第40話 帰るところ
山小屋で暮らし始めてから、数週間が過ぎた。
朝、目を覚ます。窓の外はもう明るかった。
エルナは寝台の上で身体を起こし、そのまま伸びをした。見上げた天井には、自分で拭いた跡がある。隙間を塞いだ板も、朝の光の中ではよく見えた。
もう、目を覚ますたびに場所を確かめることはない。
窓を開けると、外から風が入った。冷たいとは言えない。それでも、町の中よりは少しだけ涼しい。
エルナは髪をまとめ、空の水桶を持って外へ出た。
*
湧き水までは、斜面を下って十分ほどだった。
毎日通ううちに、足を置きやすい場所もわかってきた。雨のあとに滑りやすくなる石も、もう覚えている。
岩の隙間から、今日も細く水が流れていた。
エルナはしゃがみ込み、桶を置く。最初に手を入れる。
冷たい。
それを確かめてから、水を汲んだ。
老人の話では、完全に枯れたことはないという。それでも、昔より細くなっている。
ここに住み始めてからも、目に見えて水量が減った様子はなかった。
一人で暮らすには足りる。だからといって、好きなだけ使えるわけでもない。
桶を満たしすぎると、今度は斜面を上るのが大変になる。エルナはいつものところで止め、片手で持ち上げた。
「……重い」
森を出た頃にも、同じ言葉をよく口にしていた気がする。あの頃背負っていた荷物とは、ずいぶん違うけれど。
エルナは桶を持ち直し、斜面を上った。
*
朝食は簡単だった。
昨日買っておいたパンと、干した肉。残っていた野菜を少し煮る。
鍋に入れる量を見ながら、エルナは野菜を切った。余らせても傷む。今日食べる分だけでいい。
窓際には、昨日から乾かしている薬草が並んでいる。その隣には、作ってからまだ一度も直していない棚があった。
エルナは食事をしながら、その棚を見る。
右側が少し低い。
物は落ちない。ぐらつきもしない。
「……まだ大丈夫」
そう言って、パンを食べた。
直すつもりはある。
たぶん。
*
食事を終えると、町へ行く支度をした。
冒険者証。財布。水筒。昨日採った薬草。必要なものだけを小さな鞄へ入れる。
外套を羽織り、白銀の髪を隠す。最後に、机の上へ置いていた腕輪を手に取った。
左手首へ通し、石に残っている力を確かめる。まだ十分だった。
小屋で過ごす間は外している。町へ下りるときや、人に会うかもしれない場所へ出るときはつける。
それも、もう考えなくてもできるようになっていた。
扉へ鍵を掛け、一度引く。開かないことを確かめてから、エルナは山道を下り始めた。
*
町へ着く頃には、通りにも人が増えていた。
最初に来たときは、どこに何があるのか一つずつ覚えなければならなかった。今は違う。
塩を買うなら、この通り。
油なら、角を曲がった店。
薬草によっては、ギルドより町外れの店の方が少し高く買い取ってくれる。
それくらいはわかるようになった。
「まだいるのか」
声をかけられた。
道具屋の老人が、店先で木箱を動かしている。小屋を貸してくれた男だった。
「います」
「飽きんのか」
「何にですか」
「山に」
エルナは考えた。
「静かなので」
「そういう問題か?」
「たぶん」
老人が鼻で笑った。
「屋根、落ちてないか」
「まだ大丈夫です」
「まだって言うな」
「落ちそうになったら言います」
「その前に言え」
「はい」
老人は木箱を持ち上げた。
エルナはその横を通り過ぎる。
「またな」
「はい」
振り返らずに返す。
それでよかった。
*
ギルドへ入ると、掲示板の前には何人か冒険者がいた。
エルナも空いているところから依頼を見る。
採取。近くの村への配達。山道の確認。小さな商隊への同行。
四級になってから、受けられる仕事はずいぶん増えた。それでも、受けられるものを全部受ける必要はない。
今日は、昨日採った薬草を売るだけでもいい。
そう思いながら紙を見ていると、受付の方から声がした。
「エルナさん」
顔を向ける。
何度か話したことのある男が、手招きしていた。
「今日、山側へ行きます?」
「まだ決めてません」
「行くなら少し気をつけてください」
「何かあったんですか」
「このところ、獣を見たって報告が少し増えてるんです」
「魔獣?」
「そこまではっきりしないのも多いですね。普通の獣もいるみたいです。一件だけ、魔獣だったって話はありましたけど」
受付の男は帳面をめくった。
「山道の奥まで行く依頼は、今のところ出してません。近い範囲なら問題ないと思いますけど、一人なら無理はしないでください」
「はい」
「気になるものがあったら、報告だけお願いします」
「わかりました」
大きな騒ぎではないらしい。誰かが怪我をしたとも聞かない。
山で獣を見ること自体、珍しいことではなかった。
エルナは持ってきた薬草を売り、そのまま別の採取依頼を一つ受けた。
場所は、町と小屋の間から少し外れた斜面。何度か通ったことがある。
危険な場所ではない。
*
昼前には、町を出た。
街道から山道へ入り、途中で依頼の場所へ向かう。
日差しは強かった。木陰へ入ると少しだけ楽になる。
エルナは時々足を止めながら、地面を見る。
この辺りの植物も、住み始めた頃よりはわかるようになった。
ロザリーの森とは違う。生えている木も、土も、水の流れ方も。
それでも、何度か歩けば見えてくるものはある。
日陰。湿り気。周囲に生えている草。岩の位置。
目当ての薬草は、すぐに見つかった。
しゃがみ込み、葉を見る。状態は悪くない。
必要な分だけ採る。根は残す。一か所から取りすぎない。
手を動かしているうちに、遠くで鳥が鳴いた。
エルナは一度だけ顔を上げ、それからまた手元へ戻った。
*
依頼分を集め終えたあと、自分用に使う薬草もついでに見ておこうと、周囲を歩いた。
しばらく進んだところで、地面に跡があった。
エルナは足を止め、しゃがむ。
獣の足跡だった。
一つではない。大きさも違う。新しいものもあれば、少し崩れているものもある。
水を探して下りてきたのかもしれない。
山で餌が減ったのかもしれない。
それだけでは、何もわからない。
受付で聞いた話を思い出す。
最近、獣を見たという報告が少し増えている。
エルナは足跡へ触れず、そのまま立ち上がった。
少し先へ進む。
そこで、また足が止まった。
「……?」
何かが違う。
風ではない。
匂いでもない。
周囲を見る。
木。岩。草。
変わったものは何もない。
それでも、身体の表面にまとわりつくような感覚があった。
魔力。
たぶん、そうだ。
普段なら、そこにあることさえ意識しない。
けれど、この辺りのものは妙に気にかかる。
濃いというほどでもない。強いわけでもない。ただ、妙だった。
以前、乾いた川跡で感じたものを思い出す。
あのときほどではない。
けれど、似ているような気もする。
「……何なんだろう」
呟く。
答えはなかった。
獣の足跡と関係があるのかも、わからない。
エルナはそれ以上奥へは行かなかった。
今日は調べに来たわけではない。依頼の薬草はもう採った。自分用の分も、別の場所で探せる。
エルナは来た道を戻った。
*
町へ戻り、依頼を終える。
帰りに、パンと少量の野菜を買った。油はまだ残っている。塩もある。
余計なものは買わない。
日が傾く前に、山道へ戻った。
町の音が少しずつ遠くなる。
木々の間を歩き、斜面を上る。
やがて、枝の向こうに低い屋根が見えた。
継ぎ当てた屋根。
小さな窓。
歪みを直した扉。
エルナは歩く速度を変えなかった。
それでも、胸の奥が少しだけ緩んだ。
帰ってきた。
そんな言葉が、考えるより先に浮かんだ。
鍵を開ける。
扉を閉める。
荷物を置く。
腕輪を外す。
フードを下ろす。
白銀の髪が肩へ落ちた。
ここでは、隠さなくていい。
エルナは買ってきたものを棚へ置いた。
曲がった棚は、今日もそのままだった。
「……そのうち」
誰に言うでもなく呟く。
夕食を作る。
水差しを見る。明日の朝までは足りそうだった。
今日買った野菜を少しだけ使い、残りは包んで置いておく。
食べ終えたあとは、採ってきた薬草を並べた。
一つだけ、必要なものが足りなかった。
傷口を洗う薬にも使う草。
この辺りでは、少し上の斜面に生えている。以前見つけた場所がある。
小屋からなら、それほど遠くない。三十分ほど歩けば着くはずだった。
「明日、採ろう」
仕事ではない。
量も少しあればいい。
何度か通った場所だ。
今日見つけた獣の足跡とも、妙な感覚を覚えた場所とも、方向は違う。
エルナは薬草を片づけた。
*
翌朝。
町へ行く支度はしなかった。
小さな籠。布。水筒。ナイフ。
必要なものだけを持つ。
腕輪を手に取って、一度止まった。
人に会う予定はない。
けれど、山に誰もいないとは限らない。
結局、左手首へ通した。
髪も隠す。
外套は、暑くなれば脱げるよう軽く羽織った。
扉へ鍵を掛ける。
山道を見る。
足りなかった薬草を、少し採ってくるだけだった。
昼までには戻れる。
エルナはそう考えて、山道を上っていった。




