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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第4章 隣にいる人
52/122

第52話 町までの道


 それから数日が過ぎた。


 ルークの傷は、少しずつ治っていった。


 太腿の傷は表面がかなり塞がり、新しく血が滲むこともない。足首の腫れも、最初の頃と比べればずいぶん引いていた。


 扉の横へ立てかけた枝を使って、小屋の周りを歩く距離も少しずつ伸ばした。


 最初は裏手まで。その次は少し下の斜面まで。それから山道へ出て、昨日は途中で一度休みながら四十分ほど歩いて戻った。


 歩いたあとは傷を見る。


 赤みが強くなっていないか。腫れが戻っていないか。痛みが増えていないか。


 どれも問題はなかった。


 今朝も傷を確かめたあと、エルナは布を巻き直した。


「町までなら、行けそうですね」


「俺もそう思う」


 ルークが左脚をゆっくり曲げる。


 もう地面へつけることはできる。普通に歩く分には、大きく痛むこともないらしい。


「でも、着いたら一度休んでください」


「ああ。先に診てもらう」


「無理そうなら、途中でも休んでください」


「わかってる」


 返事は早かった。


 以前、一人で立とうとして失敗した頃とは違う。


「なら、行きましょうか」


「ああ」


 エルナは立ち上がり、町へ下りる支度を始めた。


 髪を包んでいる布を巻き直し、その上からフードを被る。左手首の腕輪にも目を落とし、石に力が残っていることを確かめた。


 冒険者証。財布。水筒。ギルドへ持っていく薬草。


 必要なものを鞄へ入れていると、背後でも物を動かす音がした。


 振り返る。


 ルークが、自分の荷物をまとめていた。


 着替えを畳み、小物の入った袋をしまう。


 もともと持っていたものは多くない。着替えと小物をまとめれば、ひとつの荷に収まる程度だった。


 それでも今日は、必要なものだけを取り出しているのではない。


 全部だった。


「持っていくんですか」


 エルナが尋ねる。


「うん」


「全部?」


「ああ」


 ルークは荷物の口を閉じた。


「町まで行けそうなら、そろそろ出た方がいいと思って」


 エルナは手を止めた。


「出る?」


「ここを」


 ルークが何でもないことのように言う。


「診てもらって、まだ街まで戻るのが無理なら、町で宿取るよ」


「……そうなんですか」


「ここまで歩けるようにはなったしな」


 確かに、そうだった。


 最初の頃は、寝台から起き上がるだけでも一人では難しかった。


 水を取りに行くこともできない。食事を作ることも、傷の状態を自分で確かめることもできなかった。


 だから、ここにいた。


 今は違う。


 小屋の周りなら歩ける。


 身の回りのことも、自分でできる。


 今日、町まで下りることができれば、宿に泊まることもできる。


 エルナは自分の鞄へ視線を戻した。


「そうですか」


「ああ」


 それ以上、言うことはなかった。


 ルークはまとめた荷物を背負い、それから扉のそばへ目を向けた。


 剣と短剣。


 エルナが山で見つけた時、ルークの身体から外したものだった。


「エルナ」


「はい」


「剣と短剣、返してもらっていい?」


 エルナもそちらを見る。


 最初の夜は、寝台から手の届かない場所へ置いた。


 自分は床で眠り、枕元にはナイフを置いていた。


 ルークも、それでいいと言った。


「はい」


 エルナは剣帯と短剣を取り、そのまま渡した。


「ありがとう」


 ルークは受け取ると、剣帯を腰へ巻いた。


 鞘の位置を確かめ、左脚へ当たりそうになると少しずらす。短剣も反対側へ差した。


 何度か身体を動かし、邪魔にならないことを確かめる。


 それだけだった。


 けれど、ここ数日見慣れていた姿とは少し違って見えた。


「何?」


 ルークがこちらを見る。


「いえ」


「見てただろ」


「剣を持ってるところ、初めてちゃんと見たので」


「ああ」


 ルークも腰へ視線を落とした。


「そういえば、ずっと置きっぱなしだったな」


「使えませんでしたから」


「それもそうか」


 剣を持ったからといって、話し方が変わるわけではない。


 エルナは鞄を肩へ掛けた。


「行きましょう」


「ああ」


 二人で小屋を出る。


 エルナは戸を閉め、鍵を掛けた。


 ルークはその間、少し離れたところで待っていた。


 扉の横に立てかけてあった枝も手にしている。


 エルナが振り返ると、ルークも山道の方を向いた。


 それから二人で歩き始めた。


 いつもなら、エルナは一人だった。


 今日は隣に足音がある。


 ルークは平らな場所では枝をほとんど使わなかったが、下りでは時々地面へついて身体を支えていた。


 エルナは普段より歩調を落とす。


 振り返って待つほどではない。


 少しゆっくり歩けば、同じくらいになる。


 細い道へ入ったところで、エルナが先へ出た。


「ここ、右の方が歩きやすいです」


「左は?」


「地面が柔らかいです。雨のあとだと滑ります」


 ルークが左側を見る。


「なるほど」


 素直に右へ寄る。


 そのまましばらく進む。


 やがて、小屋へ続く細い道が、少し広い山道へ合流した。


 そこで、ルークが足を止めた。


「ああ」


「何ですか」


「ここに出るのか」


 エルナも立ち止まる。


「知ってる道ですか」


「この道なら、何度か通ったことある」


 ルークは山側を振り返った。


「俺が魔獣と遭遇した辺りも、この先から少し外れたところだと思う」


 以前、傷の状態を見ていた時にも、あの場所を何度か通ったことがあると言っていた。


「この道、よく使うんですか」


「よくってほどじゃない。でも何回か」


 二人はまた歩き出した。


「ルークは、あの日どこへ行く途中だったんですか」


「帰る途中」


「帰る?」


「ああ」


 ルークが前を見る。


「普段いる街がある。ここからなら、一日くらい」


 エルナは少しだけ顔を向けた。


「普段は、別の街にいるんですね」


「ああ。今回は仕事でこっちに来てた」


「どんな仕事ですか」


「護衛。荷車をこの町まで」


「じゃあ、仕事はもう終わってたんですか」


「終わってた。この町のギルドで完了の手続きして、その日は宿に泊まった。次の日の朝に出た」


 エルナは道を見る。


「それで、この道を?」


「荷車なら街道を回る。歩きならこっちの方が早い」


「危なくないんですか」


「普段なら、そこまで」


 ルークは少し考える。


「だから二頭いたのが妙だったんだよ。もっと奥ならともかく、あの辺まで出てくることは前はあまりなかった」


 それは以前にも聞いた。


 最近、魔獣が増えているような気がする。


 けれど、絶対にそうだと言えるほどではない。


 エルナも似たようなものだった。


「帰れなかったんですね」


「ああ」


 少し歩いてから、エルナはもう一度聞いた。


「帰らなくても、大丈夫なんですか」


「仕事で何日か空けることはあるからな。今すぐ誰かが捜しに来るようなことはないと思う」


「そうなんですね」


「帰ったら、遅かったなとは言われるかもしれないけど」


 誰に。


 少しだけ気になった。


 エルナはそのまま、道へ視線を戻した。


 小屋の中にいる間は、ルークの生活はほとんど見えなかった。


 仕事をしていること。


 傭兵をしていたこと。


 孤児院で育ったこと。


 知っているのは、聞いたことだけだった。


 けれど、今歩いている道の先には、ルークが知っている町がある。


 その先には、普段暮らしている街もある。


 自分が知らないところで、ずっと続いていた生活。


 ルークは、そこへ戻っていく。


 途中で一度、休憩を取った。


 ルークが自分から止まり、道端の岩へ腰を下ろす。


 エルナも近くへ座った。


「痛みます?」


「痛いってほどじゃない。少し重い」


 水筒を渡す。


 ルークは何口か飲んで返した。


「下りでも、結構くるな」


「まだ治ってませんから」


「ああ」


 ルークが左脚を伸ばす。


「町に着いたら、一回ちゃんと休む」


「そうしてください」


 少し休んでから、また歩き出した。


 町へ着く頃には、昼が近くなっていた。


     *


 山道から街道へ出る。


 人の声が増えた。


 荷車。


 店先に並んだ品物。


 道を走る子ども。


 エルナにとっては、もう見慣れた町だった。


 隣を見る。


 ルークも、周囲を珍しそうに見る様子はない。


「先に、治療院へ行きますか」


「そうしよう」


 歩き出してすぐ、横から声がした。


「ルーク?」


 ルークが振り返る。


 宿の前に、一人の男が立っていた。


 四十代くらいだろうか。入口の脇へ木箱を積んでいる。


 男の視線が、ルークの左脚へ落ちた。


「どうした、その足」


「帰る途中で怪我した」


「帰ったんじゃなかったのか」


「そのつもりだった」


 男が眉を寄せる。


「山道か?」


「ああ。魔獣に会った」


「魔獣?」


「ああ」


「……あの道でか」


 ルークが頷く。


 男は少しだけ険しい顔をした。


 それから、ルークが背負っている荷物へ目を向ける。


「今日は戻るのか?」


「まだ。先に脚を診てもらう」


「そうしろ」


 男の視線が今度はエルナへ移った。


 長くは止まらない。


「そっちは?」


「助けてもらった」


 ルークが答える。


 エルナも軽く頭を下げた。


「エルナです」


「そうか」


 男はもう一度ルークの脚を見る。


「ちゃんと診てもらえよ」


「ああ」


 それだけ話して、二人はまた歩き出した。


「前に泊まってた宿ですか」


 エルナが聞く。


「ああ。仕事でこっち来た時は何回か使ってる」


「顔、覚えられてるんですね」


「何度か泊まってるからな」


 エルナは少しだけルークを見る。


 小屋の中で過ごしていた時には、知らなかった顔だった。


 この町にも、ルークを知っている人がいる。


 自分の知らないところで、ルークは普通に人と話し、仕事をして、宿に泊まっていた。


 当たり前のことなのに、少し不思議だった。


 治療院は、町の通りから少し入ったところにあった。


 中へ入ると、乾かした薬草と、強い酒のような匂いがした。


 順番を待ち、奥へ通される。


 診たのは年配の男だった。


 太腿の布を外し、傷を見る。


 足首も触り、ゆっくり動かさせる。


「ずいぶん深かったな」


「ああ」


「誰が処置した?」


 ルークがエルナを見る。


「この人が」


 男もエルナを見る。


「洗った?」


「はい。毎日、傷も見ました」


「熱は」


「最初に少し。そのあとありません」


「膿んだりは?」


「してません」


 男はもう一度傷を見る。


「経過は悪くない。きちんと塞がってきてる」


 エルナの肩から、少しだけ力が抜けた。


「ただし、治ったわけじゃない」


 男がルークを見る。


「傷が深い。足首もまだ完全じゃない。今日ここまで歩いてきたなら、まず休め」


「はい」


「普段いる街までは、ここからどれくらいだ?」


「歩けば一日くらい」


「今日は無理だな」


 即答だった。


 ルークが自分の左脚を見る。


「馬車なら?」


「それもやめておけ。何時間も揺られるし、好きな時に脚を休められん。町まで歩けたからって、そのまま先まで行っていい状態じゃない」


「まだか」


「まだだ。数日は短い距離にしておけ。腫れや熱が戻ったら、また来い」


「わかった」


「傷の場所も、自分じゃ見にくいだろ」


「ああ」


「もうしばらくは誰かに見てもらった方がいい。赤みが強くなるとか、また開くとか、自分だけだと気づくのが遅れる」


 ルークがエルナを見る。


 エルナも見る。


 けれど、すぐには何も言わなかった。


 もう小屋を出るつもりで、ルークは荷物を持ってきている。


 ここには治療院もある。


 町に泊まるなら、必要になった時にまた診てもらうこともできるだろう。


「今日はどこから来た?」


「山の小屋から。歩いて一時間くらい」


「下りで?」


「ああ」


 男は少し考えてから、ルークの足首をもう一度見る。


「なら、十分休んで、痛みが増えなければ来た道を戻るくらいは構わん。ただし、その先の長い移動はまだやめておけ」


「わかった」


「途中で痛みが強くなるようなら、その時点でやめろ」


「ああ」


 布を巻き直し、診察は終わった。


 治療院を出る。


 外へ出たところで、ルークが一度荷物を背負い直した。


「どうします?」


「先にギルドかな。報告はしておきたい」


「そうですね」


 二人は冒険者ギルドへ向かった。


 中には何人か人がいた。


 掲示板の前で依頼を見る者。


 受付へ並ぶ者。


 端の机で荷物を広げている者。


 エルナが空いている窓口へ向かうと、いつもの男が顔を上げた。


「エルナさん」


「こんにちは」


 その視線が隣へ移る。


「あれ。ルークさん?」


「ああ」


「その足、どうしたんですか」


「帰る途中で魔獣に会った。報告しておきたい」


 受付の男の表情が変わる。


「場所は?」


 ルークは、旧道から少し外れた斜面だと答えた。


 それから、魔獣の数と遭遇した場所、斜面から落ちるまでのことを順に話す。


 受付の男が帳面へ書きながら尋ねた。


「二頭とも同じ種類でした?」


「同じに見えた」


「大きさは?」


「ほとんど同じ。片方が少し大きかった気はする。でも、そこは自信ない」


「足場が崩れたあとのことは?」


「途中から覚えてない」


「わかりました」


 覚えていることだけを答える。


 わからないものは、わからないと言う。


 受付の男が書き終え、それからエルナを見る。


「エルナさんが見つけたんですか」


「はい」


「魔獣も?」


「二頭とも倒れていました」


「ほかに何か気づいたことは?」


 エルナは少し考える。


「少し前から、山で獣の足跡を見ることが増えました。大きさの違う跡が、同じ場所に複数あったこともあります」


 妙な魔力のことは言わなかった。


 それは、ここで話すつもりのないことだった。


「前に話した時より、報告が増えてるんです」


 受付の男が帳面を一枚戻す。


「獣の目撃もそうなんですが、魔獣だったと確認できたものも増えてます」


 ルークがそちらを見る。


「俺が会った二頭以外にも?」


「はい。ただ、同じ場所に集中してるわけではありません」


「じゃあ、まだ原因までは?」


「何とも」


 男は首を振った。


「しばらくは、山側の依頼も様子を見ながら出すことになると思います」


 エルナは頷いた。


「わかりました」


 少し前は、獣を見たという報告が増えているだけだった。


 今は、魔獣だったと確認されたものまで増えている。


 それでも、まだ何が起きているのかはわからなかった。


 報告を終え、ギルドを出る。


 外へ出ると、ルークは道の端にある日陰へ向かった。


「少し休む」


「はい」


 二人で腰を下ろす。


 医者に言われた通り、すぐには動かなかった。


 ルークは左脚を伸ばし、しばらく黙っていた。


 町の音が周囲を流れている。


 人の声。


 荷車の車輪。


 店先から聞こえる呼び声。


 しばらくして、ルークが通りの向こうへ目を向けた。


 さっき男と話した宿がある方角だった。


「宿、空いてるかな」


 エルナは隣を見る。


「泊まるんですか」


「そのつもり」


 ルークは自分の左脚へ目を落とした。


「街まではまだ無理みたいだし。傷も、何日かは治療院で見てもらえばいいだろ」


「……そうですね」


「今までありがとう」


 突然言われて、エルナは少しだけ目を瞬いた。


「何がですか」


「いろいろ」


「治療しただけです」


「それでも」


 ルークは小さく笑った。


「助かった」


 エルナは返事をしなかった。


 目の前の通りを見る。


 ルークがこの町の宿に泊まる。


 明日になれば治療院へ行く。


 傷がもう少し治れば、普段いる街へ戻る。


 それで困ることはない。


 自分の足でここまで歩いてこられた。


 宿の場所も知っている。


 この町にも顔見知りがいる。


 もう、小屋にいなければならない理由はほとんどなかった。


 エルナは膝の上に置いた手を見る。


 少しだけ間を置いて、口を開いた。


「小屋に戻ればいいんじゃないですか」


 今度は、ルークがこちらを見た。


「……いいの?」


「まだ治ってないでしょう」


「でも、もう町まで来られたし」


「治るまではいていいって言いました」


 ルークは少し黙った。


「迷惑じゃない?」


「迷惑なら言いません」


「そっか」


 もう一度だけ、ルークは宿のある方を見る。


 それからエルナへ視線を戻した。


「じゃあ、もう少し世話になる」


「はい」


「ありがとう」


「どういたしまして」


 それで決まった。


 しばらく休んでから、二人は立ち上がった。


 ルークが荷物を背負う。


 朝、小屋を出た時と同じ荷物だった。


 けれど今度は、それを持って戻る。


 二人は町を出て、山道へ入った。


 朝とは違う。


 町へ向かう時、ルークは小屋を出るつもりだった。


 今は、またそこへ戻っている。


 理由は、まだ傷が治っていないから。


 それだけだった。


 山道を上った先に、小屋が見えた。


 エルナは先に歩き、扉の鍵を開ける。


 後ろから、ルークの足音が近づいてきた。




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