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雪の魔女は二度恋をする  作者: 冬灯
第2章 森の魔女の娘
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第20話 使う理由


 命紋のことを知ってから、エルナはロザリーの手を見ることが増えた。


 薬草を摘む時。枝を払う時。薪を割る時。


 今までなら、ただロザリーが何かをしているとしか思わなかったことが、少し違って見える。


 その手が光らないか。足元の根が動かないか。森が、彼女に応えないか。


 そんなことばかり気にするようになった。


「エルナ」


「なに?」


「さっきから、何を見ているの?」


 ロザリーが振り返る。


「手」


「私の?」


「うん」


「どうして?」


「魔法使うかなって」


 ロザリーは少し黙って、それから手にしていた小枝を見た。


 折れかけた枝を紐で支えているだけだった。


「これは使わないわよ」


「なんで?」


「手でできるもの」


 そう言って、また枝へ向き直る。


 エルナは横から覗き込んだ。


「でも魔法なら早いんじゃない?」


「そうでしょうね」


「じゃあ、使えばいいのに」


「早ければいいわけではないでしょう」


 紐を結び終えたロザリーが、指先で枝を軽く押す。


 ぐらつかないことを確かめてから立ち上がった。


「行きましょう」


「うん」


 エルナはもう一度、その手を見た。


 何も起きなかった。


     *


 数日前まで降り続いた雨のせいで、森の地面はまだところどころ柔らかかった。


 葉の隙間から差す光は強い。雨が止んでから、また暑さが戻ってきている。


 ロザリーはいつもよりゆっくり歩いていた。時々足を止め、木の幹に触れたり、地面を見たりする。


「まだ濡れてる?」


「場所によるわね」


「ここは?」


「表面は乾き始めているけれど、下はまだ水を含んでる」


 エルナもしゃがんで土を触った。


 指先にしっとりとした感触が残る。


「ほんとだ」


「踏みすぎないでね。柔らかいところは崩れやすいから」


「うん」


 二人はさらに奥へ進んだ。


 途中で、ロザリーが急に立ち止まる。


「どうしたの?」


「少し待って」


 声が変わった。


 エルナも足を止める。


 ロザリーは道を外れ、木々の間へ入っていった。


 その先に、大きな木が一本あった。


 太い幹。エルナが両手を広げても、到底抱えきれない。


 けれど、その片側の土が大きく削れていた。雨で流されたのだろう。何本もの根がむき出しになっている。


「あ……」


 エルナにも、それが良くない状態なのはわかった。


 ロザリーは根元へしゃがみ込み、土を掴み、崩れた場所を見る。


 それから木の幹へ手を当てた。


 しばらく、そのまま動かない。


「どう?」


「まだ大丈夫」


「まだ?」


「今すぐ倒れるわけではないわ」


 ロザリーが立ち上がる。


「土、戻す?」


「戻しましょう」


 二人で作業を始めた。


 流れた土を少しずつ根元へ戻す。大きな石はエルナには持てないので、ロザリーが動かした。細い枝を集めて土留めにする。


 何度も往復した。


 日が高くなるにつれて、汗が首筋を伝う。


「暑い……」


「休む?」


「まだ平気」


「無理はしないのよ」


「ロザリーも」


「ええ」


 戻した土を足で固める。根の隙間へ土を入れる。


 そうしてしばらく経った頃、ロザリーが手を止めた。


「……駄目ね」


「なにが?」


 エルナは額の汗を拭った。


「思ったより中が崩れてる」


「見えるの?」


「見えるというより、わかるの」


 ロザリーは地面へ手を置いた。


「こっちの根も、下で浮いてる」


 指差された場所を見ても、エルナには何もわからない。


 前にもあった。


 自分にはただの土にしか見えない場所で、ロザリーだけが森の中の何かを感じ取る。


「土もっと持ってくる?」


「それだけでは足りないわ」


 ロザリーは木を見上げた。


 大きな葉が、風に揺れている。


 少し考えるように黙る。


 その横顔を見て、エルナはわかった。


「……魔法使う?」


 ロザリーが振り向く。


「ええ」


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


「使うの?」


「使うわ」


「でも」


 エルナはロザリーの胸元を見る。


 服の下。


 そこにある命紋。


「進むよ」


「ええ」


「わかってる?」


「もちろん」


 ロザリーの声は変わらない。


「じゃあ、やめればいいじゃん」


 思ったより強い声が出た。


 ロザリーは怒らなかった。


「そうね」


「だったら」


「でも、私は使うわ」


「なんで?」


 ロザリーは木を見上げる。


「残したいから」


「この木?」


「ええ」


 あまりにも簡単な答えだった。


 エルナも木を見る。


 大きい。


 立派だ。


 でも、それだけだ。


「そんなに大事?」


「私には」


 ロザリーは少しだけ笑った。


「ずっとここにいる木なのよ」


「ロザリーより前から?」


「ずっと前から」


 幹へ手を当てる。


「この辺りの土も支えてる。鳥も来るし、暑い時には下に影ができる」


 そこまで言って、ロザリーは小さく息を吐いた。


「でも、そんなことを全部抜きにしても、私はこの木が好きなの」


 エルナは黙った。


「だから残したい」


 それからロザリーは、根元へ手を置いた。


「少し離れていて」


「……うん」


 エルナは数歩下がる。


 ロザリーが目を閉じた。


 森が静かになる。


 風が止んだわけではない。鳥の声も聞こえている。


 それでも、何かが変わった。


 むき出しになっていた根の一部が、ゆっくり動く。


 ほんの少しずつ、土の中へ潜り込むように。


 周囲の細い根も伸び、崩れた土を抱え込む。


 新しく何かを生み出しているわけではない。そこにあるものが、ロザリーの意思に応えるように動いていく。


 やがて、根が止まる。


 しばらくして、ロザリーが手を離した。


「……これで、しばらくは大丈夫」


 立ち上がる。


 少しだけ呼吸が深い。


「ロザリー」


「なに?」


「疲れた?」


「少しね」


 エルナはまた胸元を見た。


 命紋は見えない。服の下だから。


 それでも、今。


 あの紋様のどこかに、ほんの少しだけ線が増えたのかもしれない。


     *


 二人は木陰で休んだ。


 ロザリーが水筒を渡してくれる。


 エルナは一口飲んでから、隣に座るロザリーを見る。


「長生きしたくないの?」


 ロザリーが瞬いた。


「急ね」


「だって」


 エルナは視線を落とす。


「命紋、進むのに使ったから」


「ええ」


「使わなかったら、その分長く生きられるんでしょ」


「そうね」


「じゃあ、長生きしたくないの?」


「したいわ」


 すぐに返ってきた。


 エルナは顔を上げる。


「したいの?」


「ええ。もちろん」


 ロザリーが少し笑う。


「あなたのことも、まだ育てないといけないし」


「それだけ?」


「それだけではないわ」


「他には?」


「やりたいこともあるし、食べたいものもあるし、まだ見たいものもある」


 エルナは少しだけ安心した。


 ロザリーは、死んでもいいと思っているわけではない。


「じゃあ、なんで使ったの?」


 ロザリーは木を見る。


 さっき助けた大きな木。


「使わずに済むなら、その方がいいと思ってるわ」


「うん」


「だから、手でできることは手でする。待てるなら待つ。今日じゃなくていいことなら、今日やらないこともある」


 エルナは朝の枝を思い出す。


 紐で支えただけだった枝。


「でも、全部を使わないで生きるつもりもないの」


「なんで?」


 ロザリーは少し考えた。


「使いたい時もあるから」


「命減るのに?」


「ええ」


「怖くない?」


「怖いわよ」


 また、すぐに答えた。


 エルナは驚く。


「怖いの?」


「ええ。命が減るんだもの」


 あまりにも普通に言う。


「でも、この森は残したい」


 ロザリーが周囲を見る。


「ここで暮らしたいし、できるなら長く残っていてほしい」


「うん」


「だから、使うこともある」


「……もったいなくない?」


「もったいないわよ」


「じゃあ」


「それでも使いたいと思ったから、使ったの」


 エルナは眉を寄せる。


 まだ、全部はわからない。


 ロザリーはそんな顔を見て、少し笑った。


「命を軽く扱っているわけではないの」


「じゃあ?」


「何に使うかを選んでいるだけ」


 風が吹く。


 木の葉が揺れる。


 さっき助けた木の枝も、大きく揺れた。


 エルナはその木を見る。


「……選ぶ」


「ええ」


「使わないのも?」


「選ぶこと」


「使うのも?」


「そう」


 しばらく考える。


 それから、別のことを思い出した。


「あの魔石は?」


 ロザリーの表情が、ほんの少し変わった。


「前に男の人たちに渡したやつ」


「……ええ」


「あれも、使いたいから使ったの?」


 今度は、すぐに答えなかった。


 ロザリーは視線を森の奥へ向ける。


「それは、同じ話ではないわ」


「違うの?」


「ええ」


「どう違うの?」


 ロザリーはしばらく黙っていた。


 やがて、エルナの頭を軽く撫でる。


「それは、また今度話しましょう」


「また?」


「また」


 エルナは不満そうな顔をした。


「最近それ多い」


「そうかもしれないわね」


「ずるい」


「全部を一度に話したら、あなたも疲れるでしょう」


「疲れない」


「私は疲れるわ」


 そう言われて、エルナは口を閉じた。


 ロザリーが少し笑う。


「そろそろ戻りましょうか」


「うん」


     *


 その夜。


 エルナは寝床の中で胸元に触れた。


 命紋がある場所。


 昨日までなら、ただ怖いものだった。


 完成したら死ぬ。


 魔法を使えば進む。


 だから、使わない方がいい。


 そう思っていた。


 でも、ロザリーは使った。


 死んでもいいからではなかった。


 長く生きたいと言った。


 怖いとも言った。


 それでも、自分で使うと決めた。


 エルナは目を閉じる。


 雪が浮かぶ。


 白くなった森。


 掌に落ちた、小さな結晶。


 もう一度見たい。


 その気持ちは、まだ消えていない。


 ただ、そのために自分の命を使うのかと考えると、昨日までとは少し違って見えた。


 エルナは胸元へ置いた手を、そのままにしていた。




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