第38話 留まるもの
五級になってから、ずいぶん経った。
依頼を受けた数なら、もう少なくはない。採取。配達。街道の確認。商隊への同行。十五歳を過ぎてからは、主護衛のいる仕事にも何度か加わった。
この町に来てからも、同じ支部でいくつもの依頼を終えている。
それでも、冒険者証に記された数字は五のままだった。
「この支部での仕事の数なら、もう十分なんですけどね」
ある日、受付の女がそう言った。
エルナは返された冒険者証を見る。
「何が足りないんですか」
「危険が起きたときの記録です」
女は帳簿を閉じた。
「五級までは、頼まれた仕事をきちんと終えられるかが大きいです。でも四級になると、危険のある仕事でも一人分の役割を任されることが増えますから」
「魔獣を倒さないと駄目ですか」
「討伐だけを見るわけじゃありませんよ」
女は首を振る。
「護衛なら、守るべき人や荷を守れたか。危険が起きたときに、自分の役割を果たせたか。無茶をして、依頼そのものを失敗させなかったか。そういうところも見ます」
「そうなんですね」
「エルナさんは、その記録が少ないんです。主護衛付きの仕事はちゃんと終えてますけど、自分で危険に対応した実績はほとんどないでしょう?」
「ないです」
「なら、そのうちですね」
急かす様子もない。
エルナも、早く四級になりたいとは思わなかった。
必要な仕事をしていれば、そのうち上がる。
それでいい。
*
数日後、エルナは小さな商隊の護衛に加わった。
荷馬車は一台。
積まれているのは干した豆と布、それから小さな木箱に入った道具類だった。行き先は半日ほど離れた町で、途中に大きな森もない。
主護衛は四級の男が一人。もう一人、槍を使う五級の女がいる。
エルナは三人目だった。
「何か出ても、一人で追うなよ」
出発前、主護衛の男に言われた。
「はい」
「荷車から離れすぎない。道の左右も見ておけ。怪しいと思ったら、わからなくても言え」
「わからなくても?」
「黙って通り過ぎるよりいい」
男は荷台の綱を確かめながら言った。
「違ったら違ったで終わりだ」
「わかりました」
それから、町を出た。
*
道の前半は、何もなかった。
低い草地が続き、ときどき畑が見える。
暑さは相変わらずだった。
日が高くなるにつれて、道の上で空気が揺れる。
昼前には、かつて川だったらしい場所へ差しかかった。
両側が少し低くなっていて、丸い石がいくつも転がっている。けれど、水はほとんどない。
細い流れが、片側にわずかに残っているだけだった。
エルナは歩きながら、ふと足を緩めた。
「どうした?」
主護衛の男が振り返る。
「……少し、変です」
「何が?」
聞かれて、エルナは困った。
辺りを見る。
風は弱い。獣の匂いもしない。道に新しい足跡があるわけでもない。
それでも、何かが違う。
周囲にある魔力を感じること自体は、昔からあった。森にいた頃も、町でも、旅の途中でも。
普段は、そこにあることを意識しないくらい自然なものだった。
けれど、この辺りのそれは妙だった。
濃い、というのとも少し違う。
肌にまとわりつくような、落ち着かない感じがする。
「……うまく言えません」
男は少し待った。
「獣?」
「たぶん、違います」
「人?」
「それも、わかりません」
「そうか」
男は道の向こうを見る。
「じゃあ、少し警戒して進む」
笑われなかった。
理由を説明できないことも、責められなかった。
エルナはもう一度、乾いた川床を見た。
何が変なのかは、やはりわからなかった。
*
川跡を抜けかけたところで、先頭を歩いていた男が手を上げた。
荷馬車が止まる。
槍を持った女が構えた。
今度は、エルナにもわかった。
草の奥で何かが動いている。
一頭。
少し離れて、もう一頭。
犬より大きい。身体は低く、前脚が太い。首から背中にかけて、ごつごつした硬そうな皮膚が盛り上がっている。
「魔獣だ」
男が剣を抜いた。
「二人とも、荷車から離れるな。こっちで止める」
御者が馬の手綱を強く握る。
エルナは荷車の横へ移動した。
一頭目が飛び出す。
男が正面で受ける。
もう一頭へ、槍の女が回った。
金属が硬いものに当たる音がした。
魔獣が身を捻る。
槍先が滑った。
「硬い!」
「首の下狙え!」
男の声が飛ぶ。
その直後、男の剣が一頭目の首元へ入った。
魔獣が大きくよろめき、そのまま地面へ崩れる。
エルナは短剣へ手をかけながら、周囲を見る。
一頭は倒れた。
もう一頭は槍の女が抑えている。
なら、自分は荷車を見る。
そう決めた直後だった。
槍の女と向き合っていた魔獣が、大きく横へ跳んだ。
女の槍が空を切る。
魔獣はそのまま、荷車へ向きを変えた。
「抜けた!」
距離が近い。
御者が息を呑む。
馬が大きく身を振った。
エルナなら、横へ避けられる。
けれど、御者は荷台と馬の間にいる。
逃げる場所がない。
エルナは短剣から手を離した。
魔獣そのものから熱を奪うことは、まだしなかった。
どこまでなら止まるのか。
どこからなら死ぬのか。
知らない。
なら、別のものを使う。
川跡の端。
細い流れの近くに、まだ湿った土が残っている。
魔獣の進む先だった。
エルナはそこへ意識を向けた。
湿った土から熱を抜く。
奪った熱は、頭上の空気へ薄く広く逃がす。
ほんの一瞬。
魔獣の前脚が地面を踏む。
爪の下で、湿った土の表面の水分が一瞬だけ固まる。
前脚が滑った。
身体が傾く。
その一瞬で十分だった。
「下がって」
エルナは御者の腕を引いた。
二人で荷車の陰へ回る。
次の瞬間、槍が魔獣の脇腹へ入った。
それでも止まらない。
一頭目を仕留めた主護衛の男が駆け戻り、剣を振る。
魔獣が地面へ倒れた。
*
「怪我は?」
主護衛の男が最初に聞いた。
「ないです」
「そっちは」
御者も何度か頷いた。
「大丈夫だ」
馬も興奮しているだけで、傷はない。
男はそれを確認してから、エルナを見る。
「よく引っ張ったな」
「後ろにいたので」
「だからって、自分まで噛まれたら駄目だぞ」
「はい」
「逃げられないと思ったら、荷を捨ててもいい。人を先に動かせ」
「わかりました」
叱られているわけではない。
次に同じことが起きたときの話をされている。
槍の女が倒れた魔獣のそばから戻ってきた。
「でも助かったよ。あのままなら御者に行ってた」
「……はい」
エルナは倒れた魔獣の足元を見る。
さっき一瞬だけ硬くなった土は、もう湿った色へ戻り始めていた。
見ただけでは、そこに何が起きたのかわからない。
主護衛の男も、槍の女も気にしていなかった。
「周り見てくる。もう一頭いないか確認するぞ」
男の声で、エルナは顔を上げた。
魔法を使った。
誰にも気づかれなかった。
必要なだけ。
それで済んだ。
*
倒した魔獣の素材は、最低限だけ回収した。
護衛が先。
以前教わったのと同じだった。
荷馬車は再び動き出した。
エルナは歩きながら、ときどき後ろを振り返った。
魔獣が出た場所は、もう見えない。
その少し前に感じた、妙な感覚を思い出す。
それから、さっきの魔獣の姿も。
どちらも、なぜか頭に残っていた。
けれど、今のエルナには、それ以上のことはわからなかった。
エルナは前を向いた。
*
依頼は無事に終わった。
荷はすべて届いた。
御者にも怪我はない。
翌日、エルナがギルドへ行くと、受付で呼び止められた。
「エルナさん」
「はい」
「少し待ってもらえますか」
昨日の護衛報告が開かれている。
受付の女は内容を確認したあと、この支部での依頼記録をまとめた帳簿も持ってきた。
「ここでの実績は、もう十分だったんです」
前にも聞いた言葉だった。
「昨日の主護衛から、危険時の対応について報告がありました。魔獣が護衛対象へ抜けた際、御者を退避させたこと。その後も勝手に追撃せず、指示された役割を続けたこと」
エルナは黙って聞く。
「これで、こちらとしても必要な確認が取れました」
受付の女が、古い冒険者証を受け取る。
「四級への昇級を認めます」
「……そうですか」
「もう少し嬉しそうにしてもいいんですよ」
「嬉しいです」
「前にも誰かに言われませんでした?」
「言われた気がします」
女が少し笑った。
新しい冒険者証が渡される。
名前。登録番号。ギルドの印。
そして、四級。
「一応言っておきますけど、四級になったからって、すべての護衛や討伐を一人で受けられるわけじゃありませんからね」
「はい」
「討伐経験を求められるものもありますし、人数や武器の条件がつく依頼もあります。依頼票は今まで通り、ちゃんと読んでください」
「わかってます」
「なら大丈夫です」
エルナは冒険者証をしまった。
「私、魔獣は倒してないですけど」
受付の女が一度瞬く。
「それが何か?」
「四級でいいのかなと思って」
「護衛の仕事だったんでしょう?」
「はい」
「守ったじゃないですか」
あっさりと言われた。
「倒すだけが仕事じゃありませんよ」
エルナは少し黙った。
前にも、似たようなことを聞いた。
魔獣を何匹倒しても、荷を壊されたら失敗。
昨日の依頼では、魔獣を倒したのは別の人だった。
それでも、荷も、人も、無事に着いた。
「……そうですね」
新しい冒険者証が入った袋を、軽く押さえた。
*
その夜、宿の部屋へ戻ってから、エルナは荷物を片づけていた。
薬草の包み。財布。冒険者証。
四級。
刻まれた文字をもう一度見てから、元の場所へしまう。
それから、荷物の奥に入れていた小さな薬瓶を取り出した。
熱に弱い薬だった。
日が落ちても、部屋には昼間の暑さが残っている。このまま一晩置くよりは、少し温度を下げておいた方がいい。
エルナは机の上に浅い器を置き、水を注いだ。
指先を触れる。
ほんの少しだけ、水から熱を抜く。
奪った熱は、部屋の上の方へ薄く散らした。
水が冷える。
冷たくしすぎる必要はない。薬が傷みにくい程度まで温度を下げたところで、すぐに魔法を止めた。
エルナは薬瓶を水の中へ立てた。
これなら朝までは大丈夫だろう。
*
眠る前。
何となく、薬瓶の入った器の水へ指を入れる。
「……?」
エルナは手を止めた。
冷たい。
魔法を使ってから、もうかなり時間が経っている。
部屋はまだ暑い。いつもなら、もっと早く周囲の温度へ戻るはずだった。
もちろん、冷やしたときのままではない。
少しずつ温くなっている。
ただ、その戻り方が遅い。
エルナは器を見た。
もう一度、水へ触れる。
「……気のせいかな」
答える人はいない。
魔法を使ったときも、いつもと違うことをした覚えはなかった。
エルナはしばらく水を見ていたが、やがて手を離した。
明日になれば、きっと温くなっている。
そう思って、灯りを消す。
机の上の水だけが、ゆっくりと温さを取り戻していた。




