第23話 私の子
Side:ロザリー
「おやすみ、エルナ」
返事はなかった。
ロザリーはしばらく、そのまま立っていた。寝台の上で、エルナはこちらに背を向けている。眠っているわけではないことくらい、わかっていた。
それでも、もう一度呼ぶことはしなかった。
静かに灯りを落とし、部屋を出る。
扉を閉めたあと、ロザリーはその場で少しだけ目を伏せた。
怒らせた。
当然だと思う。
エルナは、自分を守ろうとしてくれたのだから。それを押し込めて、外へ出られないようにした。
それでも。
同じことが起きれば、きっとまた止める。そのことだけは、今も変わらなかった。
*
食卓へ戻り、椅子に腰を下ろす。
身体が重い。男たちを退かせるために木を動かし、エルナを隠すために根を伸ばした。
どちらも、ひどく大きな魔法ではない。それでも、使ったことに変わりはなかった。
ロザリーは服の上から左胸へ手を当てる。
そこにある命紋は、見なくてもわかる。
今日使った分も、どこかに加わっている。目ではわからないほど僅かなものかもしれない。それでも、使った命が戻らないことだけは知っていた。
後悔はしていなかった。
エルナを隠すためなら、また使う。
あの子に怒られても。
嫌われても。
それでも。
そこまで考えて、ロザリーは小さく息を吐いた。
嫌われたいわけではない。
そんなわけがなかった。
*
ロザリーは、生まれた時から隠されていた。
栗色の髪。深い緑の瞳。子どもらしい丸みのある顔でさえ、ひどく整っていたらしい。
本人に、その頃の記憶はない。
けれど物心がつく頃にはもう、自分が他の子どもとは違うのだと知っていた。
客人が来る日は、奥の部屋から出てはいけない。庭にも出ない。窓辺にも立たない。家族と同じ食卓につくことも、ほとんどなかった。
理由を尋ねると、
「あなたは人に見せてはいけない子なの」
そう言われた。
魔女だから。
家の恥になるから。
知られれば面倒だから。
だから隠される。
それが、幼い頃のロザリーにとっては当たり前だった。
今ならわかる。
あれは守られていたのではない。
見つからないように。
存在しないもののように。
押し込められていただけだった。
*
兄や姉たちは、時々ロザリーの部屋へ来た。
最初は、ただ珍しかったのだと思う。
「本当に魔女なの?」
「何ができるの?」
「飛べる?」
「火、出せる?」
そんなことを聞かれた。
ロザリーは何もできなかった。まだ魔法は目覚めていなかったし、自分でも何ができるのか知らなかった。
すると、今度は別のことを試されるようになった。
魔女なら、これくらい平気だろう。
そう言って。
暗い物置へ閉じ込められた。
井戸から汲んだばかりの冷たい水を、頭からかけられた。
階段の上で背中を押された。
最初は、泣けば終わった。
けれど、そのうち泣くことまで面白がられるようになった。
ある日。
庭の端にある古い井戸の縁へ座らされた。
「落ちても死なないんじゃない?」
兄の一人が言った。
ロザリーは、死ぬと思った。
魔女だから死なないなんて、そんなことはない。幼い自分でも、それくらいはわかっていた。
嫌だと言った。
降ろしてと言った。
けれど笑われた。
その手が背中に触れた瞬間、身体が勝手に動いた。
身を捩り、相手の腕へ爪を立て、転がるように地面へ落ちた。石に膝を打ち、血が出た。
それでも、生きていた。
泣きながら家へ戻った。
誰かが助けてくれると思っていた。叱ってくれると思っていた。もう二度と、そんなことをさせないでくれると。
けれど。
「騒ぎにしないで」
母は、最初にそう言った。
その時、わかった。
ここにいたら、いつか死ぬ。
兄弟に殺されるかもしれないし。
誰にも助けてもらえないまま、死ぬかもしれない。
どちらにしても同じだった。
それからしばらくして、ロザリーは家を出た。
*
外へ出れば自由になれると思っていた。
半分は正しかった。
半分は、間違っていた。
親切な人もいた。
道を教えてくれる人。食べ物を分けてくれる人。雨の日に軒先へ入れてくれる人。
そういう人たちも、確かにいた。
けれど、魔女だと知られれば、話は変わった。
目を逸らす人。
追い払う人。
石を投げる人。
そして。
使えると思う人。
魔法が目覚めてからは、さらに増えた。
植物を育てられる。
根を動かせる。
森の様子がわかる。
その力は、人間にとって価値があった。
魔石を作れるようになってからは、もっと。
「売ってやるよ」
そう言う人間が現れた。
「お前が直接持っていったって、誰も買わないだろ」
それも事実だった。
村で売れば避けられる。街ならなおさら目立つ。
だから、任せた。
最初は。
少しだけ。
代わりに売ってくれるなら、それでいいと思った。
けれど、売値はわからなかった。
渡される金額は少しずつ減った。
作る数は増やせと言われた。
断れば笑われた。
そのうち、魔石だけでは済まなくなった。
身体に触れられるようになった。
嫌だと言っても、やめなかった。
拒めば機嫌を損ねる。
それでも本気で追い払えば、その後に何が起こるかわからない。
人は森の獣とは違う。
追い払えば終わりではない。
一人を傷つければ、その家族がいる。
仲間がいる。
もっと多くの人間が来る。
魔女に襲われたと言えば、それだけで十分な理由になる。
森へ火を放つ者だっているかもしれない。
だから、ロザリーは何度も飲み込んだ。
できることと、していいことは違う。
殺せることと、殺して終わることも違う。
強ければ自由になれるわけではなかった。
そのことを、ずっと前から知っていた。
*
だから、あの日も。
最初に聞こえた泣き声を、すぐには信じなかった。
森の奥。
人の来るような場所ではない。
それなのに、赤ん坊の声がした。
ロザリーは足を止めた。
もう一度。
小さな泣き声。
弱く。
それでも確かに、生きている声だった。
音を辿る。
木の根元。
粗末な布に包まれた、小さな身体。
淡い白銀の髪。
薄い青の瞳。
一目でわかった。
魔女だ。
それも、おそらく自分よりずっと強い。
まだ赤ん坊なのに、その顔立ちは異様なほど整っていた。
ロザリーはすぐには抱き上げなかった。
周囲を見た。
誰かがいないか。
捨てた者がまだ近くにいないか。
戻ってくる気配はないか。
森へ意識を広げる。
人の足音はなかった。
馬もいない。
声もない。
ただ、赤ん坊だけが泣いていた。
ロザリーはしゃがみ込む。
その小さな身体を抱き上げた。
軽かった。
あまりにも。
「……生きてるのね」
思わず、そう言った。
赤ん坊は泣きながら、小さな手を動かした。
ロザリーの服を掴む。
その時だったのかもしれない。
連れて帰ろうと思ったのは。
魔女だからではない。
自分と同じだからでもない。
見つけたから。
生きていたから。
ただ、それだけだった。
*
最初の夜は大変だった。
何をしても泣いた。
腹が減っているのか。寒いのか。暑いのか。痛いのか。
まるでわからない。
ミルク樹の汁を少し煮詰めて、少しずつ飲ませた。
吐いた。
また泣いた。
眠ったと思えば、すぐに起きた。
「……赤ん坊って、こんなに寝ないものなの?」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
もちろん、答える人はいなかった。
それでも翌朝、赤ん坊は生きていた。
その次の日も。
その次の日も。
少しずつ飲む量が増えた。
目で追うようになった。
手を伸ばすようになった。
笑った。
立った。
転んだ。
泣いた。
名前を呼んだ。
「ロザリー」
最初にそう呼ばれた日のことを、今でも覚えている。
ただ呼ばれただけだったのに。
妙に胸がいっぱいになって、返事が少し遅れた。
いつからだったのだろう。
拾った赤ん坊ではなくなったのは。
守っている子どもではなくなったのは。
気づけばもう。
エルナは、自分の子だった。
*
今日。
あの子は言った。
『ロザリーを守る方を選びたい』
あの言葉は、嬉しかった。
本当は。
自分を守ろうとしてくれる人なんて、これまでほとんどいなかった。
必要だから近づく人はいた。
利用したいから離れない人もいた。
けれど。
ただ、自分を大切に思って守ろうとする人。
そんな相手は。
エルナが初めてだった。
だからこそ、怖かった。
あの子が外へ出てくることが。
男たちの前へ姿を見せることが。
エルナを見れば、魔女だとわかる。
疑う程度ではない。
自分よりも、ずっと目立つ。
あの髪も。
瞳も。
顔立ちも。
そして、おそらく魔力量も。
知られれば、恐れられるだけでは済まない。
欲しがる者もいる。
使おうとする者もいる。
奪おうとする者も。
自分が受けてきたことを。
あの子には、一つも渡したくなかった。
だから今日。
エルナが隠し場所から出ようとした瞬間。
ロザリーは男たちへ力を向けた。
自分が何をされるかより。
エルナが見つかることの方が、ずっと怖かった。
*
ロザリーは立ち上がった。
気づけば、ずいぶん長く食卓に座っていた。
エルナの部屋の前まで歩く。
扉の向こうは静かだった。
もう眠ったのかもしれない。
それとも、まだ怒っているのか。
ロザリーは扉へ手を伸ばしかけて、やめた。
今は、入らない方がいい。
あの子にも、考える時間がいる。
ロザリーは扉の前にしばらく立った。
エルナは、自分の命なら自分で決めたいと言った。
その通りだと思う。
いつかは。
きっと。
自分で決めて、生きていく。
そうでなければならない。
それでも。
まだ今だけは。
あの子の命を守る側にいたかった。
怒っていてもいい。
わかってもらえなくてもいい。
明日も、あの子がここにいるなら。
それでよかった。




