それでも、夜になって腫れや痛みが強くなることはなかった。
エルナは今朝も、いつもより少し念入りに脚を確認した。
太腿の布を外す。傷の周囲に新しい赤みはない。熱も持っていない。足首も昨日より腫れている様子はなかった。
「痛みは?」
「昨日の夜よりはまし」
「歩いた時は?」
「少し重かったけど、痛みが強くなった感じはないな」
足首へ触れ、ゆっくり動かしてもらう。ルークの顔色も悪くない。
「大丈夫そうですね」
「よかった」
「だからといって、今日は昨日と同じだけ歩いていいわけではありません」
「まだ何も言ってない」
「言う前に言いました」
ルークが少し笑った。
「今日は?」
「町には行きません」
「それは助かる」
昨日は平気そうにしていたが、やはり疲れていたらしい。
エルナは新しい布を巻き、立ち上がった。水差しを持ち上げる。
軽い。残りはあまりなかった。
「水を汲んできます」
「近いところだよな」
「はい。十分くらいです」
「それなら、俺も行っていい?」
エルナは少し考えた。
昨日、町の治療院では短い距離なら歩いてもいいと言われた。今朝の状態も悪くない。
「途中で痛くなったら戻ります」
「ああ」
「水は持たせません」
「まだ言ってないだろ」
「言いそうだったので」
「……言おうとはした」
エルナは空の桶を手に取った。
「杖を持ってください」
「はい」
*
二人で外へ出る支度をする。
ルークは剣と短剣を身につけ、杖代わりの枝を手に取った。
エルナは空の桶を持ち、小屋を出る。
朝はまだ早い。それでも、空気はすでに冷たいとは言えなかった。
水場までは、斜面を下って十分ほど。エルナが毎日歩いている道だった。
いつもより少しゆっくり進む。
「ここも、毎日?」
後ろからルークが聞いた。
「水が必要なので」
「雨の日も?」
「必要なら」
「大変だな」
「近いですよ」
「桶持って上るんだろ?」
「慣れました」
「慣れるものか」
「慣れます」
木の根を避けて進む。少し先に、表面の滑らかな石があった。
「そこ、滑ります」
「ああ」
「右からの方が歩きやすいです」
ルークは言われた通りに避けた。
さらに下る。
昨日の町への道よりも細く、人が何人も通った跡もほとんどない。
「この道、あんまり使われてないんだな」
「水を汲みに来るくらいしか使わない道ですから」
「そっか」
枝が地面へ当たる音が、一定の間隔で後ろから聞こえてくる。
少しして、水の流れる音がした。
「ここです」
斜面を下りきる。
岩の隙間から、細い水が流れていた。
ルークが覗き込む。
「湧き水?」
「はい」
エルナはしゃがみ、いつものように手を入れた。
冷たい。温度は変わっていない。
空の桶を流れの下へ置く。水が底へ当たり、小さな音を立てた。
少しずつ水位が上がっていく。
エルナはそのまま見ていた。
やはり遅い。
「……やっぱり」
「何?」
「少ないです」
「水が?」
「はい」
ルークも岩の隙間へ目を向ける。
「前はもっと出てた?」
「ここに住み始めた頃は、もう少し」
いつもなら、今頃はもう少し水が溜まっている。
「少し前にも、細くなった気がしたんです。でも、その時はよくわからなくて」
「今日はわかる?」
「はい。前より少ないです」
岩の表面を見る。以前なら水に濡れていたあたりが、今は乾いていた。
「昔は、今より水が多かったらしいです」
「誰かに聞いた?」
「小屋を貸してくれた人に。完全に枯れたことはないって」
「そっか」
ルークはしばらく水の流れを見ていた。
「雨が少ないせいかもしれないしな」
「そうかもしれません」
エルナも桶へ視線を戻した。
まだ半分を少し越えたところだった。
以前より、待つ時間が長い。
エルナは近くの岩へ腰を下ろした。ルークも少し離れたところへ座る。
水の落ちる音だけが続いた。
その音を聞いているうちに、エルナは昨日のことを思い出した。
「昨日言っていた街に」
「うん?」
「孤児院もあるんですか」
ルークが少しだけ目を瞬いた。
「ああ。あるよ」
「前に話してたところ?」
「そう。俺がいたところ」
「今もあるんですね」
「ある。たまに顔も出す」
エルナは桶へ視線を戻した。
水は、まだ少しずつ増えている。
いつものところまで溜まるのを待って、エルナは立ち上がった。
「持つ?」
予想通り、ルークが言った。
「持ちません」
「まだ何もしてない」
「帰りは上りです」
「軽くなら?」
「自分だけ運んでください」
ルークが自分の脚を見る。
「それは頑張る」
「お願いします」
エルナは桶を持ち上げた。
いつもと同じくらいの量。ただ、そこまで溜まるのに前より時間がかかった。
*
帰り道は上りになる。
ルークの歩調に合わせながら、エルナは先を進んだ。
行きに教えた石が見えてくる。
声を掛けようとして、やめた。
ルークは何も言われる前に右へ寄り、その石を避けた。そのまま枝をつき、斜面を上る。
エルナも前を向いた。
少しして、小屋の屋根が木々の間から見えた。
「あと少しです」
「ああ」
返事に余裕はある。それでも、扉へ着く頃には歩調が少し落ちていた。
中へ入り、ルークを先に椅子へ座らせる。
「脚は?」
「少し重い」
「痛みは?」
「ない」
「じゃあ、休んでください」
「ああ」
今度は何も言い返さなかった。
*
朝食を食べたあと、ルークはしばらく寝台で休んだ。
エルナはその間に汲んできた水を移し、洗い物を済ませる。乾かしていた薬草も確認した。
昼が近づく頃、寝台から衣擦れの音がした。
ルークが身体を起こし、床へ置いていた自分の荷物を引き寄せる。
「もう平気ですか」
「だいぶ」
荷物の中から布と小さな容器を取り出し、剣を膝の上へ置いた。
「手入れですか」
「ああ。返してもらったし、一度ちゃんと見ておこうと思って」
鞘から抜き、刃の状態を確かめる。布を滑らせ、今度は鞘へ手を移した。
剣帯の革も指でなぞる。擦れているところを見て、金具が緩んでいないか確かめる。短剣も同じように取り出した。
急いでいる様子はない。何度もやってきた作業なのだろう。
エルナも薬草を束ねる作業へ戻った。
しばらく、小屋の中にはそれぞれの手元から生まれる音だけがあった。
乾いた葉が擦れる音。布が革の上を滑る音。時々、金具が触れ合う小さな音。
「こういうの、よくやるんですか」
エルナが聞いた。
「使った日は一通り。あとは時間がある時に」
「面倒じゃないですか」
「壊れてからの方が面倒だからな」
「それはそうですね」
「エルナも道具、結構見てるだろ」
「必要なので」
「同じだよ」
エルナは束ねた薬草を一つ、横へ置いた。
昨日、返した武器をルークが腰へ戻すところを見た。今日はその同じ剣を、膝の上で確かめている。
刃を見る。
革を拭く。
緩んだところがないかを確かめる。
戦っている姿ではない。
それでも、これもルークにとっては普段のことなのだろう。
「終わった?」
ルークが聞いた。
エルナは自分の手元を見る。
「まだです」
「見てたから」
「少しだけです」
「そう?」
「はい」
エルナは次の薬草へ手を伸ばした。
向かいで、剣が鞘へ収まる音がした。
*
少し遅めの昼食を作る頃には、ルークもすっかり休めたらしい。
エルナが火を起こそうとして、壁際の薪を見る。細い枝が少なくなっていた。
しゃがもうとすると、ルークが先に気づいた。
「それ、俺やる」
エルナは細い枝を何本か取り、ルークのそばへ置いた。
「じゃあ、このくらいの長さに折ってください」
一本だけ折って見せる。
「これくらい?」
「はい」
「わかった」
ルークは一本を手に取った。
エルナは火の準備へ戻る。後ろで乾いた音がする。
一度。もう一度。
少しして、
「これ、どこ置く?」
「壁際の籠に」
「これ?」
「それです」
「ああ」
それで済んだ。
*
夕方。
昼過ぎに少し眠ったルークは、寝台の上で身体を起こしていた。
「脚は?」
「朝より軽い」
「ならよかったです」
エルナは明日使う籠を確かめた。
採取用のナイフ。布。紐。
必要なものを順に入れていく。
「明日は薬草を見に行きます」
「朝?」
「はい」
「今日の水場より遠い?」
「少し。小屋からそう遠くはないです」
ルークは少し考えた。
「じゃあ俺はやめとく」
「そうしてください」
「その間に、残ってる枝やっとく」
「まだあります」
「見た」
「無理しないなら」
「座ってやる」
「なら、お願いします」
「ああ」
エルナは籠をいつもの場所へ置いた。
壁際には、使いやすい長さに揃えられた枝が増えている。
明日の支度を終え、エルナは明かりを落とした。




