第27話 森の魔女
次の受け渡しの日が来た。
机の上に、魔石はなかった。
前ならそこに並んでいたはずの丸い石は、籠の中に入ったままだった。川辺で拾った、滑らかな灰色の石。まだ何の光も宿していない。
朝食を食べ終えても、ロザリーはそれに触れなかった。
「来るよね」
エルナが言うと、ロザリーは食器を重ねながら頷いた。
「ええ」
「……何人くらい?」
「わからないわ」
その声はいつもと変わらない。
けれど、怖くないわけではないのだと、エルナはもう知っていた。
「ここを出た方がよかったのかな」
数日前にも考えたことを、もう一度口にする。
ロザリーは少しだけ手を止めた。
「ここを離れれば、安全になるとは限らないわ」
「でも、あの人たち、場所知ってる」
「ええ」
「また来るのもわかってた」
「それでも、森の中なら近づいてくる人がわかるもの」
ロザリーが窓の外を見る。
枝葉の向こうに、長く暮らしてきた森がある。
「外へ出れば、そうはいかないでしょう。人の多い場所へ行けば、あなたのことも隠し続けなければならない」
エルナは黙った。
認識をぼかす腕輪があっても、何でも隠せるわけではない。
「それに」
ロザリーが続ける。
「ここは私の家だもの」
その言い方が、妙にロザリーらしくて。
エルナは少しだけ口元を緩めた。
「そっか」
「追い出される理由はないでしょう」
「うん」
*
昼前。
ロザリーはエルナの腕に認識阻害の腕輪があることを確かめた。
「今日は、少し離れていて」
「どこまで?」
「家が見えるくらいでいいわ」
「何かあったら?」
以前なら、ここで「出てこないで」と言われただろう。
ロザリーは少し考えた。
「まず見て」
「……うん」
「それから、自分で考えて」
エルナはロザリーを見る。
「わかった」
「ええ」
それだけだった。
エルナは外套を羽織り、森へ入った。
家から少し離れた、幹の太い木の陰。そこなら家の入口が見える。ロザリーも、自分がいる辺りを知っている。
しばらくして、人の声がした。
*
来たのは、いつもの三人だけではなかった。
前に見た顔が二人。
さらに知らない男が何人かいる。
七人。
いや、もっといるらしい。
森の外れの方から、荷車の軋む音と、何人分かの声が聞こえた。
男の一人が家の前で足を止める。
「石は?」
ロザリーは扉の前に立ったまま答えた。
「ないわ」
「まだできてねえのか」
「作っていないの」
一瞬、誰も何も言わなかった。
「……何だって?」
「もう作らないわ」
男たちの空気が変わった。
「ふざけんなよ」
「こっちはもう話通してんだぞ」
「待ってる奴がいるんだ」
ロザリーは静かに返す。
「あなたたちが勝手に決めたことでしょう」
「今さらやめますで済むと思ってんのか」
「済ませるつもりよ」
男が舌打ちした。
「だったら、来てもらうしかねえな」
「どこへ?」
「街の近くだ。そっちの方が楽だろ。石を作るのも、客を呼ぶのも」
別の男が笑う。
「こんな森の中より、ずっと暮らしやすいぞ」
ロザリーの目が細くなる。
「行かないわ」
「お前の都合だけで決められる話じゃねえ」
「私がどこで暮らすかは、私が決めるわ」
「そういう話してんじゃねえよ」
男たちが一歩、前へ出る。
いつもの三人のうち、一人だけが足を止めた。以前、森が動いた日のことを覚えているのだろう。
「……気をつけろよ」
「何だよ」
「こいつ、本当にやるぞ」
別の男が鼻で笑った。
「前だって脅しただけだろ」
「人数いりゃ何もできねえよ」
「それに、人を殺すような奴じゃねえ」
ロザリーは何も言わなかった。
男たちは、それを肯定だと思ったらしい。
*
「そこから先へ来ないで」
ロザリーが言う。
一人が足を止める。
けれど、他の男は進んだ。
「今さら遅えよ」
手が伸びる。
その瞬間。
地面が割れた。
太い根が土を押し上げ、男の手を横から弾く。
「っ、何だ!」
別の根が足首へ絡みつく。
男が倒れる。
「切れ!」
斧が振り下ろされた。
根が裂ける。
土が飛ぶ。
ロザリーの眉がわずかに寄った。
男たちは逃げない。
前とは違う。
刃物を持っている。
人数もいる。
ロザリーが木を動かすことを知った上で来ている。
「前みたいにいくと思うなよ」
男が吐き捨てる。
エルナは木の陰で拳を握った。
*
出るべきか。
まだ待つべきか。
雪なら出せる。
熱を奪うこともできる。
ロザリーへ近づく男たちを止められるかもしれない。
でも、自分が姿を見せれば終わる。
もう一人魔女がいると知られる。
しかも、道の方にも人がいる。
誰か一人でも逃げれば、話は広がる。
エルナは動かなかった。
まだ。
まだ待つ。
けれど、いつまで。
それを決めるのは、自分だった。
*
男たちは少しずつロザリーを囲む。
根が出る。
枝が動く。
それでも、人数で押す。
「押さえろ」
「触らないで」
「大人しく来りゃ何もしねえよ」
「信用すると思う?」
「だったら力ずくになるだけだ」
一人が家の方へ目を向けた。
「中も見とけ」
ロザリーの顔が変わる。
「入らないで」
男は聞かなかった。
扉へ向かう。
一歩。
二歩。
手を伸ばす。
その瞬間、床下から根が突き上がった。
「うわっ!」
男の身体が横へ投げ出される。
枝が一斉に伸び、扉の前を覆う。壁際まで蔓が這い、家へ近づく隙間を塞いだ。
「何だよ」
一人がロザリーを見る。
「そこまでして、何隠してんだ?」
ロザリーは答えない。
その沈黙が、逆に男たちの興味を強くした。
「やっぱ何かあるぞ」
エルナの喉が詰まる。
まずい。
今度こそ。
出る。
そう思った時だった。
ロザリーが、森の奥へ顔を向けた。
*
誰かが来る。
エルナにはわからない。
でもロザリーにはわかる。
木の根が踏まれる。
枝が揺れる。
土が沈む。
道で待っていた男たちが、こちらへ向かっている。
一人ではない。
さらに増える。
ロザリーは目を閉じた。
胸元へ、そっと手を当てる。
服の下には命紋がある。
エルナが初めてそれを見た頃から、何年も経っていた。
森のために使った魔法。
魔石を作るために使った魔法。
男たちに作らされ続けた石。
エルナを守るために使った力。
一つ一つは、すぐに命を奪うほどではなかった。
それでも、使った分だけ、少しずつ。
命紋は育っている。
ロザリー自身、それを知っている。
あとどれくらい残っているのかはわからない。
今から使う力で、どこまで進むのかも。
死ぬかもしれない。
そこまでは行かないかもしれない。
わからない。
ロザリーは息を吐いた。
生きたい。
まだ。
エルナと食事をしたい。
また薬草を干したい。
エルナが直した保存棚の戸も、まだ少し傾いたままだ。
見たいものも。
食べたいものも。
まだある。
怖い。
それでも。
ロザリーは目を開けた。
*
森が、動いた。
最初は地面だった。
低い音を立てて土が盛り上がり、無数の根が姿を現す。
男たちがよろめく。
「何だ……?」
次に、木々が軋んだ。
幹が傾く。
枝が伸びる。
隣の木へ絡みつく。
蔓が地面を這い、低木の間を埋める。
何年も、何十年もかけて育つはずのものが、目の前で形を変えていく。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
根が男たちの足元を持ち上げる。
枝が武器を弾く。
斧が地面へ落ちる。
蔓が腕へ絡みつき、森の外側へ引く。
誰かを潰すことはない。
首を絞めることもない。
ただ。
進ませない。
ここから出ていけと。
森そのものが押し返している。
荷車の車輪が持ち上がる。
馬が嘶く。
男たちは荷物を捨て、逃げ始めた。
「化け物だ!」
叫び声が遠ざかる。
ロザリーは答えない。
ただ両手を下ろしたまま、森を見ている。
エルナは息をすることも忘れていた。
今まで見てきたロザリーの魔法とは、何もかもが違った。
一本の木ではない。
一つの根でもない。
森だった。
ロザリーが、森そのものへ触れている。
*
男たちが逃げても、魔法は止まらなかった。
人が使っていた道へ、根がせり上がる。
幹が傾き、枝と枝が絡み合う。
低木が密集する。
蔓がその隙間を縫う。
馬が通れる幅は消えた。
荷車など、もう入れない。
大人の男が身体を横にしても、枝と幹に阻まれる。
小柄な者なら、場所によっては隙間へ入れるかもしれない。
けれど、それも藪を切り、枝を払い、身体を傷つけながら進まなければならない。
そして、その状態が森の奥まで続いていく。
人が通るために開かれていた道を、森が呑み込んでいく。
けれど。
家の周りだけは、変わらなかった。
薬草を干す場所。
水瓶。
小さな庭。
ミルク樹。
二人が何年も歩いてきた場所。
そこだけは、何一つ覆われない。
森は、その小さな場所を包むように閉じていった。
やがて、音が止まった。
*
「ロザリー!」
エルナは走った。
もう隠れる必要はなかった。
男たちはいない。
誰もこちらを見ていない。
ロザリーはまだ立っていた。
けれど、顔が白い。
一歩、身体が揺れる。
「ロザリー!」
駆け寄った時、膝が崩れた。
エルナが身体を支える。
「ねえ」
返事がない。
「ロザリー」
「……いるわ」
かすかな声。
左胸を押さえている。
エルナはその手を見る。
嫌な予感がした。
「見せて」
「エルナ」
「見せて」
震える手で襟元をずらす。
命紋が見えた。
蔓のような。
枝のような。
何年も少しずつ形を増やしてきた模様。
そこに。
もう、余白がなかった。
「……やだ」
声が勝手に出た。
「エルナ」
「やだ」
何をすればいい。
薬。
何の薬。
冷やす?
違う。
水。
違う。
魔法。
何をすれば。
命紋が完成した魔女は死ぬ。
例外はない。
知っている。
ロザリーから教わった。
知っているから、何も思いつかない。
「待って」
エルナはロザリーを抱く。
「まだ、待って」
何を待つのか、自分でもわからなかった。
*
ロザリーの指が、ゆっくり動いた。
エルナの腕へ触れる。
「……見られなかった?」
エルナは唇を噛んだ。
「うん」
「本当に?」
「見られてない。誰にも」
「そう」
ロザリーが小さく息を吐く。
「よかった」
「よくないよ」
エルナの声が震える。
「全然よくない」
「……そうね」
「ロザリーが死んだら、よくない」
「ええ」
否定しなかった。
ロザリーの目にも、薄く涙が滲んだ。
「私も、まだ生きたかったわ」
エルナの喉が鳴る。
「だったら」
「うん」
「だったら、なんで」
ロザリーは答えない。
「こうなるって、わかってたの?」
「いいえ」
「でも、危ないって」
「わかっていたわ」
「なのに」
エルナの涙が落ちる。
「なんで使ったの」
ロザリーは少しだけ目を細めた。
遠くを見るように。
けれど、その視線はエルナへ戻る。
「残したかったから」
エルナは息を詰める。
その言葉を知っている。
ずっと前。
小さな火を消した日。
自分も同じことを言った。
「……何を」
ロザリーは答えなかった。
けれど、エルナはもう一度聞こうとはしなかった。
*
「エルナ」
「なに」
「こっちを見て」
エルナは顔を上げる。
ロザリーが、かすかに笑った。
「あなたが私の子で、よかった」
また涙が落ちた。
「私も」
声が掠れる。
「私も、ロザリーが――」
最後まで言えなかった。
ロザリーの指から、力が抜けた。
「ロザリー?」
返事はない。
「ねえ」
肩を揺らす。
「ロザリー」
もう一度。
もう一度。
何度呼んでも。
深い緑の瞳は、開かなかった。
*
森は、静かだった。
さっきまで地面を持ち上げ、木々を軋ませていたとは思えないほど。
家の周りだけは、昨日までと何も変わらない。
その外側で。
道は、もうなかった。
幹と枝と根と蔓が幾重にも重なり、森を閉ざしている。
逃げ帰った男たちは、きっとまだ知らない。
森の魔女が死んだことを。
エルナはロザリーを抱いたまま、動けなかった。
その腕の中で、ロザリーだけが、もう息をしていなかった。




