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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第4章 隣にいる人
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第42話 知らない人のいる夜


 しばらく床に座ったまま休んでから、エルナは立ち上がった。


 寝台を見る。


 男はまだ眠っていた。胸は一定の間隔で上下している。さっき巻き直した太腿の布にも、新しく血が滲んでいる様子はない。


 エルナは水差しを持ち上げた。


「……足りない」


 傷を洗い、薬草を煮出し、冷たい布を作った。思っていたよりずっと水を使っている。


 一人なら、明日の朝まで足りるはずだった。けれど、今夜はそうはいかない。


 もう一度、寝台を見る。


 男が急に起き上がれるようには見えなかった。呼吸も安定している。出血も止まっている。


 湧き水まで行って戻るだけなら、それほど時間はかからない。まだ外も明るかった。


 エルナは空になりかけた桶を持った。扉のそばに置いた剣と短剣を確認する。寝台から手を伸ばしたところで届く距離ではない。


 念のため、男の様子をもう一度見る。


 変わりはない。


「……すぐ戻ります」


 返事はなかった。


 エルナは扉を閉め、湧き水へ向かった。


     *


 湧き水までの道は、いつもと同じだった。


 足を置く場所も、木の間から差す光も、岩の隙間から流れ出る水の音も。


 けれど、今日は持ってきた桶をいつもより多めに満たした。


 一人分ではない。


 そのことが、妙に引っかかった。


 傷を洗う水。飲む水。熱が出れば、布を冷やす水もいる。


 自分だけなら、どれくらい使うかはわかっている。知らない人間が一人増えただけで、それがわからなくなった。


 エルナは桶を持ち上げた。


「……重い」


 今日は何度目だろう。


 小さく息を吐いて、斜面を上る。


 小屋が見えてきたとき、ほんの少しだけ歩調が速くなった。


 扉は閉じたままだった。


 扉を開け、中へ入る。


 男はまだ寝台にいた。


 当然のことなのに、それを確かめてから、エルナはようやく桶を下ろした。


 小屋の中は暑かった。


 山の上とはいえ、日中に温められた空気がまだ残っている。エルナは額の汗を拭った。


 フードの中も蒸れていた。


 いつもなら、とっくに外している。


 左手首を見る。


 腕輪はそのままだ。


 寝台では、知らない男が眠っている。いつ目を覚ますかわからない。


 エルナはしばらく迷ってから、棚から薄い布を一枚出した。


 白銀の髪をまとめ、外から一本も見えないよう、頭を包むように布を巻く。手で何度か確かめてから、ようやくフードを下ろした。


「……暑い」


 首元へ風が触れた。それだけでずいぶん楽になる。


 けれど、腕輪は外さない。頭にも布がある。


 自分の家なのに。


 エルナは一度だけそう思って、寝台を見た。


 男は何も知らずに眠っている。


 仕方ない。


 自分で連れてきたのだから。


     *


 日が傾く前に、傷をもう一度確認した。


 太腿の布をそっと持ち上げる。出血は止まっている。傷の周囲が少し熱を持っていたが、今すぐ悪くなっているようには見えない。


 足首の腫れは、まだ強かった。


 エルナは湧き水で冷やした布を絞り、足首へ当て直した。それから男の額へ手を触れる。


 少し熱い。


 けれど、ひどい熱ではない。


 戦って、血を流し、暑い山の中で倒れていた。身体が消耗していても不思議ではなかった。


 首元にも触れてみる。汗ばんでいるが、呼吸は安定している。


 エルナは湧き水で冷やした別の布を男の額へ置いた。


 その拍子に、顔が近くなる。


 眠っている横顔を見る。


 やはり、似ていた。


 直人に。


 けれど、こうして近くで見れば見るほど、違うところも増えていく。


 眉の形。顎の線。頬の輪郭。短い髪の癖。


 そして、目を開けたときの少し鋭い印象。


 同じ顔ではない。


 似ているだけだ。


 エルナは立ち上がった。


 夕食を作る。


 いつもの鍋に野菜を入れ、干した肉を少し加える。味を整える。


 することは、普段と変わらない。


 椅子へ座り、食べる。


 けれど、小屋の中に聞こえる音が違った。


 匙が器へ当たる音。自分が食べる音。その合間に、寝台から呼吸が聞こえる。


 エルナは顔を上げた。


 男は眠っている。


 また一口食べる。


 少しして、もう一度見る。


 呼吸はしている。わかっているのに、気になった。


 エルナは黙って食事を続けた。


 一人で食べている。


 それなのに、一人で食べている感じがしなかった。


     *


 夜になった。


 食器を片づけ、戸締まりを確認する。


 それからエルナは、いつものように寝台へ向かおうとして止まった。


 男が寝ている。


「……」


 見ればわかることだった。


 それなのに、夜になるまで真剣に考えていなかった。


 寝台は一つしかない。


 怪我人を床へ下ろすわけにもいかない。


 エルナは棚から毛布を出し、床へ広げた。薄いので、もう一枚重ねる。その上へ座ってみる。


 硬い。


「……寝る場所がない」


 正確には、ある。


 床が。


 森を出て旅をしていた頃には、もっと硬い地面で眠ったこともあった。一晩くらいなら問題ない。


 問題ないけれど。


 エルナは寝台を見る。


 自分で直した家。


 ずっと自分が使っていた寝台。


 そこに、知らない男が寝ている。


「……仕方ない」


 今日、何度目かわからない言葉だった。


 腰のナイフだけは外し、枕代わりに畳んだ布のそばへ置いた。


 明かりを落とす。


 腕輪はつけたまま。


 髪を包んだ布も外さない。


 横になる。


 すぐには眠れなかった。


 床が硬いせいもある。身体が痛むせいもある。


 それだけではなかった。


 すう、と寝台の方から呼吸が聞こえる。


 少し間があって、また聞こえる。


 ここへ移り住んでから、小屋の中にあったのは自分の音だけだった。


 薪が爆ぜる音。鍋の音。戸を開ける音。歩く音。そして、自分の呼吸。


 今日は、もう一つある。


 自分で選び、自分の暮らしを作った家の中に、自分ではない人間がいる。


 落ち着かない。


 エルナは目を閉じた。


     *


 どれくらい眠ったのかわからなかった。


 布が擦れる音で目を覚ました。


 エルナはすぐに上半身を起こした。


 暗い。


 窓の外も真っ暗だった。


 手を伸ばせば届くところに、ナイフがある。


 寝台を見る。


 男が身じろぎしていた。


 呼吸が少し速い。


 エルナは立ち上がる。


 扉のそばの剣を見る。


 そのままだ。


 男は起き上がろうとしているわけではない。傷が痛むのか、眉を寄せている。


「聞こえますか」


 近づいて声をかける。


 男の瞼が動いた。


 ゆっくり目を開く。


 まだ焦点は曖昧だった。


「……ここ……」


「私の家です」


 男は何かを考えるように目を閉じた。


「山で倒れていました。覚えてますか」


 少し間があった。


「……少し」


 声が掠れている。


 エルナは水を取りに行った。


「飲めますか」


 男が小さく頷く。


 エルナは身体を起こすのを手伝い、背中へ丸めた毛布を入れた。器へ少量だけ水を注ぐ。


「ゆっくり飲んでください」


 男は器を持とうとしたが、手に力が入りきらないらしい。


 エルナが支える。


 一口飲ませる。


 きちんと飲み込んだのを確かめ、少し待つ。それから、もう一口。


 むせないことを確認しながら、何度かに分けて飲ませた。


「もう少し?」


「……いや」


 エルナは器を置いた。


 男の視線が、ゆっくり小屋の中を動いた。


 やがて扉のそばで止まる。


 そこには、剣と短剣が置いてある。


 自分の武器だとわかったらしい。


 けれど、返してほしいとは言わなかった。


 少しして、こちらを見る。


「……助けて、くれた?」


「はい」


 男はしばらくエルナを見ていた。


 まだ意識がはっきりしていないのか、視線には力がない。


「……そう」


 それだけ言って、息を吐く。


 再び目が閉じた。


「まだ寝ててください」


 返事はなかった。


 呼吸が少しずつゆっくりになる。


 エルナはしばらくそばにいた。


 熱が急に上がっている様子もない。


 傷から血も出ていない。


 今夜すぐに町まで動かす必要はなさそうだった。


 ただ、傷は深い。足首の腫れもある。


 朝になったら、本人の意識と傷の状態をもう一度確かめる。それから、町で診てもらう必要があるか決めよう。


 エルナはそう考えて、床へ戻った。


 毛布の上へ横になる。


 暗闇の中で、また男の呼吸が聞こえる。


 さっきより少し穏やかだった。


     *


 次に目を覚ましたとき、窓の外が白み始めていた。


 エルナは身体を起こした。


「……痛い」


 肩と背中が固まっている。


 床で寝たせいだ。


 少しずつ身体を動かしてから、寝台を見る。


 男はまだ眠っていた。


 エルナは立ち上がり、額へ手を当てる。


 昨夜より熱くはない。


 呼吸も落ち着いている。


 傷を見る。


 新しい出血はなかった。


 足首の腫れも、少なくとも悪化してはいないようだった。


 ひとまず、夜は越えた。


 エルナは小さく息を吐いた。


 朝食を作ることにする。


 男が食べられるようなら、柔らかいものの方がいいだろう。


 鍋を取り出す。


 水を入れる。


 火を起こそうとした、そのとき。


 背後に気配を感じた。


 エルナは振り返る。


 寝台の上で、男が目を開けていた。


 昨夜までぼんやりしていたその目が、今度はまっすぐエルナを見ていた。




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