第33話 暮らしていく
この町へ来てから、数か月が過ぎた。
朝、目を覚ますと、エルナはまず扉の鍵を確かめる。次に窓。それから、枕元に置いた荷物。最初の頃は意識してやっていたことも、今ではもう習慣になっていた。
屋根裏の小さな部屋にも、少しずつ物が増えている。壁際には乾燥させた薬草を入れた袋。棚には、小さな瓶と包み。隅には、浅い籠。
初めて薬草採取の依頼を受けたあとに買ったものだ。布袋へ詰め込んで葉を潰した失敗を、もう繰り返さなくて済む。
宿代も、今では一週間ごとにまとめて払っている。何度か一泊ずつ支払っていた頃、毎日じゃ面倒だろうと女将に言われたのが始まりだった。
この町に来たばかりの頃より、財布の中身が減る速さもわかるようになった。どれくらい働けば、一週間暮らせるのか。何を買えば、あとで困るのか。少しずつ、考えなくてもわかることが増えていた。
*
その日の朝、ギルドの掲示板には、ちょうどいい依頼がなかった。
採取は、もう誰かに取られている。町中の配達もない。残っているのは、制限付きでは受けられないものか、往復に時間がかかる割に報酬の少ないものだった。
エルナはしばらく掲示板を見てから、離れた。
前なら、少し困ったかもしれない。仕事がない。今日の収入がない。それだけで、財布の中身を思い浮かべていた。
でも今は違う。
ギルドに仕事がないなら、別のことをすればいい。
エルナはそのまま薬草屋へ向かった。
店へ入ると、奥で薬草を束ねていた男が顔を上げた。
「今日は何だ」
「買うものがあるか聞きに来ました」
「仕事ないのか」
「取られました」
「遅いんだよ」
「まだ朝です」
「もっと早い奴がいるんだよ」
男はそう言いながら、手元の薬草を紐で括った。
この店へ来ることにも、もう慣れた。採った薬草をそのまま持ち込む日もある。逆に、足りないものを買うこともある。
日常的に使う簡単な軟膏や煎じ薬なら、薬師でなくても売れることを、この数か月で知った。薬師を名乗ったり、患者を診たり、扱いの難しい薬を売ったりするのは別の話だ。知らない薬を適当に作って売れば、信用を失う。そういうことも、この店の男から聞いた。
「そうだ」
男が手を止める。
「前に持ってきた軟膏、また作れるか」
エルナは瞬きをした。
「前の分、もうないんですか」
「売れた」
「全部?」
「全部」
少し驚いた。
以前、手持ちの材料で作れるものを少量だけ持ち込んだことがある。ロザリーから教わった、ごく簡単な切り傷用の軟膏だった。
珍しいものでもない。特別よく効くわけでもない。薬草の扱いを間違えなければ、家庭でも作れるようなものだ。
「作れます」
「じゃあ、同じくらい頼む」
「材料が足りません」
「何がない」
「油と、入れるもの」
「そこにある」
男が棚を顎で示す。小さな瓶と、薬に使える油が並んでいる。
エルナは値段を見る。必要な量を考えた。
「これを買って、作ったものをここに売るんですか」
「そうなるな」
「変な感じです」
「嫌なら別の店で買え」
「そういう意味じゃないです」
エルナは油を手に取った。
薬草は自分で持っている。油。容器。火を使うための燃料。そこまで頭の中で足してから、出来上がった軟膏をいくらで売ればいいか考える。
「これくらいなら」
金額を言う。
男が眉を寄せた。
「安い」
「材料代は出ます」
「材料だけで作れるのか」
エルナは黙った。
「薬草を採る時間は」
「……かかります」
「刻む時間は」
「かかります」
「火にかけて、混ぜて、冷ますのは」
「時間がいります」
「なら、それも値段に入れろ。安く売るのは勝手だ。でも、何にどれだけかかってるか知らずに安くするのと、わかった上で安くするのは別だ」
エルナは考える。
「じゃあ」
もう一度、金額を言う。
今度は、男が頷いた。
「そのくらいだな」
「高くないですか」
「さっきよりはましだ」
「高いかどうか聞いたんですけど」
「売れるかどうかは、作ってから考えろ」
「……はい」
油と容器の代金を払う。
店を出てからも、エルナはさっきの言葉を考えていた。
自分の時間。今まで、それに値段をつけたことはなかった。
*
宿へ戻り、女将に断って台所の隅を借りた。
持っていた薬草を広げる。傷んでいるものがないか確認し、必要な分だけ刻む。油を温める。火が強くなりすぎないように見ながら、薬草を加える。
待つ。混ぜる。また待つ。
やっていること自体は、何度も見て、何度も手伝ったものだった。難しくはない。
けれど。
薬草を採った時間。乾かした時間。今こうして火の前に立っている時間。
たしかに、全部使っている。
材料だけが薬になるわけではない。
出来上がった軟膏を小さな容器へ分け、冷めるのを待った。
その日の午後、もう一度薬草屋へ持っていく。
男は一つ開けて、中身を見る。匂いを確かめる。
「前と同じだな」
「同じように作りました」
「なら、これで」
硬貨を渡される。
エルナは受け取った。
油と容器を買った分を差し引く。薬草をそのまま売るよりは、多く残った。
けれど、残る金額だけを見ればいいわけではない。
作る時間が必要だった。火も使った。容器もいる。
薬草のまま売るのとは違う。
「またなくなったら言う」
男が言った。
「売れたら?」
「売れたら」
「売れなかったら?」
「頼まない」
「わかりました」
エルナは店を出た。
わかりやすくてよかった。
暮らすための金を手に入れる方法は、一つではなかった。
ギルドの依頼を受ける。薬草を採って売る。簡単な薬にして売る。
ほかにも、まだあるのかもしれない。
荷物の中には、淡い灰色の魔石もある。エルナが自分で作ったものだ。
あれを売れば、薬草を何度も採るより多くの金になるかもしれない。
それでも、まだ売らなかった。
魔石を持っていること自体は、おかしくない。けれど、十二歳の旅の子どもが、力の十分残った魔石を何度も持ち込めば、いずれ誰かが考える。どこから手に入れているのか、と。
知られる必要のないことは、知られない方がいい。
今は、ほかに方法がある。なら、それでよかった。
*
夕方、宿へ戻る。
「おかえり」
帳場の女将が言った。
「ただいま」
もう、考えなくても返せる。
階段へ向かおうとしたところで、女将に呼び止められた。
「そうだ。あんた、ここに来て結構経つね」
エルナは振り返る。
「そうですか?」
「そうだよ。毎週金もらってるこっちが言うんだから間違いない」
たしかに、何度も宿代を払った。
「月で払うなら、もう少し安くできるよ」
「一か月分?」
「そう。一週間ずつよりはね」
エルナは考えた。
一か月。
今までより安くなる。その方が得だ。
けれど。
「やめておきます」
「そうかい」
「一か月後も、ここにいるかわからないので」
「なら週でいいよ」
女将はあっさり言った。
引き止めもしない。理由も聞かない。
エルナは階段へ向き直る。それから、なぜか足を止めた。
「ここ、嫌いじゃないです」
自分でも、どうして言ったのかわからなかった。
女将が少しだけ目を丸くする。
「ならよかった」
それだけだった。
「……ありがとうございます」
「礼はいいから、早く休みな」
「はい」
エルナは今度こそ屋根裏へ上がった。
*
次の日の朝。
エルナはいつものようにギルドへ行った。
掲示板を見る。
採取。町中の届け物。簡単な荷運び。
その中に、一枚だけ、少し違う依頼があった。
街道沿いにある、隣の町までの配達。
危険な道ではない。制限付きでも受けられる。報酬も悪くない。
エルナは依頼票の前で立ち止まった。
この町で暮らす方法は、少しわかってきた。
なら。
ほかの場所では、どうなのだろう。
壁に貼られた地図を見る。
今いる町。その隣の町。さらに、その先。
道は一本で終わっていない。
エルナはしばらく地図を見ていた。
この町の外にも、道は続いていた。




