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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第3章 森の外で
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第29話 知らない町


 森を出てから、ずいぶん歩いた。


 エルナは街道の端で足を止め、肩に食い込んでいた荷紐を持ち上げた。持っていくものは選んだつもりだった。食べ物も、水も、着替えも、必要だからと何でも詰め込めば自分では運べなくなる。それくらいはわかっていた。


 それでも重い。


 十二歳の身体で何時間も背負って歩けば、肩も腰も痛くなる。ロザリーの外套は裾を括り、袖も折っているが、それでもまだ大きい。時折足に絡むたび、エルナは立ち止まって直した。


「……重い」


 口に出したところで軽くなるわけではない。それでも、誰もいない道では声にしても構わない気がした。


 荷物を下ろし、水筒を取り出す。一口飲んで、もう一口欲しくなったところで蓋を閉めた。


 この先、どこで水を手に入れられるかわからない。


 森の中なら、水のある場所を探す方法を知っている。地面を見る。草を見る。虫を見る。低い場所を探す。ロザリーのように森そのものを感じることはできなくても、教えてもらったことは残っている。


 けれど、今歩いているのは街道だった。


 踏み固められた広い道が、前にも後ろにも伸びている。森のように、目印になる木もない。


 エルナは水筒をしまい、荷物を背負い直した。


 道は一本だった。


 なら、進めばいい。


 しばらく歩くと、後ろから車輪の音が聞こえてきた。


 身体が先に反応した。エルナはすぐ道の端へ寄り、外套のフードを少しだけ深くする。左手首には腕輪がある。認識をぼかすための魔道具。姿を消せるわけでも、顔を変えられるわけでもない。


 近くで長く見られたり、強く意識を向けられたりすれば、絶対ではない。


 そのことは、もう知っている。


 振り返ると、荷車が一台近づいてきていた。馬を操っているのは年嵩の女で、荷台には木箱がいくつも積まれている。


 女もエルナに気づいたらしい。一度だけこちらを見たが、すぐに視線は前へ戻った。


 そのまま横を通り過ぎていく。


「あ」


 小さく声が出た。


 聞かなければ。


 この道を進めば本当に町があるのか。ロザリーから聞いていたのは、森の向こうに道があり、その先に町があるということだけだ。自分が正しい方向へ歩いている保証はない。


 荷車が横を過ぎる。


「……すみません」


 思ったより小さな声になった。


 女が振り返り、手綱を引く。荷車が止まった。


「ん?」


 エルナは一瞬迷ってから、道の先を指した。


「この先に、町はありますか」


「あるよ。このまま真っすぐ」


 女は空を見上げた。


「歩きなら……そうだね。日が落ちる前には着くんじゃないか」


 エルナも空を見る。まだ明るい。


「ありがとうございます」


「ああ」


 女は手綱を持ち直し、それからもう一度だけエルナを見た。


「一人かい?」


「……はい」


「そう」


 それ以上は聞かれなかった。


「暗くなる前に入りな。あの辺、夜になると道が見えにくいから」


「はい」


 荷車がまた動き出す。車輪の音が、少しずつ遠ざかっていった。


 エルナはその後ろ姿を見送った。


 何もされなかった。


 名前も、どこから来たのかも聞かれなかった。ただ道を尋ねて、答えてもらった。


 それだけだった。


 エルナはもう一度荷紐を握り直し、歩き始めた。


     *


 町が見えたのは、空の色が少しずつ薄くなり始めた頃だった。


 遠くにいくつもの屋根が並んでいる。ロザリーと訪れた村より、ずっと大きい。町へ近づくにつれ、街道を行き交う人も増えていった。


 荷車。馬。荷物を背負った旅人。籠を抱えた女。走っていく子ども。


 入口に門はあったが、閉ざされてはいない。エルナは人の流れに混じって、その内側へ入った。


 途端に、音が増えた。


 車輪の軋む音。人の声。家畜の鳴き声。店先から響く呼び声。どこかで何かを焼いている匂いに、油と煙、知らない香辛料の香りが混ざっている。


 森とは、何もかも違った。


 村なら、ロザリーと何度か行ったことがある。人が集まって暮らす場所そのものを知らないわけではない。


 でも、隣にロザリーがいない。


 それだけで、見えるものがまるで違った。


 エルナは無意識に荷物の紐を握った。向こうから人が来れば半歩避け、フードの位置を確かめる。深く被りすぎれば、かえって顔を隠したがっているように見える。そう教えたのもロザリーだった。


 人が多すぎる場所は避ける。けれど、人通りのない路地にも入らない。


 広い道を選んで歩く。


 角から出てきた男とぶつかりそうになった。


「すみません」


「ああ、悪い」


 男はそれだけ言って、そのまま通り過ぎていった。


 また、何も起きなかった。


 エルナは小さく息を吐いた。


 まず、泊まる場所を探さなければならない。


     *


 一軒目の宿は、大通り沿いにあった。


 建物は大きく、入口も明るい。旅人らしい客が何人か出入りしている。


 エルナは一度だけ外套の前を確かめてから、中へ入った。


「一晩、泊まりたいんですけど」


 帳場にいた男が顔を上げる。


 一瞬だけ、視線が止まった。


 エルナはフードを下ろしていない。それでも、顔そのものまで隠せるわけではない。腕輪が相手の意識を逸らしてくれている間に、男の目はすぐ帳面へ落ちた。


「一人?」


「はい」


「連れは?」


「いません」


 男がもう一度顔を上げた。


「……いくつだ」


「十二です」


「十二?」


 今度は、さっきより長く見られた。


 エルナは身体を固くする。


「何か、身元を証すものはあるか」


「身元?」


「商会の札とか、ギルドの札とか。どこかが身元を保証してるってわかるもの」


 知らない言葉が一つあった。


 でも、質問の意味はわかった。


「……ありません」


「家族は?」


 エルナは少し黙った。


「いません」


 男の顔に浮かんだのは同情ではなかった。警戒だった。


「金は持ってるのか」


「あります」


「どこで手に入れた?」


 エルナは外套の内側へ入れた財布に触れたが、取り出さなかった。


「家にあったものです」


「誰の家だ」


「……私の家です」


「親はいないんだろ」


「はい」


「じゃあ、誰と暮らしてた」


 すぐには答えられなかった。


「……家族です」


「その家族は?」


 エルナは口を閉じる。


 男はしばらく待ったが、やがて息を吐いた。


「悪いけど、部屋は貸せない」


「お金は払えます」


「金だけの問題じゃない。十二の子どもが一人で来て、身元もわからない。金の出どころだって確かめられない」


 盗んだものかもしれない、と言われなくてもわかった。


「あとから家族や役人が来て、うちが子どもを隠したなんて話になっても困る。悪いな」


「……そうですか」


 それ以上、言えることはなかった。


 自分は知っている。


 この金はロザリーが持っていたものだ。森の家で暮らすために使っていたもの。それを、自分が持ってきただけ。


 でも、目の前の男にそれを証明する方法がない。


 エルナは宿を出た。


 町はまだ明るい。


 けれど、さっきより少しだけ心細く見えた。


 お金があれば泊まれると思っていた。


 違った。


 エルナはその場で立ち止まり、考える。


 野宿ならできる。


 森の中なら、何度もロザリーと外で過ごしたことがある。雨風を避ける場所の探し方も知っている。


 でも、知らない町の近くで一人きり。


 それが安全なのかは、わからない。


 なら、まだ探した方がいい。


 エルナは歩き出した。


     *


 二軒目は、一軒目よりずっと小さかった。


 大通りから少し外れているが、裏路地ではない。入口の看板も古く、扉を開けると小さな食堂が見えた。


 帳場には年配の女が座っている。


「泊まり?」


「はい」


 女がエルナを見る。


「一人かい」


「はい」


「歳は?」


「十二です」


 片方の眉が上がった。


「……何か身元を証せるものは?」


 また同じことを聞かれた。


「ありません」


「金は?」


「あります」


「出どころ、聞いていい?」


 エルナは少しだけ考えた。


「一緒に暮らしていた人が持っていたものです」


「その人は?」


「死にました」


 言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 女の表情が少し変わる。


「親?」


 エルナは迷ってから答えた。


「……家族です」


「そう」


 女はそれ以上聞かなかった。


 けれど、すぐに部屋を貸すとも言わなかった。指先で帳場を軽く叩き、しばらく考えている。


「普通の客室は貸せないね」


 やっぱり、とエルナは思った。


「ただ、女だけの大部屋なら空いてる。行商人なんかが使うところだけど」


「大部屋……」


「寝台が並んでるだけ。その分、安いよ」


 知らない人間と、一晩同じ部屋。


 エルナは黙った。


 眠っている間も、フードを被り続けることはできない。腕輪だって絶対ではない。同じ人間に長い時間近くで見られれば、効果は弱くなる。


 何より、眠ってしまえば自分では気づけない。


「……ほかには、ありませんか」


 女がエルナを見る。


「個室がいいのかい?」


「はい」


「高くなるよ」


「それでも」


 少し間があった。


 女は椅子から立ち上がり、奥へ目を向けた。


「客室じゃないけどね。屋根裏に一つ、空いてる小部屋がある」


「小部屋?」


「昔、住み込みの子が使ってたところ。今はほとんど物置だよ。寝台もない。窓も小さい。それでよければ、鍵は掛かる」


 鍵。


 その一言で、エルナの中ではほとんど決まった。


「いくらですか」


 女が金額を言う。


 共同部屋より高い。


 けれど、一軒目の客室よりは安かった。


 エルナは外套の内側へ手を入れた。財布そのものは出さず、指先で硬貨を数える。必要な枚数だけを取り出し、帳場へ置いた。


 女がそれを数えた。


「食事は別。湯を使うなら、それも別料金」


「水は?」


「飲む分なら宿代に入ってる。身体を洗えるほど使うなら取るよ」


「わかりました」


「先に部屋を見る?」


「はい」


 女について階段を上がる。


 二階を過ぎ、さらに細い階段を上った先に、低い扉があった。


「ここ」


 扉を開ける。


 本当に小さな部屋だった。


 屋根の傾斜がそのまま天井になっている。古い箱が二つ積まれ、壁際には丸めた敷物が置いてある。窓は小さく、大人なら腰を屈めなければ外を覗けない。


「掃除はしてある。敷物と毛布なら貸すよ」


 エルナはまず窓を見た。


 小さい。


 外から人が入れる大きさではない。


 次に扉。


 内側から鍵が掛かる。


「……ここにします」


「そうかい」


 女は鍵を手渡した。


「荷物は自分で見てな。何かあったら下にいる」


「はい」


 女が出ていく。


 扉が閉まった。


 エルナはすぐに鍵を掛けた。


 一度、引く。


 開かない。


 窓へ行き、外を見る。屋根の上。人の手が届く場所ではない。


 部屋の隅。


 箱の後ろ。


 誰もいない。


 そこまで確かめてから、ようやくフードを下ろした。


 淡い白銀の髪が、肩へ落ちる。


 頭が少し軽くなった。


「……疲れた」


 今度は、小さな声ではなかった。


 荷物を下ろす。肩がじんじんした。


 エルナはしばらく床へ座った。


 泊まる場所を見つけただけなのに、思っていたよりずっと疲れている。


 それでも。


 鍵は、自分の手の中にあった。


     *


 少し休んでから、一階へ下りた。


 フードはまた被った。髪が見えないことを確認し、腕輪にもまだ力が残っていることを確かめる。


 持ってきた食料を食べれば、お金は減らない。


 食堂の入口で、エルナは少し迷った。


 けれど、持ってきたものは旅の途中で必要になる。この先、いつ食べ物を買えるかわからない。今ここには、温かいものがある。


 何を残し、何に使うか。


 それも自分で決めなければならない。


 エルナは一番安い夕食を頼んだ。


 できるだけ壁際の席を選ぶ。背後に人が通り続ける場所は避けた。


 出てきたのは、豆と野菜の入ったスープと、硬いパンだった。肉はほんの少し。それでも、湯気が立っている。


 エルナはスプーンですくい、口へ運んだ。


 温かい。


 味は少し薄い。それなのに塩気だけは強い。


 ロザリーの料理とは違った。


 香草の匂いも違う。


 おいしくないわけではない。


 ただ、違う。


 エルナは黙ってもう一口食べた。


 周囲には何人も客がいる。酒を飲みながら大きな声で話す男。荷物の値段について話している二人組。子どもへパンをちぎって渡している女。


 少し離れた席では、男女が何かを言い合っていた。


「だから置いたって言っただろ」


「置いてないから探してるの!」


「置いたよ」


「じゃあどこ!」


 エルナがちらりと見る。


 その瞬間、女の肘がコップへ当たった。


「あ」


 水がこぼれる。


「ほら、何してるんだよ」


「うるさい! 布!」


 男が慌てて布を取る。


 近くの客が笑った。


 女はむっとした顔をしたあと、自分でも少し笑った。


 エルナはスープへ視線を戻した。


 変な人たち。


 そう思った。


 口元が、ほんの少し緩む。


 ここにいる人たちは、エルナを知らない。


 ロザリーのことも知らない。


 自分が魔女だということも知らない。


 ただ自分の食事をして、自分の話をして、自分の一日を過ごしていた。


 エルナは黙ってもう一口食べた。


     *


 食事を終えて屋根裏へ戻ると、エルナはすぐに鍵を掛けた。


 窓も、もう一度確かめる。


 外套を脱ぐのは、それからだった。


 毛布を床へ敷き、その上に横になる。寝台ではないから硬い。それでも、屋根がある。扉には鍵がある。


 荷物は頭のすぐ横へ置いた。


 小さなナイフも、手を伸ばせば届く。


 それでも、なかなか眠れなかった。


 階下を人が歩く音がする。


 時々、扉が開いて、閉まる。


 外を車輪が通り過ぎる。


 遠くで誰かが笑っている。


 森とは違う。


 森の夜なら、風が鳴った。


 葉が擦れた。


 虫が鳴いた。


 遠くで獣が動く気配がした。


 ここには、それがない。


 代わりに、人の音がある。


 エルナは毛布の中で身体を小さくした。


「……ロザリー」


 名前が喉まで上がってきた。


 けれど、呼ばなかった。


 返事がないことを、もう知っている。


 目を閉じる。


 明日は食べ物を少し買う。


 水も補充する。


 この町がどんなところなのか見てみる。


 その先の道も聞かなければならない。


 お金も、使えば減る。


 どうやって増やすのかも考えなければならない。


 やることがある。


 たくさんある。


 怖くないわけではなかった。知らないことばかりだった。


 それでも、今日はここまで来た。


 知らない人に道を尋ねた。町へ入った。泊まる場所を探した。断られて、それでも次を探した。


 自分で危なくない場所を選んだ。


 自分でお金を払った。


 温かいものも食べた。


 エルナは毛布の中で、ゆっくり息を吐いた。


 明日は、この町を見よう。


 そう決めてから、目を閉じる。


 しばらくして、エルナはようやく眠りに落ちた。




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