第26話 知らない顔
エルナが十二歳になった頃には、男たちが来る日にも、以前ほど身構えなくなっていた。
嫌いであることに変わりはない。ロザリーが彼らを好いていないことも、彼らがロザリーを利用していることも知っている。
ただ、あの日以来、男たちはロザリーへ不用意に触れなくなっていた。
魔石の数を増やせと言うことはある。代金をごまかすこともある。ぞんざいな態度も変わらない。
それでも、以前のようにロザリーの拒絶を笑って踏み越えることだけは、しばらくなくなっていた。
森が動いたことを、覚えているのだ。
ロザリーが本気になれば、自分たちを傷つけられる。男たちはようやく、それだけは理解したらしい。
だからその日、エルナは一人で採集へ出ていた。
受け渡しの間だけ家から離れることにも、もう慣れている。
「昼過ぎには戻るね」
「ええ。遠くまでは行かないで」
「わかってる」
「前にも聞いたわね」
「今日は本当に行かない」
ロザリーが少し笑った。
「なら、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
いつもと変わらない朝だった。
*
家へ戻る途中、エルナは足を止めた。
声がする。
男たちがまだいる。
いつもなら、もう帰っている頃だった。それだけなら、少し長引いているだけかもしれない。
けれど、知らない声が混じっていた。
低い声。
別の、少しかすれた声。
いつもの三人ではない。
エルナは籠を持ったまま、木の陰へ身を寄せた。
近づかない。
まず、それを決める。
家は木々の向こうに見えている。。扉は閉じているが、窓が一つ開いていた。
中の様子はわからない。
そこから漏れる声が、風に乗って届く。
*
「その人たちは?」
ロザリーの声だった。
「街の方から来た」
「何の用?」
「まあ、話はしてある」
「何を?」
少しの沈黙。
知らない男の一人が笑う。
「聞いてたより、ずっとだな」
エルナの指が籠の取っ手を強く握る。
何を見て。
何を聞いて。
そんなことを言っているのか。
「帰って」
ロザリーが言う。
「まだ来たばっかりだろ」
「私は呼んでいないわ」
「そう固くなるなよ」
いつもの男の声。
エルナには、それだけで嫌なものが胸の奥へ溜まっていくのがわかった。
別の声がした。
「金は先に渡してある」
短い言葉だった。
でも、それで十分だった。
エルナの頭の中で、何かが繋がる。
何の金か。
誰に渡したのか。
聞かなくてもわかった。
「……何をしたの」
ロザリーの声が低くなる。
「大したことじゃない」
「何を話したの」
「場所くらいだ」
「それだけ?」
「見たいっていうからな」
男が笑った。
「こっちもタダで案内するほど暇じゃない」
エルナの背中が冷たくなる。
魔石だけじゃない。
ロザリーまで。
あの人たちは、ロザリーそのものまで金にした。
*
「帰して」
ロザリーが言う。
返事はない。
「今すぐ」
「そう怒るなって」
「帰して」
「前みたいに木でも動かすか?」
男の声が少し変わった。
笑ってはいる。
でも、以前のような軽さだけではない。
警戒している。
あの日のことを覚えている。
「やってみろよ」
別の男が言う。
「道の方にも待たせてるからな」
ロザリーが黙る。
「俺たちが戻らなきゃ、こっちまで来ることになってる」
エルナは息を止めた。
対策してきた。
そう思った。
ここにいる人間だけを追い払っても、終わらないように。
ロザリーが何を恐れるかを、男たちは知っている。
家。
森。
そして。
自分。
エルナは籠をゆっくり地面へ下ろした。
*
「……そこまでして、何がしたいの」
ロザリーの声は静かだった。
「別に」
「別に、で人を売るの?」
「大げさだな」
「そうかな?」
知らない男の声。
その言い方に、エルナの身体が強張る。
「帰って」
「せっかく来たんだ。少しくらいいいだろ」
「よくないわ」
「金も払ってる」
「私には関係ない」
「こっちはあるんだよ」
足音。
家具がわずかに動く音。
エルナの指先が冷たくなる。
行きたい。
今すぐ。
家へ。
ロザリーのところへ。
自分なら、止められるかもしれない。
雪を降らせられる。
熱を奪える。
男たちを動けなくすることだって、今ならできるかもしれない。
でも、出れば見つかる。
自分を見れば、魔女だとわかる。
ロザリーよりもずっと目立つ。
ここにもう一人魔女がいると知られる。
それだけでは済まない。
男たちは人数を増やしている。道にも人がいる。
今ここで追い払えても、次が来る。
あの時、ロザリーが何度も言っていたことが、今ならわかる。
人は、森の獣とは違う。
追い払えば終わりではない。
*
「やめて」
ロザリーの声。
エルナの息が浅くなる。
「触らないで」
笑い声。
知らない声も混じっている。
エルナの周りの空気が、わずかに冷えた。草の先が震える。
駄目。
エルナは目を閉じた。
呼吸する。
ゆっくり。
熱の流れを追わない。
怒りへ意識を向けない。
魔法を使わない。
今ここで使えば、ロザリーを助けられるかもしれない。
でも、その先で、もっと危険になる。
自分が見つかる。
ロザリーがずっと隠してきたものを、自分で壊す。
エルナは拳を握った。爪が掌へ食い込む。
使わない。
出ていかない。
今は、ここにいる。
それを自分で決めた。
*
どれくらい経ったのかわからなかった。
長かった。
実際には、それほどでもなかったのかもしれない。
家の中から、時々ロザリーの声が聞こえる。
「やめて」
「もう帰って」
そのたびに、エルナは立ち上がりたくなった。
そのたびに、止まった。
やがて、扉が開く音がした。
エルナはさらに木の陰へ身を寄せる。
男たちが出てくる。
いつもの三人。
それから、知らない男が二人。
五人。
一人が笑いながら何かを言った。
「じゃあ、また」
ロザリーから返事はない。
「次は石も頼むぞ」
それにも返事はなかった。
男たちは気にした様子もなく歩いていく。
エルナは動かない。
足音が遠ざかる。
まだ。
もっと。
林の向こうへ消える。
声も聞こえなくなる。
それでも少し待った。
ロザリーなら、そうする。
安全だと思ってからではなく、安全を確かめてから。
ようやくエルナは木の陰から出た。
*
扉を開ける。
「ロザリー」
返事はすぐにあった。
「エルナ」
ロザリーは部屋の奥にいた。
服を直しているところだった。長い栗色の髪が少し乱れている。
手首には赤い跡があった。
それ以上を見る必要はなかった。
エルナには、もうわかる。
ロザリーも、エルナの顔を見る。
そして最初に聞いた。
「見られなかった?」
「うん」
「本当に?」
「気づかれてない」
ロザリーの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「よかった」
エルナは何も言えなかった。
よかった。
何が。
ロザリーは全然よくない。
でも、自分が見つからなかったことだけは、ロザリーにとって本当に「よかった」のだ。
*
「……さっきの人たち」
エルナが言う。
「誰?」
ロザリーは一瞬、目を伏せた。
「知らない人よ」
エルナは黙った。
やっぱり。
「初めて来た人?」
「ええ」
「なんで連れてきたの」
ロザリーはすぐには答えなかった。
少しだけ乱れた袖を整える。
「金になると思ったのでしょうね」
声は静かだった。
怒っているのか。
疲れているのか。
エルナには、どちらにも聞こえた。
「ロザリーを?」
「……ええ」
胸の奥が痛くなる。
魔石を安く買うだけでは足りなかった。
勝手に数を増やそうとするだけでも。
ロザリー自身まで。
知らない人へ。
「また来る?」
エルナが聞く。
ロザリーは答えなかった。
長い沈黙だった。
やがて、机の方を見る。
そこには、次の魔石に使う予定だった丸い石が置いてある。
ロザリーが一つずつ川辺で選んだもの。
人の手を傷つけないように。
滑らかで。
小さく。
ただの石。
「……もう渡さないわ」
エルナが顔を上げる。
「魔石?」
「ええ」
「でも」
言いかけて、止まる。
今までロザリーが関係を切らなかった理由を知っている。
自分で売れない。
追い払った後にもっと人が来るかもしれない。
森に危害を加えられるかもしれない。
全部。
「大丈夫なの?」
「わからない」
ロザリーは正直に言った。
「怖くないの?」
「怖いわよ」
それでも、ロザリーは石を見る。
「でも、続ける方が怖くなった」
エルナは息を止める。
「今日みたいに、知らない人まで連れてこられるなら」
ロザリーの視線が、静かにこちらへ戻る。
「続けている限り、また同じことをされる」
「……」
「そのうち、もっと人が来る」
そして。
「いつか、あなたまで見つかる」
迷いのない声だった。
「それは嫌」
*
「私も何かする」
エルナは言った。
ロザリーが少しだけ眉を下げる。
「エルナ」
「何もしないで待つのは、もう嫌」
「……そうね」
否定されなかった。
それだけで、エルナは少し驚いた。
「じゃあ」
「しばらく、家から遠くへ行かないで」
「それだけ?」
「今は」
「でも」
「あなたが近くにいる方が、私も動きやすいの」
エルナは口を閉じる。
それなら。
自分が出ていかないことにも意味がある。
「……わかった」
「ありがとう」
「でも、何かあったら言って」
「ええ」
すぐには信じられなかった。
でも今は、それ以上言わなかった。
*
夕方。
ロザリーはいつものように机へ向かった。
エルナは少し離れたところで薬草を仕分けている。
机の上には、丸い石がいくつか並んでいた。
次に渡すために選んだもの。
まだ魔力は入っていない。
ロザリーは一つ手に取った。
指先で、表面をなぞる。
長い間そうしていた。
けれど。
やがて、その石を籠へ戻した。
次に渡すための石は、まだただの石だった。
ロザリーは、それに手を伸ばさなかった。




