第41話 山で拾った人
山道を上り始めてから、しばらく。
エルナは見覚えのある岩の前で足を止めた。
目的の薬草が生えている斜面は、もうすぐそこだった。
昨日見つけた獣の足跡とも、妙な魔力を感じた場所とも方向は違う。何度か来たことがあり、今まで危険なものを見かけたこともない。
木々の間を抜けると、見慣れた斜面が現れた。
「……あった」
目当ての薬草は、すぐに見つかった。
岩陰の、少し湿った場所に数株まとまって生えている。エルナはしゃがみ込み、葉を一枚ずつ確かめた。
傷んでいない。
まだ若すぎるものは残し、十分に育ったものから必要な分だけ摘んでいく。
仕事ではないから、たくさんはいらない。傷を洗う薬に使う分と、少し予備があれば十分だった。
摘んだものを布の上へ並べ、状態を見る。
これくらいでいい。
思っていたより早く終わった。
エルナは残った株をもう一度確かめてから、立ち上がった。
その時だった。
少し上の方で、枝が折れているのが見えた。
一本ではない。何本かの細い枝が、不自然な向きに曲がっている。
エルナの手が止まった。
獣が通っただけかもしれない。
そう思いながら、周囲を見る。
鳥の声。
風で葉が揺れる音。
それ以外に、変わった音はない。
エルナは籠を持ち直し、数歩だけ斜面を上った。
土が抉れていた。
「……?」
何かが暴れたような跡だった。
踏み荒らされた草。深く残った爪の跡。その近くに、色の濃いものがついている。
エルナはしゃがみ込んだ。
血だった。
完全には乾いていない。
指では触れず、目だけで確かめる。量は少なくなかった。
エルナは籠を地面へ置き、腰のナイフへ手を掛けた。
すぐには進まない。
耳を澄ます。
周囲を見る。
草の動き。獣の息遣い。何かが潜んでいる気配。
しばらく待ったが、何も聞こえなかった。
血の跡は、斜面の上へ続いている。
エルナは籠を持ち上げ、ゆっくりとその跡を追った。
*
少し進んだところで、獣が倒れていた。
犬に似ている。
けれど、普通の犬よりずっと大きい。首から肩にかけての皮膚が硬く盛り上がり、口元から長い牙が覗いている。
魔獣だった。
もう動いていない。
エルナは距離を取ったまま見る。
首元に深い傷がある。
何度も無闇に斬りつけた跡ではない。大きく裂けた傷が一つ。
少し離れたところには、別の血痕が残っていた。
魔獣のものだけではないように見える。
さらに先へ進む。
もう一頭いた。
こちらも倒れている。身体の横に、深く刃の入った跡があった。
エルナは二頭を見比べた。
自分は剣を使わない。
だから、どれほど腕が立つのかまではわからない。
それでも、何度も闇雲に刃を振るったようには見えなかった。
これを倒した人は、戦うことに慣れている。
そのくらいはわかる。
地面には、人の足跡もあった。
大きい。
それが魔獣の跡と重なりながら、斜面の端まで続いている。
そこで、土が大きく崩れていた。
エルナは足元を確かめながら近づいた。
下を見る。
かなり急な斜面だった。
途中の低木が何本か折れている。土もところどころ抉れ、何かが転がり落ちた跡が下まで続いていた。
そして、そのさらに先。
木の根元に、何かが横たわっている。
人だった。
*
エルナはすぐには下りなかった。
周囲をもう一度確認する。
倒れている魔獣は二頭。
ほかに動くものは見えない。
人影もない。
しばらく待って、それでも何も起きないことを確かめてから、斜面へ足を掛けた。
滑らない場所を選び、木の幹を支えにして下りる。
近づくほど、人の姿がはっきりした。
自分より少し年上に見える、若い男だった。
短い、焦げ茶の髪。
旅装。
腰には剣。
服や靴には使い込まれた跡がある。
エルナは数歩手前で止まった。
「聞こえますか」
返事はない。
「……大丈夫ですか」
動かない。
エルナはナイフから手を離さないまま近づいた。
しゃがむ。
まず呼吸を見る。
胸は動いている。
首元へ指を当てる。
脈は少し速い。呼吸は浅いが、一定だった。
「生きてる」
声にすると、わずかに肩の力が抜けた。
けれど、安心できる状態ではなかった。
左脚の服が大きく裂け、血が滲んでいる。
太腿に深い傷があった。
魔獣の爪だろうか。
傷口からの出血は弱くなっているものの、完全には止まっていない。
さらに同じ脚の足首が腫れていた。斜面を落ちた時に捻ったのかもしれない。
身体のあちこちにも、擦った跡や打った跡がある。
エルナはまず、頭部を目で確かめた。
目立つほどの出血はない。触れられる範囲で頭から首へ手を沿わせてみても、明らかに形のおかしいところはなかった。
肩、腕、胸元。
脚以外に大きく変形しているところも見当たらない。
だからといって、中まで何ともないとは限らない。
高いところから落ちた人間を、むやみに動かしていいとも思わなかった。
けれど、今はまず出血を止める必要がある。
エルナは荷物から清潔な布を出した。
傷そのものを深く触らず、布を当てて強く押さえる。
しばらく待つ。
男の眉が、かすかに動いた。
意識が完全にないわけではないらしい。
エルナは手を動かしながら、初めてその顔をまともに見た。
そして、止まった。
ほんの一瞬だった。
鼻筋。
輪郭。
閉じた目元。
まったく同じではない。
髪も違う。
けれど。
似ている。
そう思った。
昔、何度も見た顔に。
眠っている横顔に。
胸の奥が、急に遠い場所へ引かれたような気がした。
エルナは男を見つめる。
けれど、その感覚はすぐに押し戻した。
違う。
目の前にいるのは、知らない人だ。
エルナは視線を傷へ戻した。
出血が弱くなったのを確かめ、布を巻いて固定する。
今は、それでいい。
*
応急処置を終えてから、エルナは立ち上がった。
町へ助けを呼びに行く。
一度はそう考えた。
けれど、ここから町まで下り、誰かを連れて戻れば何時間もかかる。
それまで、この男をここへ残すことになる。
暑い。
傷もある。
さっきまで魔獣がいた場所でもある。
意識もはっきりしていない。
その方が危険だった。
エルナは山の下を見る。
自分の小屋がある方向。
町へ行くより、ずっと近い。
あそこへ連れていけば、この男に小屋の場所を知られる。
誰にも教えずにいた、自分の家。
腕輪もフードも外して過ごせる場所。
目を覚ませば、そこがどこにあるのかもわかるだろう。
嫌だった。
けれど、それだけでここへ置いていくことはできない。
「……仕方ない」
口にしてから、男を見る。
知らない人間。
それも、自分より大きな男。
家へ連れて帰る。
考えただけで気が重かった。
けれど、ほかにましな方法が思いつかなかった。
エルナはまず、男の剣を外した。
剣帯ごと身体から離す。
腰の反対側には、小さな短剣もあった。それも抜き取る。
助けることと、無警戒でいることは別だった。
財布にも鞄の中身にも触れない。
必要なのは、まず武器だけだった。
それから男の身体へ腕を回し、少しだけ起こしてみる。
「……っ」
重い。
上半身をわずかに持ち上げただけで、腕と腰に負担がかかった。
もう一度力を入れる。
肩へ担ぐところまで持ち上げようとして、
「……無理」
諦めた。
水桶とは比べものにならなかった。
意識の薄い人間は、自分で身体を支えてくれない。
このまま抱えて運ぶのは無理だった。
エルナは周囲を見る。
落ちている枝。
男の外套。
荷物。
少し考える。
*
二本の丈夫な枝を探した。
どちらも男の身体より長いものを選ぶ。
男の外套を脱がせるのは傷を動かしそうだったので、背中側から慎重に抜き取り、二本の枝の間へ広げた。
枝へ何か所か固定する紐がいる。
エルナは男の荷物を見る。
さっきは中身へ触れなかった。
けれど、外側には荷をまとめるための細い縄が結ばれている。
「……借ります」
返事があるはずもない。
それでも一応そう言ってから、縄をほどいた。
自分の持っていた紐も足し、外套がずれないよう枝へ固定する。
立派なものではなかった。
男をその上へ移し、身体が大きくずれないよう腰と上半身の辺りもゆるく留める。
それだけでも、かなり時間がかかった。
エルナは立ち上がり、二本の枝の頭側を持ち上げてみる。
反対側の先端は、地面についたまま。
引けば、滑る。
少なくとも男の身体を直接地面へ引きずらずに済む。
「……重い」
今日二度目だった。
エルナは息を整えた。
剣と短剣は男の荷物とまとめ、足元側へ固定する。目を覚ましても、すぐには手の届かない位置だった。
それから、枝を持ち直す。
平らな場所なら、どうにか引ける。
問題は斜面だった。
少し進む。
止まる。
石を避ける。
また進む。
地面へついた枝の先が根に引っかかれば、角度を変える。段差では一度下ろし、男の身体がずれていないことを確かめてから動かす。
普段なら何でもない山道が、今日はひどく長く感じた。
額から汗が落ちる。
フードの中が暑い。
それでも外さない。
男がいつ目を覚ますかわからなかった。
斜面の途中で、枝を下ろした。
一度休む。
水筒を取り出し、自分で一口だけ飲む。
男にも飲ませるべきか迷った。
意識がはっきりしないまま水を飲ませるのは危ない。
やめる。
その時だった。
「……う」
小さな声がした。
エルナはすぐに男を見る。
瞼がわずかに動く。
「聞こえますか」
返事はない。
もう一度呼ぶ。
「聞こえますか」
男の目が薄く開いた。
一瞬だけ、視線が合う。
閉じていた時より、目元は少し鋭かった。
似ている。
でも。
やっぱり違う。
「……誰……」
掠れた声だった。
「喋らなくていいです」
エルナはすぐに言った。
男の眉がわずかに動く。
「怪我してます。山から落ちたみたいです」
「……ああ」
覚えているらしい。
「急なところだけ、自分で立てますか」
男が身体を動かそうとして、すぐに顔をしかめた。
返事まで少し間が空く。
「左……無理だな」
「右は?」
「……たぶん」
「じゃあ、急なところだけ手伝ってください」
男がうっすら目を開けた。
「助けられてる方に……手伝えって?」
「一人で運ぶ方が無理なので」
「……正直だな」
「喋らなくていいです」
「……わかった」
声が途切れた。
男は一度目を閉じ、浅く息を整えている。
さっきまでより顔色も悪い。
エルナは少し待った。
「立てそうですか」
しばらくして、男が小さく頷いた。
身体を固定していた紐を外し、ゆっくり起こす。
男は腕をつき、右脚だけで身体を支えようとした。
エルナはすぐ横へ入り、男の腕を自分の肩へ回す。
左脚は地面につけない。
ほとんど体重を預けられた。
「……重いです」
「悪い」
それだけだった。
一歩。
少し休む。
また一歩。
男自身も右脚と腕で身体を支えようとしているが、長くは続かなかった。
エルナは急がなかった。
下りやすいところまで来ると、また簡易の担架へ寝かせる。
男は目を閉じた。
呼べば、まだ反応はある。
けれど、もう話す余力はなさそうだった。
*
そこからは、ほとんど担架を引いて進んだ。
大きな根を避ける。
石の多い場所では少し遠回りする。
斜面がきつければ、一度止まり、枝が滑らない位置を選び直す。
何度も休んだ。
水を飲んだ。
汗を拭いた。
そのたびに、男の呼吸を確かめる。
意識が落ちていても、呼びかければわずかに反応する。
出血が増えていないことも見る。
エルナ自身の腕も、だんだん重くなってきた。
それでも進むしかなかった。
やがて、木々の間に屋根が見えた。
自分の小屋。
昨日は、あれを見た時に胸の奥が少し緩んだ。
帰ってきた。
そう思った。
今日は違った。
帰ってきた。
でも、一人ではない。
扉の前まで運ぶ。
枝を下ろし、鍵を開ける。
簡易の担架のままでは中へ入れられない。
エルナは男を起こした。
「あと少しです」
男の目がわずかに開く。
「……どこ」
「私の家です」
それだけ答える。
男の腕を肩へ回し、右脚で支えてもらいながら、少しずつ中へ入った。
一歩進むたびに体重が掛かる。
寝台までが遠い。
ようやく辿り着き、そこへ座らせ、そのまま横にする。
エルナは大きく息を吐いた。
腕が震えていた。
ようやく運び終えた。
外へ戻り、担架にまとめていた剣と短剣、それから荷物を中へ運ぶ。
武器は扉のそばへ置いた。
寝台から手を伸ばしても届かない場所。
男はもう目を閉じていた。
*
湯を沸かした。
傷をもう一度確認する。
血で固まった布を慎重に外す。
傷は深い。
けれど、骨が見えているほどではない。
出血も、山で見た時より落ち着いている。
エルナは朝採ってきた薬草を煮出し、十分に冷ます。
それを使って、傷の周囲についた血や汚れを丁寧に洗った。
服も、邪魔になるところだけ切る。
露わになった肌へ意識を向ける余裕はなかった。
気になるのは、傷の状態だけだった。
腕や肩には、古い傷跡もいくつかある。
今回ついたものではない。
やはり、戦うことには慣れているらしい。
足首も確認する。
腫れてはいるが、明らかにおかしな方向へ曲がってはいない。
冷やした布を当て、動かさないよう固定した。
もう一度、身体のほかの部分も確かめる。
頭。
首。
肩。
腕。
胸元。
呼吸のたびに、不自然に痛がる様子はない。
それでも、身体の中まで見えるわけではない。
落下の影響は、今すぐにはわからないものもある。
男は途中で一度だけ目を開けたが、すぐにまた閉じた。
魔法は使わなかった。
冷たい水や布を用意することならできる。
けれど、今は手でできる処置で足りている。
魔法を使う必要はなかった。
最後に太腿へ新しい布を巻き、エルナは手を離した。
「……これで、たぶん」
少なくとも、今すぐどうにかなるようには見えない。
けれど、熱が出るかもしれない。
傷が悪くなる可能性もある。
意識の状態も見ておく必要がある。
今夜は様子を見る。
熱が上がる。
呼びかけても反応しなくなる。
傷が腫れる。
出血が増える。
何か変われば、町へ助けを求めに行く。
エルナはそう決めた。
*
気づけば、昼はとっくに過ぎていた。
昼までには戻れる。
朝は、そう思っていた。
エルナは床へ座り込んだ。
疲れた。
腕も痛い。
肩も重い。
水を一口飲む。
そのまま壁へ背を預けた。
寝台には、知らない男が眠っている。
名前も知らない。
どこから来たのかも。
何をしていたのかも。
わかっているのは、魔獣を二頭倒したらしいことと、ひどく重いことくらいだった。
エルナはしばらく男を見た。
呼吸は続いている。
さっき巻いた布にも、新しい血は滲んでいない。
それを確かめてから、視線を落とした。
左手首に腕輪がある。
いつもなら、小屋へ戻ったらすぐに外す。
今日も、無意識に指を掛けた。
そこで止まる。
寝台を見る。
知らない男がいる。
目を覚ますかもしれない。
エルナは腕輪から手を離した。
フードも、そのままにする。
ここへ来てから、小屋の中で腕輪をつけたまま過ごすのは初めてだった。




