第24話 選ぶ
あの夜の喧嘩のあとも、二人の暮らしは続いた。
ぶつかることもあった。エルナが納得できないことも、ロザリーが譲らないこともあった。それでも朝になれば同じ食卓につき、森へ出て、夜には同じ家へ帰った。
そうして幾つもの季節が過ぎた。
エルナが十歳になる頃には、家の近くなら一人で森へ出ることも珍しくなくなっていた。
食べられる草と毒のある草を見分けること。雨の前に変わる風の匂いを読むこと。獣の足跡を見て、近づいていい場所と避けるべき場所を判断すること。
水場の探し方も、木の実を採る時に残すべき枝も、薬草を根こそぎ抜いてはいけない理由も知っていた。
どれもロザリーに教わったことだった。
ただし、同じように森を歩けるようになったわけではない。
ロザリーは木々の弱り方を、葉を見る前に知ることがある。土の中の水が減れば、地面へ触れなくても気づく。遠くで倒れた木のことさえ、時々わかる。
エルナにはできない。
自分は森の魔女ではない。
知識と経験で森を読むことはできても、ロザリーのように森そのものへ触れることはできなかった。
それでいいのだと思っている。
代わりに、エルナにも少しずつできることが増えていた。
魔法も、その一つだった。
*
あの日、初めて雪を降らせてから、三年ほどが過ぎた。
もちろん、好き勝手に魔法を使ってきたわけではない。
最初は、ロザリーに教わったあの日と同じ、小さな器の水だけだった。
冷たくする。
止める。
もう一度。
今度は、冷やしすぎる前に止める。
熱をどこへ逃がしたのか考える。一か所へ押しつけず、周囲へ薄く広げる。少しずつ範囲を広げ、少しずつ時間を長くする。
ロザリーがそばにいる時だけ。
魔石の作り方も教わった。
普通の石へ、自分の魔力を少しずつ移していく。言葉にすれば簡単だったけれど、実際にやるとうまく入らなかったり、途中で途切れたりした。
ただ、魔石を作るためにも命は使う。練習のためだけに何個も作るようなことはせず、やり方を覚えてからは、ほとんど試さなかった。
何度も失敗した。水の表面だけ凍らせたこともある。器の外側ばかり冷えて、肝心の中身がほとんど変わらなかったこともある。
それでも、少しずつわかってきた。
自分が動かしているのは雪そのものではない。
冷たさを作っているわけでもない。
熱がどちらへ動くか。
どれほど速く移るか。
その流れに触れている。
ロザリーにも同じことはできない。
だから、途中からは二人で考えた。
「今のは?」
「水から抜いた熱が、こっちに寄った気がする」
「では次は、もっと広く逃がしてみましょう」
「うん」
「急がなくていいわ」
「わかってる」
「本当に?」
「……気をつける」
「なら、もう一度」
そんなやり取りを、少しずつ重ねてきた。
まだ大きな魔法は使わない。
命紋があるから。
力を使えば、命は減る。そのことにも、もう慣れた。
正確には。
慣れたのではなく、知ったまま生きることに慣れた。
*
その年の夏は、特に暑かった。
森の中でさえ、昼になると空気が重い。葉の先が茶色くなっている木も増え、沢の水は細く、石の間を頼りなく流れている。
「今年はひどいね」
朝、エルナが言うと、ロザリーは窓の外を見た。
「ええ」
「奥の方も?」
「昨日見たところは、かなり乾いていたわ」
「今日も行くの?」
「少しだけ」
ロザリーは最近、森の奥まで様子を見に行くことが増えていた。エルナもついて行くことはある。
けれど、この日は別だった。
「私は薬草採ってくる」
「遠くまで行かないでね」
「わかってる」
「水も持って」
「持った」
「昼を過ぎる前には戻るのよ」
「わかってるってば」
ロザリーが少しだけ笑った。
「なら、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
エルナは籠を持ち、家を出た。
*
森は静かだった。
暑さのせいなのか、鳥の声も少ない。
エルナは木陰を選びながら歩き、薬草を摘んでいく。必要な分だけ。根は残す。小さい株には触らない。それももう、考えなくてもできるようになった。
しばらくして、エルナは足を止めた。
「……?」
何か匂う。
乾いた木の匂いではない。土でもない。
鼻の奥に引っかかる、焦げたような匂い。
顔を上げる。
風が吹く。
その瞬間、はっきりした。
煙。
エルナは籠を木の根元へ置き、匂いのする方へ走った。
木々の間を抜ける。
少し開けた場所に出た。
そこで、炎が見えた。
「……火」
まだ小さい。
枯れた草の一部が燃えている。
けれど、その周りは乾いていた。燃えているところだけではない。少し離れた先まで、茶色く枯れた草が続いている。
エルナは周囲を見る。
水。
近くに沢はない。
家へ戻れば桶はある。
でも往復している間に。
風が吹いた。
炎が傾く。
火の粉が飛ぶ。
「っ」
エルナはすぐに近くの土を枝で掻き、燃えている草へかけた。
一か所。
消える。
別の場所。
土をかける。
枯れ枝をどける。
燃え移りそうな草を足で避ける。
できることをする。
手で。
まず、手で。
ロザリーならそうする。
魔法を使う前に。
自分にできることがあるなら。
けれど、風がまた吹いた。
火が走った。
「あっ」
さっきまで燃えていなかった草へ、炎が移る。
一つ。
二つ。
三つ。
エルナは土をかける。
追いつかない。
熱い。
煙で目が痛む。
咳き込みながら、後ろへ下がる。
無理だ。
このままでは、広がる。
*
ロザリーを呼びに行く。
それが一番安全だ。
エルナはそう思った。
家まで戻って、ロザリーが帰っていれば呼ぶ。帰っていなくても、自分だけでも離れる。
逃げることはできる。
火はまだ、エルナ自身を追い詰めてはいない。
ここにいなければならない理由もない。
魔法を使わなければならない理由も。
ない。
それでも。
エルナは燃えている草を見た。
向こうにある木。
何度も通った道。
ロザリーと薬草を探した場所。
小さい頃、転んで膝を擦りむいた場所。
少し先には、ミルク樹もある。
もっと奥には、家がある。
全部、自分がここで生きてきた時間の中にある。
エルナは胸元へ手を当てた。
服の下。
左胸。
命紋。
今はまだ、余白が多い。
それでも、魔法を使えば進む。
どれだけかはわからない。
ほんの少しかもしれない。
思ったより多いかもしれない。
怖い。
今でも。
魔法を使うことではない。
命が減ることが。
いつか終わることが。
怖い。
ロザリーの言葉を思い出す。
『命を軽く扱っているわけではないの』
『何に使うかを選んでいるだけ』
それから。
もっと昔。
自分がロザリーに言ったこと。
『私だって選びたい』
あの時は、ただ止められるのが嫌だった。ロザリーを守りたかった。自分にも決めさせてほしかった。
今は、誰も止めていない。
ロザリーもいない。
自分しかいない。
使わなくてもいい。
逃げてもいい。
それでも。
エルナは燃えている森を見た。
残したい。
そう思った。
ここを。
ロザリーと暮らしてきた、この森を。
残したい。
「……使う」
小さく呟いた。
誰に聞かせるでもなく。
「私が決めた」
*
目を閉じる。
息を吸う。
熱い空気が喉へ入る。
炎を見る。
その熱。
燃えている草の中を走る熱。
枝へ移る熱。
周りの空気へ広がっていく熱。
それを掴む。
冷やす。
違う。
冷たさを作るのではない。
熱を。
離す。
上へ。
広く。
一か所へ集めない。
もっと薄く。
もっと遠くへ。
炎が揺れた。
小さくなる。
「……できる」
もう一度。
範囲を広げる。
熱を追う。
火の中だけではない。まだ燃えていない枯草。熱を持ち始めた枝。温まった空気。
全部。
少しずつ。
上へ。
外へ。
炎がさらに弱くなる。
その代わり、身体が重くなった。
腕がだるい。
呼吸も深くなる。
でも止めない。
風が吹く。
火の粉が舞う。
エルナはそちらにも意識を伸ばす。
熱を奪う。
落とす。
広げない。
額に汗が滲む。
なのに、空気は冷えていった。
自分の周りだけ。
ほんの少しずつ。
この世界では、ほとんど誰も知らないほどの冷たさへ。
息を吸うと、肺の奥がひやりとした。
白いものが落ちた。
ひとつ。
エルナは目を開ける。
「……雪」
また一つ。
それから、いくつも。
白い雪が、燃えている草の上へ落ちる。触れたそばから溶けて、水になり、蒸気になる。
それでも次々と降る。
火の音が弱くなる。
ぱちぱちと鳴っていた枝の音が消えていく。風の音まで遠くなったような気がした。
白いものが、静かに落ちる。
雪。
エルナの知っているもの。
澪だった頃から、ずっと好きだったもの。
世界を白くして。
音を少しだけ遠ざけるもの。
炎が消えていく。
一つずつ。
最後の赤い光が消えた時。
森は、静かだった。
*
エルナはその場に膝をついた。
「……はあ」
息が重い。
身体も重い。
手が少し震えている。
目の前には、黒く焦げた地面がある。その上へ、雪が薄く積もっている。
白く。
ところどころで溶けながら。
火は消えていた。
エルナは胸元へ手を当てる。
命紋。
見なければわからない。
見ても、きっと。
ほんの少し線が伸びたように見えるかもしれない。
気のせいかもしれない。
その程度。
でも。
使った。
確かに。
自分の命を。
怖かった。
今も怖い。
胸の奥が少し冷たくなるくらい。
それでも。
エルナは焦げた地面を見る。
「……よかった」
後悔はしていなかった。
*
「エルナ!」
遠くから声がした。
エルナが振り向く。
木々の間から、ロザリーが走ってくる。普段なら、あんなふうには走らない。
それだけで、かなり慌てているのがわかった。
「ロザリー」
ロザリーはエルナの前まで来ると、すぐにしゃがみ込んだ。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
腕を見る。
顔を見る。
手を見る。
どこにも火傷がないことを確認して、ようやく少し息をつく。
「気分は?」
「重い。でも平気」
「吐き気は?」
「ない」
「眩暈は?」
「ちょっとだけ」
「では、しばらく立たないで」
「うん」
いつもなら少し笑うところだった。
でもロザリーは笑わなかった。
周囲を見る。
焦げた草。
黒くなった枝。
残った雪。
それだけで、何が起きたのかわかったのだろう。
「魔法を使ったのね」
「うん」
「どれくらい?」
「ここ全部」
「……そう」
ロザリーはエルナの左胸を見る。
「命紋は?」
「まだ見てない」
「帰ったら確認しましょう」
「うん」
少し沈黙する。
それから、ロザリーが聞いた。
「どうして使ったの?」
責める声ではなかった。
ただ、聞いている。
エルナは焦げた地面を見る。
「最初は、土かけた」
「ええ」
「枯れ草もどけた。手でできることはやった」
ロザリーの目が少しだけ動く。
「でも、追いつかなかった」
「そう」
「家に戻ろうとも思った」
「私を呼びに?」
「うん」
「戻れたでしょう?」
「戻れた」
「逃げることも?」
「できた」
ロザリーは何も言わない。
エルナは少しだけ俯く。
「でも」
言葉を探す。
難しくはなかった。
もう答えは出ている。
「残したかったから」
ロザリーがエルナを見る。
「ここ」
エルナは周囲を見た。
「この森」
少し笑う。
「私、森の魔女じゃないけど」
「ええ」
「ロザリーみたいに、木が苦しいとか、土の下の水が減ってるとか、わからないけど」
「ええ」
「でも、好きだから」
ロザリーは黙って聞いている。
「残したかった」
少し前。
ロザリーが一本の木へ魔法を使った時と、同じ言葉だった。
あの時は、まだわからなかった。
どうして怖いのに使えるのか。
どうして命が減るのに。
今は。
少しだけわかる。
「だから使った」
エルナは胸元へ手を置く。
「怖かったけど」
命紋のある場所。
「私が使うって決めた」
ロザリーは長いこと何も言わなかった。
怒られるかもしれないと思った。
でも、逃げなかった。
自分で決めたことだから。
やがてロザリーが息を吐く。
「……あなたが決めたのね」
「うん」
「私がいなくても」
「うん」
「止める人がいなくても」
「うん」
ロザリーはもう一度、焦げた森を見る。
「なら、覚えておきなさい」
「何を?」
「今日、何を守りたくて使ったのか」
エルナは瞬きをする。
「それがわからなくなったまま使うようになったら、止まりなさい」
「……うん」
「怖かったことも、忘れないで」
「うん」
ロザリーは少し考えてから続けた。
「怖いと思えるうちは、自分が何を使っているのか、忘れずにいられるでしょう」
エルナはその言葉をしばらく考えてから、頷いた。
「わかった」
ロザリーが手を差し出す。
「立てる?」
エルナはその手を見て、自分の足にも目を落とした。
「……自信ない」
「では、もう少し休みましょう」
「うん」
ロザリーはそのまま隣へ座った。
*
しばらくしてから、二人はゆっくり家へ戻った。
まだ身体は重い。
途中で一度休んだ。
ロザリーは急かさなかった。
しばらく歩いたところで、エルナがふと立ち止まる。
「……あ」
「どうしたの?」
「籠」
「籠?」
「薬草の籠、置いてきた」
ロザリーが森の奥を見る。
「どの辺り?」
「火を見つける前。そんなに遠くないと思う」
「今日はいいわ。明日取りに行きましょう」
「でも薬草」
「また採れるものよ」
「……うん」
エルナは少しだけ名残惜しく思ったけれど、素直に頷いた。
今は、自分の足で家まで帰る方が大事だった。
その途中で一度、振り返る。
遠く。
焦げた地面の上。
まだ少しだけ、雪が残っている。
白い。
そこだけ。
この暑い世界の中で。
命を使った。
怖かった。
たぶん、これからも怖い。
それでいいのだと思った。
怖くなくなる必要なんてない。
怖いまま。
それでも。
エルナは今日、初めて知った。
怖いままでも、選ぶことはできる。




