第28話 残ったもの
日が傾き始めても、エルナは動けなかった。
ロザリーを抱いたまま、ただ座っていた。
森は静かだった。少し前まで地面を押し上げ、枝を軋ませていた木々も、今は何事もなかったように風に揺れている。
けれど、腕の中の身体だけは動かなかった。
「……ロザリー」
呼んでも返事はない。
わかっている。何度呼んでも同じだということくらい。
それでも、時々呼んだ。
空が少しずつ暗くなる。
ようやく、エルナは顔を上げた。
このままにはしておけない。
そう思って、ロザリーの身体へ腕を回した。
「……っ」
持ち上がらない。
もう一度、足に力を入れる。腰を浮かせようとする。
けれど、ほんの少し動いただけだった。
エルナは手を離した。
自分の腕を見る。
知っていることはたくさんある。
澪だった頃の記憶もある。森で生きるために必要なことも、ロザリーから教わった。
それでも。
身体は、十二歳だった。
「……そっか」
呟いた声が震える。
家へ戻り、厚手の毛布を持ってきた。
ロザリーの身体を少しずつ横へ動かす。腕を持ち上げ、肩をずらし、足を移す。
何度も止まった。
そのたびに、眠っている人を起こさないように扱っているみたいだと思った。
やがて毛布の上へ身体を乗せることができた。
端を両手で掴む。
引く。
少し進む。
また休む。
家のすぐそばまで戻るだけなのに、ずいぶん時間がかかった。
*
夜になっても、暑さは残っていた。
エルナは毛布のそばへ座り込んだまま、ロザリーの顔を見た。
このまま朝まで。
そう思ったところで、手を伸ばす。
頬には触れなかった。
少し離れた空気へ意識を向ける。
熱を、ほんの少しだけ逃がす。
凍らせない。
冷たくしすぎない。
ただ、周囲より少し涼しく保つ。
生きているロザリーを助けることには、何の役にも立たなかった力だった。
それでも今は、この身体を夜明けまで守ることならできる。
そのことが、ひどく悲しかった。
エルナは何度か魔法を止め、また少しだけ使った。
使いすぎないように。
夜が明けるまで。
それだけ。
寝台へ入る気にはなれなかった。
毛布のそばで膝を抱え、目を閉じる。
けれど、ほとんど眠れなかった。
*
朝。
エルナは墓を掘り始めた。
家から少し離れた、土の柔らかい場所を選んだ。
庭からは見える。
けれど、暮らしの邪魔にはならない。
森へ出る時にも、帰ってくる時にも、少しだけ目に入る場所だった。
鍬を土へ入れる。
掘る。
土を外へ出す。
また掘る。
最初のうちは進んだ。
けれど、深くなるにつれて腕が重くなる。掌が痛む。腰も痛い。
昼近くには、指の付け根が赤くなっていた。
それでも足りない。
「……まだ」
穴を見る。
浅い。
これでは駄目だ。
エルナは掌に布を巻いた。
水を飲む。
少し休む。
それから、また鍬を持つ。
ロザリーなら、土の中の根を避ける方法がわかったかもしれない。
根そのものを動かすことだってできた。
エルナにはできない。
雪を降らせることも、水を冷やすことも。
今は、何の役にも立たなかった。
だから手で掘るしかない。
そのことが、妙に苦しかった。
昼を過ぎて、ようやく十分な深さになった。
ロザリーを運ぶ。
前の日と同じように毛布を使い、少しずつ。
何度も休みながら。
穴のそばまで連れてくる。
エルナはしゃがみ込んだ。
栗色の髪を整える。
頬へついた土を、指でそっと拭った。
「……ロザリー」
返事はない。
わかっている。
エルナはしばらくそこにいた。
毛布の端を握り、ロザリーの身体を少しずつ穴の中へ下ろす。
それから、ゆっくりと土を戻した。
*
墓標には、大きなものを作らなかった。
平たい石をいくつか積んだ。
その前に、小さな木片を立てる。
名前を刻むことも考えた。
でも、やめた。
ここが誰の墓なのか、自分は知っている。
それでいい気がした。
エルナは墓の前へ座った。
昨日、最後まで言えなかった言葉がある。
「……私も」
一度、息を吸う。
「私も、ロザリーの子でよかった」
森の音だけが返ってきた。
*
それから数日、エルナは家で暮らした。
朝になれば起きた。
水を汲んだ。
食事を作った。
薬草を見た。
必要なら森へ出た。
できないことばかりではなかった。むしろ、できることの方が多かった。
それが余計に変な感じがした。
ロザリーがいなくても、火はつく。
水は汲める。
食事も作れる。
夜になれば眠る場所もある。
暮らしは続いてしまう。
ある朝、保存棚の前で足を止めた。
戸が少し傾いている。
「あ」
前に自分で直したものだ。
結局、きれいには直さないままだった。
工具を取りに行こうとして、やめる。
使える。
閉まる。
困ってはいない。
――使えるのでしょう?
ロザリーの声が聞こえた気がした。
エルナは戸を一度開け、閉めた。
「……うん」
それだけ言って、棚から離れた。
*
森の様子も確かめた。
以前、人が通っていた道はもうなかった。
幹。
枝。
根。
蔓。
何重にも絡み合っている。
大人がそのまま入るのは難しい。
馬も通れない。
エルナなら、細い隙間を選べば進めそうだった。
それでも簡単ではない。
枝を切る必要がある。
藪を押し分けなければならない。
ロザリーが最後に動かした森は、その形を残している。
けれど、エルナが近づいても、枝は動かなかった。
道を開けてはくれない。
土の下を流れる水がどうなっているのかも、エルナにはわからない。
遠くで何かが森へ入ってきても、感じ取ることはできない。
ロザリーならわかったことが、自分にはわからない。
エルナは絡み合った木々を見上げた。
「……私は、ロザリーじゃない」
口にしてみる。
当たり前のことだった。
森で暮らすことはできる。
森の中で生きる方法も知っている。
でも。
森の魔女にはなれない。
*
家に戻ると、机の上の籠が目に入った。
丸い石。
ロザリーが最後まで魔力を入れなかったもの。
エルナは一つ手に取った。
滑らかな灰色の石。
何度も、ロザリーが魔石を作るところを見てきた。
作り方も教わっている。
でも、自分でやることはほとんどなかった。
石を掌へ乗せる。
意識を集中する。
自分の中の魔力を、ごく少しだけ。
石へ。
「……っ」
うまく入らない。
途中で途切れる。
エルナは手を離した。
少し休む。
もう一度。
今度は、ゆっくり。
やがて、石の奥に淡い灰色の光が宿った。
緑の光も、葉脈のような模様もない。ロザリーが家で使っていた特性魔石とは違う。
ただ、淡い灰色の光を宿した、普通の魔石だった。
ロザリーが作っていたものより、ずっと弱い。
それでも。
魔石になった。
エルナは左胸へ手を当てた。
命紋がある。
魔法を使えば、命を使う。
ロザリーから教わった。
忘れない。
「……必要な時だけ」
石を籠へ戻した。
これをどう使うのかは、まだ決めていなかった。
ただ、外へ出ても、何も持たずに生きるしかないわけではない。
それだけはわかった。
*
ここで暮らすことはできる。
食べ物はある。
水もある。
家もある。
すぐに困るわけではない。
でも。
塩はいつかなくなる。
針も折れる。
刃物も傷む。
布も必要になる。
森だけでは手に入らないものがある。
そして、閉ざされた森がいつまで人を遠ざけてくれるのかもわからない。
ロザリーがいないことを、いつか誰かが気づくかもしれない。
それだけではなかった。
朝起きる。
誰もいない。
森へ出る。
帰ってくる。
誰もいない。
上手くできたことがあっても。
失敗しても。
話す相手はいない。
ロザリーのいない家にいれば、ロザリーと一緒にいられるわけではなかった。
それがわかるまでに、数日かかった。
*
昔、ロザリーから聞いたことがある。
村とは反対側へ森を抜け、さらに進めば街道へ出る。
そこから先には、別の町がある。
何日かかるのか。
今も道が同じように残っているのか。
細かなことまではわからない。
でも、少なくとも村を通らずに外へ出る方法はある。
エルナは荷物を広げた。
全部は持っていけない。
食料。
水。
薬草。
小刀。
針と糸。
少しの金。
魔石にできる丸い石を数個。
それから、ロザリーの外套。
深い色の、フードのついたもの。
村へ行く時、ロザリーがよく使っていた。
羽織ってみる。
大きい。
袖も長い。
裾も余る。
「……長い」
少しだけ笑いそうになった。
紐で裾を持ち上げる。
袖も折る。
フードを深く被れば、白銀の髪はほとんど見えなくなった。
腕には、認識阻害の腕輪。
鏡を見る。
知らない子どもがいるように見えた。
でも。
これでいい。
*
最後の夜。
エルナは家の外へ出た。
ロザリーが森を閉ざしたことで、木々は以前よりずっと濃くなっている。
それでも、家の周囲だけは空が残っていた。
枝葉の間から、星が見える。
昔、森で帰りが遅くなった時、ロザリーが教えてくれた。
夜に方角がわからなくなったら、方角を知るための星を探すこと。
エルナは空を見上げた。
しばらく探して、小さな光を見つける。
「あった」
そこから村のある方向を確かめる。
明日向かうのは、その反対。
昼なら太陽も使える。
沢の流れも。
遠くの山の形も覚えている。
一つだけではなく、いくつも確かめる。
それもロザリーに教わった。
*
翌朝。
エルナは荷物を背負った。
家を見回す。
机。
椅子。
薬草。
保存棚。
寝台。
全部ある。
でも、持っていけない。
持っていかない。
戸を閉める。
それから、墓へ向かった。
石を積んだだけの、小さな墓。
エルナはその前に立つ。
何を言えばいいのかわからなかった。
さようなら。
違う気がした。
いつもなら。
森へ出る時。
ロザリーが家にいる時。
自分は何と言っていた。
エルナは少しだけ息を吸った。
「行ってきます」
返事を待ってしまった。
ほんの少し。
もちろん、何も聞こえない。
「……行ってきます」
もう一度だけ言った。
そして、立ち上がった。
*
閉ざされた森を抜けるのは、思ったよりずっと大変だった。
細い隙間を探す。
枝を切る。
藪を押す。
荷物を先へ押し込む。
その後から、自分の身体を滑り込ませる。
外套が何度も枝へ引っかかった。
「っ……もう」
戻って外す。
腕に細い傷が増える。
汗も出る。
何度も方角を確かめた。
太陽。
地形。
沢。
村とは反対へ。
少しずつ。
少しずつ。
後ろを振り返る。
最初のうちは、木々の隙間から家の屋根が見えた。
やがて、それも消えた。
見えるのは森だけになった。
ロザリーが最後に閉ざした森。
エルナは一度だけ立ち止まった。
戻ろうと思えば、まだ戻れる。
そう思った。
でも。
前を向いた。
*
何時間歩いたのかわからなかった。
やがて、光が増えた。
枝の密度が薄くなる。
低木が減る。
最後の藪を押し分ける。
外へ出た。
風が頬へ当たる。
振り返る。
そこには、ただ深い森があった。
家は見えない。
墓も見えない。
ロザリーも。
何も。
エルナはフードを深く被り直した。
腕輪を確かめる。
遠くに、細い道が見えた。
その先に何があるのかは知らない。
どこまで歩くことになるのかも。
誰と会うのかも。
何も知らなかった。
エルナは前を向いた。
それから、一人で歩き出した。
第2章、ここまでありがとうございました!
ロザリーからたくさんのものを受け取って、エルナは森の外へ歩き出します。
次章「森の外で」も、楽しんでいただけたら嬉しいです!




