第31話 冒険者証
翌朝、エルナは昨日と同じ道を歩いていた。
大通りを抜け、その先へ。昨日は少し離れたところから眺めただけだった建物が、今日はまっすぐ目の前にある。
冒険者ギルド。
入口の前を、いろいろな人が行き交っていた。腰に剣を下げた男。大きな袋を背負った女。籠を抱えた少年。泥のついた靴で、紙を読みながら歩いている老人。
戦う人だけが集まる場所ではない。
それは昨日見て、もうわかっている。
エルナはフードの位置を確かめた。白銀の髪は見えていない。左手首の腕輪にも、まだ力が残っている。
一度だけ息を吐く。
それから、中へ入った。
*
中は、思っていたより静かだった。
人は多い。けれど、酒を飲んで騒いでいるような者はいない。
壁際には大きな掲示板があり、何枚もの紙が貼られている。その前で立ち止まる人。紙を書き写す人。受付に並ぶ人。奥には、大きな袋や箱を持ち込んでいる人たちもいる。
仕事をする場所なのだ。
エルナは少し見回してから、受付へ向かった。
いくつか並んだ窓口の一つに、三十歳くらいの女が座っている。
「次の方」
呼ばれて、エルナは前へ出た。
女が顔を上げる。一瞬だけ視線が止まったが、すぐに受付台の方へ戻った。
「今日はどうしました?」
「……登録したいんですけど」
「冒険者登録?」
「はい」
女はエルナを見る。
「年齢を聞いても?」
「十二です」
「十二ね。それなら制限付き登録になります。十四歳までは、戦闘を前提とした依頼は受けられません。それでもいい?」
「はい」
「十五歳になれば年齢による制限は外れます。ただし、階級に合わない依頼はその後も受けられないから、そこは別ね」
エルナは頷いた。
「戦う仕事をしなくてもいいんですか」
「もちろん」
返事はあっさりしていた。
「採取、配達、荷運び、店の手伝い。戦わない仕事はいくらでもあるわ。そもそも冒険者だからって、全員が魔獣を狩るわけじゃないもの」
昨日、薬草屋の男が言っていたことと同じだった。
「登録すると、別の町でも使えますか」
「使えるわ。冒険者証はどの支部でも有効。受けられる仕事は、その土地とあなたの階級によるけど」
エルナは少しだけ考える。
「宿でも、身分を証明できますか」
女がエルナを見る。
「それが目的の一つ?」
「……少し」
「できるわよ」
受付の女は、机の下から一枚の用紙を出した。
「ただし、ギルドが保証するのは、あなたの出生じゃない。この名前で登録された本人が、確かにギルドに所属している。それだけ」
「それでいいです」
エルナはすぐに答えた。
女は少しだけ眉を上げ、それから頷く。
「じゃあ、登録しましょうか」
*
用紙には、いくつか記入する欄があった。
「名前」
「エルナ」
「姓は?」
「ありません」
女はそのまま書き込む。
「年齢、十二。これはギルド側の記録だけね。冒険者証には載らない」
「はい」
「出身地は?」
エルナは少し黙った。
「……書かないと駄目ですか」
「任意よ」
「じゃあ、書きません」
「わかった」
それだけだった。
どうして書かないのかとは聞かれない。どこから来たのかも、親はいるのかも。
それが少しだけ、ありがたかった。
受付の女は用紙へ記入を続ける。
「登録した時点では全員、六級から。これが一番下の階級ね」
「六級」
「依頼をきちんとこなしていけば、上がることもある。でも今は、そこまで気にしなくていいわ」
エルナは頷いた。
「それと、登録前に本人確認をするから、少しだけ顔を見せてもらえる?」
エルナの手が止まった。
「……フードを全部取らないと駄目ですか」
「いいえ。顔が確認できれば十分。髪まで見せる必要はないわ」
少し迷う。
受付の周囲を見る。
人はいる。
でも、誰も自分を見てはいない。
エルナはフードの縁を指でつまみ、白銀の髪がこぼれないよう気をつけながら、顔が見えるところまで少しだけ持ち上げた。
受付の女が見る。
ほんの数秒。
「はい、ありがとう。もういいわ」
エルナはすぐにフードを戻した。
髪は見えていない。
女も、それ以上こちらをじっと見ようとはしなかった。
腕輪が働いている。
それでも、エルナは息を吐いた。
「今見た特徴と、あなたが書いた名前、それから署名を登録記録に残すの。冒険者証を誰かが拾っても、それだけで本人にはなれないようにね」
「署名?」
「最後に自分の名前を書いてもらうわ」
なるほど。
それなら、少なくとも札を持っているだけでは足りない。
エルナは少し安心した。
「依頼を受けたあと無断で放り出したり、依頼人から物を盗んだり、素材を偽って持ち込んだりすれば記録が残る。内容によっては受注制限や資格停止」
「冒険者証にも?」
「処分中ならわかるようになる。宿屋や商人が冒険者証を信用するのは、そういう仕組みがあるからよ」
エルナは少し納得した。
冒険者だから、信用されるのではない。
誰が登録しているのかをギルドが記録している。問題を起こせば、その記録も残る。
だから、何もない人間なら最低限の信用になる。
「なくしたら?」
「再発行ね。登録記録は残ってるから手続きはできるけど、別の支部だと確認に時間がかかることもある。初回よりお金もかかるから、できればなくさないで」
「はい」
「登録料も少しかかるけど、大丈夫?」
金額を聞く。
高くはない。
でも、無料でもない。
エルナは考えた。
また、お金が減る。
それでも、宿を取るときに使える。仕事を探せる。薬草や素材を持ち込める。別の町でも同じように使える。
「払います」
外套の内側から、必要な分だけ硬貨を取り出した。
女は受け取り、数える。
「ちょうどね」
それから、用紙の下を指した。
「ここに名前を書ける?」
「書けます」
エルナはペンを受け取った。
少しだけ迷ってから、
エルナ。
そう書いた。
自分の名前。
ロザリーがくれた名前。
今ではもう、迷わず自分のものとして書ける。
*
しばらくして、受付の女が小さな札を持って戻ってきた。
「これが冒険者証」
エルナは両手で受け取った。
硬い板状の札だった。
表面には、いくつか文字が刻まれている。
登録名。
エルナ。
階級。
六級。
制限付き。
その下には登録番号と、ギルドの印。
年齢も、出身地も書かれていない。
「登録番号はあなた固有のもの。なくしても登録記録は残るから再発行はできるけど、さっき言った通り、支部によっては確認に時間がかかることもあるわ。それと、他人の冒険者証を使えば重い処分になるから」
「はい」
「十五歳になったら、年齢制限を外す手続きができる。そのときは支部に来て」
エルナは札を見つめた。
水瀬澪とは、書かれていない。
森の魔女の娘とも。
ロザリーのことも。
どこで生まれたのかも。
ただ一つ。
エルナ。
今の自分の名前だけが、そこにある。
「……これで、私だってわかる?」
気づけば、そう聞いていた。
受付の女が少し首を傾げる。
「ギルドに登録したエルナ本人だってことならね」
「そう」
エルナはもう一度、冒険者証を見る。
「それでいい」
「なら、大事に持ってて」
「はい」
冒険者証を外套の内側へしまう。
財布とは別の場所にした。
なくしたくなかった。
*
「今日から依頼も受けられるけど、見ていく?」
受付の女に言われ、エルナは掲示板へ向かった。
昨日は外からしか見えなかった紙を、今日は近くで読む。
たくさんある。
荷物の運搬。店の掃除。配達。家畜の餌運び。畑仕事の手伝い。薬草採取。
紙の端には印がついていて、制限付き登録者でも受けられるものがわかるようになっていた。
報酬を見る。
「……少ない」
小さく呟いた。
隣にいた受付の女が聞いていたらしい。
「子どもでもできる仕事だからね」
「これ、一つやったら宿に泊まれますか」
「安い共同部屋なら届くものもある。個室は厳しいかな」
やっぱり。
これだけで生活できるわけではない。
毎日、必ず仕事があるとも限らないだろう。
でも、何もないよりはいい。
エルナは紙を一枚ずつ見ていった。
その中で、目が止まる。
薬草採取。
指定されているものは知っていた。ロザリーと何度も採ったことがある。
採取場所も町の外れからそれほど遠くない。必要な量も多くない。
エルナは依頼票を外し、受付へ持っていった。
「これ」
女が見る。
「薬草採取ね」
「はい」
「場所はわかる?」
「この辺は知りません」
「なら説明するわ」
簡単な地図を出し、採取していい範囲を指す。
「この道から外れすぎないこと。奥へ入ると魔獣が出ることもあるから、制限付きの子はそこまで行っちゃ駄目」
「はい」
「指定はこの薬草。これくらいの量を十束分。根から全部抜かないで、次に生える分は残すこと」
エルナの指が、依頼票の上で少し止まった。
――今取ったら、来年減っちゃうでしょう。
森の中で聞いた声が、一瞬だけ蘇る。
「わかってます」
「採ったことあるの?」
「あります」
「なら大丈夫そうね。状態が悪いものは数に入らないから気をつけて」
「はい」
受付の女は依頼票へ印を押した。
「これで受注完了。日暮れまでに戻れば今日中に確認できるわ。無理なら明日でもいいけど、採った薬草は傷ませないようにね」
「わかりました」
エルナは依頼票を受け取った。
*
ギルドを出る。
朝より、少しだけ荷物が増えた。
外套の内側には冒険者証。
手には、一枚の依頼票。
エルナはもう一度、冒険者証を取り出した。
そこに刻まれた名前を見る。
エルナ。
森を出るまでは、ロザリーが呼んでくれる名前だった。
今は違う。
これから、この名前で宿に泊まる。この名前で仕事をする。知らない町へ行っても、知らない人に会っても。
自分は、エルナだ。
冒険者証をしまう。
次に、依頼票を見る。
薬草採取。
難しい仕事ではない。
危険な仕事でもない。
それでも、自分で選び、自分で受けた。
森の外での、初めての仕事だった。




