第44話 怪我人のいる家
朝食を片づけると、エルナは棚の前に立った。
パン。干した肉。野菜。塩。油。
これまでは、どれがどれくらい残っているか見れば、それでよかった。
今は違う。
パンはいつもの倍近く減る。水も減る。傷を洗うために布を使い、湯も沸かす。昨日から洗い物まで増えている。
エルナはしばらく棚を見た。
「……足りなくなる」
後ろから声がした。
「何が?」
振り返る。
ルークは寝台へ身体を預けたまま、こちらを見ていた。
「食料と、水です」
「……俺がいるから?」
「はい」
一瞬、沈黙した。
「そこは少しくらい濁してもいいんじゃないか」
「足りなくなるのは本当なので」
「そうだけど」
ルークが小さく息を吐く。困っているというより、少し呆れているようだった。
エルナは棚へ視線を戻した。
二人で食べれば、減る量が増える。
考えてみれば当然のことだった。けれど、一人で暮らし始めてから、自分以外の分まで考えたことはなかった。
水も同じだった。
エルナは空になりかけた桶を持つ。
それを見て、ルークが少し身体を起こした。
「それ――」
言いかけて止まる。
自分の左脚を見る。
しばらくして、何も言わずに寝台へ戻った。
エルナも何も言わなかった。
「行ってきます」
「ああ」
扉を開ける。
「気をつけて」
エルナは一度だけ振り返った。
「いつもの場所です」
「知ってる場所でも転ぶときは転ぶだろ」
昨日、斜面から落ちた人が言う。
エルナはルークの脚を見る。
ルークも気づいたらしい。
「……俺が言っても説得力ないな」
「はい」
「そこも濁さないんだな」
「……気をつけます」
エルナはそう返して、扉を閉めた。
鍵には手を掛けなかった。
まだまともに歩けない人間を、中へ閉じ込めておく方が危ない。
武器は寝台から離してある。湧き水まで行って戻るだけなら、長く留守にするわけでもない。
エルナは桶を持ち直し、斜面を下りた。
*
湧き水へ向かう道は、もう考えなくても歩ける。
いつもなら、一度汲めばそれなりに持った。
けれど、昨日から使う量が増えている。
エルナは桶へいつもより多めに水を入れた。
持ち上げる。
重い。
けれど、昨日よりはましだった。
人間一人を山から運ぶより、水桶の方がずっと軽い。
そんなことを考えながら小屋へ戻った。
扉を開ける。
中へ入って、最初に寝台を見る。
ルークはいた。
当然だった。
左脚に体重をかけられないのだから、どこかへ行けるはずもない。
それでも、無意識に確認していた。
「おかえり」
声がした。
エルナは桶を下ろす。
「ただいま」
言ってから、一瞬だけ止まった。
ルークも特に気にした様子はなかった。
寝台の横を見る。
朝食に使った器が、きれいに重ねられていた。
「何してたんですか」
「何もしてない」
「してます」
「器をまとめただけだ」
ルークは片手で示した。
「寝たままでも、それくらいはできる」
「落としたら割れます」
「落とさなかった」
「今回は」
「信用ないな」
「昨日会ったばかりなので」
「それはそうだ」
あっさり認めた。
エルナは器を持ち上げる。
ルークは、それ以上手を出そうとはしなかった。
*
昼を過ぎてから、もう一度傷を確認した。
太腿の布を外す。
出血はほとんどない。傷の周囲に強い腫れもなく、昨日より熱を持っている様子もなかった。
足首はまだ腫れている。
「痛みは?」
「昨日よりはましだな」
「熱っぽくはないですか」
「ないと思う」
エルナは額にも触れた。
熱はない。
ひとまず、悪くなってはいないらしい。
「町で診てもらうのは、まだ無理そうですね」
「歩くのはまだ厳しい」
ルークは素直に答えた。
「右脚だけなら立てるけど、町までは持たないと思う」
「じゃあ、今日は動かないでください」
「ああ」
エルナは新しい布を巻きながら考えた。
「もし熱が出たり、傷が腫れたり、痛みが強くなったら、私が町へ行きます」
「人を呼ぶのか」
「必要なら」
「そこまで悪くならなければ?」
「もう少し歩けるようになってから、町で診てもらう方がいいと思います」
ルークは少し考えてから頷いた。
「それでいい」
エルナも頷く。
自分に薬の知識があるからといって、何でも判断できるわけではない。
今は傷を清潔にして、悪化しないかを見る。必要なら、自分より詳しい人間を頼る。
それでよかった。
*
布を巻き終えたところで、ルークが言った。
「そういえば」
「何ですか」
「最近、この辺りで魔獣が増えてないか?」
エルナは手を止める。
「町でも、獣を見たという報告が増えているそうです。魔獣だったという話も、一件だけ聞きました」
「やっぱり、何か増えてるのか」
「普通の獣も含まれているみたいです」
「ああ。なら、まだ何とも言えないな」
ルークは天井を見た。
「俺も絶対に増えたとは言えない。仕事で山に入る回数も、そのときによって違うし」
「それでも、前より会いますか」
「そんな気はする」
少し考えてから続ける。
「昨日の二頭も、もっと奥ならわかる。でも、あそこまで下りてくることは前はあまりなかった気がする」
断定はしない。
ルーク自身も、何かがおかしいと決めつけているわけではないらしい。
エルナは数日前に見た獣の足跡を思い出した。
それから、身体の表面へまとわりつくように感じた妙な魔力。
けれど、昨日ルークを見つけた場所とは方向が違う。
関係があるのかどうかはわからない。
「ギルドにも、報告した方がよさそうですね」
「ああ。動けるようになったら俺からも話す」
そこで会話は終わった。
*
午後は静かだった。
エルナは窓際で薬草を仕分ける。
乾かすもの。早めに使うもの。薬にするもの。
話せるほどには回復したのに、ルークは思ったより静かだった。
エルナが作業をしている間は、ほとんど黙っている。時々、水がほしいと言う。手の届かないものがあれば頼む。
用がなければ、それ以上は話さない。
エルナには、その方が楽だった。
薬草を束ね、棚へ置く。
右側が少し低い棚だった。
それを見ていたルークが口を開く。
「なあ」
「はい」
「あの棚、傾いてないか?」
エルナも見る。
「傾いてます」
「知ってるのか」
「はい」
「直さないのか?」
「落ちてません」
ルークが少し黙った。
「落ちるかどうかが基準なのか?」
「まだ大丈夫です」
「そういうものか」
「そういうものです」
たぶん。
最後の一言は、口には出さなかった。
ルークが小さく笑う。
「変なところで大雑把だな」
エルナは棚を見る。
「使えてます」
「それは見ればわかる」
それ以上は言わなかった。
*
しばらくして、エルナは洗った布を干した。
頭に巻いていた布が、わずかに緩む。
気づいた瞬間、手が止まった。
すぐに結び直す。
髪が外へ出ていないことを指先で確かめ、顔を上げた。
ルークと目が合った。
見ていた。
布が少し緩んだだけで、エルナがすぐに手を止めたことを。
けれど、ルークは何も言わなかった。
少しして窓の外へ視線を移す。
エルナも布から手を離し、作業へ戻った。
*
夕方になると、エルナは夕食の支度を始めた。
鍋へ入れる野菜の量をいつもより増やす。干した肉も増やし、水も多めに入れた。
二人分。
朝から何度も考えたことなのに、鍋を見ると改めてわかる。
一人分ではない。
器も二つ出す。
ルークが身体を起こし、背中へ毛布を入れた。
「何か手伝えることあるか?」
「ありません」
「即答だな」
「寝台から動けないので」
「座ったままできることなら」
エルナは少し考えた。
「食べてください」
「それは得意だ」
少しだけ笑っている。
エルナも椅子へ座った。
二人で食べ始める。
しばらくして、ルークが口を開いた。
「エルナは、ここに住んで長いのか?」
「最近です」
「一人で?」
「はい」
「そっか」
ルークはそのまま食事へ戻った。
エルナは少し待った。
出身はどこか。
家族はいないのか。
どうして一人なのか。
そんな問いが続くと思ったが、何もない。
「聞かないんですか」
「何を?」
「……いえ」
エルナは食事へ戻った。
自分でも、どうしてそんなことを聞いたのかわからなかった。
*
夜になった。
食器を片づけ、明かりを落とす前に、エルナは棚から毛布を出した。
昨日と同じ場所へ広げる。
その様子を、ルークが見ていた。
「……エルナ」
「はい」
「昨日も、そこだったのか」
エルナは毛布を整えながら答えた。
「はい」
ルークは寝台を見た。
それから床を見る。
「俺が床でいい」
「駄目です」
「でも――」
「傷が開いたら、手間が増えます」
ルークが止まった。
「……手間」
「はい」
しばらくして、息を吐くように笑った。
「わかった。ありがたく使わせてもらう」
「そうしてください」
エルナは枕代わりの布のそばへナイフを置いた。
腕輪はつけたまま。
髪を包んだ布も外さない。
横になる。
少しして、寝台から声がした。
「エルナ」
「何ですか」
「おやすみ」
一瞬だけ、返事が遅れた。
「……おやすみなさい」
明かりを消す。
暗くなる。
寝台の方から、呼吸が聞こえた。
今朝、その名前を知ったばかりだった。
ルーク。
それから一日、同じ家にいた。
水を飲んで。
同じ鍋のものを食べて。
少し話して。
また、同じ家で眠る。
まだ、慣れたわけではない。
けれど昨日ほど、呼吸の音ばかりが気になることもなかった。




