第39話 留まる場所
四級になってからも、エルナは旅を続けた。
護衛をすることもあれば、薬草を採ることもある。荷を運び、薬を売り、ときどき魔石を手放した。
魔獣に遭うことも、以前よりは増えた。それでも、討伐を好んで選ぶようにはならなかった。
戦わずに終えられるなら、その方がいい。必要なら動く。必要がなければ使わない。
それは、魔法でも同じだった。
町を移ることにも慣れた。水場を探すこと。宿の鍵を確かめること。食料の値段を見ること。人の多い道と、避けた方がいい道を見分けること。
長くいれば、顔を覚える人が増える。そうなれば、また次へ行った。
そんな暮らしを続け、十八歳になる頃には、冒険者登録をしてから六年近くが経っていた。
森を出たとき、身体をすっぽり覆っていたロザリーの外套は、もう普通に羽織れる大きさになっていた。
*
その町へ着いたのは、特に理由があったからではない。
街道から少し外れた、山裾の小さな町だった。
大きな市場はない。冒険者ギルドも、今まで見た中では小さい方だった。掲示板には、山で採れる薬草や木の実、獣の素材を扱う依頼が多い。
エルナはしばらく滞在するつもりで宿を取った。
翌朝、いつものようにギルドの掲示板を見る。
採取。荷運び。近くの村への配達。
その中に、一枚だけ少し変わった依頼があった。
「山小屋の確認?」
受付で聞く。
「昔、山仕事に使ってた小屋があるんです」
受付の男が答えた。
「何年も使ってなくて。持ち主が、まだ使える状態か見てきてほしいって」
「何を見るんですか」
「屋根と壁。扉が開くか。そこまでの道がまだ通れるか。無理に修理する必要はありません」
「危険は?」
「魔獣の目撃は最近ありません。ただ、山なんで獣はいます」
エルナはもう一度依頼票を見る。
小屋の近くには、薬草の採れる場所もあるらしい。
「これにします」
*
町を出て、山道を上った。
雪はない。
高い場所まで来ても、暑さは残っている。それでも木陰は多く、町の中より風が通った。
道は細いが、完全に消えてはいない。
途中、岩の間から水が流れ出ている場所を見つけた。
エルナは足を止める。
手を入れる。
冷たい。
量は多くない。細い流れが絶えず岩を濡らしているだけだ。
しばらく見て、水の出方を確かめる。
「……一人なら」
暮らせる。
何人も住むには少ない。畑を広く作るほどの水もない。それでも、飲み水と簡単な生活に使う分なら足りそうだった。
依頼票に記された小屋の位置から見ても、遠くはなさそうだ。
エルナは場所を覚えて、先へ進んだ。
*
小屋は、山道から少し外れた場所にあった。
木々の間に、低い屋根が見える。
近づく。
小さい。
一人で暮らすなら十分だが、何人も住める広さではない。
屋根の端が一部落ちている。扉は歪み、押しただけでは開かなかった。
エルナは肩を当てて、少しずつ動かす。
軋んだ音がした。
中は暗かった。
埃。
古い木の匂い。
壁際には棚があり、奥には簡単な寝台が残っている。窓の留め具は壊れていた。扉の錠も、錆びついて使えそうにない。
天井にも、小さな隙間がある。
エルナは中を一周した。
柱を見る。
壁を押す。
床も確かめる。
雨が入った跡はあるが、全部が腐っているわけではない。
「……直せる」
思わず口にした。
それから、自分の言葉に驚いた。
*
小屋の周囲も見て回った。
人家は見えない。
町までは歩いて一時間弱ほど。荷物が多くなければ、半日あれば十分往復できる。
近すぎない。
遠すぎない。
さっきの水場までは、斜面を十分ほど下ればいい。
水を汲んで戻るには少し面倒だろう。
山の斜面には、見覚えのある薬草も生えていた。
ただ、楽な場所でもない。
雨が降れば山道はぬかるむだろう。水を汲むにも斜面を上り下りしなければならない。重い荷物を持って町と往復する日は、きっと面倒だ。
それでも、条件は悪くなかった。
エルナは小屋の前に立った。
風が通る。
葉が揺れる。
遠くで鳥が鳴く。
人の声はしない。
静かだった。
ロザリーの家より、ずっと町が近い。
必要なら人に会える。仕事もできる。
町では、今まで通り腕輪をつけ、髪を隠せばいい。
長く暮らせば、顔を覚える人は増えるだろう。腕輪が絶対ではないことも、もう知っている。
それでも、仕事や買い物のために町へ下りることと、何日も同じ人と行動することは違う。
誰かが自分へ強く目を向けるようになったら、そのときまた考えればいい。
ここまで戻れば、腕輪もフードも外せる。
人と関わる時間と、隠さなくていい時間を、自分で分けられる。
エルナはしばらく、その場に立っていた。
*
町へ戻り、依頼の報告をした。
小屋の持ち主は、町の外れで道具屋をしている老人だった。
「まだ立ってたか」
「立ってます」
「屋根、落ちてなかったか?」
「端だけです。壁と柱は大丈夫だと思います」
「そうか」
老人は少し安心したようだった。
「昔は兄貴と山仕事に使ってたんだがな。もう誰も行かなくなって」
エルナは少し迷った。
「あの小屋」
「うん?」
「借りられますか」
老人が瞬きをした。
「住むのか?」
「直せば」
「……あそこを?」
「はい」
老人はしばらくエルナを見たあと、笑った。
「変わった娘だな」
「よく言われます」
「誰に」
「今のは適当に言いました」
「なんだそれ」
老人は肩を揺らした。
エルナは、もう一つ確認しておきたかったことを思い出す。
「近くの水場なんですけど」
「岩場の湧き水か?」
「はい。一年中、出ていますか」
「昔よりは細くなったがな」
老人は少し考えてから続けた。
「俺が知る限り、完全に枯れたことはない」
「そうですか」
それなら、生活用の水として当てにできそうだった。
エルナは小さく頷いた。
話は、思ったより簡単にまとまった。
最初の数か月は家賃を取らない。その代わり、自分で直せるところは自分で直す。大きな修繕が必要になったら、勝手に壊さず相談する。
それ以降も、町中の部屋を借りるよりずっと安かった。
「本当にいいんですか」
「放っといて朽ちるよりいい。住んでもらった方が家も傷まん」
「そうなんですね」
「ただし、熊でも住みついてたら自分で追い出せよ」
「それは相談します」
「冒険者なんだろ」
「熊を追い出せるとは限りません」
老人がまた笑った。
*
修理には、思っていたより時間がかかった。
町で板を買う。
釘を買う。
窓の留め具と、新しい錠と、油と、布も買う。
屋根に使う大きな板だけは、荷車で近くまで運んでもらった。
あとは、自分でやった。
屋根の穴を塞ぐ。
扉の歪みを直す。
新しい錠をつける。
窓の留め具を交換する。
床を掃く。
壁を拭く。
古い寝台は一度分解し、使える部分を残して、傷んだ板を取り替えながら組み直した。
魔法は使わなかった。
手でできることだった。
慣れていない作業は、町の職人に聞いた。教えてもらった通りにやって、それでも一度失敗して、やり直した。
一週間あまりかけて、小屋の中はようやく生活できる形になった。
最後に、余った板で小さな棚を作った。
薬や食料を置くためのものだ。
壁際へ置く。
一歩下がって見る。
「……曲がった」
右側が少し低い。
押してみる。
ぐらつきはしない。
物も落ちなさそうだった。
エルナはしばらく眺めた。
「そのうち、もう少しまっすぐ直そう」
そう言って、棚の上に薬草の包みを置いた。
*
最初の夜。
食事は簡単なものだった。
硬いパン。
干した肉。
少し煮た野菜。
食べ終えて、器を洗う。
新しくつけた錠で扉に鍵を掛ける。
窓も閉める。
それから、フードを外した。
腕輪も外す。
白銀の髪が肩へ落ちる。
部屋には、誰もいない。
見られる心配もない。
宿でも個室なら同じだった。
けれど、少し違う。
明日の朝、鍵を返す必要がない。
何時までに部屋を空ける必要もない。
隣の部屋の音もしない。
エルナは寝台の端に座った。
静かだった。
それが、嫌ではなかった。
*
眠る前、いつものように荷物を確認した。
薬。
食料。
水。
冒険者証。
金。
外套。
朝になればすぐ持てるように、旅袋へ戻していく。
半分ほど入れたところで、手が止まった。
エルナは旅袋を見る。
明日は、出発しない。
明後日も、出る必要はない。
仕事があれば町へ行く。
必要なら、何日か旅に出てもいい。
でも、戻ってくればいい。
エルナは旅袋から薬の包みを取り出した。
曲がった棚へ置く。
食料も戻す。
外套は扉のそばではなく、壁の掛け具へ。
最後に、旅袋そのものを部屋の隅へ置いた。
それから寝台へ入った。
*
翌朝。
目が覚める。
しばらく天井を見た。
知らない宿の天井ではない。
昨日、自分で埃を拭いた板だった。
エルナは起き上がり、窓を開けた。
朝の風が入る。
冷たいわけではない。
今日も暑くなるだろう。
それでも、町より少しだけ空気が軽い。
外を見る。
人はいない。
エルナは腕輪をつけなかった。
フードも被らない。
そのまま外へ出た。
朝の光が、白銀の髪に触れる。
少し歩く。
小屋を見る。
継ぎ当てた屋根の端。
直した扉。
小さな窓。
立派ではない。
それでも、昨日までより馴染んで見えた。
エルナはしばらく外にいたあと、小屋へ戻った。
朝食を作る。
水を汲みに行く。
それから町へ仕事を見に行ってもいい。
急ぐ必要はなかった。
部屋の隅に置いた旅袋へ、手を伸ばすことはなかった。
エルナは、その朝、荷物をまとめなかった。
第3章、ここまでありがとうございました!
森の外での暮らしにも、少しずつ慣れてきたエルナ。
次章では、そんな日々にちょっとした変化がやってきます。
第4章もお楽しみに!




