第47話 踏み込まない人
Side:ルーク
朝食を終える頃には、窓から入る光がずいぶん強くなっていた。今日も暑くなりそうだった。
ルークは寝台の端に座ったまま、エルナが出かける支度をするのを見ていた。
薄い布を頭へ巻き直す。髪が出ていないことを確かめてから、外套を手に取る。最後に、手首へ目を落とした。
腕輪。小さな石が一つ、嵌め込まれている。
エルナは指先でそれに触れ、ほんの少し位置を確かめた。
「水か?」
ルークが聞くと、エルナが顔を上げた。
「水と、薬草を少し見てきます」
「近いのか」
「水場は。薬草は、少し上です」
「じゃあ、戻るのは昼前くらい?」
エルナは窓の外を見る。
「たぶん、それより前には」
「わかった」
それだけで会話は終わった。
エルナは籠を持ち、扉へ向かう。
「無理して立たないでくださいね」
「昨日も聞いた」
「今日も言います」
「……わかった」
エルナが振り返る。
「素直ですね」
「怪我人だからな」
「最初からそうしてください」
「そこまで言うか」
エルナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。そのまま扉を開ける。
「行ってきます」
「ああ」
扉が閉まる。小屋の中が静かになった。
ルークはしばらく扉を見ていた。それから、自分の脚へ目を落とす。
傷は確実に良くなっている。まだ歩き回れる状態ではないが、数日前のように寝返りだけで息を詰めることもなくなった。
この調子なら、そう長くはかからない。
そう考えてから、さっきの腕輪を思い出した。
嵌まっているのは魔石だった。それ自体は、別に珍しくない。
冒険者をしていれば、町でも街道でも目にする。灯りに使うもの。湯を沸かすもの。水を扱う道具に使われるもの。魔石を持っているからといって、その人間が魔女というわけでもない。
ただ、腕輪に嵌め込まれているとなれば、何らかの用途があると考える方が自然だった。エルナは外へ出る前にも、あの石を確かめていた。
魔道具。
そこまでは、たぶん間違っていない。問題は、何のためのものなのか。
ルークは天井を見上げた。
最初に目を覚ました時から、少し妙だとは思っていた。
エルナの顔は見えている。隠されているわけではない。整った顔立ちをしていることもわかる。肌が白く、瞳の色がかなり淡いことも。
なのに、少し時間が経ってから細部を思い出そうとすると、妙に曖昧になる。
昨日、窓枠の隙間を直していたことは覚えている。使えそうな釘を選んだことも。エルナが板を削っていたことも。
この小屋を気に入っているのかと聞いた時、少し考えてから、
『自分でここに住むと決めましたから』
と答えたことも。
その時の様子まで覚えているつもりなのに、目の形や口元の細かなところを思い浮かべようとすると、輪郭が薄くなる。
見ていなかったわけではない。むしろ、よく見ていたと思う。
腕輪と関係があるのかもしれない。
人の目や認識を逸らすような魔道具。そう考えれば、一応は筋が通る。
「……まあ、わからないけどな」
声に出してみる。
魔道具に詳しいわけではない。本人へ用途を聞けば済む話でもなかった。
それだけではない。
髪も隠している。町へ仕事には行くのに、暮らしているのは山の中だ。
若い女が一人。古い小屋を自分で直し、水を汲み、薪を集め、食事を作り、仕事へ行く。薬草に詳しい。怪我の処置にも慣れていた。
一方で、自分のことはあまり話さない。
何か事情があるのだろうとは思う。ただ、何なのかまではわからない。
誰かから身を隠しているのかもしれない。身分を知られたくないのかもしれない。もっと別の理由かもしれない。
ふと、魔女という可能性も頭をよぎった。
人目を避けて暮らす者がいるとは聞く。姿を隠していることも、人里から離れて暮らしていることも、当てはめようと思えば当てはまる。
けれど、ルークは魔女を実際に見たことがない。どんな魔法を使えるのかさえ、よく知らなかった。
ここ数日、エルナが魔法らしいものを使ったところも見ていない。だから違う、と言えるほど、自分は魔女について何も知らない。
魔女本人なのかもしれない。魔女と関わりがあるだけかもしれない。まったく別の理由があるのかもしれない。
今のところは、どれも同じだった。
材料が足りない。
足りないところを想像で埋めても、事実にはならない。
ルークはそこで考えるのをやめた。
*
エルナが戻ってきたのは、日が高くなる少し前だった。
扉が開く。
「ただいま」
「おかえり」
もう、特に考えずに返していた。エルナも気にした様子はない。
籠を机へ置く。水の入った容器のほかに、草や細い茎がいくつか入っていた。
「それが薬草?」
「はい」
ルークは机の上を見る。
「この辺で採れるのか」
「少し上に行けば」
「全部?」
「これは違います」
エルナが細い葉を一本つまむ。
「これは水場の近くです。こっちは日陰に多いです」
「見分けつかないな」
「慣れればわかります」
「慣れるまでに変なの摘みそうだ」
「食べなければ大丈夫です」
「そこからか」
エルナの口元が少しだけ緩む。ルークも笑った。
エルナは椅子へ座り、採ってきたものを種類ごとに分け始めた。似たような葉でも、迷わず手を動かしていく。
「誰に教わったんだ?」
何気なく聞いた。
エルナの手が、ほんの少しだけ止まった。
「家族です」
短い返事だった。
ルークはその横顔を見る。
家族。
初めて聞いた気がする。
どんな人だったのか。今はどこにいるのか。どうしてエルナだけが、ここで一人なのか。
次に聞きたいことは、すぐに浮かんだ。
けれど、エルナの指は止まったままだった。
「そっか」
ルークは机の上へ視線を戻した。
「じゃあ、それも薬にするのか?」
エルナの手がまた動き始める。
「はい。乾かして使います」
「どれくらい持つ?」
「ちゃんと乾けば、かなり」
「かなりって?」
「……数か月くらい」
「そんなに持つのか」
「きちんと乾かせば」
「へえ」
秘密のことを何も知らなくても、話せることはいくらでもあるらしい。
それに、話していれば、答えそのものより先にわかることもある。
何ならすぐ答えるのか。何を聞くと少し考えるのか。どんなところで笑うのか。
そういうものを、ルークは少しずつ覚え始めていた。
*
夕方。
傷の布を替えるため、エルナが寝台の前へしゃがみ込んだ。巻いていた布を解き、傷口を確かめる。
「悪くなってるか?」
「なってません。足首の腫れも、少し引いてます」
「そっか」
エルナは新しい布を巻き始めた。
ルークはその手元を見る。
こうして傷を見てもらうことも、もう何度目かわからない。布を外し、傷の状態を確かめ、必要なら洗い、新しいものへ替える。
山で意識を失いかけていた時も、この手で傷を洗われたのだろう。ルークにはほとんど記憶がなかった。
「エルナ」
「はい」
「世話になってる」
手が一瞬止まる。
「……急に、どうしたんですか」
「怪我。毎日見てもらってるだろ」
「必要なので」
「それでも。ありがとう」
エルナは少しだけ考える。
「どういたしまして」
それだけ言って、また布を巻く。
何でもないような返事だった。
けれど、ルークは少し笑った。
*
夜。
明かりが落ちたあとも、ルークはしばらく目を閉じなかった。
床の方から、布の擦れる音がする。エルナが横になったらしい。
腕輪のこと。髪のこと。山の中で一人で暮らしている理由。今日、初めて出てきた家族という言葉。
わからないことは、まだいくつもある。
別に、知らなければ困るわけではない。怪我が治るまで置いてもらうだけなら、必要のないことばかりだ。
それでも。
もう少し知りたいと思っている自分がいる。
知りたいことは、前より増えた。だからといって、全部を今聞く必要もない。
明日になれば、また何か話すだろう。その中で一つくらい、新しく知ることもあるかもしれない。
今は、それで十分だった。
ルークは目を閉じた。




