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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第3章 森の外で
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第30話 町の人たち


 目を覚ましたとき、エルナはしばらく天井を見ていた。


 近い。


 屋根の形に沿って傾いた天井。見慣れない木目。少し薄暗い、小さな部屋。


 森の家ではない。


 そう気づくまでに、ほんの少し時間がかかった。


 エルナは毛布の中で身体を起こした。昨夜より身体が重い。肩も痛い。昨日一日歩いたせいだろう。


 最初に扉を見る。鍵は掛かったまま。次に窓。変わりない。


 枕元へ置いた荷物にも手を伸ばす。中身はすべて揃っていた。


「……よかった」


 小さく呟いてから、エルナは荷物の中から財布を出した。


 硬貨を一枚ずつ数える。


 昨日より減っている。


 当たり前だった。


 宿代を払った。夕食も食べた。水も飲んだ。持ってきた食料だって、旅を続ければなくなる。


 森の家にいた頃は、必要なものがなくなりそうになれば、ロザリーが次に何を買うか考えていた。エルナも一緒に数えることはあったけれど、最後に決めるのはロザリーだった。


 今は違う。


 財布を閉じる。


 今日は食べ物の値段を見る。水も補充する。この先の道も知りたい。


 できれば、お金を増やす方法も考える。


 エルナは頭の中で一つずつ並べ、それから立ち上がった。


     *


 階下へ降りると、昨日の女が食堂の机を拭いていた。


 エルナを見ると、一度だけ顔を上げる。


「眠れた?」


「はい」


「床だったのに?」


「少し硬かったです」


「だろうね」


 女はそれだけ言って、また机を拭き始めた。


 エルナは少し迷ってから尋ねる。


「この辺で、旅に持っていける食べ物を買えるところはありますか」


「表の通りを右に行けば朝市が立ってるよ。昼前にはだいぶ店が減るから、行くなら今のうち」


「水は?」


「泊まった分なら、裏で汲んでいい。町で買うと高いよ」


「ありがとうございます」


 エルナは頭を下げ、外套を整えた。


 フードは髪が完全に隠れる位置まで下ろす。顔まで覆えば、かえって目立つ。昨日確認した通り、これくらいがいい。


 腕輪も確かめる。


 そのまま外へ出ようとしたところで、背後から声がした。


「その財布」


 エルナが振り返る。


 女は机を拭いたままだった。


「外からわかる場所には入れない方がいいよ」


 エルナは自分の外套を見る。


「見えてましたか」


「今は見えてない。でも昨日、出そうとしたとき場所がわかった」


「……はい」


「町には、あんたよりずっと手の早いのがいるからね」


 女はそれだけ言って、別の机へ移った。


 エルナは外套の内側を触る。財布の位置を少し変えた。


「ありがとうございます」


「もう聞いたよ」


 返事は素っ気なかった。


 エルナは女を見てから、宿を出た。


     *


 朝の市場は、昨日よりずっと賑やかだった。


 通りの両側に店が並び、野菜や果物、干した肉、焼いたパン、布、縄、道具が所狭しと並べられている。


 エルナは人の流れに沿って歩いた。


 一軒目でパンを見る。値段を覚える。少し先の店でも見る。


 そちらの方が安い。ただし硬そうで、日持ちはしそうだった。


 さらに別の店では、小さな干し肉が売られている。高い。でも軽い。旅に持つなら便利そうだった。


 エルナはすぐには買わず、何軒か見て回ることにした。


 前世でも、買い物をするときは値段を見る方だった。この世界に来てからは、ロザリーもそうしていた。


 必要なものは買う。


 けれど、必要以上には使わない。


 その考え方は同じだった。


 少し先で、大きな音がした。


「うわっ」


 何かが転がってくる。


 エルナは足元を見る。丸い野菜が一つ、靴の先へぶつかった。


 顔を上げると、若い男がひっくり返った籠の前でしゃがみ込んでいる。


「あっ、そっち! ごめん、それ取って!」


 エルナは足元の野菜を拾った。


 もう一つ、少し離れたところまで転がっている。


 近くにいた大柄な男が、黙ってそれを拾った。


「助かる!」


 若い男が両手を伸ばす。


 大柄な男は野菜を渡しただけで、何も言わなかった。


 エルナも手にしていたものを差し出す。


「ありがとう! 本当にありがとう」


「……よく落とすんですか」


 思わず聞いた。


 若い男が固まる。


「今日はたまたま!」


 少し離れた店の奥から声が飛んできた。


「昨日もやっただろ!」


「父ちゃんは黙ってて!」


 周囲で笑いが起きた。


 大柄な男も、ほんの少しだけ口元を動かしたように見えた。


 エルナは若い男を見る。


 困ったような顔で籠へ野菜を戻している。


 怖い人ではない。


 頼りになる人にも見えない。


 ただ、よく物を落とす人。


 エルナは笑った。


「今、笑った?」


「少し」


「ひどいなあ」


「昨日もなんでしょう?」


「それは父ちゃんが余計なこと言っただけ!」


 また周囲が笑った。


 エルナはもう一度だけ口元を緩めて、その場を離れた。


 市場を歩いていると、いろんな声が耳に入る。


「また魔石が上がったってさ」


「この前もだろ」


「作る側は何してるんだか」


「知らないよ。こっちは買うしかないんだから」


 足がほんの少し止まった。


 魔石。


 ロザリーが作っていたもの。


 何度も命を削って、男たちに安く持っていかれていたもの。


 エルナは声のした方を見なかった。そのまま歩く。


 今の人たちは、ロザリーを知らない。


 魔石を作るために、誰かが何を使っているのかも知らないのかもしれない。知っていて言っているのかもしれない。


 それは、わからない。


 さっき野菜を落とした人も。


 黙って拾った人も。


 今、魔石の値段へ文句を言っている人も。


 みんな人間だった。


 でも、同じではない。


 エルナはそれ以上考えず、必要なものを買うことにした。


     *


 市場の端に、小さな店があった。


 軒先から乾燥させた植物がいくつも吊るされている。


 薬草屋らしい。


 エルナは足を止めた。


 見覚えのある葉がある。熱を下げるときに使うもの。傷口を洗うときに煮出すもの。乾燥させた根。


 ロザリーと何度も採った。


 エルナは並んでいる束を見ながら歩く。


 一つだけ、気になるものがあった。


「それ、欲しいの?」


 店の奥から声がした。


 中年の男が椅子へ座っている。


「いえ」


「じゃあ何見てる」


「……少し、乾きすぎてるなって」


 言ってから、しまったと思った。


 男が眉を上げる。


「わかるのか?」


 エルナはすぐに答えなかった。


 知らない人へ、自分が知っていることを全部話す必要はない。


「少しだけ」


「少しねえ」


 男は立ち上がり、別の束を一つ取った。


「これは?」


 エルナは見る。


 知っている。


 根も使える薬草だ。


 けれど、すぐに答えず、少し考えるふりをした。


「……お腹が痛いときに使うもの?」


「それだけ?」


「根も使えます」


 男が少し笑った。


「少し、ね」


 エルナは黙る。


「誰に教わった」


「家族です」


「薬師か?」


「違います」


「そうか」


 男はそれ以上聞かなかった。


 代わりに、店先の薬草を指す。


「こういうの、採ってきたら買うよ」


 エルナが顔を上げる。


「買う?」


「状態がよければな。珍しいものなら値も上がる」


「誰でも?」


「誰でも。盗んだものでなければ」


 それから男は、エルナをもう一度見る。


「まあ、お前くらいならギルドで採取の仕事取った方が早いかもしれないけどな」


「ギルド?」


「冒険者ギルド」


 昨日、宿でも聞いた言葉だった。


「子どもでも?」


「何歳だ」


「十二です」


「なら登録はできる。危ない仕事はさせてもらえないけどな。草採ったり、荷物運んだり、その程度ならある」


 エルナは少し黙った。


「この町にあるんですか」


「あるよ。大通りの向こう」


「……ありがとうございます」


「礼なら何か買ってけ」


 エルナは棚を見る。


「今はいいです」


「正直だな」


 男は笑った。


 エルナは小さく頭を下げて、店を出た。


     *


 宿へ戻る頃には、朝より荷物が少し増えていた。


 硬いパン。保存の利く食べ物。少量の塩。


 必要なものだけを買った。


 屋根裏へ戻り、買ったものを並べる。


 そして財布も出した。


 また減った。


「……減るなあ」


 当たり前だった。


 使ったのだから。


 薬草は売れる。


 簡単な薬も作れる。


 魔石も、作ろうと思えば作れる。


 でも。


 エルナは左胸へ手を当てた。


 服の下に、命紋がある。


 魔石は、できるだけ作りたくない。


 売れば金になるからと、何度も作る気にはなれなかった。


 それしか稼ぐ方法がないのも嫌だった。


 薬草だけでも、毎回都合よく採れるとは限らない。知らない土地なら、森の様子も違う。


 いくつか方法があった方がいい。


 エルナは考えながら、買ったものを荷物へ戻した。


     *


 夕方。


 階下へ降りると、女が帳場で帳面をつけていた。


「聞いてもいいですか」


「何」


「冒険者ギルドって、どこですか」


 女が顔を上げた。


「行くの?」


「まだ、わかりません」


「そう」


 それから、場所を簡単に教える。


 エルナは頭の中で道を確認した。


「登録したら、仕事ができるって聞きました」


「できるよ。あんたの歳なら大したものはないけど」


「それでも」


 女は一度エルナを見た。


「まあ、冒険者証があれば、次から宿でも話は早いだろうね」


 エルナの目が止まる。


「宿でも?」


「ギルドに正式に登録されてる人間だってわかるからね。どこで生まれた誰の子かまで保証してくれるわけじゃないけど、少なくとも、昨日みたいに『どこの誰かわからない子ども』ではなくなる」


 昨日、一軒目で断られたことを知っているわけではない。


 でも、意味はわかった。


 ギルドが自分の過去を証明してくれるわけではない。


 それでも。


 この名前の自分が、確かにそこへ登録されている。


 それを示せる。


「……そうなんだ」


「旅するなら、持ってて損はないんじゃない?」


 女はもう帳面へ視線を戻していた。


 エルナは少し考える。


 仕事ができる。


 薬草を売れるかもしれない。


 そして、自分が何者なのかを、少なくとも少しは示せる。


「見てきます」


「今から?」


「場所だけ」


「日が落ちる前には戻りな」


「はい」


 エルナは外套を整え、宿を出た。


     *


 教えられた場所は、思っていたより近かった。


 大通りを抜けた先に、大きな建物がある。


 人の出入りが多い。


 鎧を身につけた男。


 大きな袋を担いだ女。


 籠いっぱいの薬草を持った少年。


 紙を握りしめて走っていく若い男。


 エルナは少し離れたところから、それを見ていた。


 戦う人だけがいる場所だと思っていた。


 違うらしい。


 入口の横には、大きな掲示板があった。


 遠くからでも、いくつか文字が読める。


 採取。


 配達。


 荷運び。


 知らない仕事もある。


 エルナはしばらく建物を見た。


 中へ入ろうと思えば入れる。


 でも今日は、もういい。


 まず見て。


 それから、自分で考えて。


 ロザリーの声が、頭の中に残っている。


「……明日」


 小さく言う。


 明日、ここへ来よう。


 エルナはそう決めて、宿へ戻る道へ向かった。




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