第29話 知らない町
森を出てから、ずいぶん歩いた。
エルナは街道の端で足を止め、肩に食い込んでいた荷紐を持ち上げた。持っていくものは選んだつもりだった。食べ物も、水も、着替えも、必要だからと何でも詰め込めば自分では運べなくなる。それくらいはわかっていた。
それでも重い。
十二歳の身体で何時間も背負って歩けば、肩も腰も痛くなる。ロザリーの外套は裾を括り、袖も折っているが、それでもまだ大きい。時折足に絡むたび、エルナは立ち止まって直した。
「……重い」
口に出したところで軽くなるわけではない。それでも、誰もいない道では声にしても構わない気がした。
荷物を下ろし、水筒を取り出す。一口飲んで、もう一口欲しくなったところで蓋を閉めた。
この先、どこで水を手に入れられるかわからない。
森の中なら、水のある場所を探す方法を知っている。地面を見る。草を見る。虫を見る。低い場所を探す。ロザリーのように森そのものを感じることはできなくても、教えてもらったことは残っている。
けれど、今歩いているのは街道だった。
踏み固められた広い道が、前にも後ろにも伸びている。森のように、目印になる木もない。
エルナは水筒をしまい、荷物を背負い直した。
道は一本だった。
なら、進めばいい。
しばらく歩くと、後ろから車輪の音が聞こえてきた。
身体が先に反応した。エルナはすぐ道の端へ寄り、外套のフードを少しだけ深くする。左手首には腕輪がある。認識をぼかすための魔道具。姿を消せるわけでも、顔を変えられるわけでもない。
近くで長く見られたり、強く意識を向けられたりすれば、絶対ではない。
そのことは、もう知っている。
振り返ると、荷車が一台近づいてきていた。馬を操っているのは年嵩の女で、荷台には木箱がいくつも積まれている。
女もエルナに気づいたらしい。一度だけこちらを見たが、すぐに視線は前へ戻った。
そのまま横を通り過ぎていく。
「あ」
小さく声が出た。
聞かなければ。
この道を進めば本当に町があるのか。ロザリーから聞いていたのは、森の向こうに道があり、その先に町があるということだけだ。自分が正しい方向へ歩いている保証はない。
荷車が横を過ぎる。
「……すみません」
思ったより小さな声になった。
女が振り返り、手綱を引く。荷車が止まった。
「ん?」
エルナは一瞬迷ってから、道の先を指した。
「この先に、町はありますか」
「あるよ。このまま真っすぐ」
女は空を見上げた。
「歩きなら……そうだね。日が落ちる前には着くんじゃないか」
エルナも空を見る。まだ明るい。
「ありがとうございます」
「ああ」
女は手綱を持ち直し、それからもう一度だけエルナを見た。
「一人かい?」
「……はい」
「そう」
それ以上は聞かれなかった。
「暗くなる前に入りな。あの辺、夜になると道が見えにくいから」
「はい」
荷車がまた動き出す。車輪の音が、少しずつ遠ざかっていった。
エルナはその後ろ姿を見送った。
何もされなかった。
名前も、どこから来たのかも聞かれなかった。ただ道を尋ねて、答えてもらった。
それだけだった。
エルナはもう一度荷紐を握り直し、歩き始めた。
*
町が見えたのは、空の色が少しずつ薄くなり始めた頃だった。
遠くにいくつもの屋根が並んでいる。ロザリーと訪れた村より、ずっと大きい。町へ近づくにつれ、街道を行き交う人も増えていった。
荷車。馬。荷物を背負った旅人。籠を抱えた女。走っていく子ども。
入口に門はあったが、閉ざされてはいない。エルナは人の流れに混じって、その内側へ入った。
途端に、音が増えた。
車輪の軋む音。人の声。家畜の鳴き声。店先から響く呼び声。どこかで何かを焼いている匂いに、油と煙、知らない香辛料の香りが混ざっている。
森とは、何もかも違った。
村なら、ロザリーと何度か行ったことがある。人が集まって暮らす場所そのものを知らないわけではない。
でも、隣にロザリーがいない。
それだけで、見えるものがまるで違った。
エルナは無意識に荷物の紐を握った。向こうから人が来れば半歩避け、フードの位置を確かめる。深く被りすぎれば、かえって顔を隠したがっているように見える。そう教えたのもロザリーだった。
人が多すぎる場所は避ける。けれど、人通りのない路地にも入らない。
広い道を選んで歩く。
角から出てきた男とぶつかりそうになった。
「すみません」
「ああ、悪い」
男はそれだけ言って、そのまま通り過ぎていった。
また、何も起きなかった。
エルナは小さく息を吐いた。
まず、泊まる場所を探さなければならない。
*
一軒目の宿は、大通り沿いにあった。
建物は大きく、入口も明るい。旅人らしい客が何人か出入りしている。
エルナは一度だけ外套の前を確かめてから、中へ入った。
「一晩、泊まりたいんですけど」
帳場にいた男が顔を上げる。
一瞬だけ、視線が止まった。
エルナはフードを下ろしていない。それでも、顔そのものまで隠せるわけではない。腕輪が相手の意識を逸らしてくれている間に、男の目はすぐ帳面へ落ちた。
「一人?」
「はい」
「連れは?」
「いません」
男がもう一度顔を上げた。
「……いくつだ」
「十二です」
「十二?」
今度は、さっきより長く見られた。
エルナは身体を固くする。
「何か、身元を証すものはあるか」
「身元?」
「商会の札とか、ギルドの札とか。どこかが身元を保証してるってわかるもの」
知らない言葉が一つあった。
でも、質問の意味はわかった。
「……ありません」
「家族は?」
エルナは少し黙った。
「いません」
男の顔に浮かんだのは同情ではなかった。警戒だった。
「金は持ってるのか」
「あります」
「どこで手に入れた?」
エルナは外套の内側へ入れた財布に触れたが、取り出さなかった。
「家にあったものです」
「誰の家だ」
「……私の家です」
「親はいないんだろ」
「はい」
「じゃあ、誰と暮らしてた」
すぐには答えられなかった。
「……家族です」
「その家族は?」
エルナは口を閉じる。
男はしばらく待ったが、やがて息を吐いた。
「悪いけど、部屋は貸せない」
「お金は払えます」
「金だけの問題じゃない。十二の子どもが一人で来て、身元もわからない。金の出どころだって確かめられない」
盗んだものかもしれない、と言われなくてもわかった。
「あとから家族や役人が来て、うちが子どもを隠したなんて話になっても困る。悪いな」
「……そうですか」
それ以上、言えることはなかった。
自分は知っている。
この金はロザリーが持っていたものだ。森の家で暮らすために使っていたもの。それを、自分が持ってきただけ。
でも、目の前の男にそれを証明する方法がない。
エルナは宿を出た。
町はまだ明るい。
けれど、さっきより少しだけ心細く見えた。
お金があれば泊まれると思っていた。
違った。
エルナはその場で立ち止まり、考える。
野宿ならできる。
森の中なら、何度もロザリーと外で過ごしたことがある。雨風を避ける場所の探し方も知っている。
でも、知らない町の近くで一人きり。
それが安全なのかは、わからない。
なら、まだ探した方がいい。
エルナは歩き出した。
*
二軒目は、一軒目よりずっと小さかった。
大通りから少し外れているが、裏路地ではない。入口の看板も古く、扉を開けると小さな食堂が見えた。
帳場には年配の女が座っている。
「泊まり?」
「はい」
女がエルナを見る。
「一人かい」
「はい」
「歳は?」
「十二です」
片方の眉が上がった。
「……何か身元を証せるものは?」
また同じことを聞かれた。
「ありません」
「金は?」
「あります」
「出どころ、聞いていい?」
エルナは少しだけ考えた。
「一緒に暮らしていた人が持っていたものです」
「その人は?」
「死にました」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
女の表情が少し変わる。
「親?」
エルナは迷ってから答えた。
「……家族です」
「そう」
女はそれ以上聞かなかった。
けれど、すぐに部屋を貸すとも言わなかった。指先で帳場を軽く叩き、しばらく考えている。
「普通の客室は貸せないね」
やっぱり、とエルナは思った。
「ただ、女だけの大部屋なら空いてる。行商人なんかが使うところだけど」
「大部屋……」
「寝台が並んでるだけ。その分、安いよ」
知らない人間と、一晩同じ部屋。
エルナは黙った。
眠っている間も、フードを被り続けることはできない。腕輪だって絶対ではない。同じ人間に長い時間近くで見られれば、効果は弱くなる。
何より、眠ってしまえば自分では気づけない。
「……ほかには、ありませんか」
女がエルナを見る。
「個室がいいのかい?」
「はい」
「高くなるよ」
「それでも」
少し間があった。
女は椅子から立ち上がり、奥へ目を向けた。
「客室じゃないけどね。屋根裏に一つ、空いてる小部屋がある」
「小部屋?」
「昔、住み込みの子が使ってたところ。今はほとんど物置だよ。寝台もない。窓も小さい。それでよければ、鍵は掛かる」
鍵。
その一言で、エルナの中ではほとんど決まった。
「いくらですか」
女が金額を言う。
共同部屋より高い。
けれど、一軒目の客室よりは安かった。
エルナは外套の内側へ手を入れた。財布そのものは出さず、指先で硬貨を数える。必要な枚数だけを取り出し、帳場へ置いた。
女がそれを数えた。
「食事は別。湯を使うなら、それも別料金」
「水は?」
「飲む分なら宿代に入ってる。身体を洗えるほど使うなら取るよ」
「わかりました」
「先に部屋を見る?」
「はい」
女について階段を上がる。
二階を過ぎ、さらに細い階段を上った先に、低い扉があった。
「ここ」
扉を開ける。
本当に小さな部屋だった。
屋根の傾斜がそのまま天井になっている。古い箱が二つ積まれ、壁際には丸めた敷物が置いてある。窓は小さく、大人なら腰を屈めなければ外を覗けない。
「掃除はしてある。敷物と毛布なら貸すよ」
エルナはまず窓を見た。
小さい。
外から人が入れる大きさではない。
次に扉。
内側から鍵が掛かる。
「……ここにします」
「そうかい」
女は鍵を手渡した。
「荷物は自分で見てな。何かあったら下にいる」
「はい」
女が出ていく。
扉が閉まった。
エルナはすぐに鍵を掛けた。
一度、引く。
開かない。
窓へ行き、外を見る。屋根の上。人の手が届く場所ではない。
部屋の隅。
箱の後ろ。
誰もいない。
そこまで確かめてから、ようやくフードを下ろした。
淡い白銀の髪が、肩へ落ちる。
頭が少し軽くなった。
「……疲れた」
今度は、小さな声ではなかった。
荷物を下ろす。肩がじんじんした。
エルナはしばらく床へ座った。
泊まる場所を見つけただけなのに、思っていたよりずっと疲れている。
それでも。
鍵は、自分の手の中にあった。
*
少し休んでから、一階へ下りた。
フードはまた被った。髪が見えないことを確認し、腕輪にもまだ力が残っていることを確かめる。
持ってきた食料を食べれば、お金は減らない。
食堂の入口で、エルナは少し迷った。
けれど、持ってきたものは旅の途中で必要になる。この先、いつ食べ物を買えるかわからない。今ここには、温かいものがある。
何を残し、何に使うか。
それも自分で決めなければならない。
エルナは一番安い夕食を頼んだ。
できるだけ壁際の席を選ぶ。背後に人が通り続ける場所は避けた。
出てきたのは、豆と野菜の入ったスープと、硬いパンだった。肉はほんの少し。それでも、湯気が立っている。
エルナはスプーンですくい、口へ運んだ。
温かい。
味は少し薄い。それなのに塩気だけは強い。
ロザリーの料理とは違った。
香草の匂いも違う。
おいしくないわけではない。
ただ、違う。
エルナは黙ってもう一口食べた。
周囲には何人も客がいる。酒を飲みながら大きな声で話す男。荷物の値段について話している二人組。子どもへパンをちぎって渡している女。
少し離れた席では、男女が何かを言い合っていた。
「だから置いたって言っただろ」
「置いてないから探してるの!」
「置いたよ」
「じゃあどこ!」
エルナがちらりと見る。
その瞬間、女の肘がコップへ当たった。
「あ」
水がこぼれる。
「ほら、何してるんだよ」
「うるさい! 布!」
男が慌てて布を取る。
近くの客が笑った。
女はむっとした顔をしたあと、自分でも少し笑った。
エルナはスープへ視線を戻した。
変な人たち。
そう思った。
口元が、ほんの少し緩む。
ここにいる人たちは、エルナを知らない。
ロザリーのことも知らない。
自分が魔女だということも知らない。
ただ自分の食事をして、自分の話をして、自分の一日を過ごしていた。
エルナは黙ってもう一口食べた。
*
食事を終えて屋根裏へ戻ると、エルナはすぐに鍵を掛けた。
窓も、もう一度確かめる。
外套を脱ぐのは、それからだった。
毛布を床へ敷き、その上に横になる。寝台ではないから硬い。それでも、屋根がある。扉には鍵がある。
荷物は頭のすぐ横へ置いた。
小さなナイフも、手を伸ばせば届く。
それでも、なかなか眠れなかった。
階下を人が歩く音がする。
時々、扉が開いて、閉まる。
外を車輪が通り過ぎる。
遠くで誰かが笑っている。
森とは違う。
森の夜なら、風が鳴った。
葉が擦れた。
虫が鳴いた。
遠くで獣が動く気配がした。
ここには、それがない。
代わりに、人の音がある。
エルナは毛布の中で身体を小さくした。
「……ロザリー」
名前が喉まで上がってきた。
けれど、呼ばなかった。
返事がないことを、もう知っている。
目を閉じる。
明日は食べ物を少し買う。
水も補充する。
この町がどんなところなのか見てみる。
その先の道も聞かなければならない。
お金も、使えば減る。
どうやって増やすのかも考えなければならない。
やることがある。
たくさんある。
怖くないわけではなかった。知らないことばかりだった。
それでも、今日はここまで来た。
知らない人に道を尋ねた。町へ入った。泊まる場所を探した。断られて、それでも次を探した。
自分で危なくない場所を選んだ。
自分でお金を払った。
温かいものも食べた。
エルナは毛布の中で、ゆっくり息を吐いた。
明日は、この町を見よう。
そう決めてから、目を閉じる。
しばらくして、エルナはようやく眠りに落ちた。




