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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第2章 森の魔女の娘
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第26話 知らない顔


 エルナが十二歳になった頃には、男たちが来る日にも、以前ほど身構えなくなっていた。


 嫌いであることに変わりはない。ロザリーが彼らを好いていないことも、彼らがロザリーを利用していることも知っている。


 ただ、あの日以来、男たちはロザリーへ不用意に触れなくなっていた。


 魔石の数を増やせと言うことはある。代金をごまかすこともある。ぞんざいな態度も変わらない。


 それでも、以前のようにロザリーの拒絶を笑って踏み越えることだけは、しばらくなくなっていた。


 森が動いたことを、覚えているのだ。


 ロザリーが本気になれば、自分たちを傷つけられる。男たちはようやく、それだけは理解したらしい。


 だからその日、エルナは一人で採集へ出ていた。


 受け渡しの間だけ家から離れることにも、もう慣れている。


「昼過ぎには戻るね」


「ええ。遠くまでは行かないで」


「わかってる」


「前にも聞いたわね」


「今日は本当に行かない」


 ロザリーが少し笑った。


「なら、行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 いつもと変わらない朝だった。


     *


 家へ戻る途中、エルナは足を止めた。


 声がする。


 男たちがまだいる。


 いつもなら、もう帰っている頃だった。それだけなら、少し長引いているだけかもしれない。


 けれど、知らない声が混じっていた。


 低い声。


 別の、少しかすれた声。


 いつもの三人ではない。


 エルナは籠を持ったまま、木の陰へ身を寄せた。


 近づかない。


 まず、それを決める。


 家は木々の向こうに見えている。。扉は閉じているが、窓が一つ開いていた。


 中の様子はわからない。


 そこから漏れる声が、風に乗って届く。


     *


「その人たちは?」


 ロザリーの声だった。


「街の方から来た」


「何の用?」


「まあ、話はしてある」


「何を?」


 少しの沈黙。


 知らない男の一人が笑う。


「聞いてたより、ずっとだな」


 エルナの指が籠の取っ手を強く握る。


 何を見て。


 何を聞いて。


 そんなことを言っているのか。


「帰って」


 ロザリーが言う。


「まだ来たばっかりだろ」


「私は呼んでいないわ」


「そう固くなるなよ」


 いつもの男の声。


 エルナには、それだけで嫌なものが胸の奥へ溜まっていくのがわかった。


 別の声がした。


「金は先に渡してある」


 短い言葉だった。


 でも、それで十分だった。


 エルナの頭の中で、何かが繋がる。


 何の金か。


 誰に渡したのか。


 聞かなくてもわかった。


「……何をしたの」


 ロザリーの声が低くなる。


「大したことじゃない」


「何を話したの」


「場所くらいだ」


「それだけ?」


「見たいっていうからな」


 男が笑った。


「こっちもタダで案内するほど暇じゃない」


 エルナの背中が冷たくなる。


 魔石だけじゃない。


 ロザリーまで。


 あの人たちは、ロザリーそのものまで金にした。


     *


「帰して」


 ロザリーが言う。


 返事はない。


「今すぐ」


「そう怒るなって」


「帰して」


「前みたいに木でも動かすか?」


 男の声が少し変わった。


 笑ってはいる。


 でも、以前のような軽さだけではない。


 警戒している。


 あの日のことを覚えている。


「やってみろよ」


 別の男が言う。


「道の方にも待たせてるからな」


 ロザリーが黙る。


「俺たちが戻らなきゃ、こっちまで来ることになってる」


 エルナは息を止めた。


 対策してきた。


 そう思った。


 ここにいる人間だけを追い払っても、終わらないように。


 ロザリーが何を恐れるかを、男たちは知っている。


 家。


 森。


 そして。


 自分。


 エルナは籠をゆっくり地面へ下ろした。


     *


「……そこまでして、何がしたいの」


 ロザリーの声は静かだった。


「別に」


「別に、で人を売るの?」


「大げさだな」


「そうかな?」


 知らない男の声。


 その言い方に、エルナの身体が強張る。


「帰って」


「せっかく来たんだ。少しくらいいいだろ」


「よくないわ」


「金も払ってる」


「私には関係ない」


「こっちはあるんだよ」


 足音。


 家具がわずかに動く音。


 エルナの指先が冷たくなる。


 行きたい。


 今すぐ。


 家へ。


 ロザリーのところへ。


 自分なら、止められるかもしれない。


 雪を降らせられる。


 熱を奪える。


 男たちを動けなくすることだって、今ならできるかもしれない。


 でも、出れば見つかる。


 自分を見れば、魔女だとわかる。


 ロザリーよりもずっと目立つ。


 ここにもう一人魔女がいると知られる。


 それだけでは済まない。


 男たちは人数を増やしている。道にも人がいる。


 今ここで追い払えても、次が来る。


 あの時、ロザリーが何度も言っていたことが、今ならわかる。


 人は、森の獣とは違う。


 追い払えば終わりではない。


     *


「やめて」


 ロザリーの声。


 エルナの息が浅くなる。


「触らないで」


 笑い声。


 知らない声も混じっている。


 エルナの周りの空気が、わずかに冷えた。草の先が震える。


 駄目。


 エルナは目を閉じた。


 呼吸する。


 ゆっくり。


 熱の流れを追わない。


 怒りへ意識を向けない。


 魔法を使わない。


 今ここで使えば、ロザリーを助けられるかもしれない。


 でも、その先で、もっと危険になる。


 自分が見つかる。


 ロザリーがずっと隠してきたものを、自分で壊す。


 エルナは拳を握った。爪が掌へ食い込む。


 使わない。


 出ていかない。


 今は、ここにいる。


 それを自分で決めた。


     *


 どれくらい経ったのかわからなかった。


 長かった。


 実際には、それほどでもなかったのかもしれない。


 家の中から、時々ロザリーの声が聞こえる。


「やめて」


「もう帰って」


 そのたびに、エルナは立ち上がりたくなった。


 そのたびに、止まった。


 やがて、扉が開く音がした。


 エルナはさらに木の陰へ身を寄せる。


 男たちが出てくる。


 いつもの三人。


 それから、知らない男が二人。


 五人。


 一人が笑いながら何かを言った。


「じゃあ、また」


 ロザリーから返事はない。


「次は石も頼むぞ」


 それにも返事はなかった。


 男たちは気にした様子もなく歩いていく。


 エルナは動かない。


 足音が遠ざかる。


 まだ。


 もっと。


 林の向こうへ消える。


 声も聞こえなくなる。


 それでも少し待った。


 ロザリーなら、そうする。


 安全だと思ってからではなく、安全を確かめてから。


 ようやくエルナは木の陰から出た。


     *


 扉を開ける。


「ロザリー」


 返事はすぐにあった。


「エルナ」


 ロザリーは部屋の奥にいた。


 服を直しているところだった。長い栗色の髪が少し乱れている。


 手首には赤い跡があった。


 それ以上を見る必要はなかった。


 エルナには、もうわかる。


 ロザリーも、エルナの顔を見る。


 そして最初に聞いた。


「見られなかった?」


「うん」


「本当に?」


「気づかれてない」


 ロザリーの肩から、ほんの少し力が抜けた。


「よかった」


 エルナは何も言えなかった。


 よかった。


 何が。


 ロザリーは全然よくない。


 でも、自分が見つからなかったことだけは、ロザリーにとって本当に「よかった」のだ。


     *


「……さっきの人たち」


 エルナが言う。


「誰?」


 ロザリーは一瞬、目を伏せた。


「知らない人よ」


 エルナは黙った。


 やっぱり。


「初めて来た人?」


「ええ」


「なんで連れてきたの」


 ロザリーはすぐには答えなかった。


 少しだけ乱れた袖を整える。


「金になると思ったのでしょうね」


 声は静かだった。


 怒っているのか。


 疲れているのか。


 エルナには、どちらにも聞こえた。


「ロザリーを?」


「……ええ」


 胸の奥が痛くなる。


 魔石を安く買うだけでは足りなかった。


 勝手に数を増やそうとするだけでも。


 ロザリー自身まで。


 知らない人へ。


「また来る?」


 エルナが聞く。


 ロザリーは答えなかった。


 長い沈黙だった。


 やがて、机の方を見る。


 そこには、次の魔石に使う予定だった丸い石が置いてある。


 ロザリーが一つずつ川辺で選んだもの。


 人の手を傷つけないように。


 滑らかで。


 小さく。


 ただの石。


「……もう渡さないわ」


 エルナが顔を上げる。


「魔石?」


「ええ」


「でも」


 言いかけて、止まる。


 今までロザリーが関係を切らなかった理由を知っている。


 自分で売れない。


 追い払った後にもっと人が来るかもしれない。


 森に危害を加えられるかもしれない。


 全部。


「大丈夫なの?」


「わからない」


 ロザリーは正直に言った。


「怖くないの?」


「怖いわよ」


 それでも、ロザリーは石を見る。


「でも、続ける方が怖くなった」


 エルナは息を止める。


「今日みたいに、知らない人まで連れてこられるなら」


 ロザリーの視線が、静かにこちらへ戻る。


「続けている限り、また同じことをされる」


「……」


「そのうち、もっと人が来る」


 そして。


「いつか、あなたまで見つかる」


 迷いのない声だった。


「それは嫌」


     *


「私も何かする」


 エルナは言った。


 ロザリーが少しだけ眉を下げる。


「エルナ」


「何もしないで待つのは、もう嫌」


「……そうね」


 否定されなかった。


 それだけで、エルナは少し驚いた。


「じゃあ」


「しばらく、家から遠くへ行かないで」


「それだけ?」


「今は」


「でも」


「あなたが近くにいる方が、私も動きやすいの」


 エルナは口を閉じる。


 それなら。


 自分が出ていかないことにも意味がある。


「……わかった」


「ありがとう」


「でも、何かあったら言って」


「ええ」


 すぐには信じられなかった。


 でも今は、それ以上言わなかった。


     *


 夕方。


 ロザリーはいつものように机へ向かった。


 エルナは少し離れたところで薬草を仕分けている。


 机の上には、丸い石がいくつか並んでいた。


 次に渡すために選んだもの。


 まだ魔力は入っていない。


 ロザリーは一つ手に取った。


 指先で、表面をなぞる。


 長い間そうしていた。


 けれど。


 やがて、その石を籠へ戻した。


 次に渡すための石は、まだただの石だった。


 ロザリーは、それに手を伸ばさなかった。




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