↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第4章 隣にいる人
40/122

第40話 帰るところ


 山小屋で暮らし始めてから、数週間が過ぎた。


 朝、目を覚ます。窓の外はもう明るかった。


 エルナは寝台の上で身体を起こし、そのまま伸びをした。見上げた天井には、自分で拭いた跡がある。隙間を塞いだ板も、朝の光の中ではよく見えた。


 もう、目を覚ますたびに場所を確かめることはない。


 窓を開けると、外から風が入った。冷たいとは言えない。それでも、町の中よりは少しだけ涼しい。


 エルナは髪をまとめ、空の水桶を持って外へ出た。


     *


 湧き水までは、斜面を下って十分ほどだった。


 毎日通ううちに、足を置きやすい場所もわかってきた。雨のあとに滑りやすくなる石も、もう覚えている。


 岩の隙間から、今日も細く水が流れていた。


 エルナはしゃがみ込み、桶を置く。最初に手を入れる。


 冷たい。


 それを確かめてから、水を汲んだ。


 老人の話では、完全に枯れたことはないという。それでも、昔より細くなっている。


 ここに住み始めてからも、目に見えて水量が減った様子はなかった。


 一人で暮らすには足りる。だからといって、好きなだけ使えるわけでもない。


 桶を満たしすぎると、今度は斜面を上るのが大変になる。エルナはいつものところで止め、片手で持ち上げた。


「……重い」


 森を出た頃にも、同じ言葉をよく口にしていた気がする。あの頃背負っていた荷物とは、ずいぶん違うけれど。


 エルナは桶を持ち直し、斜面を上った。


     *


 朝食は簡単だった。


 昨日買っておいたパンと、干した肉。残っていた野菜を少し煮る。


 鍋に入れる量を見ながら、エルナは野菜を切った。余らせても傷む。今日食べる分だけでいい。


 窓際には、昨日から乾かしている薬草が並んでいる。その隣には、作ってからまだ一度も直していない棚があった。


 エルナは食事をしながら、その棚を見る。


 右側が少し低い。


 物は落ちない。ぐらつきもしない。


「……まだ大丈夫」


 そう言って、パンを食べた。


 直すつもりはある。


 たぶん。


     *


 食事を終えると、町へ行く支度をした。


 冒険者証。財布。水筒。昨日採った薬草。必要なものだけを小さな鞄へ入れる。


 外套を羽織り、白銀の髪を隠す。最後に、机の上へ置いていた腕輪を手に取った。


 左手首へ通し、石に残っている力を確かめる。まだ十分だった。


 小屋で過ごす間は外している。町へ下りるときや、人に会うかもしれない場所へ出るときはつける。


 それも、もう考えなくてもできるようになっていた。


 扉へ鍵を掛け、一度引く。開かないことを確かめてから、エルナは山道を下り始めた。


     *


 町へ着く頃には、通りにも人が増えていた。


 最初に来たときは、どこに何があるのか一つずつ覚えなければならなかった。今は違う。


 塩を買うなら、この通り。


 油なら、角を曲がった店。


 薬草によっては、ギルドより町外れの店の方が少し高く買い取ってくれる。


 それくらいはわかるようになった。


「まだいるのか」


 声をかけられた。


 道具屋の老人が、店先で木箱を動かしている。小屋を貸してくれた男だった。


「います」


「飽きんのか」


「何にですか」


「山に」


 エルナは考えた。


「静かなので」


「そういう問題か?」


「たぶん」


 老人が鼻で笑った。


「屋根、落ちてないか」


「まだ大丈夫です」


「まだって言うな」


「落ちそうになったら言います」


「その前に言え」


「はい」


 老人は木箱を持ち上げた。


 エルナはその横を通り過ぎる。


「またな」


「はい」


 振り返らずに返す。


 それでよかった。


     *


 ギルドへ入ると、掲示板の前には何人か冒険者がいた。


 エルナも空いているところから依頼を見る。


 採取。近くの村への配達。山道の確認。小さな商隊への同行。


 四級になってから、受けられる仕事はずいぶん増えた。それでも、受けられるものを全部受ける必要はない。


 今日は、昨日採った薬草を売るだけでもいい。


 そう思いながら紙を見ていると、受付の方から声がした。


「エルナさん」


 顔を向ける。


 何度か話したことのある男が、手招きしていた。


「今日、山側へ行きます?」


「まだ決めてません」


「行くなら少し気をつけてください」


「何かあったんですか」


「このところ、獣を見たって報告が少し増えてるんです」


「魔獣?」


「そこまではっきりしないのも多いですね。普通の獣もいるみたいです。一件だけ、魔獣だったって話はありましたけど」


 受付の男は帳面をめくった。


「山道の奥まで行く依頼は、今のところ出してません。近い範囲なら問題ないと思いますけど、一人なら無理はしないでください」


「はい」


「気になるものがあったら、報告だけお願いします」


「わかりました」


 大きな騒ぎではないらしい。誰かが怪我をしたとも聞かない。


 山で獣を見ること自体、珍しいことではなかった。


 エルナは持ってきた薬草を売り、そのまま別の採取依頼を一つ受けた。


 場所は、町と小屋の間から少し外れた斜面。何度か通ったことがある。


 危険な場所ではない。


     *


 昼前には、町を出た。


 街道から山道へ入り、途中で依頼の場所へ向かう。


 日差しは強かった。木陰へ入ると少しだけ楽になる。


 エルナは時々足を止めながら、地面を見る。


 この辺りの植物も、住み始めた頃よりはわかるようになった。


 ロザリーの森とは違う。生えている木も、土も、水の流れ方も。


 それでも、何度か歩けば見えてくるものはある。


 日陰。湿り気。周囲に生えている草。岩の位置。


 目当ての薬草は、すぐに見つかった。


 しゃがみ込み、葉を見る。状態は悪くない。


 必要な分だけ採る。根は残す。一か所から取りすぎない。


 手を動かしているうちに、遠くで鳥が鳴いた。


 エルナは一度だけ顔を上げ、それからまた手元へ戻った。


     *


 依頼分を集め終えたあと、自分用に使う薬草もついでに見ておこうと、周囲を歩いた。


 しばらく進んだところで、地面に跡があった。


 エルナは足を止め、しゃがむ。


 獣の足跡だった。


 一つではない。大きさも違う。新しいものもあれば、少し崩れているものもある。


 水を探して下りてきたのかもしれない。


 山で餌が減ったのかもしれない。


 それだけでは、何もわからない。


 受付で聞いた話を思い出す。


 最近、獣を見たという報告が少し増えている。


 エルナは足跡へ触れず、そのまま立ち上がった。


 少し先へ進む。


 そこで、また足が止まった。


「……?」


 何かが違う。


 風ではない。


 匂いでもない。


 周囲を見る。


 木。岩。草。


 変わったものは何もない。


 それでも、身体の表面にまとわりつくような感覚があった。


 魔力。


 たぶん、そうだ。


 普段なら、そこにあることさえ意識しない。


 けれど、この辺りのものは妙に気にかかる。


 濃いというほどでもない。強いわけでもない。ただ、妙だった。


 以前、乾いた川跡で感じたものを思い出す。


 あのときほどではない。


 けれど、似ているような気もする。


「……何なんだろう」


 呟く。


 答えはなかった。


 獣の足跡と関係があるのかも、わからない。


 エルナはそれ以上奥へは行かなかった。


 今日は調べに来たわけではない。依頼の薬草はもう採った。自分用の分も、別の場所で探せる。


 エルナは来た道を戻った。


     *


 町へ戻り、依頼を終える。


 帰りに、パンと少量の野菜を買った。油はまだ残っている。塩もある。


 余計なものは買わない。


 日が傾く前に、山道へ戻った。


 町の音が少しずつ遠くなる。


 木々の間を歩き、斜面を上る。


 やがて、枝の向こうに低い屋根が見えた。


 継ぎ当てた屋根。


 小さな窓。


 歪みを直した扉。


 エルナは歩く速度を変えなかった。


 それでも、胸の奥が少しだけ緩んだ。


 帰ってきた。


 そんな言葉が、考えるより先に浮かんだ。


 鍵を開ける。


 扉を閉める。


 荷物を置く。


 腕輪を外す。


 フードを下ろす。


 白銀の髪が肩へ落ちた。


 ここでは、隠さなくていい。


 エルナは買ってきたものを棚へ置いた。


 曲がった棚は、今日もそのままだった。


「……そのうち」


 誰に言うでもなく呟く。


 夕食を作る。


 水差しを見る。明日の朝までは足りそうだった。


 今日買った野菜を少しだけ使い、残りは包んで置いておく。


 食べ終えたあとは、採ってきた薬草を並べた。


 一つだけ、必要なものが足りなかった。


 傷口を洗う薬にも使う草。


 この辺りでは、少し上の斜面に生えている。以前見つけた場所がある。


 小屋からなら、それほど遠くない。三十分ほど歩けば着くはずだった。


「明日、採ろう」


 仕事ではない。


 量も少しあればいい。


 何度か通った場所だ。


 今日見つけた獣の足跡とも、妙な感覚を覚えた場所とも、方向は違う。


 エルナは薬草を片づけた。


     *


 翌朝。


 町へ行く支度はしなかった。


 小さな籠。布。水筒。ナイフ。


 必要なものだけを持つ。


 腕輪を手に取って、一度止まった。


 人に会う予定はない。


 けれど、山に誰もいないとは限らない。


 結局、左手首へ通した。


 髪も隠す。


 外套は、暑くなれば脱げるよう軽く羽織った。


 扉へ鍵を掛ける。


 山道を見る。


 足りなかった薬草を、少し採ってくるだけだった。


 昼までには戻れる。


 エルナはそう考えて、山道を上っていった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。