第35話 一杯の水
初めて魔石を売ったのは、あの町を出てからしばらく経った頃だった。
旅先で立ち寄った小さな町の、魔道具屋だった。
エルナが差し出したのは、一つだけ。特性のない、ごく普通の魔石だ。力も十分に入っている。
この石に込めたものが、ただの魔力だけではないことを、エルナは忘れていなかった。
だから、必要なときにしか売らない。
そう決めていた。
店主は石を受け取り、手の中で何度か転がした。
「ずいぶん残ってるな。どこで手に入れた?」
やはり聞かれた。
エルナは、考えていた通りに答えた。
「知り合いの魔女に頼まれました」
「魔女?」
「人の多いところが苦手なので。代わりに売ってきてほしいって」
店主はエルナと魔石を見比べた。
「本人は来ないのか」
「来ません」
「そうか」
それだけだった。
石の大きさと残っている力を確かめ、金額を告げる。エルナが頷くと、店主は硬貨を払った。
思っていたより、簡単だった。
別の町でも、一つ売った。そこでは何も聞かれなかった。
さらに別の町では、魔女がどこにいるのかを何度も尋ねられた。
「どの辺りに住んでる?」
「言えません」
「町の近くか?」
「言えません」
「別に何もしねえよ。商売の話をしたいだけだ」
「本人が嫌がるので」
それでも男は食い下がった。
エルナは二度とその店へ行かなかった。
そうやって、少しずつ覚えた。
うまくいく方法が、どこでも同じようにうまくいくわけではない。
魔石は、必要なときに少しだけ売った。ギルドの依頼を受け、薬草を採り、簡単な薬を作る。町によっては、森で拾った素材を売ることもあった。
一つの町にしばらくいることもあれば、数日で出ることもある。
そうして道を歩き、知らない町で眠り、また次の道を選ぶうちに、二年近くが過ぎた。
*
十四になった頃には、ロザリーの外套も以前ほど大きくなくなっていた。
まだ袖は少し余る。けれど、何度も折り返さなくても手が出る。
背負う荷物も増えた。それでも、森を出た頃ほど重いとは思わなくなった。
新しい町へ着けば、まず宿を探す。次にギルド。水を汲める場所と、食べ物の値段も見る。
どこへ行っても同じもの。場所によって違うもの。
少しずつ、それもわかるようになった。
その日、エルナが着いた町は、これまで立ち寄った中でも大きい方だった。
高い城壁の内側に建物が密集し、大通りには荷車が何台も並んでいる。商店の軒先には布や金物、香辛料、果物まで積まれていた。
遠くの土地から来たらしい商人も多い。
街道がいくつも交わる、交易の町だった。
豊かな町なのだろう。
そう思ったのは、門をくぐってすぐだった。
歩いているうちに、その考えが間違いではないけれど、全部でもないことに気づいた。
井戸の前に長い列ができていた。
*
桶を持った人たちが、道沿いに並んでいる。
老人。子ども。仕事着のままの男。大きな瓶を抱えた女。
井戸の脇には役人らしい男が立ち、一人ずつ汲む量を見ていた。
エルナは列を横目に、宿を探した。
見つけた宿では、部屋代を払うときに女主人から言われた。
「水差しは一日一つ。追加するなら別料金だよ」
「一つ?」
「顔洗って、飲んで、それで足りるように使いな」
「井戸の水も?」
「並べばもらえる。ただし、一人分は決まってる」
女主人は帳面へ何か書き込みながら続けた。
「この辺は何年も雨が少ないんだよ。近くの井戸もずいぶん浅くなった。商売の町だから、食べ物も品物も外から入ってくるけど、水は重いからね。運ぶにも金がかかる」
「だから高いんですか」
「そういうこと」
エルナは頷いた。
部屋へ上がり、水差しを置く。
中を覗くと、澄んだ水が入っていた。
森にいた頃なら、必要になれば川へ行った。泉もあった。ロザリーは水場の位置をよく知っていたし、森そのものが水を蓄えていた。
その水が、ここでは一日分として量られている。
*
翌朝、エルナは町を歩いた。
店は多かった。パン屋には何種類ものパンが並び、布屋には色鮮やかな布が積まれている。果物も、干した魚も、見たことのない香辛料もあった。
けれど、水を売る店だけは値札が目についた。
桶一杯。瓶一本。宿へ運ぶなら、さらにいくら。
金があれば買い足せる。なければ、配られる分で暮らすしかない。
大きな町だから、何でもあるわけではなかった。
しばらく歩くと、広場の端に人が集まっているのが見えた。
白い壁の大きな建物。
教会だった。
その前に、いくつもの桶が並んでいる。
教会の人たちが、水を配っていた。
*
エルナは少し離れた場所で立ち止まった。
列は井戸より短かった。並んでいるのは、子どもや老人が多い。小さな木札のようなものを見せ、水を受け取る人もいた。
若い女性が一人、大きな柄杓で水を汲んでいる。薄い色の衣服を着て、髪をきちんとまとめていた。
忙しそうではあるが、苛立った様子はない。
「次の方」
老人の桶へ水を入れる。
「今日は暑くなりますから、少しずつ飲んでくださいね」
次は子どもだった。
「お母さんの分も?」
「うん」
「じゃあ、こぼさないようにね」
その子が両手で瓶を抱えて去っていく。
エルナはそれを見ていた。
「あなたも?」
声をかけられた。
さっきの女性が、こちらを見ている。
エルナは首を横に振った。
「お金はあります」
女性は目を瞬いた。
「そうじゃなくて。喉、渇いてない?」
「……少し」
「なら飲んでいきなさい」
木の杯に水を汲み、差し出された。
エルナは受け取った。
「もらっていいんですか」
「一杯くらいなら」
「ありがとうございます」
水はぬるかった。
それでも、歩いたあとの身体にはおいしかった。
「旅の途中?」
「はい」
「一人?」
「はい」
女性は何か言いかけたが、結局それ以上は聞かなかった。
「暑いから、ちゃんと飲まないと駄目よ」
「はい」
杯を返す。
女性は笑って受け取り、そのまま次の人へ向き直った。
エルナも歩き出そうとした。
そのとき、列の近くにいた子どもの声が聞こえた。
「ねえ、魔女なら水出せるの?」
エルナの足が止まった。
*
声を上げたのは、さっきとは別の子だった。
母親らしい女が慌てて腕を引く。
「そんなこと言うんじゃないの」
「だって、魔女って何でもできるんでしょ?」
「何でもなんてできないわ」
答えたのは、水を配っていた女性だった。
子どもが首を傾げる。
「じゃあ、水を出せる魔女もいる?」
「魔女によって、使う力は違うと聞いているわ。だから、そういう力を持つ魔女がいるのかもしれないわね」
「じゃあ、いたら呼べばいいのに」
子どもは言った。
「水いっぱい出してもらえばいいじゃん」
周りの大人が何人か振り返った。
女性は困ったような顔をした。
「魔女を頼ってはいけません」
「どうして?」
「教会では、そう教えられているからよ」
「でも、水ないよ?」
「そうね」
女性は怒らなかった。
「だから、私たちにできることをするの。こうして水を分けたりね」
列の後ろで、誰かが小さく言った。
「本当に水出せる魔女がいるなら、俺は頼みたいけどな」
別の男がすぐに、
「やめとけよ」
と返す。
「何が起きるかわかったもんじゃない」
「干上がるよりましだろ」
「そんな話、大声でするなって」
誰かが笑い、別の誰かが眉をひそめた。
大きな言い争いにはならなかった。
それぞれが、それぞれの顔をしていた。
エルナは黙って聞いていた。
水そのものを、何もないところから生み出すことはできない。
空気に含まれる水分を冷やし、水滴や雪として集めることはできる。それでも、そこにある以上の水を増やせるわけではない。
魔女なら、何でもできる。
そう思っている人もいる。
魔女には頼るべきではない。
そう教えられている人もいる。
そして、さっき水をくれた女性も、その一人だった。
*
女性はまた、列の人へ水を渡していた。
「はい。次の方」
老人の桶を支える。
小さな子が持つ瓶には、倒れないよう布を巻いてやっている。
さっきと何も変わらない。
エルナは少し離れた場所から、その姿を見ていた。
自分が魔女だと知ったら、あの人はどうするのだろう。
水をくれるだろうか。
それとも、近づくなと言うのだろうか。
わからなかった。
確かめるつもりもなかった。
あの人は、エルナに水をくれた。
そして、魔女を頼るべきではないと思っている。
その二つは、あの人の中では矛盾していないらしい。
エルナは、ゆっくり歩き出した。
*
その町には、しばらく滞在した。
ギルドで配達を受けた。薬草も売った。水は、毎日量を考えながら使った。
宿でもらった水で顔を洗うときも、最初からたくさん使わない。飲む分を先に取り分け、残りをどう使うか考える。
町の人たちは、それを当たり前にやっていた。
けれど、同じ水の少ない町に暮らしていても、困り方まで同じではなかった。
金のある人は、足りなければ買える。
そうでない人は、井戸や教会の列に並ぶ。
同じ一杯でも、持つ重さは人によって違うらしい。
*
数日後、エルナはギルドの掲示板の前に立っていた。
町の外へ出る依頼がいくつか貼られている。
荷物の配達。街道沿いの村までの届け物。安全が確認された道の、簡単な見回り。
十五歳になるまでは、まだ受けられない仕事も多い。
それでも、進める道はあった。
エルナは、そのうち一枚を外した。
この町が嫌いなわけではなかった。
ただ、まだ留まろうとは思わなかった。
宿へ戻り、荷物をまとめる。
外套を羽織る。
袖から出た自分の手を見て、少しだけ目を止めた。
昔は、もっとずっと大きかった。
エルナは留め具を閉じた。
翌朝、町の門を出る。
振り返らなかった。
前には、また知らない道が伸びていた。
エルナは、その道を歩き出した。




