第50話 選ぶ理由
朝から、暑かった。
窓を開けていても、入ってくる風はぬるい。まだ日が高くなる前なのに、小屋の中には薄く熱がこもっていた。
エルナは朝食を片づけると、机の上へ仕事道具を並べた。
鞄。採取用のナイフ。紐。布。水筒。小さな金具がいくつか。
今日は仕事へ行く予定ではない。それでも、使うものは時々確かめておく。傷んでいるものがあれば直し、足りないものがあれば次に町へ下りた時に買う。
「エルナ」
寝台から呼ばれて、顔を上げた。
「はい」
「今日は、少し外に出ても平気か?」
ルークが窓の方を見ている。
傷は少しずつ治っていた。まだ左脚へ普通に体重をかけることはできないが、座っていられる時間はずいぶん伸びている。
「座っているだけなら」
「じゃあ、そうする」
エルナは椅子と、左脚を乗せるための低い箱を扉の外へ出した。
戻って肩を貸す。
ルークも、もう移動には慣れていた。右脚と腕で身体を支え、必要なところだけエルナを頼る。数歩をゆっくり進み、外へ出た。
「暑いな」
椅子へ腰を下ろしたルークが言った。
「今日は特に」
左脚を箱へ乗せる。
近くの木々から伸びた影が、扉の前まで落ちていた。それでも、空気そのものが温かい。
エルナも道具を持って外へ出た。布を広げ、その上へ一つずつ並べる。
しばらく、ルークは何も言わなかった。
山の斜面を見る。木々を見る。小屋へ続く細い道を見る。
遠くで鳥が鳴いた。
「静かだな」
「はい」
「前に言ってたの、こういうことか」
エルナは手を止める。
「何がですか」
「静かなところが好きって」
少し前に、そんな話をした。
覚えていたらしい。
「たぶん、そうです」
「ほかにも?」
少し考える。
「人が少ないとか」
「そこも大事なんだな」
「大事です」
エルナはまた手元へ視線を戻した。
鞄の中身を一度すべて出す。
次の仕事で使うものだけを入れ直し、しばらく使わなさそうなものは戻していく。
横から見ていたルークが言った。
「仕事で中身、結構変えるんだな」
「はい。使わないものまで入れると重いので」
「なるほど」
それだけ言って、ルークはまた黙った。
エルナは水筒を手に取った。
蓋へ結んでいる紐が少し緩んでいる。ほどいて結び直していると、ルークの視線がそこへ落ちた。
「その結び方、初めて見た」
エルナも自分の手元を見る。
「家族に教わりました」
「へえ」
「変ですか」
「いや。ちゃんと留まってる」
ルークが自分の指を組み、別の形を作って見せる。
「俺はこういう方が見慣れてる」
「違いますね」
「ああ。傭兵やってた頃、荷をまとめる時によく使ってた」
エルナの手が止まった。
「傭兵だったんですか」
「ああ。十六くらいから、しばらく」
思っていなかった答えだった。
けれど、ルーク自身は特別なことを話したような顔をしていない。
「今は冒険者なんですよね」
「ああ。今の方が性に合ってる」
「そうなんですか」
「自分で決められることが多いからな」
ルークは山の方へ目を向けた。
「依頼を受けるかも、誰と組むかも。受ける前なら、嫌な仕事は断れる」
「……そうなんですね」
「ああ」
エルナは紐を結び終えた。
ロザリーに教わった形のまま。
ルークのやり方とは違う。
どちらでも、きちんと留まる。
水筒を鞄へ戻した。
元傭兵。
どこの戦場にいたのか。どうして傭兵になったのか。なぜやめたのか。
聞こうと思えば聞ける。
けれど、今話したのはそこまでだった。
エルナも、それ以上は聞かなかった。
道具の確認を続けていると、ルークが並べられたものを見る。
「前に、採取の仕事が好きだって言ってたな」
「はい」
「討伐は、あまり取らない?」
「必要なら受けます」
エルナは使わない金具を一つ、横へ避けた。
「でも、戦わずに済むなら、その方がいいです」
「怖いから?」
「危ないので」
「それはそうだ」
「倒すことが仕事じゃない時もありますし」
「護衛とか?」
「はい。何も起きなければ、それが一番です」
ルークは一度頷いた。
「そういう考え方なんだな」
「危ないことは、少ない方がいいので」
エルナは道具を鞄へ戻していく。
紐をまとめる。
布を畳む。
金具をしまう。
その間、ルークは黙って山を見ていた。
風が通る。
葉が擦れる。
鳥の声が一度だけ遠くから聞こえた。
会話は途切れたままだった。
けれど、どちらも次の話を探さなかった。
しばらく、そのまま時間が過ぎた。
やがて風が止まった。
日陰にいても、暑さが残る。
「今年、長いな。この暑さ」
ルークが空を見ながら言った。
「町はもっと暑かったです」
「山の上でこれなら、そうだろうな」
エルナは水を飲んだ。
ルークにも渡す。
受け取ったルークが少し飲み、返してくる。
また風が吹いた。
葉が揺れた。
しばらくして、ルークが左脚の位置を変えた。
一度。
少しして、もう一度。
エルナがそちらを見ると、ルークも自分の脚へ視線を落としていた。
「そろそろ戻る」
「痛みます?」
「痛いってほどじゃない。重くなってきた」
「わかりました」
エルナは道具を脇へ寄せ、立ち上がった。
肩を貸す。
ルークも右脚で身体を支えながら立ち、ゆっくり小屋へ戻った。
寝台へ腰を下ろし、左脚を上げる。
「外出ただけなのにな」
「少しずつですね」
「ああ」
不満そうでもなかった。
エルナは椅子と箱を中へ戻し、途中だった道具の点検を再開した。
午後には、すべて片づいた。
使わないものは棚へ。
次に使うものは鞄へ。
水筒の紐も、いつもの結び方のまましっかり結び直した。
鞄をいつもの場所へ置く。
「明日、仕事?」
寝台からルークが聞いた。
「まだ決めてません」
「町には行く?」
「今のところは、行かないつもりです」
「そっか」
エルナは棚の戸を閉めた。
それで会話は終わったと思った。
少しして、また声がする。
「決めたら教えて」
エルナは振り返った。
「どうしてですか」
ルークは寝台へ身体を預けたまま、こちらを見ている。
「何するのか気になるから」
「……そうですか」
「ああ」
それだけだった。
エルナは鞄へ視線を戻した。
外では風が木々を揺らしている。
しばらくして、小屋の中はまた静かになった。




