第52話 町までの道
それから数日が過ぎた。
ルークの傷は、少しずつ治っていった。
太腿の傷は表面がかなり塞がり、新しく血が滲むこともない。足首の腫れも、最初の頃と比べればずいぶん引いていた。
扉の横へ立てかけた枝を使って、小屋の周りを歩く距離も少しずつ伸ばした。
最初は裏手まで。その次は少し下の斜面まで。それから山道へ出て、昨日は途中で一度休みながら四十分ほど歩いて戻った。
歩いたあとは傷を見る。
赤みが強くなっていないか。腫れが戻っていないか。痛みが増えていないか。
どれも問題はなかった。
今朝も傷を確かめたあと、エルナは布を巻き直した。
「町までなら、行けそうですね」
「俺もそう思う」
ルークが左脚をゆっくり曲げる。
もう地面へつけることはできる。普通に歩く分には、大きく痛むこともないらしい。
「でも、着いたら一度休んでください」
「ああ。先に診てもらう」
「無理そうなら、途中でも休んでください」
「わかってる」
返事は早かった。
以前、一人で立とうとして失敗した頃とは違う。
「なら、行きましょうか」
「ああ」
エルナは立ち上がり、町へ下りる支度を始めた。
髪を包んでいる布を巻き直し、その上からフードを被る。左手首の腕輪にも目を落とし、石に力が残っていることを確かめた。
冒険者証。財布。水筒。ギルドへ持っていく薬草。
必要なものを鞄へ入れていると、背後でも物を動かす音がした。
振り返る。
ルークが、自分の荷物をまとめていた。
着替えを畳み、小物の入った袋をしまう。
もともと持っていたものは多くない。着替えと小物をまとめれば、ひとつの荷に収まる程度だった。
それでも今日は、必要なものだけを取り出しているのではない。
全部だった。
「持っていくんですか」
エルナが尋ねる。
「うん」
「全部?」
「ああ」
ルークは荷物の口を閉じた。
「町まで行けそうなら、そろそろ出た方がいいと思って」
エルナは手を止めた。
「出る?」
「ここを」
ルークが何でもないことのように言う。
「診てもらって、まだ街まで戻るのが無理なら、町で宿取るよ」
「……そうなんですか」
「ここまで歩けるようにはなったしな」
確かに、そうだった。
最初の頃は、寝台から起き上がるだけでも一人では難しかった。
水を取りに行くこともできない。食事を作ることも、傷の状態を自分で確かめることもできなかった。
だから、ここにいた。
今は違う。
小屋の周りなら歩ける。
身の回りのことも、自分でできる。
今日、町まで下りることができれば、宿に泊まることもできる。
エルナは自分の鞄へ視線を戻した。
「そうですか」
「ああ」
それ以上、言うことはなかった。
ルークはまとめた荷物を背負い、それから扉のそばへ目を向けた。
剣と短剣。
エルナが山で見つけた時、ルークの身体から外したものだった。
「エルナ」
「はい」
「剣と短剣、返してもらっていい?」
エルナもそちらを見る。
最初の夜は、寝台から手の届かない場所へ置いた。
自分は床で眠り、枕元にはナイフを置いていた。
ルークも、それでいいと言った。
「はい」
エルナは剣帯と短剣を取り、そのまま渡した。
「ありがとう」
ルークは受け取ると、剣帯を腰へ巻いた。
鞘の位置を確かめ、左脚へ当たりそうになると少しずらす。短剣も反対側へ差した。
何度か身体を動かし、邪魔にならないことを確かめる。
それだけだった。
けれど、ここ数日見慣れていた姿とは少し違って見えた。
「何?」
ルークがこちらを見る。
「いえ」
「見てただろ」
「剣を持ってるところ、初めてちゃんと見たので」
「ああ」
ルークも腰へ視線を落とした。
「そういえば、ずっと置きっぱなしだったな」
「使えませんでしたから」
「それもそうか」
剣を持ったからといって、話し方が変わるわけではない。
エルナは鞄を肩へ掛けた。
「行きましょう」
「ああ」
二人で小屋を出る。
エルナは戸を閉め、鍵を掛けた。
ルークはその間、少し離れたところで待っていた。
扉の横に立てかけてあった枝も手にしている。
エルナが振り返ると、ルークも山道の方を向いた。
それから二人で歩き始めた。
いつもなら、エルナは一人だった。
今日は隣に足音がある。
ルークは平らな場所では枝をほとんど使わなかったが、下りでは時々地面へついて身体を支えていた。
エルナは普段より歩調を落とす。
振り返って待つほどではない。
少しゆっくり歩けば、同じくらいになる。
細い道へ入ったところで、エルナが先へ出た。
「ここ、右の方が歩きやすいです」
「左は?」
「地面が柔らかいです。雨のあとだと滑ります」
ルークが左側を見る。
「なるほど」
素直に右へ寄る。
そのまましばらく進む。
やがて、小屋へ続く細い道が、少し広い山道へ合流した。
そこで、ルークが足を止めた。
「ああ」
「何ですか」
「ここに出るのか」
エルナも立ち止まる。
「知ってる道ですか」
「この道なら、何度か通ったことある」
ルークは山側を振り返った。
「俺が魔獣と遭遇した辺りも、この先から少し外れたところだと思う」
以前、傷の状態を見ていた時にも、あの場所を何度か通ったことがあると言っていた。
「この道、よく使うんですか」
「よくってほどじゃない。でも何回か」
二人はまた歩き出した。
「ルークは、あの日どこへ行く途中だったんですか」
「帰る途中」
「帰る?」
「ああ」
ルークが前を見る。
「普段いる街がある。ここからなら、一日くらい」
エルナは少しだけ顔を向けた。
「普段は、別の街にいるんですね」
「ああ。今回は仕事でこっちに来てた」
「どんな仕事ですか」
「護衛。荷車をこの町まで」
「じゃあ、仕事はもう終わってたんですか」
「終わってた。この町のギルドで完了の手続きして、その日は宿に泊まった。次の日の朝に出た」
エルナは道を見る。
「それで、この道を?」
「荷車なら街道を回る。歩きならこっちの方が早い」
「危なくないんですか」
「普段なら、そこまで」
ルークは少し考える。
「だから二頭いたのが妙だったんだよ。もっと奥ならともかく、あの辺まで出てくることは前はあまりなかった」
それは以前にも聞いた。
最近、魔獣が増えているような気がする。
けれど、絶対にそうだと言えるほどではない。
エルナも似たようなものだった。
「帰れなかったんですね」
「ああ」
少し歩いてから、エルナはもう一度聞いた。
「帰らなくても、大丈夫なんですか」
「仕事で何日か空けることはあるからな。今すぐ誰かが捜しに来るようなことはないと思う」
「そうなんですね」
「帰ったら、遅かったなとは言われるかもしれないけど」
誰に。
少しだけ気になった。
エルナはそのまま、道へ視線を戻した。
小屋の中にいる間は、ルークの生活はほとんど見えなかった。
仕事をしていること。
傭兵をしていたこと。
孤児院で育ったこと。
知っているのは、聞いたことだけだった。
けれど、今歩いている道の先には、ルークが知っている町がある。
その先には、普段暮らしている街もある。
自分が知らないところで、ずっと続いていた生活。
ルークは、そこへ戻っていく。
途中で一度、休憩を取った。
ルークが自分から止まり、道端の岩へ腰を下ろす。
エルナも近くへ座った。
「痛みます?」
「痛いってほどじゃない。少し重い」
水筒を渡す。
ルークは何口か飲んで返した。
「下りでも、結構くるな」
「まだ治ってませんから」
「ああ」
ルークが左脚を伸ばす。
「町に着いたら、一回ちゃんと休む」
「そうしてください」
少し休んでから、また歩き出した。
町へ着く頃には、昼が近くなっていた。
*
山道から街道へ出る。
人の声が増えた。
荷車。
店先に並んだ品物。
道を走る子ども。
エルナにとっては、もう見慣れた町だった。
隣を見る。
ルークも、周囲を珍しそうに見る様子はない。
「先に、治療院へ行きますか」
「そうしよう」
歩き出してすぐ、横から声がした。
「ルーク?」
ルークが振り返る。
宿の前に、一人の男が立っていた。
四十代くらいだろうか。入口の脇へ木箱を積んでいる。
男の視線が、ルークの左脚へ落ちた。
「どうした、その足」
「帰る途中で怪我した」
「帰ったんじゃなかったのか」
「そのつもりだった」
男が眉を寄せる。
「山道か?」
「ああ。魔獣に会った」
「魔獣?」
「ああ」
「……あの道でか」
ルークが頷く。
男は少しだけ険しい顔をした。
それから、ルークが背負っている荷物へ目を向ける。
「今日は戻るのか?」
「まだ。先に脚を診てもらう」
「そうしろ」
男の視線が今度はエルナへ移った。
長くは止まらない。
「そっちは?」
「助けてもらった」
ルークが答える。
エルナも軽く頭を下げた。
「エルナです」
「そうか」
男はもう一度ルークの脚を見る。
「ちゃんと診てもらえよ」
「ああ」
それだけ話して、二人はまた歩き出した。
「前に泊まってた宿ですか」
エルナが聞く。
「ああ。仕事でこっち来た時は何回か使ってる」
「顔、覚えられてるんですね」
「何度か泊まってるからな」
エルナは少しだけルークを見る。
小屋の中で過ごしていた時には、知らなかった顔だった。
この町にも、ルークを知っている人がいる。
自分の知らないところで、ルークは普通に人と話し、仕事をして、宿に泊まっていた。
当たり前のことなのに、少し不思議だった。
治療院は、町の通りから少し入ったところにあった。
中へ入ると、乾かした薬草と、強い酒のような匂いがした。
順番を待ち、奥へ通される。
診たのは年配の男だった。
太腿の布を外し、傷を見る。
足首も触り、ゆっくり動かさせる。
「ずいぶん深かったな」
「ああ」
「誰が処置した?」
ルークがエルナを見る。
「この人が」
男もエルナを見る。
「洗った?」
「はい。毎日、傷も見ました」
「熱は」
「最初に少し。そのあとありません」
「膿んだりは?」
「してません」
男はもう一度傷を見る。
「経過は悪くない。きちんと塞がってきてる」
エルナの肩から、少しだけ力が抜けた。
「ただし、治ったわけじゃない」
男がルークを見る。
「傷が深い。足首もまだ完全じゃない。今日ここまで歩いてきたなら、まず休め」
「はい」
「普段いる街までは、ここからどれくらいだ?」
「歩けば一日くらい」
「今日は無理だな」
即答だった。
ルークが自分の左脚を見る。
「馬車なら?」
「それもやめておけ。何時間も揺られるし、好きな時に脚を休められん。町まで歩けたからって、そのまま先まで行っていい状態じゃない」
「まだか」
「まだだ。数日は短い距離にしておけ。腫れや熱が戻ったら、また来い」
「わかった」
「傷の場所も、自分じゃ見にくいだろ」
「ああ」
「もうしばらくは誰かに見てもらった方がいい。赤みが強くなるとか、また開くとか、自分だけだと気づくのが遅れる」
ルークがエルナを見る。
エルナも見る。
けれど、すぐには何も言わなかった。
もう小屋を出るつもりで、ルークは荷物を持ってきている。
ここには治療院もある。
町に泊まるなら、必要になった時にまた診てもらうこともできるだろう。
「今日はどこから来た?」
「山の小屋から。歩いて一時間くらい」
「下りで?」
「ああ」
男は少し考えてから、ルークの足首をもう一度見る。
「なら、十分休んで、痛みが増えなければ来た道を戻るくらいは構わん。ただし、その先の長い移動はまだやめておけ」
「わかった」
「途中で痛みが強くなるようなら、その時点でやめろ」
「ああ」
布を巻き直し、診察は終わった。
治療院を出る。
外へ出たところで、ルークが一度荷物を背負い直した。
「どうします?」
「先にギルドかな。報告はしておきたい」
「そうですね」
二人は冒険者ギルドへ向かった。
中には何人か人がいた。
掲示板の前で依頼を見る者。
受付へ並ぶ者。
端の机で荷物を広げている者。
エルナが空いている窓口へ向かうと、いつもの男が顔を上げた。
「エルナさん」
「こんにちは」
その視線が隣へ移る。
「あれ。ルークさん?」
「ああ」
「その足、どうしたんですか」
「帰る途中で魔獣に会った。報告しておきたい」
受付の男の表情が変わる。
「場所は?」
ルークは、旧道から少し外れた斜面だと答えた。
それから、魔獣の数と遭遇した場所、斜面から落ちるまでのことを順に話す。
受付の男が帳面へ書きながら尋ねた。
「二頭とも同じ種類でした?」
「同じに見えた」
「大きさは?」
「ほとんど同じ。片方が少し大きかった気はする。でも、そこは自信ない」
「足場が崩れたあとのことは?」
「途中から覚えてない」
「わかりました」
覚えていることだけを答える。
わからないものは、わからないと言う。
受付の男が書き終え、それからエルナを見る。
「エルナさんが見つけたんですか」
「はい」
「魔獣も?」
「二頭とも倒れていました」
「ほかに何か気づいたことは?」
エルナは少し考える。
「少し前から、山で獣の足跡を見ることが増えました。大きさの違う跡が、同じ場所に複数あったこともあります」
妙な魔力のことは言わなかった。
それは、ここで話すつもりのないことだった。
「前に話した時より、報告が増えてるんです」
受付の男が帳面を一枚戻す。
「獣の目撃もそうなんですが、魔獣だったと確認できたものも増えてます」
ルークがそちらを見る。
「俺が会った二頭以外にも?」
「はい。ただ、同じ場所に集中してるわけではありません」
「じゃあ、まだ原因までは?」
「何とも」
男は首を振った。
「しばらくは、山側の依頼も様子を見ながら出すことになると思います」
エルナは頷いた。
「わかりました」
少し前は、獣を見たという報告が増えているだけだった。
今は、魔獣だったと確認されたものまで増えている。
それでも、まだ何が起きているのかはわからなかった。
報告を終え、ギルドを出る。
外へ出ると、ルークは道の端にある日陰へ向かった。
「少し休む」
「はい」
二人で腰を下ろす。
医者に言われた通り、すぐには動かなかった。
ルークは左脚を伸ばし、しばらく黙っていた。
町の音が周囲を流れている。
人の声。
荷車の車輪。
店先から聞こえる呼び声。
しばらくして、ルークが通りの向こうへ目を向けた。
さっき男と話した宿がある方角だった。
「宿、空いてるかな」
エルナは隣を見る。
「泊まるんですか」
「そのつもり」
ルークは自分の左脚へ目を落とした。
「街まではまだ無理みたいだし。傷も、何日かは治療院で見てもらえばいいだろ」
「……そうですね」
「今までありがとう」
突然言われて、エルナは少しだけ目を瞬いた。
「何がですか」
「いろいろ」
「治療しただけです」
「それでも」
ルークは小さく笑った。
「助かった」
エルナは返事をしなかった。
目の前の通りを見る。
ルークがこの町の宿に泊まる。
明日になれば治療院へ行く。
傷がもう少し治れば、普段いる街へ戻る。
それで困ることはない。
自分の足でここまで歩いてこられた。
宿の場所も知っている。
この町にも顔見知りがいる。
もう、小屋にいなければならない理由はほとんどなかった。
エルナは膝の上に置いた手を見る。
少しだけ間を置いて、口を開いた。
「小屋に戻ればいいんじゃないですか」
今度は、ルークがこちらを見た。
「……いいの?」
「まだ治ってないでしょう」
「でも、もう町まで来られたし」
「治るまではいていいって言いました」
ルークは少し黙った。
「迷惑じゃない?」
「迷惑なら言いません」
「そっか」
もう一度だけ、ルークは宿のある方を見る。
それからエルナへ視線を戻した。
「じゃあ、もう少し世話になる」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
それで決まった。
しばらく休んでから、二人は立ち上がった。
ルークが荷物を背負う。
朝、小屋を出た時と同じ荷物だった。
けれど今度は、それを持って戻る。
二人は町を出て、山道へ入った。
朝とは違う。
町へ向かう時、ルークは小屋を出るつもりだった。
今は、またそこへ戻っている。
理由は、まだ傷が治っていないから。
それだけだった。
山道を上った先に、小屋が見えた。
エルナは先に歩き、扉の鍵を開ける。
後ろから、ルークの足音が近づいてきた。




