第25話 任せる
エルナが十一歳になってしばらく経った頃、ロザリーは朝から森の奥へ出ることになった。
「今日は少し遠くまで行ってくるわ」
朝食を片づけながら言われて、エルナは顔を上げた。
「どの辺?」
「北側。昨日から、あちらの水の流れが少し気になるの」
それ以上は聞かなかった。
ロザリーが言う水の流れというものは、エルナが沢を見て水量を確かめるのとは違う。土の下を通る水や、木の根が吸い上げる量まで、ロザリーには何となくわかるらしい。
何年一緒に森を歩いても、それだけはエルナにはわからなかった。
「私も行く?」
「今日はいいわ」
「じゃあ家にいる」
「そうしてくれる?」
「うん」
ロザリーは少し考え、卓上へ目を向けた。
「干している薬草を昼頃に一度返しておいて。雲が出たら中へ入れて」
「わかった」
「水瓶も少なくなっていたわね」
「あとで汲んでくる」
「それから――」
「ロザリー」
「なに?」
「たぶん、大丈夫」
ロザリーが口を閉じる。
エルナは笑った。
「何かあったら、帰ってきてから聞くから」
「……そうね」
ロザリーもわずかに笑った。
「では、お願いするわ」
「うん」
それだけ言って、ロザリーはいつもの籠と道具を持って家を出た。
*
一人になっても、朝にすることはいつもと変わらなかった。
食器を片づけ、窓を開ける。外へ出て干してある薬草を確かめると、葉の表面にはまだ少し水分が残っていた。
昼までは、このままでいい。
空を見上げる。朝は晴れていたけれど、遠くに薄い雲が出ている。雨になるほどではなさそうだった。
水瓶も半分を切っている。
エルナは桶を持って、家の近くの湧き水まで二往復した。満杯にすれば一度で済むけれど、重すぎる。七分ほどにして運んだ方が楽だった。
昔なら、一度でできないことが少し悔しかったかもしれない。
今はそうでもない。
二回運べば済む。
それだけだった。
水を戻し終えて家へ入ろうとしたところで、保存棚の戸がわずかに傾いているのが目についた。
「……また?」
少し前から閉まりが悪かった。
ロザリーがそのうち直すと言っていたけれど、まだそのままだ。
戸を開けてみる。蝶番代わりの革紐の一つが緩んでいた。
これなら、自分でもできそうだった。
エルナは工具を持ってきて、その場にしゃがみ込んだ。
*
紐を外し、締め直す。
戸を戻して閉じる。
上だけが先に当たった。
「違う」
もう一度外す。
今度は位置を少し下げて結び直す。
閉める。
今度は下が擦った。
「……なんで」
戸を睨む。
誰も答えない。
当たり前だった。
エルナはすぐに三度目へ取りかからず、一度手を止めた。
以前、ロザリーが別の戸を直していた時のことを思い出す。
紐だけを見てはいなかった。
戸を本来の位置へ合わせて、閉じた時にどこへ収まるのかを先に見ていた。
「あ」
エルナは戸を元の位置へ押し当てた。
片手で支えたまま、革紐の位置を確かめる。
「こっちか」
三度目。
結び直して、ゆっくり手を離す。
戸を開ける。
閉める。
今度はすんなり収まった。
「できた」
思わず声が出る。
けれど少し離れて見ると、わずかに斜めだった。
エルナは黙る。
もう一度戸を開けて、閉める。
使う分には困らない。
「……まあ」
今日はこれでいい。
工具を片づけた。
*
昼前になると、薬草を裏返した。
茎の太いものはまだ湿っている。薄い葉はかなり乾いていたので、そちらだけ先に取り込む。
空を見ると、朝より少し雲が増えていた。風も出ている。
残りは軒下へ移した。
家へ戻る途中、昨日ロザリーが作った煎じ薬が目に入った。
熱を冷ましてから保存するものだが、朝からの暑さで器そのものが温まっている。
エルナはそばまで行き、手を翳した。
少し冷やせばいい。
器一つなら、もう難しくない。
けれど、そのまま手を下ろす。
今日中に使う分だし、石床の物置へ移せば十分だろう。
魔法を使うほどではない。
器を抱え、家の北側にある小さな物置へ運ぶ。石の床へ置くと、ひんやりした空気が腕に触れた。
「これでいいか」
使えるからといって、使う必要はない。
それも、前より自然に考えられるようになっていた。
*
昼食を済ませたあと、エルナは籠を持って家の周囲へ出た。
夕食に使うものを少し採るだけだ。
食べられる若葉を見つけ、小さな株へ手を伸ばしかけてやめる。まだ育ちきっていない。
その隣には、十分に大きな株がある。
そちらから必要な分だけ採った。
少し先で獣の足跡を見つける。
エルナはしゃがみ込んだ。
大きくはない。土の崩れ方を見る限り、新しくもなさそうだ。
「昨日……かな」
その先へ行く必要はない。
必要なものはもうある。
エルナは来た道を戻った。
*
ロザリーが帰ってきたのは、日が傾き始めた頃だった。
「ただいま」
「おかえり」
エルナは夕食の下ごしらえをしていた手を止める。
ロザリーは籠を置き、まず水を飲んだ。
「奥、どうだった?」
「思ったより悪くなかったわ。流れが少し変わっていただけ」
「よかった」
「ええ」
ロザリーが室内を見回す。
干していた薬草。
夕食用に切り分けられた野菜。
それから、保存棚へ目を止めた。
「直したの?」
「うん」
ロザリーが戸を開ける。
閉める。
もう一度開けた。
「少し傾いてるわね」
「知ってる」
「閉まるけれど」
「でしょ」
「三回くらいやり直した?」
エルナが顔を上げた。
「なんでわかるの?」
「紐に跡が残ってるもの」
「……見なきゃいいのに」
ロザリーが笑う。
「でも、使えるわ」
「最初からそう言って」
「最初からそう思っていたわよ」
「じゃあ傾いてるって言わなくていいじゃん」
「傾いているのも事実でしょう」
エルナは口を尖らせた。
ロザリーはもう一度戸を閉めた。それ以上、触ろうとはしない。
「ありがとう。助かったわ」
その一言で、まあいいかと思った。
*
「これ、場所を変えたのね」
夕食のあと、ロザリーが煎じ薬の器を持ってきた。
「温かくなってたから」
「魔法は?」
「使ってない」
「どうして?」
「今日使う分なら、石床のところで十分かなって」
ロザリーが器に触れる。
「そうね」
「冷やした方がよかった?」
「いいえ」
器を元へ戻しながら、ロザリーは言った。
「それで十分よ」
エルナは少しだけ笑った。
*
翌朝の予定を話しながら、二人で食器を片づける。
「明日はもう一度、北側を見てくるわ」
「じゃあ私、昨日のところ行ってくる」
「昨日のところ?」
「家の東。実がまだ残ってた」
「一人で?」
「うん」
ロザリーがエルナを見る。
「奥までは行かないこと」
「行かないよ」
「前もそう言って、見つけた木の実を追いかけて予定より先まで行ったでしょう」
「……あれは見えてたから」
「見えていることと、安全なことは別よ」
「わかってる」
「本当に?」
「今度は本当に」
ロザリーは少し疑わしそうにエルナを見る。
「……そんなに心配?」
「心配はするわ」
「一人で行かせるのに?」
「任せられることと、心配しないことは別でしょう」
エルナは一瞬、黙った。
「……そっか」
「ええ」
それ以上、ロザリーは何も言わなかった。
エルナも何も言わず、拭いた食器をいつもの場所へ戻した。
*
寝る前、エルナは保存棚の前を通った。
試しに戸を開ける。
閉める。
やっぱり、少し傾いている。
「……明日直そうかな」
背後からロザリーの声がした。
「使えるのでしょう?」
「使えるけど」
「なら急がなくてもいいわ」
「気になるんだもん」
「では、直せばいいでしょう」
「明日ね」
「ええ」
エルナはもう一度、少し傾いた戸を見る。
そのうち、もう少しまっすぐ直そう。
そう決めて、灯りを持って寝室へ向かった。




