↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第2章 森の魔女の娘
27/119

第27話 森の魔女


 次の受け渡しの日が来た。


 机の上に、魔石はなかった。


 前ならそこに並んでいたはずの丸い石は、籠の中に入ったままだった。川辺で拾った、滑らかな灰色の石。まだ何の光も宿していない。


 朝食を食べ終えても、ロザリーはそれに触れなかった。


「来るよね」


 エルナが言うと、ロザリーは食器を重ねながら頷いた。


「ええ」


「……何人くらい?」


「わからないわ」


 その声はいつもと変わらない。


 けれど、怖くないわけではないのだと、エルナはもう知っていた。


「ここを出た方がよかったのかな」


 数日前にも考えたことを、もう一度口にする。


 ロザリーは少しだけ手を止めた。


「ここを離れれば、安全になるとは限らないわ」


「でも、あの人たち、場所知ってる」


「ええ」


「また来るのもわかってた」


「それでも、森の中なら近づいてくる人がわかるもの」


 ロザリーが窓の外を見る。


 枝葉の向こうに、長く暮らしてきた森がある。


「外へ出れば、そうはいかないでしょう。人の多い場所へ行けば、あなたのことも隠し続けなければならない」


 エルナは黙った。


 認識をぼかす腕輪があっても、何でも隠せるわけではない。


「それに」


 ロザリーが続ける。


「ここは私の家だもの」


 その言い方が、妙にロザリーらしくて。


 エルナは少しだけ口元を緩めた。


「そっか」


「追い出される理由はないでしょう」


「うん」


     *


 昼前。


 ロザリーはエルナの腕に認識阻害の腕輪があることを確かめた。


「今日は、少し離れていて」


「どこまで?」


「家が見えるくらいでいいわ」


「何かあったら?」


 以前なら、ここで「出てこないで」と言われただろう。


 ロザリーは少し考えた。


「まず見て」


「……うん」


「それから、自分で考えて」


 エルナはロザリーを見る。


「わかった」


「ええ」


 それだけだった。


 エルナは外套を羽織り、森へ入った。


 家から少し離れた、幹の太い木の陰。そこなら家の入口が見える。ロザリーも、自分がいる辺りを知っている。


 しばらくして、人の声がした。


     *


 来たのは、いつもの三人だけではなかった。


 前に見た顔が二人。


 さらに知らない男が何人かいる。


 七人。


 いや、もっといるらしい。


 森の外れの方から、荷車の軋む音と、何人分かの声が聞こえた。


 男の一人が家の前で足を止める。


「石は?」


 ロザリーは扉の前に立ったまま答えた。


「ないわ」


「まだできてねえのか」


「作っていないの」


 一瞬、誰も何も言わなかった。


「……何だって?」


「もう作らないわ」


 男たちの空気が変わった。


「ふざけんなよ」


「こっちはもう話通してんだぞ」


「待ってる奴がいるんだ」


 ロザリーは静かに返す。


「あなたたちが勝手に決めたことでしょう」


「今さらやめますで済むと思ってんのか」


「済ませるつもりよ」


 男が舌打ちした。


「だったら、来てもらうしかねえな」


「どこへ?」


「街の近くだ。そっちの方が楽だろ。石を作るのも、客を呼ぶのも」


 別の男が笑う。


「こんな森の中より、ずっと暮らしやすいぞ」


 ロザリーの目が細くなる。


「行かないわ」


「お前の都合だけで決められる話じゃねえ」


「私がどこで暮らすかは、私が決めるわ」


「そういう話してんじゃねえよ」


 男たちが一歩、前へ出る。


 いつもの三人のうち、一人だけが足を止めた。以前、森が動いた日のことを覚えているのだろう。


「……気をつけろよ」


「何だよ」


「こいつ、本当にやるぞ」


 別の男が鼻で笑った。


「前だって脅しただけだろ」


「人数いりゃ何もできねえよ」


「それに、人を殺すような奴じゃねえ」


 ロザリーは何も言わなかった。


 男たちは、それを肯定だと思ったらしい。


     *


「そこから先へ来ないで」


 ロザリーが言う。


 一人が足を止める。


 けれど、他の男は進んだ。


「今さら遅えよ」


 手が伸びる。


 その瞬間。


 地面が割れた。


 太い根が土を押し上げ、男の手を横から弾く。


「っ、何だ!」


 別の根が足首へ絡みつく。


 男が倒れる。


「切れ!」


 斧が振り下ろされた。


 根が裂ける。


 土が飛ぶ。


 ロザリーの眉がわずかに寄った。


 男たちは逃げない。


 前とは違う。


 刃物を持っている。


 人数もいる。


 ロザリーが木を動かすことを知った上で来ている。


「前みたいにいくと思うなよ」


 男が吐き捨てる。


 エルナは木の陰で拳を握った。


     *


 出るべきか。


 まだ待つべきか。


 雪なら出せる。


 熱を奪うこともできる。


 ロザリーへ近づく男たちを止められるかもしれない。


 でも、自分が姿を見せれば終わる。


 もう一人魔女がいると知られる。


 しかも、道の方にも人がいる。


 誰か一人でも逃げれば、話は広がる。


 エルナは動かなかった。


 まだ。


 まだ待つ。


 けれど、いつまで。


 それを決めるのは、自分だった。


     *


 男たちは少しずつロザリーを囲む。


 根が出る。


 枝が動く。


 それでも、人数で押す。


「押さえろ」


「触らないで」


「大人しく来りゃ何もしねえよ」


「信用すると思う?」


「だったら力ずくになるだけだ」


 一人が家の方へ目を向けた。


「中も見とけ」


 ロザリーの顔が変わる。


「入らないで」


 男は聞かなかった。


 扉へ向かう。


 一歩。


 二歩。


 手を伸ばす。


 その瞬間、床下から根が突き上がった。


「うわっ!」


 男の身体が横へ投げ出される。


 枝が一斉に伸び、扉の前を覆う。壁際まで蔓が這い、家へ近づく隙間を塞いだ。


「何だよ」


 一人がロザリーを見る。


「そこまでして、何隠してんだ?」


 ロザリーは答えない。


 その沈黙が、逆に男たちの興味を強くした。


「やっぱ何かあるぞ」


 エルナの喉が詰まる。


 まずい。


 今度こそ。


 出る。


 そう思った時だった。


 ロザリーが、森の奥へ顔を向けた。


     *


 誰かが来る。


 エルナにはわからない。


 でもロザリーにはわかる。


 木の根が踏まれる。


 枝が揺れる。


 土が沈む。


 道で待っていた男たちが、こちらへ向かっている。


 一人ではない。


 さらに増える。


 ロザリーは目を閉じた。


 胸元へ、そっと手を当てる。


 服の下には命紋がある。


 エルナが初めてそれを見た頃から、何年も経っていた。


 森のために使った魔法。


 魔石を作るために使った魔法。


 男たちに作らされ続けた石。


 エルナを守るために使った力。


 一つ一つは、すぐに命を奪うほどではなかった。


 それでも、使った分だけ、少しずつ。


 命紋は育っている。


 ロザリー自身、それを知っている。


 あとどれくらい残っているのかはわからない。


 今から使う力で、どこまで進むのかも。


 死ぬかもしれない。


 そこまでは行かないかもしれない。


 わからない。


 ロザリーは息を吐いた。


 生きたい。


 まだ。


 エルナと食事をしたい。


 また薬草を干したい。


 エルナが直した保存棚の戸も、まだ少し傾いたままだ。


 見たいものも。


 食べたいものも。


 まだある。


 怖い。


 それでも。


 ロザリーは目を開けた。


     *


 森が、動いた。


 最初は地面だった。


 低い音を立てて土が盛り上がり、無数の根が姿を現す。


 男たちがよろめく。


「何だ……?」


 次に、木々が軋んだ。


 幹が傾く。


 枝が伸びる。


 隣の木へ絡みつく。


 蔓が地面を這い、低木の間を埋める。


 何年も、何十年もかけて育つはずのものが、目の前で形を変えていく。


「逃げろ!」


 誰かが叫んだ。


 根が男たちの足元を持ち上げる。


 枝が武器を弾く。


 斧が地面へ落ちる。


 蔓が腕へ絡みつき、森の外側へ引く。


 誰かを潰すことはない。


 首を絞めることもない。


 ただ。


 進ませない。


 ここから出ていけと。


 森そのものが押し返している。


 荷車の車輪が持ち上がる。


 馬が嘶く。


 男たちは荷物を捨て、逃げ始めた。


「化け物だ!」


 叫び声が遠ざかる。


 ロザリーは答えない。


 ただ両手を下ろしたまま、森を見ている。


 エルナは息をすることも忘れていた。


 今まで見てきたロザリーの魔法とは、何もかもが違った。


 一本の木ではない。


 一つの根でもない。


 森だった。


 ロザリーが、森そのものへ触れている。


     *


 男たちが逃げても、魔法は止まらなかった。


 人が使っていた道へ、根がせり上がる。


 幹が傾き、枝と枝が絡み合う。


 低木が密集する。


 蔓がその隙間を縫う。


 馬が通れる幅は消えた。


 荷車など、もう入れない。


 大人の男が身体を横にしても、枝と幹に阻まれる。


 小柄な者なら、場所によっては隙間へ入れるかもしれない。


 けれど、それも藪を切り、枝を払い、身体を傷つけながら進まなければならない。


 そして、その状態が森の奥まで続いていく。


 人が通るために開かれていた道を、森が呑み込んでいく。


 けれど。


 家の周りだけは、変わらなかった。


 薬草を干す場所。


 水瓶。


 小さな庭。


 ミルク樹。


 二人が何年も歩いてきた場所。


 そこだけは、何一つ覆われない。


 森は、その小さな場所を包むように閉じていった。


 やがて、音が止まった。


     *


「ロザリー!」


 エルナは走った。


 もう隠れる必要はなかった。


 男たちはいない。


 誰もこちらを見ていない。


 ロザリーはまだ立っていた。


 けれど、顔が白い。


 一歩、身体が揺れる。


「ロザリー!」


 駆け寄った時、膝が崩れた。


 エルナが身体を支える。


「ねえ」


 返事がない。


「ロザリー」


「……いるわ」


 かすかな声。


 左胸を押さえている。


 エルナはその手を見る。


 嫌な予感がした。


「見せて」


「エルナ」


「見せて」


 震える手で襟元をずらす。


 命紋が見えた。


 蔓のような。


 枝のような。


 何年も少しずつ形を増やしてきた模様。


 そこに。


 もう、余白がなかった。


「……やだ」


 声が勝手に出た。


「エルナ」


「やだ」


 何をすればいい。


 薬。


 何の薬。


 冷やす?


 違う。


 水。


 違う。


 魔法。


 何をすれば。


 命紋が完成した魔女は死ぬ。


 例外はない。


 知っている。


 ロザリーから教わった。


 知っているから、何も思いつかない。


「待って」


 エルナはロザリーを抱く。


「まだ、待って」


 何を待つのか、自分でもわからなかった。


     *


 ロザリーの指が、ゆっくり動いた。


 エルナの腕へ触れる。


「……見られなかった?」


 エルナは唇を噛んだ。


「うん」


「本当に?」


「見られてない。誰にも」


「そう」


 ロザリーが小さく息を吐く。


「よかった」


「よくないよ」


 エルナの声が震える。


「全然よくない」


「……そうね」


「ロザリーが死んだら、よくない」


「ええ」


 否定しなかった。


 ロザリーの目にも、薄く涙が滲んだ。


「私も、まだ生きたかったわ」


 エルナの喉が鳴る。


「だったら」


「うん」


「だったら、なんで」


 ロザリーは答えない。


「こうなるって、わかってたの?」


「いいえ」


「でも、危ないって」


「わかっていたわ」


「なのに」


 エルナの涙が落ちる。


「なんで使ったの」


 ロザリーは少しだけ目を細めた。


 遠くを見るように。


 けれど、その視線はエルナへ戻る。


「残したかったから」


 エルナは息を詰める。


 その言葉を知っている。


 ずっと前。


 小さな火を消した日。


 自分も同じことを言った。


「……何を」


 ロザリーは答えなかった。


 けれど、エルナはもう一度聞こうとはしなかった。


     *


「エルナ」


「なに」


「こっちを見て」


 エルナは顔を上げる。


 ロザリーが、かすかに笑った。


「あなたが私の子で、よかった」


 また涙が落ちた。


「私も」


 声が掠れる。


「私も、ロザリーが――」


 最後まで言えなかった。


 ロザリーの指から、力が抜けた。


「ロザリー?」


 返事はない。


「ねえ」


 肩を揺らす。


「ロザリー」


 もう一度。


 もう一度。


 何度呼んでも。


 深い緑の瞳は、開かなかった。


     *


 森は、静かだった。


 さっきまで地面を持ち上げ、木々を軋ませていたとは思えないほど。


 家の周りだけは、昨日までと何も変わらない。


 その外側で。


 道は、もうなかった。


 幹と枝と根と蔓が幾重にも重なり、森を閉ざしている。


 逃げ帰った男たちは、きっとまだ知らない。


 森の魔女が死んだことを。


 エルナはロザリーを抱いたまま、動けなかった。


 その腕の中で、ロザリーだけが、もう息をしていなかった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。